7-5 おばけに匂いはありますか?
「…………!!」
背後の扉を開け現れたそいつの姿に、エリスは声にならない悲鳴を上げる。
クレアは彼女をおぶったまますぐに動き出し、庭へと逃げた。
ヤツがいる目の前で離れの扉を開けるわけにはいない。遠回りをしてヤツが去るのを待つしかないのだと、エリスは察した。
そして、クレアの背中にぎゅっとしがみつきながら目に涙を浮かべる。
なんで?! なんで外に出て来たの?!
もしかしてアイツ……
あたしたちに気付いて、追いかけて来ているんじゃ……
いや、まさかそんな……おばけだって姿が見えなきゃ追いかけようがないはずだし……
そう、思いたかったのだが。
エリスが恐る恐る後ろを振り返ると……
真っ黒なあいつは、ゆっくりとした足取りながらも、まるでこちらが見えているかのように二人が通った後をついて来ていた。
「(や……やっぱりバレてる……!?)」
エリスの鼓動が、限界まで加速する。
やだやだ。捕まったら食べられちゃう!
まだクレアと一緒に食べたいものがたくさんあるのに、こんなところで死ぬのなんて絶対イヤ!!
ぎゅっ……と、恐怖のあまりしがみついてくるエリスに、クレアは優しく微笑んで、
「大丈夫ですよ。貴女のことは、私が護ります」
そう、安心させるように言った。
エリスは思わず、「クレアぁ……」と泣きそうな声を上げる。
やがて二人は、離れの周りをぐるりと回って元の外廊下へと戻って来た。
真っ黒なあいつはだいぶ引き離した。今は姿が見えない。
この隙にと、クレアは離れの扉を開け中に入り、素早く閉めた。
しばらくして、あいつが呻き声をあげながら歩いて来るのが聞こえるが……
どうやらそのまま、主屋の方へ戻って行ったようだった。
「…………はぁぁ」
安堵のため息を漏らすエリス。
同時に、"透明な隠れ蓑"の魔法が解除された。
クレアは背中から彼女を下ろし、向かい合う。
「焦りましたね」
「ほんと……もうダメかと思った」
「流石に今夜は探索中止にしましょうか。主屋の半分以上の部屋を確認することができたので、残りは明日以降にまた態勢を整えて挑むということで」
「……そうね」
「それじゃあ、部屋に戻って寝ましょう。こんなところで話し合っていたら、さっきの不審者に気付かれてしまうかもしれません」
「う、うん」
エリスは、ヤツが来ないかと主屋の方を何度も振り返りながら、クレアと共に自室へ向かう。
そして、部屋の前に辿り着くと、
「では、おやすみなさい。お疲れさまでした」
……なんて。
クレアが、えらくあっさりと言うものだから。
「…………え?」
「え?」
「あの……ほんとにここでバイバイするの?」
「だって、貴女の部屋はここで、私の部屋は向かいですから」
「そ、そうだけど…………」
「……どうしたのですか? まさか……怖くて眠れそうにないとか」
「は?! そ、そんなわけないでしょ? たかだか泥棒相手に怖がるようなあたしじゃないわよ!」
「あれ、泥棒じゃないですよ」
「…………」
「本当は、エリスもわかっているでしょう?」
「…………」
「……怖いなら、もう少し一緒にいますか?」
「…………うぅ」
「……わかりました、言い方を変えます」
散々「おばけなんて信じない」と言った手前、今さら「怖い」と言えないエリスに……
クレアは、ここで何と言えば彼女にとって都合が良いのかを瞬時に察する。
そして、わざとらしくため息をついて、
「……私、怖くて眠れそうにありません。さっきの不審者が部屋の戸を叩きに来るんじゃないかと、本当はビクビクしています」
「……そ、そう」
「できれば、もう少し貴女と一緒にいたいのですが……お願いできませんか?」
そう言った。
するとエリスは、ぱぁあっと顔を輝かせ、
「しょっ、しょうがないわね。なら、一緒に寝てあげようか?」
都合の良い申し出に、嬉々として乗っかった。
ぶんぶん振られた尻尾まで見えてきそうなその表情に、クレアは吹き出すのを堪えながら、
「えぇ、そうしていただけるとありがたいです」
「わかった。じゃあ今日は特別に、あんたの部屋で寝てあげる!」
嬉しそうな顔を微笑ましく眺め、クレアは彼女を部屋に招き入れた。
そして……部屋の鍵をしっかりかけて。
「あの呻き声みたいなの、不気味でしたよね」
「うん。なんかずっとブツブツ言ってたね」
「あれがまた聞こえてきそうな気がして怖くて……エリス、例の"遮音の魔法"をこの部屋に張っていただくことは可能ですか?」
「お安い御用よ、任せなさい!」
エリスは瞬時に指を踊らせ、暖気・冷気、それぞれの精霊を呼び出す。
