6 エリスとクレアの緊急痴話会議
ヒュ……ッ。
衝撃のあまり、息を飲んだクレアの喉が鳴る。
一気に顔面蒼白になり、全身をわなわなと震えさせながら、彼はゆっくりと彼女に近付く。
「す……すすす、すみませんでした……まさかそんな不快な思いをさせてしまったとは……」
「いや、不快……ではないよ? 大前提として、あたしが書類落としてくしゃみしそうになったのが悪いんだし。でも……」
「でも……?」
「……なんか……」
「なんか……?」
冷や汗をダラダラ垂らしながら、クレアは続く言葉を待つ。
……が、やはりエリスは「うーん」と首を傾げ、黙り込んでしまった。
どうやら本当に、自分の"モヤモヤ"の正体がわからないらしい。
明らかなのは、あの書斎でのキスがきっかけだった、ということだけ。
ならば……
クレアは震える手で、彼女の手を握って、
「はっきりさせましょう、モヤモヤの正体を。私のせいで貴女がそんな気持ちになっているなんて、耐えられません。何が嫌だったのか、きちんと明らかにして、謝罪させてください」
そう、真っ直ぐに目を見つめて、言った。
その真摯な言葉に、エリスは胸がきゅうっとなるのを感じる。
「……なんかごめん」
「いいえ、謝るのは私の方です」
「確かに……今日の内にはっきりさせておきたいかも。明日の朝、またあの笛の音を聞けば、本音がするっと出てくるのかもしれないけど……そうなる前に、ちゃんと自分で答えを出したい」
言いながら、彼の手をぎゅっと握り返した。
クレアはしっかりと頷いて、一度その手を離すと、
「風呂だとまたレナードさんに妨害される可能性があります。後で貴女の部屋に行ってもいいですか? そこでゆっくり話しましょう」
その提案に、エリスは「わかった」と頷いた。
* * * *
順番に風呂を済ませ、レナードに上がったことを伝えてから。
クレアは、エリスの部屋をノックした。
「どうぞ」と言われ、扉を開けた瞬間……ふわりと漂うせっけんの香り。
足を踏み入れると、男装を解いた寝間着姿の彼女が、ちょこんとベッドに腰掛けていた。
普段ならこの時点で鼻息を荒らげ、彼女目がけてダイブしているところだが……
「──では、続きを話しましょうか」
今のクレアは、それどころじゃなかった。
少し距離を取ってベッドに座り、遠慮がちに彼女を見つめる。
自分のキスが、エリスをモヤモヤさせている。
そんな超一大事を前に、邪な気持ちなど起こるはずもなかった。
「……もう一度確認しますが、エリスは今、得体の知れないモヤモヤに苛まれているのですよね?」
「うん」
「そして、そのきっかけが……私が書斎でしてしまった、キス」
「そう」
そう。
きっぱり答える彼女に、クレアの心臓がグサッ! と抉られる。
「き、キス自体が嫌だったのですか? それとも、状況が良くなかった、とか……」
声を震わせながら恐る恐る尋ねると、エリスは「うーん」と腕を組み、首を傾げて、
「キス自体が嫌なわけじゃない……もちろんクレアのことが嫌いなわけでもない」
嫌いなわけではない。
それを聞いただけで、クレアは涙が出そうなくらいに安堵する。
「では、やはりあの場で、というのが良くなかったのですね……申し訳ありません。確かにあんな状況でするべきではありませんでした」
「ううん。さっきも言ったように、そもそもあたしがくしゃみしそうになったのがいけないんだから」
「しかし、それを止める手段としてキスを選択したのがいけなかったのですよね」
「…………」
「キスされた時、どう思いましたか?」
「へ?」
「正直に教えてください。あの時、どう感じたのか……そこに、モヤモヤの理由があるはずです」
クレアの問いかけに、エリスは考え込む。
そして……一つずつ思い出すように、ぽつりぽつりと呟く。
「まず……なんでキス?! って思った」
「ぶっ。……すみません」
「それから……あ、柔らかい、とか、いい匂い、とか……あったかいなぁ、とか」
「…………」
「そういえば、久しぶりにするなぁ、って思って…………」
そこで。
