事件発生
「今の自分に必要なのは、理性や自制心とか後ろめたさや社会的正義等ではなく、純粋にお金なのだ」と隆は考えていた。自分にはてっとり早く大金が必要なのだ。あくせく働いて僅かな稼ぎを手にしたとしても銀行を経由するだけで残高は目減りはするし、税金は容赦なく取り立てられるし、物価も決して安くない。この貧乏サイクルから抜け出るにはドカンとお金が必要なんだ。
では、お金は何処にある?知れた事だ。お金はお金持ちが持っている。そう、自分のような貧乏人から巻き上げた小銭を胡散臭い投資で何倍にも膨らませた『お金』がな・・・。自分がしようとしている事は、そのお金を『元の処』に戻して貰おうってだけなのさ。ま、少々やり方は乱暴かもしれんが・・・
隆の運転するワンボックス車は高級住宅街をソロソロと入り込み、目指す高槻家のある辻に出た。
-ゴクッ・・・
隆は唾を呑み込んだ。
『自分が犯罪者になる』という意識が無いワケじゃぁない。“今からなら引き返せる、やめておけ”という声が心の中でしたような気がした。しかし、“今さら引き返せるか、お前ならできる”という別の声が隆の中で大勢を占めた。
隆の車は目印にしていたツツジの生垣に沿ってそぉっと停車した。手早く脱出するためにエンジンは掛けたままだ。車の外装は一見すると宅配業者のように見える様に偽装がしてある。と、言っても水性塗料で誤魔化してあるだけだが。
門柱の呼び鈴を押すと、ピンポーンという軽い音がした。そして、やや間があってからインターホンから「どなたですか?」という“男の子の”声が聞こえた。
やはり、と隆は思った。今日は金曜日で時間は15時。この家に住み込んでいるお手伝いの婆さんは近所のスーパーのタイムサービスに合わせて買い物に出ているハズ。母親は踊りのお稽古とかで、14時に家を出て夕方にしか帰宅しない。車庫にベンツが残っているので、旦那は出張中・・。下調べに1年も掛けたのだ、外す筈がないのだ。
「・・宅急便ッス。荷物を受け取ってください。」
隆は何食わぬ素振りでインターホンに答えた。
はーい、という声がして、玄関が開いた。そして“ターゲット”が何も知らずに隆の前に現れた・・・。
後の証言によると、住み込みのお手伝いをしているハルが高槻の家に戻ったのは14時50分頃との事だった。門が不自然に開いているので妙だな、と思ったという。ぼっちゃんが遊びに行ったのなら、ちゃんと閉めていかれるのに・・。首をかしげながら何気無く郵便受けを覗くと、何かしら紙が折りたたんで入っているのが見えたそうだ。
「まったく・・借金か宅配ピザのチラシかしらね・・・」
ひょい、とそれを取り出し、中を見て、ハルは気絶しそうになる位に驚いた。
「ひ・・・・ひぇぇぇぇぇ!え、えらいことになったぁぁ!!」
膝はガクガクとし、思わずその場にへたり込んだ。
「た、大変、大変・・兎に角お、奥様にれ、連絡を・・・」
ハルはバタバタと走りながら家の電話機に向かった。
“奥様”の恵美子はその頃、デパートの宝石売り場に居た。口上の上手い馴染みの店員と談笑をしていたのだ。お稽古、など別邸に鎮座ましている姑がうるさいので“仕方なく”行っているフリをしているだけだ。従って、そんな楽しみの最中に電話を掛けてこられるなど無粋の極みに他ならなかったが、“自宅”という表示が引っ掛かって出ることにした。
「・・はい。・・あぁ、ハルさんね。どうしたの?そんなに慌てて・・後でもいいかしら?今、ちょっと・・」
電話を切りかけた手が止まった。
「・・・えっ?何?よく聞こえなかったわ!もう一度言って!光一がどうしたって!」
