13-4 目には目を、歯には歯を
「あんた……自分が何言ってるかわかってんの?!」
チェロが思わず、声を荒らげる。
つまりクレアは……自分にも魔法による人体強化を施せと、そう言っているのだ。
しかし彼は、静かに頷き、
「魔法による人体強化が行われていた時代……最強と謳われていたのが、エドラによるものだったと聞いています。ヒトの脳は、無意識の内にその働きに制限をかけている。その運動機能を司る部分を電流で刺激し、リミッターを解除することで、身体能力を極限まで向上させる……それが、人体強化の真髄であったと。その方法を使えば、ジーファを上回る力とスピードを発揮することができるはずです」
「でも……そんなことしたら、アンタの身体にとてつもない負荷がかかるのよ?! 危険だわ! そもそもそんな繊細な施術、誰がするっていうのよ?!」
「もちろん、それは……エリス。お願いできますか?」
「え……?」
クレアの指名を受け、エリスは表情を強張らせる。
「エリスなら、きっと可能です。誰よりも精霊をコントロールできる貴女なら……」
「む、無理よ! あたしまだ、あいつの残り香で鼻が効かないし、もし失敗したら……クレア、死んじゃうかもしれないじゃない!!」
「それは困りますね。せめてジーファを倒してから死ななければ、危険を冒す意味がありません。だから……これを使うことにします」
言って。
クレアは、自身の服のポケットに手を入れ、あるものを取り出す。
それは……
エリスにもらった、あのハッカ飴だった。
「……初めての貰い物だったので、一生大事に取っておくつもりでしたが……これを舐めれば少しは感覚が戻って、成功率も上がりますよね?」
「そ、それはそうかもしれないけど……でも、成功したとしてもクレアの身体が……!!」
「……だったら」
クレアは、飴の包み紙を開けながら。
「……成功しても失敗しても死ぬかもしれない、というのなら……最期に一つだけ、我儘を言ってもいいでしょうか?」
そう言って、取り出した小さなその飴を……
自分の口の中に、放り投げた。
その思いがけない行動に、エリスとチェロの目が点になる。
「な……何してんのよ?! それ、一個しかないんでしょ?!」
「ええ、そうです。だから………」
クレアは、そっと。
エリスの両肩に手を置き。
「…………エリス。キスをしましょう」
「……………………え゛」
こんな状況下で、突然そんなことを言われ。
エリスの思考と身体が、固まる。
しかし、クレアはにこっと微笑んで。
彼女の返事を待たない内に。
その、半開きになった唇へ………
自分の唇を、重ねた。
──触れた瞬間、クレアは、途方も無い多幸感に包まれた。
嗚呼、エリスの唇。なんて柔らかくて、瑞々しい。
これほどまでに幸せな感触は、この世の何処を探したって他に無いだろう。
……本当は、こんな形でなんて不本意だったけれど。
自分でも死ぬかもしれないことが、わかっているから。
もう、これで最期かもしれないと思ったら……途端に我儘になってしまったのだ。
死ぬ前に、せめて……
……彼女の無垢な唇を、自分が奪ってやりたいと。
柔らかな感触を堪能した後。
彼は、唇をこじ開け……
エリスの口内に、舌を、ねじ込んだ。
彼女の肩が、ビクッと跳ねる。
そのまま深く差し込むと、奥の方で縮こまっている彼女の舌先に、僅かに触れる。
それを擽るように少し動かしてやると、エリスが「ん……っ!」と小さく声を漏らした。
その反応をもっと楽しみたいところだが……残念ながら、あまり時間がない。
クレアは、飴玉をエリスの口内に移し……
飴と彼女の舌を一緒に味わうように、くちゅくちゅと絡ませてから……
名残惜しそうな音を立てて、唇を離した。
「……………ごちそうさまでした」
顔を真っ赤にして硬直するエリスに。
クレアは、舌なめずりをして笑った。
……その横で。
「な……な……なぁ……ッ!!」
チェロが、鬼の形相を浮かべ、わなわなと震える。
そして。
「……ころす………殺してやるぅぅぅううっっ!!」
きゅぽんっ! とコルクを開け。
小瓶に封じた雷の精霊を、クレアに向けて放った!
