2-2 祝福の音色
──翌日。
夜明け前の暗がりの中、レナードは離れを抜け出し、庭へと出た。
周囲に人の気配がないことを確認しながら、慎重に塔を目指して進む。
静かだった。
風が庭園の草木を撫でる音だけが聞こえる。
やがて彼は、闇の中に聳え立つ塔の前に辿り着いた。
そのままゆっくりと、扉へ近付く。
木と鉄を組み合わせた、重厚な扉だった。年季が入っているが造りはしっかりしており、なかなかに頑丈そうである。
……いっそあの女に魔法で破壊させてもいいが……それは最終手段ということにしておこう。
と、レナードは胸中で呟く。
"笛"を回収するだけなら簡単だ。国家権力を振りかざし、強行捜査すれば良い。
しかし、領主が"笛"の力を用いてよからぬことを企んでいる可能性もある。
国にとって危険分子となり得る者を未然に処断するアストライアーとして、そこは見極めなければならない。
自分やクレアルドは、そのために存在しているのだから。
レナードは植木の陰に身を潜め、そこから塔を見つめる。
そしてメディアルナが来るその時を、息を潜めて待った。
──やがて、夜が明けた。
未だ眠りに就く街に、暖かな光が射す。
街を見下ろすように立つ塔は、朝日を受け神々しい程に白く輝いた。
程なくして、足音が聞こえてきた。
音の重さと歩幅から、若い女のものと思われる。
レナードは一層気配を殺し、塔の方を見つめた。
視線の先に現れたのは……予想通り、メディアルナだった。
手に何かを持っている様子はない。やはり"笛"は塔の中に置かれているのだろう。
彼女は首にかけたネックレスに手を伸ばすと、ドレスワンピースの胸元から何かを取り出した。
レナードは目を凝らす。チェーンの先に、鍵のようなものがぶら下がっていた。
そのままそれを用いて扉を開けるような動作をする。
……なるほど。ああしていつも鍵を持ち歩いているのか。
レナードが見つめる中、ガチャリという重い音と共に鍵が開く……が。
「……あら?」
メディアルナが首を傾げる。建て付けが悪いのか、鍵は開いたのに戸が上手く引けないようだ。
彼女は細い腕で力いっぱい取っ手を引き……ギギギッと音を立てながら、なんとか扉を開けた。
「あとでロベルに見てもらわなきゃ」
そう呟きながら彼女は塔の中へと入り、再び重そうに扉を閉め、内鍵をかけた。
レナードは、メディアルナの消えた塔を見上げる。
屋敷全体の構造を見るに、ここはかつて要塞として使われていたのだろう。この塔は、見張り台の役割を果たしていたに違いない。
頂上の部屋からは、街全体が見渡せるはずだ。
そこから、"例の笛"の音が響き渡るという。
果たして、どのような音色なのか……
しばらくして、上の方から窓を開けるような音が聞こえた。
レナードは、じっと耳を澄ます。
そして。
それは、降り注ぐように聞こえてきた。
高音が美しい、澄んだ音色だった。
小鳥の囀りのような、それでいて母鳥の子守唄のようでもある優しい調べ。
風や川の流れを彷彿とさせる、ゆったりと柔らかな旋律。
それが、鼓膜を伝い、真っ直ぐに心へ染み込むようで……
レナードは、思わず目を閉じた。
不思議だ。
確かに精神が落ち着く。
不安や焦り、闘争心や憤りといった感情が、温かな毛布に包まれて寝かされてしまう。そんな気分だった。
代わりに、前向きな気持ちが沸々と湧いてくる。
まるで、今この瞬間、ここにこうして生きていることを祝福されているような……
なんて、らしくない考えまで浮かんでくる程だ。
なるほど、これは確かに、ただの笛の音ではない。
閉じた瞼の裏に、レナードは遠い日の記憶を見た。
それはまだ、クレアと出会ったばかりの頃……
