殴るキューピッド
船で引っ掛けていたのか、おれのシャツの裾が破れているのに気が付いて、葵は短く呪文を唱え、それをあっという間に繕った。
濡れ髪もそのままの慌ただしさで、枕ばかりか布団の一式を持ち込んでおれたちを驚かせたパジャマ姿のなずなは、おれもここで寝るつもりでいることを念押ししても、人を見る目には自信があると言うばかりで、すぐに無防備に横になっていた。
「裁縫魔法なんてあったんですね。私、初めて見ました」
「案外難しいのよ。糸を頑丈に作るのも、皺が寄らないように縫うのも、けっこう神経使うんだから」
えへんと鼻を鳴らしている魔法使いは、なずなの素直な感心に興が乗って付け加えた。
「この部分だけは、もう魔物が両端を持って綱引きしたって裂けないわよ。他のところが裂けるけど」
そこまで頑丈にする必要はないはずだが、それが本当なら、装備にかけられる金を持ち合わせていないうちは、最悪、頼み込んで、鎖かたびら代わりに服でも織ってもらってもいいかもしれない。
「なずなはこの街じゃなくて、どこの生まれなんだ? 親御さんとか、心配しないのか?」
「始まりの山村です。何にもない片田舎で、つまらないから出てきちゃいました」
そう遠くない村だから、両親もさほど心配させていないという。
葵がさてと立ち上がると、
「お風呂、先に入っちゃうわよ」
「どうぞ」
「あれ、ちょっと待って」
葵は向きもしない考え事をしている顔でおれを見、なずなを見て、
「ハルちゃん、私が上がるまで外にいる?」
「なんでだよ、今更お前の風呂なんか覗かないぞ」
「私じゃなくて」
「おい、なずな、人を見る目には自信があるんじゃなかったのか」
「それでも二人きりはちょっと。それに、春太さんはよく見るといちばん目つきがいやらしいので、念のため」
「いちばんって、何の中でだよ!」
言い切る前に戸を閉められてしまったが、財布もないのではどうしようもない。ロビーに下りると、討伐兵向けのものだろうか、ベタベタとあちこちに貼り紙がされている。その中に、祭の文字が見えたので覗いてみると、豊穣を願う祭のようだ。しかし、ゴーレム祭という名前がどうにも物騒である。その隣には、宿のキャンペーン情報に、街の全体図。この宿は中心よりも少し東に位置することが示されている。
いつまでもあると思うな……という言葉もある。明日は討伐依頼を受けてみようと心に決めて、迎えが来るまでそこでソファに腰掛けて待つことにした。
午前中から酒場が営業している点では、島と事情は同じであった。
昨夜は渋っていたはずの葵が、痺れを切らしておれを叩き起こした時、葵はいつもの二つ結びに、黒いニットのコートを着込んでいたし、なずなはすでに宿を出ていた。肥料の類を買い足しに行ったのだという。熱心なことだ。
「ハルちゃんハルちゃん、これなんかどう。モグラ族を遺跡岩から保護して欲しいんだって」
「モグラ族? 遺跡岩ってなんだ?」
「知らないわ。でも、報酬は週に四十万!」
「知らないわ、じゃないだろ」
報酬自体には確かに夢があるものが多いので、おれだって葵のようにキャイキャイ言いながら見比べたい気持ちもある。それでも自分を抑えて見つけた報酬四万円の依頼書には、ボクサートレント討伐とある。
「葵、これにしよう。ボクサートレント」
「なによ、ボクサートレントって」
「うちの両親のキューピッドだよ」
葵がレベルカードを見せると、おれには見せたことのない笑顔で、守衛はどうぞと言う。
「後ろの方は」
「農家です。外に畑がありまして」
ふうんとおれのカードを掠め取って、斜めに見るや、半ば投げるようにして返すので、腹が立つ前に驚いた。
少し覗いてみたが、なずなは畑の方に顔を出している様子はなかった。昨夜の光源がそのままだったのだ。放っておけば、一体いつまで光り続けたものかわからないので、布でも被せておこうとしたが、それは本当にただの光で、おれの上着などすり抜けてしまったのでうっちゃっておいた。
「この林だよな」
