7-3 おばけに匂いはありますか?
魔法で姿を消し、二人は静かにエリスの部屋を出た。
離れの一階には、クレアたちの部屋の他にもう二部屋ある。
一つは、恐らく料理長のモルガンの部屋。
と言っても、彼が部屋を出入りしている瞬間を見たことはない。何故なら、エリスが毎朝厨房に行くと既に彼がそこにいるから。誰よりも早く起き、朝食の仕込みをしているようなのだ。
他の使用人が全員二階の部屋から降りてくるので、消去法で料理長の部屋は一階だとエリスは考えていた。
そして、もう一つの部屋は……たぶん、空き部屋である。
だから、主屋へ向かうには料理長と、最大の阻害要因であるレナードを起こさないよう廊下を突破しなければならなかった。
エリスは息を殺し、抜き足差し足で主屋を目指す。
その後ろを、クレアはいつもの涼しげな表情でついて行く。
さいわい廊下にはろうそくの明かりが灯っているため、進む方向がわからないということはなかった。
足音を立てぬよう、焦ったいほどに時間をかけて廊下を進み……
そのまま離れを出、外の廊下に出ることに成功した。
よし。レナードに気付かれずに済んだようだ。
エリスはほっと胸を撫で下ろす、が……それも束の間。
離れの扉を閉めると、外界には明かり一つない真の暗闇が広がっていた。彼女は思わず足を止める。
すると、「こっちです」とクレアが前に回り彼女を誘導した。どうやら彼には見えているらしい。
クレアを先頭に、主屋の扉をそっと開け……
誰もいないことを確認してから、二人は足を踏み入れた。
広いエントランスと長い廊下、そして上階へと続く階段。
すっかり見慣れたはずの場所だが、やはり昼と夜とでは印象が違う。ろうそくがぽつぽつと灯ってはいるものの、廊下全体が薄暗く、エリスの目で五歩進んだ先が見えるか否かというところ。歴史ある屋敷が、さらに古めかしく見えた。
さて、ひとまず主屋へは潜入できたが……どこから見て回ろうか。
「……どうします?」
クレアが小声で尋ねる。
と、エリスは前方を指をさし、
「いちおう一階も見る」
やはり小声でそう返す。
クレアは頷き、エリスを導くように廊下を歩き出した。
一階は、三つの客室と大きな客間、一番奥に厨房、という造りをしている。
客間は、この屋敷を訪れた初日、食事をするのに通されたため記憶にあるが、ハチミツが置いてある様子はなかった。
また、厨房も毎日隙を見て捜索した結果、白であることを確認済みだ。
可能性は低いと思うが、いちおうまだ入ったことのない客室を見ておくことにする。
エリスはクレアの肩を叩き、一つの客室を指さす。
「ここを見てみたい」という彼女の意図を察し、彼はその部屋のドアノブにそっと手を伸ばした。
鍵はかかっておらず、扉はすんなり開いた。
使用人たちのものより一回り広く、調度品の豪華さの増した部屋だった。
が、やはり食材が置かれている様子はない。もちろんそれらしい匂いもしなかった。
残る二部屋を開けてみるも、結果は同じ。
さらに、レナードがいつも清掃道具を出し入れしている小さな物置き部屋も見てみるが、当然ここにも無し。
一階は、ハズレのようである。
まぁ、この階は毎日行き来しているし、無いだろうとは思っていたけど……
エリスは小さく息を吐いてから、大本命である二階へ向かうべく「次行こ」とクレアの肩を叩く。
が……彼は口元に人さし指を当て、彼女の動作を制し、
「……何か、聞こえませんか?」
そんなことを囁いた。
エリスは「え?」と聞き返してから、耳をすませてみる……と。
廊下の向こう、上階へと続く階段の方から……
誰かが、何かを呟いているような……低く籠った声のようなものが聞こえてきた。
今、この主屋には領主のマークスと娘のメディアルナしかいないはず。
ということは……二人の内のどちらかが侵入に気付き、降りて来たのか?
どうする? 隠れる?