幼い彼が、感情の乏しい表情で自分を見上げ、言う。
『──ありがとう、レナードさん』
レナードは、ハッとなって目を開けた。
……本当に、妙な気分にさせる音色だ。
ぼうっと聴いている場合ではない。他の使用人たちが動き出す前に、部屋へ戻らなくては。
彼は最後に一度だけ塔を見上げると……
未だ笛の音が鳴り響く中、離れへと戻って行った。
──同じ頃、離れの中では……
クレアが自室で、静かに笛の音を聴いていた。
音楽には、明るい曲調のものと、悲しげな曲調のものがある。
何を以って明るく、あるいは悲しげに感じるのか、その説明はなかなかに困難だが、テンポの速さや音程の上下によって人は音楽の中に感情を見出す。
そしてこの音色は、恐らく誰が聴いても『明るい』と感じる曲調だった。
優しく、穏やかで、希望に満ちた旋律が、美しい笛の音によって奏でられている。
しかし、そんな曲調の明るさを差し引いても、この音色には気持ちを前向きにさせる"何か"があった。
その"何か"こそが、精霊による力なのだろうか。
クレアは、閉じていた瞼を開ける。
常に冷静でいるよう育てられてきた彼だが、今は殊更に気持ちが穏やかだった。
脳裏に浮かぶのは、エリスの笑顔。
彼女との幸せな時間が思い出され、自然と笑みがこぼれる。
世界中の人間が、いつもこんな気持ちでいられたのなら……くだらない争いなど、なくなるだろう。
だからこそ、この街は治安が良いのだ。
そんなことを考えていると、廊下で何者かの気配を感じた。
どうやらレナードが偵察を終え、自室へ戻って来たようだ。
同時に、笛の音色が止んだ。これが、使用人たちの始業の合図である。
クレアは立ち上がると、凪いだ気持ちを任務のために引き締め……
部屋の扉を、静かに開けた。
廊下に出ると、ちょうどエリスが部屋から出てきたところだった。
今日も今日とて男装しているわけだが、支給された制服のパンツスーツがよく似合っている。
彼女はクレアを見るなり、ぱぁあっと明るい笑みを浮かべて、
「おはよう、クレア! 今日も大好きだよ!!」
……と、一切の躊躇いもなく、爽やかに言ってのけた。
刹那、クレアは引き締めたはずの気持ちがゆるゆる解けてゆくのを感じ……
「おはようございますエリッぐぼはぁっ」
言葉半ばにして、吐血した。
「な……なんですか急に……何デレですか……?」
「やだなぁ、思っていることを言っただけだよ」
「う、嬉しいですけど、この場ではあまりデレないでいただいた方が……」
「なんで? だって好きなんだもん。好きな相手に好きって伝えて何が悪いの?」
「はぁぁっ……そんな好き好き連発しないでください、供給過多で死ぬぅ……」
「あぁ、今は男の子でいなきゃいけないからか、ごめんごめん。でもさぁ、朝起きて隣にクレアがいないのはやっぱり寂しいよ。早く任務を終わらせてうちへ帰るためにも、今日から一緒に頑張ろうね!」
「ぐっはぁっ……!」
これは……恐らく、笛の音の影響だ。
と、エリスのキラキラとした清々しい表情を見つめ、クレアは思う。
恥じらいや躊躇いが消え、前向きな気持ちだけが表面化しているようである。
あのエリスをここまで素直にするとは……恐ろしい力だ。やはり危険な魔力を秘めているに違いない。
何としてでも笛に近付き、その正体を暴かなくては……
そう、頭では思っているのに。
クレアは、エリスの両手を握ると、
「……ここに永住しましょう。そして、先ほどの言葉を毎朝聞かせてください」
「なに馬鹿なことを言っているんだ、クレアルド」
コンッ。と、クレアの頭に手刀が振り下ろされる。
振り返ると、そこには……呆れ顔のレナードが立っていた。
しかしクレアは、にこっと笑って、
