1-3 リンナエウス家の人々
「じゃあ、俺はこのリカンデュラを淹れてくるから。先に旦那さまのところへ行ってろ」
茶葉の入った袋を手にしながら、ヴァレリオが言う。
そして階段の方へと向かい……途中でその足を止めて、
「そうだ。今ちょうどお医者さまがいらしているから静かに入れよ。ちなみに、ディアナがいなくなったことはまだ旦那さまのお耳に入れていない。体調が優れない中、無用な心配をおかけしたくなかったからな。そのつもりで謝れよ、アルマ」
そのセリフに、アルマは暗い顔をさらに暗くして「はい……」と答えた。
ヴァレリオを見送ると、メディアルナがアルマの肩をポンと叩いて、
「お医者さまがいらしているなら尚更、怒鳴られたりしないはずです。ラッキーでしたね、アルマ♪」
と、能天気に笑うが……彼の表情は強張ったままだった。
廊下の突き当たりにある一際大きな扉の前に、アルマは立つ。
そして、ゴクッと唾を飲み込んでから……
意を決して、ノックをした。
「…………」
しかし、しばらく待ってみても中から返事はない。
もう一度、震える手でノックをしてみるが……反応なし。
『どうしよう』という目で、アルマはメディアルナの方を見る。
彼女は、「んんっ」と一度咳払いをすると、
「お父さま、わたくしです。入りますね」
そう言いながら、ドアノブに手をかけ……
ゆっくりと、扉を開けた。
瞬間、
「だから、出て行けと言っているんだ!!」
大きな怒鳴り声が聞こえ、アルマの身体がビクッと震える。
メディアルナが扉を開け放つと……広い部屋に、二人の男がいた。
一人は、部屋の奥にある大きなベッドの上で半身を起こしていた。白髪混じりの茶髪と、同色の口髭。恰幅の良い中年男性だが、顔色はあまり良いとは言えなかった。
そんな男に睨まれている人物がもう一人。こちらも初老の男性で、ひょろりとした身体に白衣を羽織っていた。
先ほどのヴァレリオの忠告と、ここが誰の部屋であるかを考えれば、状況は明白だった。ベッドの上にいるのが領主のマークスで、白衣を着ているのが訪問中の医者。そしてその医者が、マークスに「出て行け」と怒鳴られている。つまりはそういう場面だろう。
いや、さっそく怒鳴ってんじゃん。
と、エリスがめんどくさそうに半眼になる中、マークスの怒鳴り声が再度響く。
「もう薬はたくさんだ! こんなものいくら飲んだって効きやしない! このヤブ医者め!!」
言いながら、紙袋を床に叩きつける。それに医者は、困ったように及び腰になりながら、
「しかし、ただの風邪にしては容態の悪化が早すぎます。まずは薬を変え、きちんと検査を受けられた方が……」
「うるさい! これだから他所者は入れたくなかったんだ。不要な検査をさせて金を取るつもりだろう?!」
「そんな……私は医者としての見解を示しただけで……!」
「言い訳はいい! とにかく出て行け! 二度と来るな!!」
その言葉に、医者は鞄を抱えアルマたちを掻き分けるようにして部屋を出て行った。
直後、マークスが激しく咳き込む。メディアルナは慌てて駆け寄り、その背中を摩った。
「お父さま、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。大丈夫だ、ディアナ。それよりどうした?」
「新しいお手伝いさんたちがいらしたので、お連れしました。みなさん、どうぞ」
そう言われ、三人はアルマと共に部屋へと入る。
そして、真ん中に立つクレアが丁寧に頭を下げ、挨拶をした。
「お初にお目にかかります、リンナエウス卿。ブリージァ斡旋所より参りました、クレアルド・ラーヴァンスと申します」
「レナード・グロウシュライトです」
「え、エリック・エヴァンシスカです」
「本日からお世話になります。宜しくお願い致します」
クレアと共に、レナードとエリスも頭を下げた。
潜入捜査において、本名を使うことは稀だ。ほとんどの場合、偽名を使う。だが、今回はその必要はないと判断された。
犯罪組織に潜り込む場合は必ず素性を隠すが、今回の捜査対象は領主である。万が一バレたとしても、その時は開き直って強制捜査に切り替えるだけだ。
もちろん"例の笛"には最大限警戒する必要があるし、領主に怪しい点がないか秘密裏に調べるためにもバレないに越したことはないが……
不慣れなエリスが立ち回りやすくするためにも、馴染みのない偽名ではなく本名を使う方が得策だとクレアは考えたのだ。
深々と礼をする三人を眺め、領主のマークスは居住まいを正す。
「あぁ、よろしく頼む。いきなり見苦しいところを見せてすまなかった。ご覧の通り少々風邪を拗らせていてね、ベッドの上から失礼するよ」
「我々の方こそ、ご体調が優れない中大勢で押しかけてしまい申し訳ありません。今後お困りのことがございましたら、何なりとお申し付けください」
「ありがとう。まぁ無理のないようにやってくれ。ヴァレリオにはもう会ったか? あれにいろいろ聞くといい。うちのことはなんでも知っているからな」
先ほどまでとは打って変わって、マークスは穏やかな口調で話す。どうやら誰彼構わず怒鳴り散らすような人物ではないようだ。
クレアはにこりと微笑みながら頷く。
「はい、ちょうど先ほど廊下でお会いしました。厳しく指導してくださると言われたばかりです」
「はっはっは、それはいい。面倒見の良い男だからね、怖がらなくて大丈夫だよ」
そう笑った後、マークスは少し咳き込みながらドアの方を見つめ、
