7-1 おばけに匂いはありますか?
翌日。
「──おはよ」
メディアルナが奏でる笛の音が止んだ後、自室から出たエリスは、既に廊下にいたクレアに朝の挨拶をする。
彼はにこりと爽やかな笑みを浮かべて、それに応える。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん。あの後すぐ寝た。あんたは?」
……という、いつも通りの口調に。
クレアは、少し間を置いてから、
「……私はしばらく眠れませんでした。貴女の匂いと温もりが残っていたので、悶々としてしまいまして」
「そういう生々しい話、朝からしないでくれる?」
そう、淡々とツッコむエリスを見つめ……
…………あれ?
と、クレアは首を捻る。
そしてそのまま、両手を広げて、
「はい」
「は?」
「おはようのハグですよ。今のうちにしておきましょう」
「ばっ……するわけないでしょ? 誰が来るかもわからないのにっ」
顔を赤らめ、拒絶するエリス。
その反応に、クレアはますます動揺して、
「……エリック」
「なに」
「まさか……今日は、笛の音の影響、受けていないんですか……?」
わなわなと震えながら、そう尋ねる。
すると彼女は、涼しい顔で彼を見つめ返し、
「あ、うん。魔法で聴こえないようにした。実験的なかんじだったけど、成功してよかったよ」
な…………なにぃぃぃぃぃぃいいっ?!
ガクッ! と、クレアは床に膝をつく。
「そんな……どうやって……?」
「"空気の膜"を張って音を遮断したの。昨日使ったアレの応用みたいなかんじ」
『アレ』というのは、暖気・冷気、それぞれの精霊を混ぜ合わせ作り出した"透明な隠れ蓑"のことだろう。
エリスは軽い口調で言うが、精霊を制御し、音を完全に遮断する厚さの空気を生み出すことなど簡単ではないはずだ。彼女だからこそ、この短期間で可能にした応用術だろう。
それは理解したが……クレアは愕然とする。
なんてことだ……せっかく……
「『ほんとは昨日、もっとキスしたかったよ♡』という素直な本音が聞けると思って楽しみにしていたのに……ッ!!」
「誰が言うかそんなこと!」
床を叩き涙を流すクレアに、すかさずツッコむエリス。
……まぁ、本当にその類のことを口にしてしまいそうで、わざわざ早起きして遮音魔法を仕掛けたんだけど……
という本音を、彼女が胸の内で呟いた、その時。
「これであの笛に対する対抗策ができたというわけか。いざという時に使えそうだな。単細胞にしてはやるじゃないか」
そんな声がし、振り返ると……案の定、自室から出て来たレナードが立っていた。エリスはすかさず「単細胞ゆーな!」と目を吊り上げる。
しかし、彼の言う通りだった。あの笛が本当に"禁呪の武器"だとして、その力が万が一暴走などした時に、対抗策があるのとないのとでは大違いである。
素直にデレるエリスを拝めずガックリ肩を落とすクレアに、エリスは「ふふん」と鼻を鳴らし、
「これでヘンなことを言わずに済む。あんな恥ずかしい思いはもう御免だからね」
「ぐぅ……デレ後の恥ずかしがる姿込みで楽しみたかったのに……」
「ばっかじゃないの? あんなん毎朝やってたらこっちの精神がもたないわ!」
「だって、貴女の困った顔や恥じらう姿を見ると興奮するんですよ……一日の活力になる」
「最低だな」
「最低ね」
珍しくレナードとエリスの声がハモった瞬間だった。
そしてそのまま、エリスはクレアの首根っこを掴んで、
「ほら、いつまでも這いつくばってないで行くよ。朝ご飯の仕度しなきゃ」
彼をズルズルと引き摺り、歩き出す。
その姿を眺め、レナードは……
「…………情けない」
もう何度目かわからないため息を、深々と吐くのだった。
* * * *
三人は主屋の一階で別れ、それぞれの持ち場へと就いた。
エリスは厨房で、今日も今日とて寡黙な料理長が華麗な手捌きで調理するのを眺める。
そして……
昨日、書斎に忍び込む途中に感じた"匂い"のことを思い出していた。
階段を上り、二階に差し掛かった時……本当に微かではあるが、ハチミツのような匂いがしたのだ。
確か二階には、書庫や会議室、領主とメディアルナだけが使用する浴室があったはずだが……初日に簡単に案内されたきり足を踏み入れていないので、詳細な部屋の配置などはわからなかった。