「あぁ、おはようございます。レナードさん」
「おはようじゃないだろ。何をしている?」
「いえ、エリックが想像以上に笛の音の影響を受けていたので、なんて恐ろしい力なのだと戦慄していたところです」
「とてもそうは見えなかったが……まぁ、単細胞な人間ほど影響を受けやすいということだろう。一つ情報が手に入ったな」
「誰が単細胞だっ!!」
レナードの言葉に目を吊り上げるエリス。
それに、レナードは「ふん」と鼻を鳴らし、
「ほらな、単細胞だからちょっとしたことですぐカッとなる。さっきまでの穏やかな気持ちをもう忘れているんだろう? 単細胞だから」
「なっ、何回も言うなぁっ!!」
「なんなら俺が毎日正気に戻してやろうか? 気持ちがふわふわしたままでは仕事にならないだろう。お前を怒らせることなど赤子の手をひねるより容易い」
「え。待ってくださいレナードさん。すぐ戻してしまうなんてもったいないです。せめて午前中だけでもふわふわしたままで……」
「お前は何に必死になっているんだ、クレアルド」
……というくだらないやり取りをする三人の後ろから、
「おう、朝から元気がいいな」
そんな声が聞こえ、三人はそちらに目を向ける。と……
使用人たちの総責任者、ヴァレリオ・ドルシが立っていた。どうやら二階の部屋から降りてきたらしい。
三人は横並びになり姿勢を正すと、『おはようございます』と頭を下げた。
「ん、おはよう。よく眠れたか?」
「はい、おかげさまで」
「そりゃあよかった。にしてもお前ら、仲が良いんだな」
「いえいえ。先ほどの素晴らしい演奏について盛り上がっていたところです」
と、爽やかに出まかせを述べるレナード。
ヴァレリオは「あはは」と笑って、
「あれはディアナが吹いているんだ。街の住民のために、毎朝欠かさずな。この街の誇りの一つさ」
「噂には聞いていましたが、本当にお嬢さまが吹いていらっしゃるのですね。心が洗われるような音色でした」
「そうだろ? 俺も大好きなんだ」
どうやらヴァレリオも笛の音の影響を受けているらしい。昨日に比べ、随分と口調が穏やかだった。
「さて、雑談はこれくらいにして。早速だが、今日からお前たちにやってもらう仕事について説明する。知っての通り、先日一気に三人やめちまったから、そいつらがやっていた仕事を引き継ぐような形になる。一つは、館内の清掃全般。一つは、手紙を出したり必要なものの買い出しをする外回り担当。そしてもう一つは、厨房の補佐だ」
ヴァレリオは、三人の顔を順番に眺めてゆき、
「それぞれの適正にあった仕事を任せたいところだが……それを見極める時間もねぇ。つーことで、立候補制で決めようかと思うが、どう……」
「僕、厨房がいいです」
ビシッ、と手を上げ、エリスが食い気味に立候補する。
ヴァレリオは思わず笑いながら、
「おぉ、すげーやる気だな。じゃあ、エリックは厨房補佐な。あと二人は、どうする?」
それに、クレアとレナードは一度顔を見合わせ、「では、私は館内の清掃を」とレナードが、「私は外回り担当を」とクレアが言って、仕事の分担があっさり決まった。
ヴァレリオは満足げに頷き、
「決まりだな。それじゃあ、それぞれ持ち場に案内する。ついてこい」
そう言って、主屋の方へと歩き始めた。
その少し後ろをついて行きながら、
「まっかない〜♪ つまみ食い〜♪ ふふっ、楽しみーっ♡」
厨房という最高の仕事場を得たエリスは、小さくスキップした。
前を歩くレナードは、眉をひそめながら横目で眺め、
「……あいつ、まだ笛の音の影響を受けているのか?」
と、隣を歩くクレアに小声で尋ねる。
それに、クレアはにこりと微笑んで、
「いえ、これが通常運転です」
呆れるレナードに、そう答えた。