5-5 詳細は書斎の中に
突然のキスに、エリスの赤い瞳が大きく見開かれる。
驚きのあまり、破裂寸前だったくしゃみも引っ込んでしまった。
柔らかな唇の感触と、包まれるようなクレアの匂い。
薄く開いた彼の瞳に射抜かれ、彼女の鼓動が一気に加速する。
ドクン、ドクンと煩く響く、心臓の音。
クレアの体温に身を委ねると魔法が解けてしまいそうで、エリスは目をぎゅっと瞑り、精霊の制御に意識を集中させた。
そして、何者かが開けたドアの隙間から廊下の光が差し込み──
そこから、その人物が顔を覗かせ、書斎を見回した。
「………………」
クレアは背を向けているため、それが誰なのか確認できない。
エリスもまた目の前にクレアがいるため、ドアの方を見ることができなかった。
声は発さないが、確かに誰かがそこにいる。
ドアの隙間から部屋を覗き、見回している。
これがヴァレリオや領主なら厄介だ。
机の上も、棚も、漁ったままの状態である。普段から書斎に出入りのある彼らであれば、違和感を覚えるに違いない。
もし部屋に入ってきたら、距離を取りながら隙を見て逃げるしかない。
この"隠れ蓑"に近付き、領域内に入られたらおしまいだ。
足音や気配でバレるかもしれないが、姿を見られるよりはマシである。
さぁ、どう動くのか……
背後の気配の動きに、クレアが最大限の警戒をする……と。
「お嬢さま、何をしているのですか? 窓から猫の様子を見るんでしょう? 早くしないと飛び降りちゃうかもしれませんよー」
そんな声が、廊下の向こうから微かに聞こえてきた。
これは……アルマの声だ。
ということは、今部屋を覗いているのは……
「あっ、はーい。今行きまーす!」
アルマの呼びかけに答えるように、元気な声が書斎に響き渡る。
それは間違いなく、メディアルナの声だった。
どうやらここを覗いているのは彼女のようだ。廊下を通りかかったタイミングで書類が落ちる物音を聞き、覗きに来たのだろう。
メディアルナは「気のせいかしら……?」と小首を傾げながら書斎の扉を閉め、アルマの元へと駆けて行った。
その足音が去って行くのを確認してから。
クレアはゆっくりと、エリスから唇を離した。
見下ろした彼女の顔は耳まで真っ赤になっていて、こちらを恨めしそうに睨み付けていた。
「……ふふ。すみません」
思わず笑みをこぼしながら囁くと、胸をポカポカと叩かれる。
もう少しその赤い顔を見ていたいところだが、またいつメディアルナが入ってくるかわからない。早いところあの経歴書の束から必要な情報を抜き出さなくては。
クレアは無言で、先ほど見つけた経歴書の方を指さしエリスに合図する。
それに、彼女はクレアを睨み付けていた視線をそちらに向け……
彼の意図するところを汲み取り、驚いた顔をして「あったの?」と目で問いかけた。
クレアが微笑みながら頷くと、エリスは「おーっ」と口パクをして拍手の真似をしてみせた。
"隠れ蓑"に入ったまま、二人は経歴書の束に近付く。
クレアは二冊ある内の一冊を手に取り、静かにめくった。
七年前……十年前……十三年前……と使用人の経歴書を遡るが、一冊目に綴じられているのは全て男性の情報だった。
一冊目を閉じ、二冊目をめくり始める。
すると、すぐに知っている名前が目に飛び込んできた。
ヴァレリオ・ドルシ。
ロベル・バラルディ。
現在もこの屋敷で働く、あの二人の経歴書だ。
二人とも十八歳からここで勤めているらしい。日付を見ると、ロベルの半年後にヴァレリオが入って来たようだ。ロベルが一番の古株だと言っていたが、ほぼ同期と言えるだろう。
この辺りから、女性の使用人が現れるはず……
クレアのめくる手を、エリスも緊張の面持ちで見つめる。
そして。
ロベルの経歴書の後ろに、それはあった。
色褪せたその紙に書いてあるのは、女性の名前。
二人は思わず顔を見合わせる。
ついに見つけた。
かつてここで働いていた女性の経歴書だ。
この女性が、女を雇わなくなったきっかけを知る人物なのだろうか。
しかしよく見ると、その女性が雇用されたのは二十年前で、ロベルが雇用のされた年から五年も前だった。且つ、ロベルが働き始める一年ほど前に退職している。
クレアはなんとなく違和感を覚え、さらに先をめくってゆく。
一冊目もそうだったが、この屋敷では平均して一、二年に一人の頻度で新しい使用人を雇っている。
領主の性格のせいだろうか、だいぶ入れ替わりが激しいらしい。
となると、やはりロベルの前だけが五年も開いているのは少し疑問である。
たまたまこの時期は人の入れ替わりがなかったのだろうか。
それとも……