「ちょっ、チェロ?!」
彼の脳天を目掛けて放たれたそれに、エリスは咄嗟に手を加える。
彼の脳を傷付けるのではなく、少し刺激する程度に留めようと、軌道修正を試みたのだ。
飴を含んだことで鼻が通り、チェロの魔法への介入はなんとか成功した。
……だが。
成功させた後で気がつく。
これこそが、クレアの狙いだったのだ。
こうでもしなければ、きっとチェロは自分に電撃を放たない。
そしてエリスも、咄嗟の状況でこそ集中力を発揮し……
こうして脳に程よい電気刺激を流してくれると、そう信じたのだ。
「……ぐ……っ」
直撃した電流に、クレアは身体を震わせながら。
脳天から背筋にかけて、鋭い痺れが走った後に……
………全身の感覚が、"覚醒"するのを感じた。
「く……クレア………?」
身体の震えが治まった彼に、エリスは心配そうに呼びかける。
……が、そのタイミングで。
「貴様ら………まとめて潰してくれる……!!」
ジーファの、怒りを孕んだ声が響く。
見れば、ジーファは既に両手をこちらに向け、巨大な風の塊を作り始めていた。
まずい。あんなのを喰らったら、全員吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる……!!
『…………!!』
エリスとチェロに、戦慄が走った………その直後。
──ドゴォォオンンッッ…!!
突然、向かい側の壁が、大きく陥没した。
硬い岩壁がひび割れた、その中心にいたのは………
……ジーファだった。
一瞬の出来事に状況が掴めず、困惑するエリスたちの目に映ったのは……
ジーファの正面で、右足を高く上げた……クレアの姿だった。
「い、今の……クレアがやったの……?」
「いつの間にあんなところに……」
エリスとチェロが、驚愕の声を上げる。
クレアが一瞬でジーファの目の前へと移動し、蹴りを叩き込んだのだ。
それも、"風の鎧"に負けないくらいに重く、鋭い蹴りを……
クレアも、自身が発揮した力の強大さに驚いていた。
視覚・嗅覚・聴覚……あらゆる感覚が、極限まで研ぎ澄まされている。
脳からの指令に、筋肉が、神経系が、その能力を惜しむことなく全力で、そして最短で応えてくれる。
疲労も、傷の痛みも感じない。
これが、禁忌の力……
恐ろしいくらいに強力だが……身体の方は、長くは持ちそうにない。
ここからは一気に、決着をつけなければ。
クレアの見据える先で、壁にめり込んだジーファがゆっくりと動き出す。
全身を覆う"風の鎧"によって衝撃が緩和されたのか、大きなダメージには至らなかったようだ。
いくらこちらの身体能力が向上したとしても、あの風に防がれては意味がない。
何か、武器を……風を貫き、ジーファの身体に直接ダメージを与えられるような武器を……
しかしそこらに転がっているオンボロ刀では、ジーファの風圧にもクレアの動きにもついてこられないだろう。
……と、クレアは視界の端に、あるものを見つける。
それは、先ほどエリスが作り出した失敗作……ヒトの背丈ほどもある、長大で重厚な剣だった。
彼はその柄を手に取ると……鉄板のようなそれを軽々と持ち上げ、肩に担ぐ。そして、
「……エリス。素晴らしい武器をありがとうございます。さっそく使わせていただきますね」
そう言って微笑み。
起き上がったジーファに向け、走り出した。
目にも留まらぬ速さでジーファの眼前に到達すると、クレアは"鉄の大剣"を横薙ぎに振るう。
ブォンッ! と空気を唸らせ、大剣がジーファの脇腹へと達する……が、その直前で、風を纏ったジーファの剣に弾かれた。
剣と剣がぶつかるその反動を利用して、ジーファは一度大きく後ろへ跳び、距離を取る。
しかしクレアがまたすぐに距離を詰め……激しい剣撃を繰り出した。
両者のパワーとスピードは、ほぼ互角だった。
しかし、技術と経験の差でクレアが僅かに上回り、徐々にジーファを押してゆく。
