鈴木の証明
私が「鈴木」である意味はなんだろうと自問し、私は車窓の外を流れる景色を眺めた。
長閑な田舎風景、時折蜜柑の木が並ぶ果樹園が広がる。建物の高さは皆低いが、古いものと新しいものが混在し、ちぐはぐな印象を覚えた。
ポケットの中からオレンジ色の切符を取り出す。目的地の駅まで、あと一駅。鼻の詰まった車掌の声が駅名を告げる。キュロットの裾を握りしめ、緩やかに減速する電車の揺れに身を任せた。
私の名は鈴木。全国苗字人口ランキング二位の「鈴木」だ。
分かりやすい苗字のおかげで、初対面の人でもすぐに私の名を覚えてくれた。
だが──私が私であることを、誰が心に留めていてくれてただろうか。
「あぁ、鈴木さん。えぇっと、どちらの鈴木さんだっけ?」
「一位の佐藤さんには負けるよね~」
そう言われ続けて二十年。私のアイデンティティは崩壊しつつあった。私が私で在る意味を探し、一ヶ月の間、全国を彷徨った。
どうして私は鈴木なの。鈴木って、何なの……?
ふらふらと何かに導かれるように、私はある場所を目指した。それがここ──和歌山県海南市だ。
駅に降り立ち、改札を抜ける。平日の真っ昼間ということもあり、利用客はほとんどいない。空気を胸いっぱいに吸い込み、細く吐き出した。温暖な気候が自然と心を穏やかにする。
言い様のない懐かしさを感じる。この感じは何なのだろう。
「お嬢さん、どうしたんや? 道に迷ったんか?」
不意に声をかけられ、私はハッと顔を上げた。駅前で杖をついて歩いていた老婆が、突っ立ったままの私を心配して声をかけてくれたのだ。
「あ、いえ、あの……」
何と答えればよいのだろう。全国を放浪し、何となくここにやって来たとも言えず、私は狼狽える。そんな私の様子を見た老婆は、何故か得心がいったといった表情で頷いた。
「あぁ、もしかして、あんた、鈴木さんか?」
「そう、ですけど……どうして私の名を?」
「たまになぁ、おるんやで。あんたみたいな顔をした人がな。追い詰められて、どうにもできやん、っていう顔や」
老婆の言葉の意味を図りかね、私は首を傾げた。
「それが一体……」
電車を降りた客はすでに各々の目的地へ向かい、散り散りになってしまっていた。ここにいるのは、私と老婆の二人。あとは、黄色いタクシーの車中に運転手、そして駅舎に戻っていく駅員の後ろ姿。
「もうすぐバスが来るで。藤白ってバス停で降りたらええわ」
はよぅ行け、と老婆は片手で私を促した。ちょうどバスがやって来たところだ。私は慌てて頭を下げ、小走りにバスへと乗り込んだ。
柔らかな風がバスの窓の隙間から流れ込む。青い柑橘の香りがするのは気のせいだろうか。視界に入った未熟な蜜柑の輪郭がそう思わせているだけかもしれない。
運賃表の表示が変わる。「次は、藤白、藤白です」と平坦な口調の機械音声。運賃メーターの数字がピッと値段をはね上げる。降車ボタンを押した後、私は釣銭の出ないよう、千円札を両替した。
ここに一体何があるというのだろうか。老婆の言葉を疑いながら、しかし心の片隅でもう一人の私が「ここだ」と小さく叫ぶ。
藤白でバスを降りたのは私一人だ。バスの後ろ姿を見送り、半ば途方に暮れていた。兎に角前へ進まねば、と当てもなく道路沿いを歩き、高架下をくぐる。自我のあずかり知らぬところで脳が体に指令を出し、足を動かしていた。
少しずつ視界における緑の割合が増していく。すると私の目に、ある看板の文字が飛び込んできた。
「鈴木、屋敷……?」
看板には黒く太い文字でそう記されている。さらに赤い矢印で屋敷への方角と距離が示されていた。
胸が、ドクンと高鳴る。旅が終わりを告げようとしている──そんな予感がした。
私は縋るような心持ちで屋敷へ向かった。屋敷まではほんの二、三分で到着した。しかし、その僅かな時間は私にとって恒久に思えた。
「あ……っ」
突如、視界が広がった。苔蒸した地面、どこからか聞こえる微かな水音。けれども、そこには何もなかった。
屋敷は跡形もない。私は力無く膝をつき、地面に手をついた──その瞬間。
「頭が……!」
地面に触れた指先から、熱い血潮の如き奔流が流れ込む。それは私の体内を巡り、脳に達し、海馬に直接訴えかけた。私の奥底、古来の記憶が呼び起こされる。恐ろしい圧力で迫る記憶が私を飲み込む。
穂積の中心に一本、天を目指すように伸びた「聖木」──神官として熊野を見守る一族の末裔。
眩い光が目を射抜く錯覚に襲われ、私はパッと地面から手を離した。
「今のは一体……」
「鈴木の記憶や」
背後から聞き覚えのある声がした。
「あなたは、駅のお婆さん……」
「あんたみたいにな、心に迷いを持った何人もの鈴木が来るんや。ここは鈴木発祥の地や」
黄ばんだ前歯を見せ、老婆は清々しく笑う。
「これ、大したもんとちゃうけど。持っていきぃ」
皺くちゃの手から手渡されたのは黒い御守袋。
「え、でも……」
「全然気にせんでええて。あんたに持っといて欲しいんよ。これな、藤白神社の鈴木家の御守や。きっとあんたを守ってくれるさけ」
老婆は私の側に跪き、ポンと肩に手を置いた。
「なぁ、ここにはあがら鈴木にとって大事な何かがある……そう思わんか」
目を閉じる老婆に合わせ、私も瞼を下ろした。
満ちているのは言葉ではなく、音でもない。私という輪郭が解け、溶けていくような、陶酔にも似た感覚。
不意に私が収束する。空っぽの体に満たされたのは、鈴木の証明。
「あれ、お婆さん……?」
目を開けると、老婆の姿はなかった。残されていたのは手の中の御守袋だけ。
彼女は一体誰だったのだろう。もしかして──いや、想像するのはやめておこう。彼女もまた鈴木だった。それでいい。
私は御守袋をぐっと握りしめ、鈴木らしくあろうと、力強く天を仰いだ。
※鈴木姓の由来については諸説あります。