そしてその二つを混ぜ合わせ……
一瞬、部屋の中に風が生まれたかと思うと、それはすぐにぴたりと止んだ。
目には見えないが部屋の周りに"空気の膜"が張られたらしいことを、クレアは空気の重みの変化から感じ取った。
「ありがとうございます。これで外の音は聞こえませんね」
「うんっ。安心して眠れるね」
「それじゃあ、寝ましょうか」
「うんっ」
クレアがベッドに入ると、即座にエリスが隣に潜り込んでくる。
そして、ぴたりと身体を寄せて来るので……
よっぽど怖かったんだなと、クレアは笑いながら彼女を抱き寄せる。
「……怖がりな私のために、くっついていただきありがとうございます」
「構わないわ。困った時はお互い様よ」
「ちなみに……この"遮音の魔法"って、部屋の中の音も外には聞こえなくなるのですか?」
「そりゃあそうよ。音を遮るように膜を作っているんだから」
「そうですか。なら……」
──バサッ。
……と。
クレアは、エリスの上に覆い被さり、
「多少声が出るようなことをしても……バレないということですよね?」
ニヤリと口の端を吊り上げるクレアに、エリスは「へっ?」と素っ頓狂な声を上げる。
そして……いつの間にかそういう状況が整ってしまっていることに気が付き、頬を赤らめる。
「こ、声が出るようなこと、って……な、何考えてんのよ!」
「怖くて眠れそうにないので、ちょっとエリスに甘えたいのですよ。駄目ですか?」
「だだだだってあんた昨日、そういうことは帰るまでしないって言ったばっかりじゃ……!」
「いいじゃないですか、少しだけ。ね? 人助けだと思って。この……」
戸惑うエリスに、クレアはどこからか一冊のノートを取り出すと……
「私が作成した『エリスに言わせたいセリフ集』を、読み上げてください」
……と。
完全に意味不明なことを言うので。
エリスは……
「…………は????」
目を点にし、聞き返した。
クレアはノートを掲げながら、にこりと笑って、
「貴女に言って欲しいセリフを妄想し、まとめたものです。私の怖さが紛れるよう、これを読み聞かせてくれませんか?」
「…………」
なんつう無駄なものを作っているんだ、こいつは……
っていうか、もっと別のことを要求されるのではと勘違いしてしまったではないか! 紛らわしい!!
というエリスの心中を察したクレアは、
「キスやいやらしいことは任務が終わるまで楽しみに取っておきます。期待させてしまい申し訳ありません」
「は、はぁ?! 期待なんかしてないし! いいわよ貸してみなさいよそのノート!!」
バッ、と彼の手からそれをひったくり、エリスはパラパラとページをめくってみる……と、そこには。
『もうっ、ちゅー百回してくれなきゃ許してあげないんだからねっ!』
『にゃにゃ! クレアの作るお魚料理は世界一だにゃ!』
『本当にあんたって救いようのない変態ね。そこに這いつくばりなさい。踏んであげるから』
『ねぇ、クレア……あたしとイケないことしない……?』
『クレアくん、ミルクの時間でちゅよ♡ いっぱいちゅぱちゅぱちまちょうね♡』
……などなど。
目を覆いたくなるような恥ずかしいセリフがびっしりと書き連ねられていて……
「こっ……こんなの読めるか!!」
「えぇー。なら、私は一人で寝ます。エリスはどうぞご自分の部屋へお戻りください」
「え……」
「出来ないことをさせるわけにはいきません。怖いのは我慢するので大丈夫です。おやすみなさい」
「…………」
……エリスは、この時初めて。
クレアが、エリスの恐怖心を利用し、己の欲望を満たそうとしていることに気が付いた。
「……変態悪魔め」
「何とでも言ってください。どうしますか? 一人で寝ます? それとも、読みます?」
「くっ……」
今さら一人で眠ることなんてできるはずもない。だって……
あの黒い不審者が、バンッ! と自室のドアを蹴破り、入り込んで来るのを想像してしまって……
「…………どれを読めばいいのよ」
エリスは仕方なく、クレアの望みを聞くことにした。
彼は嬉しそうに微笑むと、
「では……このあたりを」
と、一つのセリフを指さす。
それに目を落としたエリスは……みるみる内に頬を染め上げて、
「……あとで殺す」
「本望です」
駄目だ。もう何を言っても変態には効きはしない。
読むしか……読むしか、ないのか…………
エリスは、ぐっと奥歯を噛み締め。
すぅ……っと息を吸うと。
「…………しゅ、『しゅきしゅきクレア、ぎゅーってして♡』……」
言った。
瞬間、クレアは「はぁぁっ」と息を吐き、胸を押さえる。
