17-3 秘められた原罪
※第三部8-3と9-3あたりをおさらいしていただけると、よりスムーズにお読みいただけるかもしれません。
劔を握った左手から。
エリスは、自分の中に"なにか"が流れ込んでくるのを感じた。
手のひらから侵入ってきたソレは、腕を通じて、胸のあたりに留まり……
まるで黒い雨雲を生み出すかのように、重くて暗い感情を心に降らす。
何もかもが憎い。
何もかもが悲しい。
何もかもが……虚しい。
本当は、そう思っているんだろう? と。
"なにか"が、問いかけてくる。
違う。そんなことはないと、振り払おうとするが……
心の奥底にしまっていたはずの感情が、無理矢理引きずり出される。
……そうだ、本当は。
食べても食べても、満たされないんだ。
心は、空っぽなまま。
いっぱいになったお腹も、すぐにまた空になる。
大切な人も……すぐに、いなくなる。
……なんで。
なんで、父さんは家に帰って来てくれなかったんだろう。
母さん、いつも寂しそうだった。
なんで、母さんは死んでしまったんだろう。
あたし一人で……どうやって生きていけばいいの?
……ひとり。そう、独りなんだ。
誰かがそばにいてくれるって、期待するから辛くなるんだ。
父さんを待っていた母さんも、母さんを失ったあたしも……
最初から独りだったら、寂しくもなかったのに。
だから、これからはもう、ずっと独りでいよう。
その方が、うんと楽だ。
空っぽな心を誤魔化すように、美味しいものを食べて。
お腹だけでも満たして、その日を生きよう。
寂しくなんかない。
寂しくなんか。
……ああ、そっか。
いっそ、あたし以外のニンゲンがいなくなれば。
"孤独"を感じることも、なくなるんじゃないか……?
そうだ。そうしよう。だって。
この世界にあたしだけなら、それはもう。
"ひとりぼっち"とは、言わないから。
──『風別ツ劔』を握ったエリスの手が、小刻みに震える。
見開かれた瞳に、涙が溜まってゆく。
狂おしい程の、破壊衝動。
嗚呼、駄目だ。まさか、これほど……
自分の中に、暗い感情があっただなんて。
劔から手を離したいのに、身体が動かない。
「助けて」と言いたいのに、声が出ない。
どうしよう、このままじゃ……
真っ黒な感情に、飲み込まれて…………
エリスの自我が、劔の呪いに食い尽くされる……
その、直前。
ジャラッ、という音と共に。
右手に、冷たい鎖の感覚。
そして。
……優しく握りしめる、温かい手のぬくもり。
それにハッとなって、隣を見上げると。
クレアが……微笑んでいた。
彼は、繋いだ手をぐいっと引いて、
「……言ったでしょう? もう、離さないと。それに……」
そっと、右手を伸ばし。
劔を握る彼女の手に、自分のを重ね、
「……なんでも半分こにする約束です。大きすぎて飲み込めないのなら……
私に、分けてください」
そう、言った。
ああ、そっか。
あたしはもう、独りじゃない。
独りにさせてもらえない。
一緒にご飯を食べてくれて。
なんでも半分こにしてくれて。
死ぬまで……ううん。死んでも一緒だと、そう言ってくれる……
貴方が、いるから。
「………………っ!」
エリスの心から、黒い感情が消えてゆく。
それどころか……呪いを振り払った彼女の意識の方が、劔に徐々に入り込んでゆき……
そして────
♦︎ ♦︎ ♦︎
────気付いたら、エリスは……
見知らぬ場所に、立っていた。
先ほどまでいた、シュプーフの口の中でも……ましてや、海の上ですらない。
そこは、緑の草と鮮やかな花々が続く、広大な草原だった。
「……ここは……?」
と、隣から声がして、初めて気がつく。
クレアも、手を繋いだまま一緒に立っていたのだ。
エリスはぱちくりと、まばたきを二回ほどして、
「………え? もしかして、あたしたち……………死んだ?」
「ああ、確かに天国っぽい場所ですね。よかった、死んだ後も一緒にいられましたね」
「よくなーいっ! あーん、まだまだ食べたい料理いっぱいあったのにぃっ!! こんなワケわかんない状況じゃ死に切れないわよーっ!!」
「そう言われてみれば……エリスとあんなコトやこんなコト、まだ何もやれていませんでした。結局あの下着姿も見ていないですし……いや、天国にも下着屋ってあるのかな。ちょっと探しに行きませんか?」
「行くかぁぁああっ!! だいたい、着たところ見せるなんて一言も言ってないか……ら……」
……そこで、エリスは言葉を止める。
何故なら。
……目の前を、羽の生えた小さな人間が。
ふわーっと、横切っていったから。
大きさは、エリスの手のひら程か。身体から淡い光を放ち、蝶のような羽を音もなく羽ばたかせながら……
そのまま、静かに飛び去っていった。
「……………なに、今の」
「さぁ。虫にしてはずいぶんと親近感のある見た目をしていましたが」
「……あ、誰か来た」
と、エリスは草原の向こうから一人の人間が近付いて来るのに気がつく。
若い男だった。動物の皮をつぎはぎしたような、見たこともない服装をしていた。
「あの、すみません。ここってどこで……」
と、エリスが声をかけるが……
男は見向きもせず、エリスたちの目の前を通り過ぎてしまった。
「………あれ?」
「すみませーん。ちょっとお尋ねしたいのですがー」
クレアも後ろから声をかけるが、男はやはり無反応。
二人が不思議そうにその行方を見つめると、彼は先ほど飛んで行った羽の生えた小人に向かって、
「リーナ、この薬草だ。刈り取るのに、風を借りてもいいかい?」
そう言った。すると小人は身体から強い光を放ち、その場でくるっと円を描くように回った。刹那……
──シュッ!