それにしても、書庫も会議室も風呂も、ハチミツとは無縁なように思える。あの匂いは気のせいだったのか、それとも知らされていない貯蔵庫などかあるのか……
「(どこかのタイミングで、二階を覗きに行けるといいんだけど……)」
しかし、厨房補佐係である彼女が二階に行く用事など皆無に等しい。
清掃係のレナードなら出入りが可能だろうが、かと言ってハチミツの捜索を彼に頼んだところで引き受けてくれるとも思えず。
うーん……とエリスが考え込んでいると、料理長がフライパンの端を「コンコン」とおたまで叩いた。領主とメディアルナの朝食が完成したのだ。
彼女は「はいっ」と返事をし、慌てて盛り付け用の皿を用意した。
* * * *
同じ頃。
レナードは、階段の手すりを磨いていた。
清掃の手際も慣れたものである。ヴァレリオに指導されたからというのもあるが、レナード自身何事もきちっとこなさなくては気が済まない質なので、まさに適任だった。
さらに言えば、この時間に階段を清掃するメリットもある。
それは……
「──あ、レナードさん。おはようございます」
その声に、彼は顔を上げる。
予想通り、そこには上階から下りて来たメディアルナがいた。
昨日も一昨日も、メディアルナは朝食前に屋敷内を彷徨いていた。今日もここを通りかかるのではと、接触の機会を待っていたのだ。
レナードは掃除の手を止め、完璧な微笑と所作で礼をする。
「おはようございます、お嬢さま。昨日はお騒がせしてしまい申し訳ありませんでした」
例の"ニセ猫"騒動をあらためて謝罪すると、メディアルナは首を横に振り、
「いえいえ、むしろ本物のねこちゃんじゃなくてほっとしました。あんな高いところにいたら可哀想でしたから。それに、久しぶりにお父さまとお庭に出られたのでとっても嬉しかったです。ありがとうございました」
満面の笑みを浮かべ、そう返した。
しかしレナードは、尚も申し訳なさげな表情で彼女を見つめる。
「生き物がお好きだとおっしゃっていたのに、残念な思いをさせてしまいましたね。次に猫らしきものを見つけたら、よくよく確認してからご報告いたします」
「うふふ、『猫らしきもの』って、なんだか面白いですね。ぜひまた教えてください」
「はい。ところで……お嬢さまは、鳥はお好きですか?」
突然の問いかけに、メディアルナな小首を傾げながらも微笑む。
「鳥、ですか? えぇ、好きですよ」
「昨日思ったのですが、お庭の木によく小鳥が羽休めに来るのですね」
「言われてみればそうですね。お部屋にいても囀りが聞こえてきます。それが何か?」
「いえ……お庭に巣箱を作ったら、きっとたくさん集まってくるだろうなぁ、なんて勝手な想像をしてしまいまして……」
……と、そこまで口にしたところで、メディアルナの目の色が変わった。
澄んだ海のような色の瞳が、好奇心にキラキラと輝いている。
「鳥さんのための巣箱……素敵です。素敵です!」
「それなら飼っていることにはならないし、お嬢さまも生き物を身近に感じられるのではと思ったのですが……そんな簡単に許されるものでは……」
「ロベルに頼んで作ってもらいます! ちょうど今から鉢植えの相談に行こうと思っていたんです! レナードさんも行きましょう!!」
そう言うと、彼女はドレスワンピースの裾をたくし上げて階段を駆け下りた。
これは……想像以上に効果があった。
と、メディアルナの背中を見つめながら、レナードは思う。
順調だ。このまま距離を縮めて、"特別な関係"になることができれば……
あの塔へ入り、笛に触れることも許されるかもしれない。
そして……自らの手で、"禁呪の武器"の呪いを試すのだ。
レナードは一瞬不敵な笑みを浮かべるが、
「待ってください。そんなに急がれては転んでしまいますよ」
すぐに爽やかな微笑に変えて、メディアルナの後を追った。
* * * *
そして、その頃クレアは……
領主から預かった手紙を手に、ブランカと共に郵便役所へと向かっていた。
「今日は、昨日に比べて送る数が多いですね」
朝の活気に溢れる街中を歩きながら、クレアが手元の手紙を眺め言う。
それに、隣を歩くブランカが相変わらず穏やかな口調で答える。
「旦那さま、昨日から体調が良いみたいですよ。それで一気にお仕事の手紙を書き上げたのでしょう」
「そうでしたか。初日にご挨拶した時には本当にお辛そうだったので、体調が回復されて良かったです」