いちおう魔法は発動しているから、姿は見えないはずだが……
というエリスの思考をその表情から読み取ったクレアは、「隠れましょう」と言って彼女の手を引き、厨房へと逃げ込んだ。
他の部屋は入るのに扉を開ける必要があるが、厨房の扉は常に開放されている。音を立てずに隠れるなら、ここしかなかった。
真っ暗な厨房の中、二人は"透明な隠れ蓑"の中でじっと息を殺し、誰が降りて来たのか確かめるべく廊下を見つめる。
すると……
ろうそくでぼんやりと照らされた通路の向こうから、それは現れた。
──影。
エリスは最初、何かの影が動いているのだと思った。
しかし、違った。あまりに黒すぎて影のように見えるが、それ自体が、上階から現れた人物だったのだ。
頭から足元まで、闇に溶ける程に真っ黒である。辛うじて人のような形をしてはいるが、顔はおろか手足がどこにあるのかもわからない。髪そのものが黒いのか、全身を黒い布で覆っているのか……とにかく黒一色なのだ。
何より驚かされるのは、その大きさ。長身のクレアよりも頭一つ分背が高く、全体的にひょろりと細長い。
そんな、黒くて長い異形の者が、
「……ァ……ゥァ……ンン……」
低い声で、ぼそぼそと何かを呟き続けている。
その光景を目にした瞬間、エリスは思わず息を呑んだ。
全身に緊張が走り、鼓動が加速する。
動いてはいけない。
見つかってはいけない。
彼女の中の生存本能が、全力でそう訴えかけていた。
やがて、異形の者は廊下の突き当たりで折り返すと……
また来た道を戻り、階段の上へと去っていった。
「………………」
気配が消え、緊張が解けた途端、エリスはダラダラと汗を垂らし始める。
……え、なに今の。だれ今の。
背格好から見ても、明らかに領主でもメディアルナでもなかった。
いや、そもそも…………人間だったのか……?
ギギギ……とクレアの方に首を向け、彼女は「何アレ?!」と目で訴える。
すると、彼は神妙な面持ちで、一言。
「……やはり、この屋敷にはいると思ったんですよ」
その言葉に、エリスは固まる。
……待って。ってことはつまり、今のが……
クレアがさっき「出るかも」って言ってた、例の…………
いや、いやいやいやいや。
エリスは、頭に浮かんだ"可能性"を否定するように首を振り、
「………………不審者ね」
そう、断言した。
「あれは泥棒だわ。こんな立派なお屋敷なんだもの、泥棒の一人や二人いてもおかしくない。そうでしょ?」
「いえ、恐らく今のはこの屋敷に住まうユー……」
「でも! この屋敷の金銀財宝が盗まれようがあたしたちには関係ないわ。ハチミツの在り処さえわかればそれでいいんだし、下手に関わる必要はない。そうよね?!」
……と言うエリスの目に、鬼気迫るものを感じ。
クレアは……諸々を飲み込んで、
「……本当に良いんですか? 『不審者』という体で」
「良いも何も、純然たる事実だもの! 不審者以外の何者でもないもの!!」
「……では、予定通り二階へ行ってみますか? 今の不審者も上に行ったみたいですが」
「行くわよ、行くに決まってるでしょ?! そのために来たんだから! 泥棒なんて怖くないし!!」
……ってことは、怖かったんだな。
と、クレアはいよいよ吹き出しそうになるが、それをぐっと堪えて。
「……では、行きましょうか。二階へ」
そう答えた。
エリスも「うんっ」と頷き、力強く言う。
「行きましょう! ハチミツを探しに!!」
「……」
「…………」
「…………え、行かないんですか?」
「はぁ?! あんたが先に行きなさいよ! あたし暗くてよく見えないんだから!!」
「…………」
「なによ、早く行って! もしかしたら『琥珀の雫』を狙う泥棒かもしれないじゃない! 先越されたらおしまいよ!!」
「……わかりました」
言われるがままにクレアが歩き出すと……
エリスが、その背中にぴたっと身を寄せてくる。
「……あの、歩きづらいのですが」
「さ、寒いんだもんっ! 仕方ないでしょ?!」
いや、全然寒くなんかないですが。
というツッコミを心の中にしまって。
クレアはそっと、彼女に手を差し出す。
「……手、繋ぎます?」
その申し出に、エリスは一瞬たじろぐが……
恥ずかしそうに目を逸らしながらも、右手を伸ばし、
「……うん」
温かな彼の手に、自分のを重ねた。