エリスは、自分の胸に手を当てて、
「……待って。なんか今、モヤモヤが強くなった気がする」
「えっ。てことは、『久しぶり』というのが一つモヤモヤポイントなのですかね?」
「そうかも……」
確かに、この任務に赴く前は毎日していた。何しろ一緒に暮らしているのだから。
しかし、『久しぶり』にしたのにモヤモヤとは……一体どういうことなのか。
「あとは……何か感じたことはありましたか?」
「うーん…………長いな、って思った」
「ゔっ……それもすみません。部屋を覗かれていたので、下手に動くわけにもいかず……」
「あと……ちょっとズルイって、思ったかも」
「ズルイ? 私がですか?」
「そう。だってクレア、なんか……余裕そうだったから」
俯きながら、エリスは言葉を探るように続ける。
「……クレアって、すごいんだなぁって思ったの。冷静に、淡々と情報を探して……あんな短時間で、求めていた資料を見つけ出して」
「それは……今までずっとやってきた仕事ですから」
「うん。そのことが、あらためてわかった。あたしの知らない経験を、クレアはたくさんしてきたんだって」
「…………」
「……あぁ、なんか……うん。分かったかもしれない」
そう言って。
彼女は、まるで独り言のように、呟き始める。
「あたし……久しぶりのキスだったのに、くしゃみを止める手段にされちゃったのが……ちょっと残念だったのかも」
「エリス……」
「もっとちゃんと、落ち着いてしたかったというか……」
「…………」
「あたしはまだ、キスする度にドキドキしてるのに……クレアは仕事の片手間に、ついでみたいな感じでできちゃうのかなぁって」
「…………」
「やっぱり経験の差なのかなぁ、みたいに思っちゃって……それでたぶん、勝手にモヤモヤって……っ」
その言葉を、最後まで言い切る前に。
彼女の身体は、ぎゅうっと、クレアに抱きしめられた。
「く、クレア……?」
「……すみませんでした」
「え?」
「貴女にそんな想いをさせていただなんて……本当に軽率でした。申し訳ありません」
「いや、あの、何度も言うけどそもそも悪いのはあたしで……」
自らの非を主張しようとする彼女の頭を、クレアは自分の胸に抱き寄せて、
「……聞こえますか? 私の、心臓の音」
そう、問いかける。
エリスは戸惑いながらも、耳を澄ませる。
すると。
押し付けられた胸の奥から……ドクンドクンと、早鐘を打つ鼓動の音が聞こえてきた。
「どんな任務の最中でも、呼吸や心拍がここまで乱れることなどありません。それが、貴女のこととなると……こんなにも余裕がなくなってしまいます。キスをする時だってそうです」
「……本当?」
「本当ですよ。貴女とのキスが、片手間なわけがありません。一回一回、ちゃんと大切に想っています。その証拠に……今まで何回したか、全てカウントしています」
「ぶふっ」
耳を疑うような事実を暴露され、思わず吹き出すエリス。
「……まじで?」
「まじです」
「……ちなみに、今日ので何回目だったの?」
「三百八十二回目です」
「思ったより多い……っ」
「あんな状況でしてしまったのは申し訳なかったですが、軽い気持ちだったわけでは決してありません。私はいつだって"本気"で、貴女の唇を狙っているのです」
「え」
「あの時も、くしゃみを防ぐという大義名分を得られてラッキーと思っていました。おっしゃる通り久しぶりでしたから、この機を逃すまいと欲に身を任せてしまい……本当に反省しています」
「う……」
「駄目ですね。女心を……いや、エリス心を全然わかっていませんでした。まさか貴女がそんなに私とのキスを大切に、楽しみに想ってくれていたとは……これからはちゃんとムードを考えます。くしゃみを防ぐためなどではなく、ちゃんとキスとしてキスを……」
「だぁああもうわかった! もうモヤモヤなくなったから! これ以上恥ずかしいこと言わないで!!」
エリスは耳を押さえながら、顔を真っ赤にして叫ぶ。
しかし、クレアはまだ心配そうに見返して、
「本当にモヤモヤ、なくなりました?」
