3-3 沈黙の理由
結局、その夜はレナードが押さえた宿にそのまま泊まり……
別々の部屋で大人しく寝、何もないまま迎えた翌日。
馬車は再び、リンナエウスの街を目指し走り始めた。
馬車の中の雰囲気は、前日以上に悪かった。
というのも、あれほどレナードに噛みついていたエリスが、今日は一転して一言も口を利かなくなったのだ。
どうにも様子がおかしい。
と、クレアは隣に座るエリスを見つめる。
昨晩からずっと、何かを考え込むように黙り込んでいるのだ。
クレアとレナードが任務に関する話をしていても、馬車の外の景色をじっと眺め、会話に混ざろうとはしなかった。
そうして、夜。
その日一泊する街の宿に着いてもなお、エリスの口数は少ないままだった。
今日もレナードにより強制的に一人一部屋となったが、レナードが例の"情報収集"のために夜の街に繰り出したので、クレアはエリスの部屋を訪ねることにした。
「……エリス?」
コンコン、とドアノックしながら、呼びかける。
すると中から「開いてる」という短い返事が聞こえた。
ノブを捻り、クレアはそっと部屋の中を覗く。
今日も今日とて『美少年モード』な装いに身を包んだエリスが、ベッドに腰掛け腕を組み、やはり思いつめた表情をしていた。
「……晩ご飯、食べに行きませんか?」
伺うように尋ねるが、彼女は「うん……」と言ったっきり、また考え込んでしまう。
『晩ご飯』というワードにもこの反応とは……
クレアはいよいよ心配になる。
エリスがこうなったきっかけは明白だ。
昨晩の、レナードとのやり取り。
彼が情報収集のために女性と偽りの恋人関係を結んでいることを知ってから、様子がおかしくなった。
悪びれる素振りもなく女性を騙すレナードに、嫌悪感やショックを感じたのか。
それとも……
『我々の仕事においては、珍しくないことだ』
……というレナードのセリフから、クレアも同じように複数の女性をたぶらかしているのではと思い悩んでいるのか……?
クレアはぎゅっと、自分の拳を握る。
正直、そこを突かれるのは痛かった。何故なら……
クレアも過去に、任務のためレナードと同じことをした経験があるからだ。
とりわけ、標的となる組織の息がかかった人間に近付くことが多い。
クレア達の仕事は戦闘もさることながら、そこに至るまでの情報戦がモノを言う。
騙し合いは、日常茶飯事だ。
誰かの恋愛感情を利用したとしても、そこから得られる情報により何千、何万もの命が救えるのなら、それは必要な戦略だ。
大義のためなら、"使えるものはなんでも使う"。
そう、教わってきた。
……他でもない、エリスの実父・ジェフリーに。
そして、その理念に間違いはないと、クレアは今でも思う。
しかし。
昨晩自ら語ったように、クレアは変わった。
たった一人の少女を……
エリスという女性を、どうしようもなく愛してしまった。
その存在が、国の命運や国民の安全よりも遥かに大事になってしまった。
だからもう、彼女を傷付けるような真似は、例え仕事の上でもしない。
彼女に対し不誠実になるような真似は、誰に命じられようが、他に誰が死のうが、絶対にしない。
もっと別の方法を駆使して情報を集めると、そう心に決めた。
だが、過去は変えられない。
仕事上、女性を騙したことがあるのは揺るぎない事実だ。
それを誤魔化そうとは、思わない。
クレアは、静かにエリスの隣に座ると、
「……何を、悩んでいるのですか?」
その横顔を覗き込み、言う。
「一人で考え込まないでください。私は、逃げも隠れもしません。気がかりなことがあるのなら、遠慮なく言ってください」
そう。もしかするとエリスは、遠慮しているのかもしれない。
仕事だから仕方ないと、そこは割り切るべきなのだと、自分に言い聞かせているのかもしれない。
その気持ちを思うだけで……胸が締め付けられる。
エリスが我慢する必要などない。
貴女以上に大切なものなど、ないのだから。
そんな想いで、クレアはエリスの肩を抱く。
自分の気持ちが、少しでも伝わるようにと。
エリスは、少し間を置いたのち……
その固く結ばれていた唇を開き、
「……どうしよう、って思って」
短く、呟く。
「……何がですか?」
クレアは、覚悟を決めて尋ねる。
この後何を聞かれても、ありのままを話そう。
彼女の不安がなくなるまで、何度だって「愛している」と言おう。
きっと……きっと、伝わるはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、クレアはエリスの言葉を待つ。
彼女は再び、ゆっくりと口を開き、
「……だって、あのツンツン男……普段あんなに愛想ないクセに、仕事のためならあんなことまでできちゃうんでしょ?」
やはり……気になっているのはそこか。
クレアは一度目を伏せ、「はい」とだけ答える。
「考えてみればそうよね。今までもずっとこの仕事をやってきて、騙し騙されが当たり前だったんだもの。あたしの認識が甘かった」
「…………」
「……ってことはさ。ってことはだよ? あの演技力でリンナエウスの領主の娘に近付かれたら…………あたしが『琥珀の雫』をいただく隙がなくなっちゃうかもしれなくない?」
うんうん。そうだよな。やっぱりそこが不安で………………って、
「………………え????」
クレアは目を丸くし、思わず聞き返す。
エリスが続けて、
「だって、使用人の身で堂々と高級ハチミツを食べるには、領主かその娘と仲良くなるしかないでしょ? 盗み食いするのはなんか嫌だし。でもあのツンツン男が領主の娘を口説き落としちゃったら、あたしが入り込む余地がなくなるじゃない。領主は領主で警戒心強いみたいだし……ほんともう、どうしようかなって」
はぁ……とため息をつきながら、思いつめたように言う。
クレアは……暫し沈黙したのち、
「……え? 悩んでいたのって、それですか?」
「うん。あいつ、思った以上に愛想よくできるみたいだから、今すっごく危機感を覚えてる」
「…………」
「ぶっちゃけあたしも領主の娘に男の子として近付いて、いいカンジになったところでハチミツ食べさせてもらおうと思っていたのよね。その機会をあの男に奪われないようにするためには、あたしがあいつ以上の『イイ男』になるしかないじゃない?」
「…………」
「でもさ、世間一般でいうところの『イイ男』っていうのがどんなのかわかんなくて。ほらあたし、クレアしか知らないから。もちろんクレアはあたしにとって最高に『イイ男』だけど……領主の娘がどういうタイプを好きなのかはわからないじゃない? だからさ、どんな男の子を演じればいいのかなぁって、悩んじゃって」
……と、真剣な面持ちで腕を組み、赤い瞳を天井に向ける。
予想の斜め上をいく返答に、クレアは……
……嗚呼、エリスを見くびっていたと、反省する。
目的のためなら、"使えるものはなんでも使う"。
エリス自身も、それをモットーに生きているのだ。
だから、仕事のために女性を騙すことに対し嫌悪感を抱くどころか……
自らも同じ手口で、ハチミツにありつこうと考えていた。
そうだ。エリシア・エヴァンシスカという少女は、いつだって食べたいものを口にすることだけを考えて生きている。
あらゆるものを巻き込み、利用しながら、ただひたすらに前を向いて突き進む。
自分や他人の過去にかまっている暇など、ないのだ。
……ていうか今、最高に『イイ男』って言った?