という音と共に、小さな"風の刃"が生まれ……
男が指さした草を、根元から刈り取った。
その光景に、エリスとクレアは驚愕する。
「い……今のって……」
「魔法……でしょうか……?」
「……ってことは、あの小人って…………精霊……?」
二人が目を瞬かせていると、男は踵を返し。
リーナと呼んだ小人と共に、元来た方へと戻って行こうとする。
「あっ、ちょっと待って!」
エリスが慌てて追いかけようとする……が。
その瞬間、周囲の景色が、ぐにゃりと歪んだ。
男も、小人も、草原も青空も、何もかもが混ざり合い、収縮してゆく。
「なに……これ……っ」
まともに見ていると酔ってしまいそうで、二人は思わず目を瞑り──
──そして、再び瞼を開けた時。
そこは……草原ではなく、森の中に変わっていた。
二人の眼前には十数人の人間がいて、談笑したり料理をしたりしている。木や草を組み合わせた小屋のようなものも見えるが……彼らの住まいなのだろうか。
周りには、先ほどの羽の生えた小人がたくさん飛び回っており……
その小人の力を借りて、人々は火を起こしたり、水を汲んだりしていた。
エリスとクレアが近付いてみても、やはり彼らに反応はない。"無視している"、というよりは"気付いていない"様子だった。
クレアはすぐ側で、風を生み出す小人と数人の子どもたちが戯れているのを眺めながら、
「やはり、我々のことは見えていないのでしょうか」
「うん……それにこの小人、ますます精霊っぽいわ。あの火も、水も……魔法を使った時と発現の仕方が同じだもの」
と、エリスが神妙な面持ちで言う。
その言葉に、クレアは考え込むように少し黙り込んでから、
「……エリス。もしかすると、ここは……貴女が以前話していた、『王との離別』よりも前の時代なのではありませんか?」
「え……?」
「服装といい、使っている道具といい……この方々の文化レベルは、私たちに比べてずいぶんと遅れているように見えます。あの羽の生えた小人が精霊なのであれば……ここは、かつて人と精霊が心を通わせていたという例の時代……なのではないでしょうか?」
そう言われ。
エリスは、あらためて目の前の光景を眺める。
それはまだ、人間が"精霊の王"に見放される前の時代。
人は今よりも自然に近い存在で、誰しもが精霊と心を通わせることができた。
……なんて、あくまでお伽話じみた伝承の一つだが……より自然に近い暮らしをしている人々が、肉眼で見える精霊らしきものと協力しながら生きているこの世界は……
「……確かに、伝承と同じね」
しかし、仮にそうだとして、一体何故自分たちがこの時代に来てしまったのだろうか…?
……と、そこで。
目の前の景色が、再びぐにゃぐにゃと歪み始める。
「もうっ、なんなのよコレ!?」
「次は何処に向かうんでしょうかねぇ」
エリスの苛立ち混じりの声に、クレアの緊張感のない声が続き──
──次に二人の瞳に映ったのは、神殿のような場所だった。
白い、石造りの建物の中。大きな柱に囲まれた広間のような場所に、数十人の人間がいた。皆一様に、白い布地の服を纏っている。
広間の先には階段があり、その上には玉座のようなものが置かれていた。
「また、別の場所ですね」
「それに……建物も服装のカンジも変わった。ちょっと文明が進んだみたい」
「つまり私たちは、古い時代から新しい時代へ徐々に移り変わっていく様を見ている、ということでしょうか」
そのクレアの言葉を聞き。
エリスは何かに気付いたようにハッと息を飲む。
「……ひょっとしてコレ、劔の……いや、"精霊の記憶"なんじゃ……」
「精霊の、記憶……?」
「そう。さっき劔の呪いを跳ね返した時、なんだかヘンな感覚になったの。劔の力に干渉するような……自分の"意識"が、劔に入り込んでいくような……」
「……なるほど。通りで身体の感覚が曖昧だと思いました。つまり私たちは今、"意識"だけでここにいるということですね」
「たぶんね。あたしもにおいを感じないから、不思議に思っていたの。ただ……何故かあんたの手の感触だけは、はっきりとわかる。本物の身体の方が手を繋いでいるからかしら 」
「ほら、やっぱり手錠をしておいて正解でした」
「てっ、手を繋ぐだけなら手錠はいらなかったでしょ?! ……とにかく。あたしたちは今、劔に封じられた精霊に意識レベルで干渉していて………」
ごくっ。と。
一度、彼女は喉を鳴らし、
「精霊が、どうしてこの劔に封じられたのか……その経緯を、見ているのよ」
……と、ちょうどその時。
神殿の入口から、一人の人物が歩いて来た。
すると広間にいた人々が一斉にそちらを振り返り、「巫女さま……!」「巫女さまがいらっしゃった!」と口々に言い始めた。
「……巫女さま……?」
エリスが首を傾げ、身を乗り出して眺める。と……
「……へ……?!」
その人物の姿を見るなり、エリスは素っ頓狂な声を上げた。
隣で、クレアも息を呑み……
「…………エリス……?」
そう、掠れた声で呟く。
何故なら、現れたその人物は……
……エリスと、同じ顔をしていたのだ。