この間にあるべき誰かの経歴書が、意図的に抜き取られているのか。
経歴書の内容を注意深く見ていくと、女性たちは皆『フルーレ斡旋所』というところから斡旋されていたようだった。
ここを訪ねるのが早いかもしれない。領主という大口の斡旋先と突然取り引きをやめたのだ、十五年前とはいえその理由は記録として残っているはずである。
とりあえず、二十五年前までの女性の経歴書を回収しておこう。それ以上前だと、あまり参考にならない可能性が高い。
クレアは女性の経歴書を新しいものから四人分抜き取ると、二冊の束を元の棚に戻した。
そして他の棚や執務机の上の書類も、元の状態に戻す。
あとは、この部屋から出て行くタイミングだが……
……と、そこで。
「うーん。ねこちゃん、葉っぱの陰に隠れてよく見えなかったですね」
「ていうかアレ、本当に猫ですか? 動いてる様子がないし、生き物じゃない気がしてきたんですけど……」
廊下を歩く気配と共に、メディアルナとアルマの声が聞こえてきた。
じっと耳を澄ませ、クレアは二人が階段へ向かい、降りて行くのを確認する。
そして、戻って来る様子がないことを確信してから、
「……出ましょうか」
と、小声でエリスに言った。
──"隠れ蓑"を纏ったまま、二人は書斎を出た。
来た時と同じように慎重に階段を下り、一階へと降り立つ。
そうして、そのまま母屋から離れへと向かい……エリスの自室に帰り着いた。
そこでようやく、エリスは魔法を解く。
「ふぅ……」
「お疲れ様でした。作戦成功、ですね」
クレアは先ほど抜き出した四人の女性の経歴書を手に微笑む。
それに、エリスは頷き返す……が。
「(……? なんだろう、このかんじ)」
彼女は、自分の中に得体の知れない感情が湧き起こっていることに気が付き、胸に手を当てる。
なんだろう。
無事に必要な情報を抜き出せたっていうのに、なんかスッキリしないというか……
胸の奥が、モヤモヤするような……
しかし。
「さて、そろそろ持ち場に戻らなくては。また夜、レナードさんの部屋で話しましょう」
答えに辿り着く前にクレアにそう言われ。
エリスは慌てて「うん」と返し、厨房へ戻ることにした。
* * * *
その夜。
それぞれの仕事を終え、クレアとエリスは予定通りレナードの部屋に集合した。
「──それで、首尾はどうだった?」
二人が部屋に入り、椅子に座るのを待って、レナードが切り出す。
クレアは四枚の経歴書を懐から取り出し、彼に差し出した。
「かつてここで勤めていた女性たちの情報です。ロベルやヴァレリオの経歴書も同じ場所にありました」
「ん。やはりあの部屋にあったか」
「はい。見つかったものの中から最も新しい女性の経歴書を抜き出してきましたが……この四人は、女の使用人を雇わなくなったきっかけを知らないかもしれません」
「……どういうことだ?」
「使用人が男だけになったのは、領主の妻が亡くなってからだと聞いています。ですがこの四人は、それよりも前に既に辞めているのです」
「つまり……妻の死とは関係なく、たまたまその前の時期に女の使用人が全員辞めていた、ということか?」
「その可能性もありますが……この女性たちの後にロベルが雇われるまで、五年分の空白があるようなのです。他は一、二年に一人の頻度で新人を雇っているのに、この期間だけ不自然に間が空いていました。もしかすると……」
「ロベルと同時期に雇われた女の経歴書が、何者かによって抹消されているかもしれない、と」
クレアの意図するところを汲み取り、レナードが言う。
それにクレアは頷いて、
「その通りです。特定の経歴書を抹消できるのは、管理している領主本人か秘書のヴァレリオくらいでしょう。領主の妻が亡くなった時期とも重なりますし、やはり何かあったのでしょうか」
「隠蔽しなければならないようなことが起き、それにより女たちが解雇されたのか……」
「それが妻の死や、あの笛に関わるものだとしたら……やはり過去を明らかにする必要がありますね」
「ふむ……雇用時期はだいぶ前だが、とりあえずこの四人に当たってみるしかないか」
「あとは、斡旋所を訪ねてみようと思います。その四人だけでなく、女性の使用人はみな同じ斡旋所から紹介されていたようです。経歴書に残っていない女性が働いていた記録はあるのか、調べてもらいます」
この屋敷から女性の使用人がいなくなった経緯と、領主の妻の死がどう関係しているのか。
そこに、あの笛は関わってくるのか。
当時を知る人物を見つけ出せれば……それを聞くことができるはずだ。