過去に疑念を持つどころか、そんな風に思ってくれていたとは……
まったく彼女は、たまに無意識でこういうセリフをブッ込んでくる。ノーガードなところを急に撃ち込まれるものだから、心臓がいくつあっても足りはしない。
クレアは一気に抜けた肩の力を、小さなため息に変えて、
「……すみませんでした」
「え? なにが?」
「いえ。こんなに悩ませるような状況にしてしまい、申し訳なく思いまして」
「別にクレアが謝ることじゃないでしょ。領主の屋敷に入れる状況を整えてくれただけでもありがたいんだから。それより、どう思う?」
「どう、とは」
「あたしの今後の方針よ。どういうタイプの男になればお嬢さまを口説き落とせるかな? 優しすぎてもチャンス逃しそうだし、かと言ってぐいぐい攻めすぎるのもどうかなってかんじだし……」
真面目に悩むエリスに、クレアはちゃんと答えねばと思い、少し考えてから、
「うーん。今の『美少年モード』も十分に魅力的ですが……」
「それはあんたが元の私を知ってるからでしょ?」
「確かにそうですね。普段のエリスを知っているからこそ、その違いにグッと来るというか……所謂『ギャップ萌え』と言うやつでしょうか」
「ぎゃっぷもえ?」
「普段はしそうにない言動を不意に見せられると思わず胸が高鳴ってしまうというもので、それに弱い女性は多いそうです。なので……領主の娘に対しても、時々強引に迫ってみるといいかもしれません」
「普段はしない言動と、強引さ……ね。なるほど。それって」
直後。
クレアは……ベッドに、仰向けに倒れていた。
エリスに、押し倒されたのだ。
彼女はクレアの身体に跨ると、彼の瞳を覗き込むように顔を寄せ、
「例えば…………こういうこと?」
……と。
例の『美少年モード』な声色で囁く。
それに、クレアはあからさまに動揺して、
「は……へ……な、なにを……」
「……どう? ドキドキする?」
エリスはふっと微笑み。
彼の耳に、唇を寄せて、
「こんな風に強引に迫ったら……女の子も落とせるかな」
「は、はひ……」
「ふふ、そっか。じゃあ、このまま……」
え…………
このまま、どうするの? どうされちゃうの?!
と、完全に乙女な心持ちで彼女の言葉を待つクレア。
エリスはそのまま、彼の耳元で…………
「…………どうすればいい?」
……などと、震える声で尋ねられ。
クレアは思わず「へ?」と声を上げる。
「だから……この後どうするのが正解なの?」
「どう、って……」
クレアが見上げると……
エリスは頬を赤く染め、困ったように目を細めて、
「…………ぎゃっぷもえ、むずい」
そう、呟いた。
思い切って押し倒したはいいが……最後の最後で羞恥心に負けたらしい。
クレアはもう、いろいろと堪らなくなって……
がばぁっ! と起き上がりながらエリスの身体を抱きしめ、
「そういうとこ!!!!」
叫んだ。
わけがわからず「何が?!」と聞き返すエリス。
クレアは抱きしめる腕にさらに力を込めて、
「あぁもう……貴女という人は、存在そのものがギャップ萌えみたいなものなのですから。そういうのやめてください」
「えっ、今ので正解なの? 効いてるの? よくわかんないけどやった! これで領主の娘を落とせるかも!」
「ダメです!!」
がしぃっ!
と、クレアはエリスの両肩を掴み、
「やはりこんな真似、たとえ女性相手であっても……してほしくありません」
「クレア……」
「もっと別の方法で近付きましょう。他にできることがあるはずです。私も出来る限りのお手伝いしますから……そういうのは、私だけにしてください」
言いながら、なんて小さい男だろうと自嘲する。
自分の過去を棚に上げ、彼女には同じことをさせたくないだなんて。
そんなクレアに、しかしエリスは、
「……それって、ヤキモチ?」
と、茶化すように尋ねる。
クレアは身体を離し、彼女の目を見つめて、
「……えぇ。そうですよ」
正直に、言った。
エリスは一瞬、目を見開いてから、
「……そっか。じゃあやめとく。別の作戦、考えるね」
そう、どこか嬉しそうに笑った。