「それで、そのヴァレリオはどこへ行った? 今日届いた手紙を持ってくるよう頼んでおいたのだが……」
その質問に、隣に立つメディアルナが背中を摩りながら答える。
「お茶を淹れに行きました。すぐに戻って来ると思います」
「お茶?」
「はい。わたくしが買ってきたお茶です」
「ディアナが、自分で買いに出かけたのか?」
「……ぼ、僕が」
そこで。
アルマが、拳をぎゅっと握り、
「……僕が、食欲不振に効くお茶があると話したんです。それで買いに行こうって……お嬢さまと二人だけで、隣街まで出かけてしまいました。本当に申し訳ありません」
そう、頭を下げ謝罪した。
すかさずメディアルナがフォローするように、
「アルマは悪くないの。わたくしがどうしても自分で行きたいとわがままを言って、それで……」
「それで、どうしても旦那さまのお力になりたくて、こちらを買ってきたそうですよ?」
そんな声と共に、部屋の扉が開く。
全員がそちらに目を向けると、お盆にティーセットを乗せたヴァレリオが立っていた。
「アルマには私から後で厳しく言って聞かせます。まずはお嬢さまが持ち帰られたこちらを、冷めない内にお召し上がりください」
言いながらテーブルにティーセットを置き、ポットを傾けカップに中身を注ぐ。
渋みの強そうな匂いだな、とエリスは遠巻きにそれを見つめた。
ヴァレリオが「どうぞ」と、受け皿に乗せたカップをマークスに差し出す。
マークスはそれを受け取り、カップに口を近付け……
「……これは……」
その香りに一度目を見開いてから。
ゆっくりと口を付け、飲んだ。
そして、静かに目を閉じ……少しだけ息を吐いて、
「……リカンデュラか。懐かしい味だ」
「えぇ。昔はよくお出ししておりましたね」
ヴァレリオがそう答える。
マークスは黙ってカップに目を落とし……やがてその目に、涙を浮かべた。
「お、お父さま……?」
メディアルナが心配そうに見つめると、マークスは涙を拭って、
「すまない。昔のことを……お前の母さんのことを思い出してね」
「お母さまを……?」
「あぁ。母さんもよくこのお茶を飲んでいたんだよ。『苦い苦い』って言いながらね。……ありがとう、ディアナ。元気になりそうだ」
その言葉に、メディアルナの表情がぱぁっと明るくなる。
どうやら無断で出かけたことに対するお咎めはないようだ。
賊に襲われたことは言わず仕舞いだったが……このまま黙っていた方がいいだろう。いや、ぜひそうしてくれ。
と、エリスは切に思う。
何故なら一刻も早くこの部屋を出て、食事にありつきたいからである。お説教がないならもういいだろう、早くパンケーキを食べさせてくれ。
そんな願いが通じたのか、ヴァレリオは上着の内ポケットから手紙の束を取り出し、
「旦那さま、役場の者から例の件で手紙が届いております。お話をしてもよろしいでしょうか?」
「わかった。アルマ、新入りさんたちに屋敷を案内してやれ。ディアナも、これから仕事の話をするから。またあとでな」
「はい、お父さま」
頷くメディアルナ。アルマも深々と一礼し、エリスたちの退室を促すように扉を開けた。
「お医者さまはお帰りになられたので?」「いいや、追い出したんだ」などと話すヴァレリオと領主を残し、大きな扉が閉まる。
途端に、メディアルナとアルマが「はぁ」と息を吐いた。
「ね? 大丈夫だったでしょう?」
「いや、かなりギリギリだったじゃないですか……ヴァレリオさんがフォローしてくれなかったらヤバかったですよ。お医者さまにブチギレてたし」
「でもとても喜んでくれました。元気になりそうっておっしゃっていたし、やっぱり買いに行ってよかったです。本当にありがとう、アルマ」
にっこり笑うメディアルナ。
アルマはなんとも言えない表情を浮かべて、その笑顔から目を逸らした。
「さぁ、みなさんにうちの屋敷を案内しなくてはね。まずはお部屋に荷物を置いて、それから……」
と、メディアルナが言いかけたところで。
──ぐぅぅ。
……という、見本のような腹の音が響いた。
しかしそれは、エリスからではなく……
「いやぁ、お恥ずかしい。すみません、みっともない音を出して」
そう言って、クレアが後ろ頭を掻く。今のは明らかにクレアの腹から響いた音だった。
メディアルナは、ぱちんと手を合わせて、
「そうでした。みなさんお腹が空いているんでしたね。屋敷の中を見ていただく間に食事を用意させましょう。アルマ、わたくしは厨房に頼んできますので、ご案内をお願いね」
そう言い残すと、彼女は廊下を足早に去り、階段を降りていった。
その後ろ姿を見送ると、アルマは三人の方を振り返り
「……では、みなさんのお部屋にご案内します。我々使用人の部屋は離れにありますので、ついてきてください」
やはり浮かない顔をして、歩き出した。
その後をついて行きながら、エリスがこそっとクレアに耳打ちする。
「ナイス腹の虫。あのお嬢さま、絶対ご飯のこと忘れてたから助かったわ」
「えぇ、そう思ってわざと鳴らしました」
「え! お腹の音って意図的に鳴らせるもんなの?!」
「ちょっとしたコツを掴めばできますよ。今度お教えしましょうか?」
「すごい! 教えて教えて!!」
……というやり取りを聞きながら、レナードの頭には「それを知ったところでどうなる?」とか、「そもそもどこでそんな技術を会得したんだ?」とか、いろいろなツッコミが浮かぶが……
それもこれもすべて、捜査の先行きに対する不安のため息に変わるのだった。