街の東部に広がる雑木林の一角に、ボクサートレントが紛れ込んでしまったので討伐せよとの依頼だが、地図が示していたのは林の位置までで、ボクサートレントがどの辺りで目撃されているのか、何の記載もない。
「ねえ、私は何したらいいの。何にも出来ないわよ」
「何言ってるんだ、お前は初陣のくせに、レッサークラーケンを単騎で撃退した討伐兵だろ。期待してるよ」
「唐辛子が効くとは思えないんだけど……」
武器はもうひとつあっただろうに。
林に一歩踏み入ると、そこから空気が一気に冷え込む。当然といえば当然だが、それでも生唾を飲んだ。
「ハルちゃん、もう少し人を呼ばない? あと五、六人いれば心強いと思うの」
「半日命張って取り分が五千円なんて、やってられるか!」
「四万円ならいいの?」
「………」
踏みしめるたびに肝を冷やすほど足が沈み込む土は、一体どれほど肥沃なのか、そこいら中から新芽をほとばしらせて、ほとんど緑色と言っていい。
二十四年前に親父をボロ雑巾のようにしたボクサートレントは、タイルから生えていて尚、多少非力な程度の成人男性を相手取って、抵抗のひとつも許さなかったというのだから、この土壌を見るとさすがに震える。
魔物を討伐しようとしているのだ。都合よくまともに戦えるミスティックが現れることなど、今回は起こり得ない。捕まったら終わりと考えておくべきだろう。
「葵、今回は様子見だ。相手がどういう動きをするのか、よく観察するだけ。速さがなければそこを突くし、硬さがなければそこを突く。いずれにしても、一旦街に戻って作戦を練ってからだぞ。どうにもならない様子なら、素直にあきらめよう」
うんうんと頷きながらも、足元から目を離さないのは、生来の大股で歩くおれに置いていかれまいとしているのだとわかった。頼みの綱のミスティックがどうも頼りない。もちろん、もともと家事魔法しか使えないのだから、ほとんどただの少女だ。
ずるり。
何かを引きずる音がする。葵を見ると、カッと目を見開いている。それは忘れもしない、船で見た顔であった。どちらも逃げろと言うことすら忘れて、競うように駆け出したとき、周辺の木々が突然大きな音を立て、木の葉を舞わせて揺れ動く。
「出た! 魔物だ!」
根の張り出しているものを飛び越え、枝の低いのをくぐりながら、脇目もふらず逃げに逃げるが、足を取られて思うように進まない。やたらと足の速い葵の背中が、少しずつ小さくなっていく。靴の先で何か引っ掻いたような気がする。単なる木の根かそうでないのか、確かめる余裕も度胸もない。三度目に「単なる」木の根ではないと確信して、胃の底を冷やしながら、すくみそうになる足に鞭を打つ。
「バルぢゃあん!」
葵の視界を想像する。そんな状態でよくもまあこうも速く走れたものだ。
林を出れば魔物が追って来ないとも限らないが、今はそう信じて軟らかな地面を蹴る。明かりだ。外はもうすぐなのだ。葵はもう大丈夫だろう。絡め取られるのを恐れて、無闇に一歩ごとに膝を高く振り上げていると、段々足が上がらなくなる。葵が林を抜けたのを見たとき、とうとう左足がつかまって、おれは前方に飛び込むようにして倒れた。
何か叫ぶ声が聞こえる。想像を超える強い力に、思わず涙が出た。引き寄せられてサンドバッグにされては、生きていられまい。仮に生きて戻っても、街を歩ける顔のままでいられるとは思われない。手近な幹に縋りついて、引かれる足を振り回すが、ツタが離れる気配はない。
「アア、葵! 斧! 斧!」
前後不覚で叫ぶと同時に、なぜか足が自由を取り戻したので、一目散に林を抜ける。やはり開けた場所まで追って来るつもりはないのか、恨めしそうに林の奥へ帰っていく魔物のツタの先を見送った。
葵は息が切れて何も言葉にならない様子で、ただ、おれの上着の肩の縫い目を強く握った。
「な、何か、したのか、葵……、ツタ、足……」
「魔法……。包丁、野菜……、切るときの……」
林を抜ければ安全というわけではない。おれたちはひどく消耗しながらも、這うようにして街に帰った。
「仲間を増やそう」
「だから言ったじゃない」
泥だらけのまま、酒場になだれ込んで、ハンバーグの届くのを待つ。贅沢には違いないが、今、草っぽいものを食べる気にはならなかった。