「その四人の女性の調査は"中央"にいる隊員に依頼します。斡旋所への聞き込みは、買い出しの隙を見て私が進めておきます」
「わかった。だが、無理はするな。斡旋所への聞き込みも、場合によっては本部に依頼してかまわない」
「わかりました」
クレアはレナードから経歴書を受け取り、再び懐へとしまった。
話がひと段落したところで、エリスがようやく口を開く。
「ていうか、そっちは大丈夫だったの? ニセ猫作戦」
ジトッとした目を向け、レナードにそう尋ねるが……
彼は涼しげな顔でその視線を受け止め、答える。
「問題ない。最終的には俺が木に登り、枝を揺らして布を落とした。風で飛んできたゴミだろうということで、疑われることもなく片付いた。メディアルナは猫じゃなかったことにがっかりしていたが、終始和やかな雰囲気だったな。あのお嬢さまも久しぶりに父親と外に出られたことが嬉しかったようだ」
「そのお嬢さまたちが途中でこっちに来たんだけど……なんで止めなかったのよ?」
「下からだとよく見えないからと、三階の窓から猫の様子を見ようと駆けて行ったんだ。止める方が不自然だろう。何もなければ書斎に入ることはないし、問題ないと判断したが……何かあったのか?」
「べべべ別に何も?」
エリスがあからさまに目を逸らすが……その横で、クレアがにこにこと無言を貫いているため、レナードはそれ以上追求しないことにした。
「……まぁ、バレずに情報が抜き出せたのならそれでいい。他には? 今日一日で新たにわかったことはあるか?」
仕切り直すように問いかけると、エリスが「あ、はい」と挙手する。
「領主の体調についてロベルに聞いてみたんだけど、今まで特に病気したことはなかったって。お医者の手配もヴァレリオが一任しているから、ロベルにはわからないみたい。ていうか、あんま領主の話をしたくない雰囲気だったわ。相当嫌われているわね、あれ」
そう、あっけらかんと言ってのけるので、レナードは眉を顰める。
「お前……ロベルに直接聞いたのか?」
「うん」
「勝手なことを……まさか領主の妻の死因まで尋ねていないだろうな?」
「さすがにそこまでは聞いてないわよ」
だって本当は、『琥珀の雫』の保管場所について聞こうと思っていたんだから。
という言葉は、辛うじて飲み込んでおく。
レナードは「はぁ」とため息をついて、
「あまり質問ばかりすると怪しまれる。ただでさえ今日は潜入という大きな動きを起こしたんだ、しばらくはおとなしくしていろ」
「はぁい」
「領主も今日はだいぶ体調が良さそうだったからな、しばらく様子を見るとしよう。クレアルドからは、特にないか?」
「はい、大丈夫です」
「では、今日はこれで解散だ。先ほどアルマが風呂から出たと知らせに来たから……今日は余計なことをせず早く入れ。いいな」
と、昨夜の一件を思い出させるように言う。
あぁ、これはまたエリスが「しないわよ!」と反論する流れか……?
……と、クレアは予想したのだが。
「うん、おつかれ」
彼の予想は、大きく外れた。
エリスはそう短く返すと、レナードの部屋からスタスタと出て行ってしまったのだ。
その後ろ姿を、暫しぽかんと見つめて。
……何か、様子が変だ。
と、クレアはレナードに「では」とだけ言って、すぐに彼女の後を追いかけた。
「エリス、どうかしましたか?」
既に入浴の用意を持参していた二人は、そのまま風呂場へと向かう。
クレアの問いかけに、エリスは彼の方を見ないまま「どうって?」と聞き返した。
「いえ、なんだかいつもと様子が違うなと思いまして……元気がないというか」
「あぁ、ごめん。元気がないわけじゃないんだけど……」
「何か気になることや、気分が悪くなるようなことでもありましたか?」
「気になること……」
「…………」
「……実はあたしも、よくわかんないんだよね」
「何がです?」
「なんでこんな気持ちになっているのか」
「こんな気持ち、とは?」
「……なんかね…………モヤモヤしてるの」
「モヤモヤ」
「うん、モヤモヤ」
「いつからそんな気分なのですか? 何かきっかけになるようなことはありました?」
「きっかけ……」
歩きながら、エリスは考え込むように黙る。
クレアは彼女の返事を静かに待つが……
答えが返ってくるより早く、風呂場へ辿り着いてしまった。
「……エリス?」
クレアはいよいよ心配になり、もう一度声をかける。
すると、
「きっかけ……きっかけは、たぶん…………」
エリスは、くるっと振り返り。
一言。
「…………クレアの、キス……?」
と。
困ったような顔をして、そう言った。
次回。エリス、緊急自分会議。
お楽しみに。