「そうですよね。十日ほど前に突然吐き気を催されてから、ずっとお部屋で休まれていました。お医者さまから処方されたお薬を飲んでも効かなかったみたいだし、一体何の病気だったのか……案外ただの風邪だったのかなぁ? ヴァレリオさんもその辺りを見抜いて冷静な対応をしていたのかもしれないですね」
と、呑気な声で言うブランカ。どうやらヴァレリオは、領主からだけでなく他の使用人からも絶対的な信頼を得ているようだ。
そう思う一方で、クレアは今後について考えを巡らせる。
このまま領主の体調が回復し、普段通りの生活を取り戻したら……その動きには最大限警戒が必要だ。
現状、例の笛は娘のメディアルナしか扱っていない。音色による精神作用は確かにあるものの、それを悪用しようという思惑は感じられない。
しかし、領主が民を意のままに操るよう裏で娘に口添えしている可能性もゼロではないのだ。
今朝までのような影響力であれば、クレアやレナードはすぐに正気を取り戻せる。が、今後さらに強力な作用を起こす音色を奏でられたら……その時は、どうなるかはわからない。
だから、先ほどは駄々をこねたが、エリスの編み出した遮音の魔法は本当に有効なのだ。
彼女だけでも笛の音の影響を受けずにいてくれれば心強い。
それに……
外部の音を遮断するということは、逆の使い方もできるわけで…………
まぁ、それはそれとして。領主が本格的に動き出す前に、やれることはやっておかなければ。
「旦那さまがお元気になられたら、こうした"おつかい"も忙しくなりそうですね。大変喜ばしいことです」
クレアは爽やかな笑みを浮かべながら、ブランカに言う。
「もし可能でしたら、この手紙の発送手続き、私にお任せいただけませんか?」
「え? お一人で、ですか?」
「はい。旦那さまからのご用命が増えれば、ブランカさんと私が別々に行動した方が効率的な場面が増えてくるでしょう。ブランカさんのご負担を減らすためにも、私一人で出来そうな仕事はどんどん任せていただきたいのです」
と、仕事の効率化やブランカのためであることを建前にしつつ、単独行動の時間を増やすためにそう申し出る。
そんな腹の内があるとはつゆ知らず、ブランカは感銘を受けたように微笑んで、
「……クレアルドさんのような方が来てくれて本当によかったです。では、このまま手紙の発送と、日用品の買い出しをお願いしようかな。郵便役所とお店の場所はわかりますか?」
「はい。丁寧に教えていただいたので、しっかり覚えています」
「さすがです。じゃあ僕は食材の買い出しに向かいますね。また屋敷で会いましょう」
クレアに必要なものを記したメモを渡すと、ブランカは商店街の方へと去って行った。
「……さて」
その背中を見送ってから、クレアはつま先を返して郵便役所へと向かう。
そして懐から封筒を取り出し、手元の手紙に紛れ込ませた。
昨日、書斎に侵入し手に入れた女性の使用人の経歴書と、捜査の依頼内容を書き記したアストライアー宛の手紙である。
しかしその宛先の表記は、王都の"中央"内にある地方総務部行きにしてある。送り元も、領主のマークス名義にした。
持参した手紙の中で一通だけ宛先も送り元も違うものがあれば、郵便役員が不審に思うかもしれない。ましてや馬鹿正直に軍部宛てを記載したならば、「何かの間違いでは?」と言われかねない。
念には念を入れ、領主が送る先としては不自然ではない部署を書いたのだ。
もちろんこれはフェイクで、開ければ本当の宛先がわかるようになっている。とにかく"中央"にさえ届いてしまえば、そこからちゃんと軍部へ回される。明日・明後日には他の隊員たちの元へ届くだろう。
せっかく単独行動の機会を得たのだ、この時間を有効に活用したい。
手紙を出し、日用品の買い出しを手早く済ませれば、少し時間が取れる。
まずは、女性の使用人たちの派遣元であった『フルーレ斡旋所』の所在地から調べるとしよう。
徒歩圏内にあるなら明日以降直接訪ねる。遠いようなら、追加でアストライアーに捜査依頼を出そう。
それから……
クレアが独自に進めているある計画も、単独行動が可能になったことでより具体的に動き出せそうだ。
「……本当に、忙しくなりそうですね」
やはりエリスのデレという活力が必要になるな……などと考えながら。
彼は郵便役所の扉を開け、中に足を踏み入れた。