「出来ればバイタルがいいな。壁や囮になってくれる人がいい」
「それはそうだけど、ねえ、まだやるつもりなの」
当然だ。おれにも意地はある。
「本当にユニークのやる仕事じゃないわよ。ハルちゃん、死んじゃうところだったのに」
真に迫る言い方はよして欲しいところだが、それは葵だってそうなのだから、巻き込んだ手前、強くは言えまい。しかし、だからこそ、妥協点として仲間を探そうというのではないか。
「こんにちは」
振り返ると、振袖に身を纏った何かが、両手に大きな麻袋を抱いて立っていた。その向こうに隠れて顔は見えないが、この幼い声と振袖姿である。
「それが肥料か」
「はい」
それじゃあと行き過ぎようとするのを呼び止めて、同席しないのか尋ねると、顔を隠したまま寄ってくる。
おれの隣に落とすようにして袋を下ろす。その重さはそれだけでじゅうぶんに伝わった。
耳の上の髪留めを外して、額に張り付いた髪を指先ですいてから戻すのに、なずなは鏡も見ない。
「重かったあ」
「言ってくれれば手伝ったのに」
なずなは一拍の間をおいて、慌てて首を振った。
「農家ですから、私、力持ちなんです」
力こぶを作ってみせようとしたのだろうが、袖口が落ちて、か細い腕の肘から先が見えるだけだ。それから、そのままの姿勢で、
「それにしても……」
一通り払ったものの、髪の中や服の隙間に入り込んだ土はなかなか落ちない。おれの方は肘や膝を破いて擦りむいているから、奇異に映るのも仕方がなかった。
「討伐依頼を受けたんだけど、さっきキャンセルしてきたよ」
「はあ、キャンセルですか」
「多勢に無勢だ。あとひとりかふたり仲間を見つけないとどうにもならないな」
「すごいです。そんなに難しい依頼を受けたんですか」
なずなが店員を呼び止めて野菜炒めを頼もうとするが、後生だから、差額は出すからと肉に変更させた。
届いたハンバーグの大きさが違うからとじゃんけんを求める葵に負けじと、大きい方に胡椒をこれでもかと振りかけたとき、なずなが何事か秘めていたものをほとばしらせる顔で「春太さん」と言う。
「私にもお手伝いできること、ありますか?」
「ないな。ユニークには」
白目を剥いて固まったのが何秒ほどだったか、息を吹き返したようにおれの上着の袖に縋り付く。
「そこを何とかお願いします!」
「な、なんだよ。簡単に言うけど、討伐ってめちゃくちゃ危ないんだぞ」
「そうよ、なずな。さっきだって、もう少しでハルちゃん、顔の大きさが二倍になるところだったんだから」
「お金が」
なずなの両手に力がこもる。
「お金がないんです!」
「お前な……」
「私、本当にお金がないんです!」
どうしてそんなに困窮するのか、訳を尋ねると、少し口ごもって照れたように笑う。
「着物ってどれも高くて……、でも、かわいいじゃないですか。だから、つい……」
「他を当たってくれ」
胡椒をかけ過ぎて食えたものではないハンバーグを食べかけたまま席を立とうとすると、長椅子を跨ごうとした左足を捕まえて、殺生なと泣き縋る。
「やめてくれ、足を掴むのだけは、今は本当にやめてくれ!」
「お願いします、お願いします、なんでもしますから!」
葵は何にも言わないが、何も考えていないに違いない。何か考えていて、それを口に出すタイミングを見ているとしたら、それがいちばん始末が悪い。
「わかってるんだぞ。お前、本当はもういい加減、ひとりでいるのが寂しいんだろう」
「ギクッ」
なずなは小さな声で、しかし決して足を掴む力だけは緩めずに言う。
「やりますね、春太さん。半分正解です」
「半分って?」
そう尋ねた葵に胸を張る。
「お金がないのは本当ですから」
指の一本一本を引き剥がそうとして、その力の強いのに驚く。農業で稼げと言っても、なずなは首を振った。
「言ったじゃないですか。私、虫がダメなんです」
とにかく風呂に入りたいからと、食事が済んでいないなずなを残して、おれたちは宿に逃げ帰った。その晩、なずなは宿に帰ってきたのかもしれないが、おれたちの部屋を訪ねてくることはなかった。