「……なくなったよ。ありがと」
「よかったです……本当にすみませんでした」
「あたしこそごめん。一人で勝手にモヤモヤして」
「何を言っているのですか。『一人』ではなく二人の問題です。これからも何かあれば遠慮なく言ってくださいね。こうやって一つずつ解決していきましょう」
そう言って、クレアは彼女の髪を撫でる。
その腕の中で、エリスは彼の心音が少しずつ穏やかになるのを感じた。
「……これが、俗に言う『痴話喧嘩』ってやつなのかな」
「喧嘩というか、ほとんど推理みたいな感じでしたね」
「『痴話推理』……いや、二人で協議したから、『痴話会議』?」
「あはは。おもしろいですね」
「笑い事じゃないわよ、もう……自分の感情を正しく認識するのがこんなに難しいなんて……」
「精霊を認識できる天才魔導士さんなのに、自分の心は認識できない……不思議なものですね」
「あんたこそ、諜報部のエースのくせにこんなことで狼狽えるのね」
「当たり前でしょう? 誰かを本気で愛することなど初めてで……訓練でも実践でも経験がないのですから」
「…………そ」
「はぁ。早くうちへ帰りたいですね」
抱きしめられながら、そう言われ。
エリスは、思わずパッと顔を上げる。
「クレアも……そう思うの?」
「はい。少し前までは任務の中にいる生活が当たり前でしたが……今はもう貴女と暮らすあの家が、私の居るべき場所になってしまいました。私にとって初めて、心から『家』と呼べる場所ですから。早く帰って、貴女とゆっくりしたいです」
そう、困ったように笑う彼の言葉に。
エリスは、たまらなく嬉しくなる。
同じ気持ちだった。
クレアもあの家に、早く帰りたいと思ってくれていた。
さっきまでのモヤモヤが嘘のように晴れ、彼女の心が温かいもので満たされていく。
「家に帰ったら、死ぬほどキスしましょうね」
「死ぬほど?!」
「今回の戒めとして、任務が終わるまではキスしないことにします。早く帰るためにも、明日からまた禁欲生活しながら頑張りましょう」
言いながら、クレアは彼女の身体をそっと離す。
すると……
エリスは、ほんのり頬を染めながら俯いて、
「……ほんとに…………帰るまで、しないの……?」
と。
上目遣いで、そう尋ねるので。
瞬間、クレアは……
つぅ……っと、口の端から真っ赤な血を垂らす。
「……あのですね。今この状況でキスなんかしたら、間違いなくキスだけじゃ終わらなくなるので、必死に我慢しているのですよ……? それをわかって言っています……?」
「えっ。ご、ごめん……」
「まったく……わかりました。唇以外へのキスはしても良いものとします」
「ルール変更早っ」
間髪入れずツッコむエリスの額に。
クレアは、「ちゅっ」と優しくキスをして。
「……今はこれで我慢しましょう。お互いに」
「……はい」
「今日は、"匂いがするもの"がなくても眠れそうですか?」
「う……うん。ぎゅってされたから、クレアの匂い残ってる」
「では私も、貴女の匂いが残っている内に眠ることにします。そろそろレナードさんが風呂から戻って来る頃ですし、怒られる前に部屋に帰らなくては」
「そういえば……あたしが昨日貸したハンカチ、あんたはどうやって使ったの?」
エリスが遠慮がちにそう尋ねると……
クレアは、にこりと微笑み、
「鼻に詰めて寝ました」
「ぶっ!」
「というのは冗談です。大丈夫ですよ、普通に枕元に置いて寝ただけですから。明日お返ししますね」
彼女の頭をぽんぽん、と叩いて、ベッドから立ち上がる。
そうしてドアの方へと向かう彼の背中に、
「……ほんとに、ヘンな使い方してない?」
エリスはジトッとした目で、もう一度尋ねる。
クレアは、くるっと振り返ると。
口元に人さし指を当てて。
「……内緒です。それでは、おやすみなさい。良い夢を」
妖しげな笑みを残して、彼女の部屋を去って行った。
短編集やノクターンの方ではしょっちゅうしている気がしますが、本編では実に28話ぶりのキスでした。
任務を終えて心置きなくできるようになるまで、もう少し頑張れ、クレアくん。