剣が振るわれる度、ぶつかり合う度、風が空気を裂き、猛獣の唸りのような音が空間に響き渡る。
ヒトの域を超えた壮絶なやり取りを前に……エリスたちは息を呑み、ただただ立ち尽くすのみであった。
激しい剣戟の末、両者の剣が重なり合ったまま止まる。
「くっ……!」
ジーファはクレアを押し返し、一度距離を取る。そしてすぐに剣を振るい、"風の刃"を放った。
クレアは剣を水平に構え、駆け出す。そのままジーファから放たれた風の塊を真っ二つに裂き、その間をすり抜けるようにして飛び込んでゆく───が。
「…………馬鹿め」
ニタッと、ジーファが笑った。
そして……風を纏った剣を、頭上に向けて思いっきり振り上げる。
放たれた風が渦を巻きながら上昇すると、厚い岩で覆われた天井を穿ち、大穴を開けた。
「…………!」
その、頭上に開いた穴からガラガラと大量の瓦礫が降り注ぎ……
ジーファに向かって駆けていたクレアの上に、容赦なく降り注いだ。
「く……クレアぁあっ!!」
エリスが叫ぶ。
しかしクレアは直撃を免れず……瓦礫の下敷きとなった。
「フッ……ハァーッハッハァ! 己の速さが仇となったな、マヌケめ!!」
ジーファの勝ち誇った笑い声が響き渡る。
クレアの埋もれた瓦礫の上に、天井の穴から雨が降り注ぎ……冷たい風が入り込んだ。
「そんな……」
エリスは力無く、その場にへたり込む。
チェロもブルーノも、倒れたままのシルフィーも、それを愕然と見つめた。
嘘だ……そんな……
クレアが……クレアが………
エリスの心が、真っ黒な絶望に塗り潰されそうになった…………
…………その時。
「……間抜けは、あなたの方ですよ」
────シュッ!!
と、瓦礫の下から何かが閃いた。
その一閃は、瓦礫を砕きながら……
ジーファの両目を、斬り裂いた。
「が……っ、あぁぁああぁああああっ!!」
手から剣を落とし、目を押さえるジーファ。
そこに……瓦礫の下から、クレアが姿を現す。
「いやぁ、やっとその目を潰すことができました。これで、思い残すことはありません。エリス」
彼の無事に、瞳を潤ませ驚く彼女に。
「──空気の入れ替え、完了しました。とびきりキツいヤツ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
なんて、いつものように微笑みかけるので。
エリスも………ニヤリと笑って。
「…………まかせなさい♡」
ガリッ!!
と、奥歯で飴を噛み砕き。
新鮮な空気を、胸いっぱいに吸い込む。
そして。
「───雷の精霊・エドラ!!
我が呼びかけに応え、此処に轟け!!!」
天井の穴から、雷雨の吹き荒ぶ山に響き渡る程の大声で。
そう、叫んだ。
刹那。
───ゴゴゴゴゴゴ……
……という、地鳴りのような音がした後。
───バリバリバリ……ドォォオオオンンン!!
激しく明滅する光の帯が、ジーファの身体に直撃した!
稲妻だ。エリスが生み出した稲妻が大気を切り裂きながら、天井の穴から降り注いだのだ。
目が眩むような猛烈な電撃が、地面を、空気を、そしてジーファの身体を振動させる。
その白い光の中を、クレアはジーファ目掛けて駆け抜け……
その身体に、強烈な一太刀を浴びせた。
"風の鎧"の向こうで、真っ赤な鮮血がほとばしる。
稲妻の明滅が収まると同時に、ジーファを取り巻いていた風が解けるように消え……
「…………………」
ゆらり、と一度大きく揺れてから。
ジーファは……遂に、倒れた。
「………やった……のか……?」
ブルーノが、震える声で呟く。
チェロとシルフィーも、目を覆っていた手を下ろし、倒れたジーファを見つめる。
エリスは笑顔を浮かべて、クレアの元へと駆け出す。
……が。
「………………」
クレアは、エリスの方を見て、静かに微笑むと。
ふ…っ、と意識を失い………
その場へ、倒れ込んだ。
「……クレア? クレアぁっ!!」
身体を抱き起こし、エリスが呼びかけるが……
クレアの瞳は、閉じられたままだった──