「かわっ……可愛い……ッ!!」
「うぅ……死にたい……」
「つ、次も……次のも読んでください……っ」
「次?! もう?!」
「えぇ、もっとください! 早く!!」
「……く、『クレアルド先生……今日も個人レッスン、お願いしてもいいですか……?』」
「ぐぁあああっ! こちらこそお願いします!! ありがとうございます!! 次!!」
「……めっ、『めろめろきゅーん☆ えへへ、エリスから一生離れられなくなる魔法かけちゃった♡』」
「あああああもうかかってる! 既にかかってるその魔法ッ!! あああああ可愛い好きぃぃいいい!!!!」
ぎゅううっ、とエリスを抱きしめ、悶えまくるクレア。
な、なんなんだ、この状況は……
恥ずかしさと戸惑いから、エリスはぷるぷると震える。
しかしそんなことはお構いなしに、クレアはさらにノートを指さし、
「じゃあ次……これ、言ってください」
……と、そのあまりに恥ずかしい内容に、エリスはぼんっ! と顔から湯気を噴き出す。
「む……ムリムリ! これはほんとにムリ!!」
「え〜。じゃあ、部屋に戻ります?」
「…………」
……本当に、いつか殺す。
エリスは、恨みたっぷりな目で彼を睨み付けながら。
「………………っ」
これ以上ないくらいに真っ赤にした顔で、そのセリフを叫んだ。
* * * *
翌朝。
エリスは、メディアルナの笛の音が鳴るより少し早くに、クレアの部屋を出た。
彼の部屋から出るところをレナードに目撃されないようにするため……だったのだが。
「よう。自分の部屋に朝帰りか? 不良娘」
そんな声がし、エリスはビクッ! と肩を震わせる。
見れば、腕を組みこちらを眺めるレナードが廊下にいた。
クレアの部屋から出て来るところをばっちり見られてしまい、エリスはあわあわと狼狽える。
「いや、あの、これは……そういうんじゃなくて……!」
「おや、レナードさん。おはようございます」
エリスの慌てた声を聞き、クレアも部屋から出てくる。
レナードは、「ふっ」と鼻を鳴らして、
「夜、主屋に行ったんだな。どうだった?」
そう尋ねた。
精一杯気配を殺したつもりだったが、思いっきりバレていたらしい。
エリスが何か弁明をしようと口を開くが、それよりも早くクレアが答える。
「はい。彼の動きは完全に把握しました。屋敷を抜け出す隙はいくらでもありそうです」
「そうか。今日の夜にでもまた詳しく教えてくれ」
「わかりました」
……という二人のやり取りに、エリスは首を傾げる。
「……な、何の話? 彼、って……誰?」
「なんだお前、知らずについていったのか? なら教えてやる。この時間は熟睡しているはずだからな」
そう言って、レナードはエリスの斜向かいの部屋の前に立つ。
そこは、エリスが空き部屋であると認識している部屋だった。
レナードはそっとその部屋のドアを開け……隙間から中を見てみるよう、エリスを手招きする。
頭に疑問符を浮かべたまま、彼女は半信半疑でそこを覗いてみる……と。
「なっ……!?」
上げかけた声を、エリスは慌てて押さえる。
カーテンが閉め切られたその部屋にいたのは──
ベッドの上でぐうぐう眠る、あの、真っ黒な不審者だった。
薄暗さに目が慣れてくると、その姿がよくわかる。
これは、歴とした人間だ。
黒く艶やかな髪を腰よりも長く伸ばした青年。
その長い髪が顔や首を覆い、使用人用の制服と一体化していたため、全身真っ黒に見えていたようだ。
……そう。
ベッドの上で寝息を立てているそいつは、エリスたちと同じ使用人の制服を着ていた。
と言うことは、つまり……
「こいつは、深夜の見回りを担当している使用人だ」
扉を閉めながら、レナードが淡々と言う。
目を見開くエリスの横で、クレアが続けて、
「使用人の経歴書を漁った時、彼のものもありました。名前はユーレス・ウォールバーグ。ブランカさんと同時期にここで働き始めたようです」
「って、クレア知ってたの?!」
「はい。知ってました」
しれっ、と爽やかに言ってのけるクレア。
衝撃のあまり、エリスは言葉を失う。
「最初にクレアルドが言っていただろう。この屋敷にいる使用人は、俺たち以外に七人いる。メディアルナの世話係・アルマ。庭師のロベル。領主の側近・ヴァレリオ。御者のハリィ。料理長のモルガン。おつかい係のブランカ。そして残る一人が、このユーレスだ。昼間は寝ているから、会う機会はなかったわけだが」
「へ……」
「こういうでかい屋敷には夜回りの一人や二人いるのが普通だ。そんな常識も持ち合わせていないのか、お前は」
知らないわよ、そんなの!!
