魔法使い葵ちゃん
カメラなんか構えていたおれの方が場違いに呑気であったことがようやく理解できた。おれは葵が一人にするなと呼びすがるのを無視して、船の揺れるのにも構わずに客室まで取って返す。すぐに荷物に飛びついて、親父から受け取ったポーションーー魔法薬の類を改めた。
回復薬ばかりで、攻撃に使えるものや痺れ薬なんかは何も入っていない。この場で調合しようにも、繊細な作業には致命的な揺れは元より、そもそも材料がない。
おれはそこに来てようやく、今、自分と葵が死ぬかもしれないことを実感した。
せめて葵のそばにいよう。
失意と恐怖に震えながらも、やはりふらつきながら甲板に戻って、葵のすぐ後ろに座り込むと、葵が「あ、やばいかも」と呟いた。
再び貝のように押し黙った葵は、話し掛けようとするおれに手のひらを押し出して制止したまま、動かない。
随分この揺れに晒されているわけだから、無理はない。無理はないが、止してくれよとおれが祈りを捧げた瞬間である。船の先端が海面に大きくのめり込むほどの勢いで引っ張られた。おれは噛み付くようにして、慌てて手すりにすがりつく。葵は目を見開いて、貝の姿勢を崩さない。ドンと大きな音がする。船が大量の水を掬い上げながら、その舳先を上向きに引き戻す。足元を水浸しにして、何事かと前を向いたおれは愕然とした。
とうとう、レッサークラーケンが船に乗り込んだのだ。
わずかに前身を沈めながら、巨体を乗せたことで揺れに揺れる船の上、葵の方も、
「ウエェ」
ついにそのすべてを甲板にぶちまけた。
「よ、止してくれよ……」
「いくらかすっきりしたわ」
「止してくれよ……」
たのもしい限りである。
そうは言っていてもやはりさすがに恥ずかしそうな葵の事情も、こうして餌の目の前までやってくることに成功した魔物には、当然無関係だ。
大きめのワゴン車ほどはあろう体躯をぬめらせて、十本の足を甲板に広く這わせたクラーケンは、真っ白に見えた足の根元にかけて、少しずつその色を濁らせていて、体の大部分は灰色とも青色ともつかない、案外と汚らしい色をしている。その大きな魔物が、空気中では思うように動けないらしく、ゆっくりとおれたちの方へ這い寄ってくる。
「葵、こっちに来るぞ」
「わ、わかってるわよ。でも、どうしようもないじゃない!」
葵の言う通り、まさにどうしようもない。海水をふんだんに浴びて冷えた身体は、ぶるぶると細かく震えていて、思うように動かないのはクラーケンと同じである。そんな身体に鞭打って、よろよろと逃げたところで、狭い船の上に安全な場所などない。
潮時かと思われた。諦めて神に祈りを捧げるか。
それが嫌だからと言って、もちろん、撃退する道具もないのだからーーそう考えて、おれはハタと思いついた。
待てよ。
「ハルちゃん、どうしたの」
「……なあ、水とかを思った通りの場所にぶっかける魔法、何かないか」
「え、水? ハルちゃん、クラーケン相手に水なんてーー」
「いいから、何かないか?」
葵はしばらく思案して、なくはないと言う。
「ガーデニング用の魔法だけど、別にイカ相手でも使えるはずよ」
「よし、あのデカブツの目が見えるな」
じっとクラーケンを見て、うんと頷く。
「そこにさっきお前が放ったゲェをーー」
言いかけたおれの頬をぴしゃりと打ったのは、醜いイカの化け物ではなくて、美しい宿屋の看板娘である。
「嫌よ! 何を言い出すかと思ったら、こんなときにふざけないでよ!」
「ふざけてなんかいるもんか! この辺の綺麗な海に住んでる魔物なんだから、汚いものは苦手かもしれないだろうが!」
「き、汚いって、そうはっきり言わないでよ!」
「わかったから、やるだけやってくれ!」
顔中を真っ赤にして、恥ずかしがるやら怒るやら、なんやかやとしばらくわめくと、葵は観念して、ようやく承知した。
「でも、なんか見られるの嫌だから、ハルちゃん、目をつむってて」
「わ、わかった……」
両目をつむって何も見えなくなると、波の音に浮いた、葵の深呼吸が前方から聞き取れた。それを何回か繰り返すと、当たるかなと小さく言うので、おれは必ず当たると請け合った。目の前にいる葵のさらに向こう、クラーケンの這い寄る音が、ずる、ずる、と不規則に耳を犯す。
不安に震える葵の手が、手すりを離れたのだろう。おれの左手をつかまえた。驚いて心臓が跳ねるが、今、この娘が放とうとしているのは、自分の吐いたゲロを魔物の目玉にぶっかけるという前代未聞の魔法である。それを思い出すと、胸の高鳴りはすぐに治まった。
