花守
小山田に花を愛でる習性はない。だからその花園の前で足を止めたのは感傷ではなかった。校舎の裏側にさて、こんな花を育てる場所はあっただろうかと記憶を探ったためだ。現在高校教師をしている小山田は数年前母校であるこの高校に赴任したが自分が学んでいたころもこんな場所はあったのだろうか。
そこは突如として現れたように思えた。駐車場に向かうために毎日校舎の裏を通っていたはずだった。昨日はそこに花は有ったろうか、一昨日は、その前は。ここ数日はテスト問題を作るのに忙しかったから気が付かなかったのだろう。小山田は長時間パソコンと向かい合っていたために疲れ果てた目頭をもんだ。
「きれいでしょう。」
小山田はびくりと肩を緊張させた。花壇の脇から男が現れる。薄暗闇の中で男の目だけが光っていて心臓を掴まれた気分になる。
「ど、どちらさまで。」
一度も見かけたことのない男だった。年恰好から見ると明らかに生徒ではない。しかし父兄にしては若すぎる。不審者だったら追い出さねばならない、小山田は声を振り絞った。
「『園芸部』の外部指導者です。」
男が近付いてくる。背が高い。
「イノウエ種屋の藤尾と申します。」
確かに学校のすぐ近くにはイノウエ種屋という古びた店があった。とっくに営業を辞めているのかと思ったらお客が入っているときもあり、生計が成り立っているのかも怪しい。
「イノウエさんではないんですね。」
非日常のためか思いついた言葉がそのまま口を出た。男の口の端がゆがむ、笑ったのか。
「よく言われます。イノウエは雇い主の姓で。」
男は禿頭に近い短髪で服装は作業着だった。背は高いが肉はあまりなさそうで、少しせをかがめて小山田を見る。目が危うい、と思った。焦点が合っていないのだろうか、小山田を見ているのに見ていない。目に溜まる水分も人より多い気がした。水の膜がぎりぎりまで張っている。つついたら零れ落ちるだろう。
「先生、花は好きですか。」
藤尾は生徒のようにせんせいと発音した。最初は気にならなったが慣れてみると話し方がずいぶん遅い。落ち着きがあると言えば聞こえがいいが小山田はふと昔テレビで見た中毒者の喋り方を思い出した。
「嫌いではありませんが。」
この男の前に出ると正直になるしかなかった。けして嫌いではないが好きとも言えない。藤尾の顔に反応はなく、声が届いていないのだろうかと不安になる。ただぼやぼやと小山田の顔の辺りとその背景を行き来する目があるだけだった。
ふいに男は小山田に背を向け庭にかがみこむ。咲いている花はなんという名前なのか、それすらもわからない。名前も知らない花が暗闇に揺れている。
「どうぞ。」
振り向いた藤尾は手に薄紫の花が有った。
「ありがとう。」
なぜ初対面の男に花を渡すのか、そしてまた自分も何故違和感なくそれを受け取るのか。手の中の花を見る、切り取られたそれは未だ生きていて切り口が生々しい。生き物を上手く愛することができない小山田に花は重かった。
「生け花にしてやってください。」
きっとすぐに枯らしてしまう。きっとすぐにしおれてしまう。そう思ったが喉に何かが詰まって言葉が出ない。殺風景な自分のアパートに男からもらった花一輪、これはいったい何なのだ。
「では。」
お互いに頭を下げて去る。足早になったのは振り向けばまだ藤尾がこちらを見ているというだろうという奇妙な確信のせいだ。茫洋とした顔立ちや表情のなかで人の心を揺さぶるあの目が私を追っている。車に乗り込んだときには息が上がっていた。せんせい、と小山田を呼んだ声が覆いかぶさって来る。
「藤尾さん?ちょっと怖いけどイケメンだよね。」
「静かだよ、親切だけど。」
「あんまり話したことないからなぁ・・・。」
園芸部の生徒にそれとなく話を聞いてみると部員からはそれなりに好感をもたれていると知った。女生徒のほうが藤尾のことを好いている気がする。あの危うい感じには子供の方が敏感かと思ったがそうでもないのかもしれない。
小山田は藤尾に会った次の日から花壇を通らず駐車場に向かう。少し遠回りだがあの目を思うと足がすくんだ。この感情が嫌悪ではないということを小山田は知っていたしそれが一番の問題であることも自覚があった。
あの水を湛えた目にもう一度会うのが怖い。藤尾に見つめられると小山田はなにかしでかしてしまいそうな気になった。例えば、彼の眼球を舐める、花を突き刺す・・・。一介の高校教師として茫洋と安寧と過ごしていた自分の内面に気が付きたくなかった感情があることを藤尾には悟られている、そんな気がした。
「せんせい。」
花が枯れた。だからまた花壇の前を通ったのだ、ただそれだけだ。前と同じように藤尾はそこにいてひっそりと花壇を眺めていた。
「藤尾さん、花が。」
彼は頷いた。再び花壇に入って行こうとする彼を呼び止める。
「育てられないよ。本当はもっと長く生きるはずだったものを僕は。」
忙しさにかまけて水を変えることをしなかった。瓶に刺しておいただけだった。目をやることもしなかったかもしれない。焦点の合わない目がこちらを向いた。
「あなたの家に花があると想像しただけで私はうれしい。」
言葉が耳から脳に入ってやっと意味を成した。返事はできなかった、ここで何か言ったら終わりなのだ。動悸がする。藤尾さん、とかすれた声が喉から発せられた。