という言葉も出ないくらいに、エリスは打ちのめされる。
わなわなと震える彼女に、レナードはさらに続けて、
「昨日クレアルドが送った手紙を受け、アストライアーの隊員がじきに報告に来る。屋敷が寝静まった深夜に抜け出し、情報を受け取るのが望ましい。だから、夜回り担当のユーレスの動きを把握したかった。そうだな?」
レナードの指摘に、クレアは「はい」と頷いて、
「ここへ来てから毎晩彼の動きを観察してきましたが、かなり規則的なルートで見回りをしています。動きも速くはありません。問題なく抜け出せるでしょう」
そうか、つまり……
ユーレスがこちらを追いかけて来ていたのではなく、クレアが彼の通るルートを知っていて、先回りして逃げていただけだったのだ。
追いかけられていると錯覚させ、エリスを怖がらせるために。
「あんた……あたしを騙したのね?!」
目を吊り上げ食ってかかるエリスに、クレアは困ったように笑う。
「私は嘘は言っていませんよ。確かにおばけの話はしましたが、彼がそうだとは一言も言っていません」
「でも明らかに悪意があったでしょ?! わざとあたしが怖がるように仕組んだんだ!」
「それに関しては、そうですね。悪意というか、下心がありました。貴女の怖がる姿が見てみたかったので」
「なっ……」
開き直るクレアに、エリスが驚愕すると……
彼は、くすっと悪戯っぽく笑って。
「言ったでしょう? 貴女の困った顔や恥じらう姿を見ると興奮するのです。恐怖に怯え、私に擦り寄って来るエリス……とっても可愛かったですよ。あまつさえ、一人では眠れないからとあんな恥ずかしいセリフを一晩中言わされて……本当に最高でした。ご馳走さまです」
……という、最低なセリフを言い終えると同時に。
その左頬に、エリスの怒りの右ストレートがめり込んでいた。
笑顔のまま吹っ飛び、しばらく宙を舞った後……
ズシャァアッ! と廊下へ倒れ込むクレア。
口の端から血を垂らすも、彼は満足げな笑みを浮かべて、
「これこれ……やっぱり一日の活力になるなぁ……」
「黙れこの変態!!!!」
声を荒らげ、変態を見下ろすエリスに……レナードが一言。
「まぁ……本当に怖いのは亡者ではなく、生きている人間だということだ。よく覚えておくんだな」
その言葉は、耳に痛いくらい的を射ていて……
エリスはもう二度とおばけの類は信じないと、固く心に誓うのだった。
肝試し編、これにて終了です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
使用人の数が足りないことに気付いていた方、どれくらいいらっしゃるのでしょうか……
(「そんな話してたっけ?!」な方は『2-1 祝福の音色』を振り返ってみてください!)
ちなみに、ユーレスくんがぶつぶつ呟いていたのは単なる独り言です。深夜に一人でいる寂しさを紛らわすために、常に何か喋っているようです。
さて、第二章はここでおしまいです。
次回からは、いよいよ第二部の最終章にあたる第三章が始まります。
結末に向けて一気にお話が動いてゆきますので、引き続きどうかよろしくお願い致します!