恵美子は電話を切ると大急ぎで駐車場に向かった。他人に聞かれないようにして夫である修三に、この緊急事態を伝えなければならなかった。
修三はそのとき、オーストラリアに居た。恵美子からの電話を最初は何かの冗談か、光一自身の悪戯かとも思ったが、後から連絡を取ったハルの狼狽ぶりと脅迫文の内容から、本当にそれが誘拐であることが、飲み込めた。
「・・うんうん、それでもう一度文書を読んでくれるかい?・・何々・・“息子さんは預かった。無事に帰宅することを望むのであれば、警察には通報せず、こちらの要求を呑むこと、と書いてある、うん判った。それで?・・1つ、48時間以内に電子メールが使用できる携帯を用意し、下に書いてあるアドレスに用意が出来た旨を連絡すること・・2つ、身代金として・・・1億円を用意すること・・か。それで、その他には何か書いてあるかい?無いか、判った。とにかく、恵美子にもよく言ってすぐに警察に連絡するんだ。身代金1億くらいは光一の身の安全を思えば安いものだが、無事に帰ってくるという保障もないからな。とりあえず私はこれからすぐに帰国する手続きをとるから、頼むよ。」
・・・大変なことになったと修三は思った。しかし、一瞬間を置いて修三は考えなおした。
いや、・・・だが、待てよ・・不謹慎かもしれないが、これは上手くすると・・
とりあえず、彼は身の回りの物をスーツケースに詰め込む作業を開始した。
フライトを考えれば、思考を巡らせる時間は充分にある。
この時間は有効に使わなければ・・・。
堂上警部が被害者宅である高槻家に入ったのはその日の3時過ぎだった。犯人がまだ周辺をウロウロしているとは考え難いが、“警察には言うな”と言われている以上、目立った動きはできない。とりあえず堂上と部下の小阪の2人で家に上がった。
「・・この度は、どうも・・・大変な事になりまして・・・県警の堂上です。」
マズッたな・・これじゃぁまるで弔問客の挨拶だな、と堂上は少し反省して頭を掻いた。
「ん、んん・・これが、その脅迫状ですか・・いや、お茶などはお構いなく。これは後で鑑定に廻しますので、このままお預かりします。faxはありますか?じゃ、すいませんが、コレ、先に本庁へお願いできますか?すいません。お手間をかけます。ところで、旦那さんは?・・あぁ・・ご出張で、それで、どちらへ?・・へえ、オーストラリアですか、凄いですなぁ。私なんぞは新婚旅行でさえ、国内旅行でしたが・・。いや、失礼。それで、その後犯人からは何か言ってきましたか?・・何もない、ですか、判りました。とりあえず電話は携帯も含めて全ての会話は確認させて頂きます。よろしいですね?プライベートもあろうかと思いますが事が事ですので、どうぞご勘弁を・・。それと捜査は非公開で行いますので、何処からかお尋ねがあっても・・学校とか塾から、という意味ですが・・適当に誤魔化しておいてください。宜しくお願いします。」
それだけ言うと堂上はソファーに腰を下ろし、ゆったりとタバコに火を点けた。
本当にこの人は事の重大性を理解しているのかしら?恵美子は妙に呑気な警部を見て思った。子供が誘拐されてるのよ?ヘタすれば殺されるかもしれないって言うのに・・。
「・・fax?・・あぁ、すいませんね。有難うございます。・・小阪クン、すまんがコレ、鑑識に持ってていれる?奥さんとお手伝いさんの分の指紋はさっき、採ったよね?・・じゃ、いい。よろしく頼むよ。何かあったら携帯に連絡をくれ。」
堂上は部下を送り出すと、ハルの方へ体を向けた。
「・・え・・っとお手伝いをなさってる、という・・」
「・・私は高宮ハルと言います。」
「あぁ、そう。ハルさんね。状況をもう一度最初から教えて貰えますか?頭の中で整理したいもので・・」