葵がおれの手を強く握って、よしと小さく気合を入れた。
「『スプリンクラー』!」
「おい、いやな呪文が聞こえたぞ! 降り注いだりしないだろうな!」
「う、うるさい! 方向と範囲を制御するから大丈夫よ!」
閉じたまぶたの裏が、一瞬赤く光を通す。クラーケンが慌てて下がる音が聞こえる。成功だ。
おれはゆっくりと目を開けた。目の前では、大きなイカが必死になって両目に足をこすりつけ、葵のゲロを取り除こうとのたうっていた。
「やったな、葵!」
葵は何も言わずに、右手を突き出したまま、打ちのめされた様子で震えるばかりだ。
「どうした、葵、もっとよろこべよ。狙い通り、お前のゲェでクラーケンが苦しんでるぞ」
取られたままの左手を思い切り強く握られて、おれは痛みに口をつぐみ、慌てて振り払った。
「もうお嫁にいけない……」
あまりにも古い言い回しになんと返していいかわからず、そういうときは真面目な話をしてはぐらかすのが良いと知っていたおれは、意識して大きめの所作で歯噛みした。
「くそ、でも、致命打にはならないな。時間稼ぎが出来た程度か」
「致命打になったらなったで傷つくわよ」
目を潰すにしても、やはり本格的な催涙薬か何かがない限り、魔物を相手に太刀打ちは出来ないらしいーー。
催涙薬という言葉に思い至ったそのとき、親父譲りの道具屋の血が、即座にその製法をおれの頭に叩き込んだ。当たり前のような、懐かしさすら覚えるような感覚で、作ったことなど一度もない道具の作り方、材料がわかる。おれに備わったユニークパッチの恩恵だ。そして、その材料がわかったおれは、おのずと葵の肩を叩いていた。
「今度は何よ、もう何でもござれだわ」
「お前、調味料持ってるか」
葵は一瞬、訝しげな顔をして、何かに思い至った様子でため息を吐いた。
「ハルちゃん、お腹が空いたのは私も同じだけど、さすがに私はちょっと食べたくないわよ。それに、それより前に、まず倒すことを考えなさいよ」
「何言ってるんだ、葵。持ってないのか?」
「出せるわよ」
出せるのかよ。予想を超える上々の答えに、おれは思わず手に汗を握った。相手は全身が粘膜のような化け物だ。効果のほどは想像に難くない。下手を打てば怒らせるだけで状況を悪くするかもしれないが、ほとんど殺されかかったこの状況がこれ以上悪くなったところで、その末路に変わりはあるまい。
作戦の一切を話すと、不安げながらも何度か頷いて、葵は久しぶりに立ち上がる。それから、もがいて暴れるクラーケンに合わせて揺れるセンジョウで、落ち着いた動作で両手を前に突き出した。
「真紅の徒、火焔の牙よ」
そう唱えると同時、葵の足元に巨大な魔法陣が、燃えるような禍々しさで出現する。
「我が求めは覚醒の一太刀。無形の残滓を灰燼に帰し、破滅の鉄扉を突きて出でよ!」
瞳の輝きが眩しいほどに増したとき、葵の両手の間に光が吸い込まれるような錯覚を覚えた。いや、それは錯覚ではなく、葵の目の前に、周囲の光を集めて小さく押し込めたような光の玉が見えた。 魔法陣までもが一際強く燃え上がり、やはり凝縮されるように吸い込まれる。
「『ドラグーン・カプシカム』!』
光の玉が弾けたとき、そこから小さな竜のようなものが現れた。その身体があまりに眩しいので直視出来ないが、犬や猫を思わせる大きさのそれは勢いよく空に向かった後、ゆっくりと舞い降りて、やがて葵の周囲をグルグルと旋回し始めた
葵は身体を赤くチラチラとわずかに輝かせていて、それがまるで燃えているようで美しい。たっぷりと時間をかけて左手を突き出し、落ち着きを取り戻しつつあるクラーケンに対峙する。
おれは唾を飲み込んで、拳を握りしめた。
「やれ、葵!」
「あのイカにうんと振りまいて!」
いかにも呪文には聞こえない言葉に従って、光が軌道を離れ、クラーケンの頭上に静止する。そして、ちょうど花を咲かせるように、真っ赤な粉末を目一杯放った。
一体どこから現れるのか、光から放たれる赤いものには際限がない。ひどく苦しんでもんどり打つクラーケンの全身を覆い尽くしても事足りず、暴れまわる触手に、その赤い雨を花びらのように舞い散らせながら、山と積み上げていく。
巨大な火焔の一撃を喰らったように、イカの魔物は右に左にのたうちまわり、そしてとうとう、海の中へと逃げていった。
葵が召喚した光が、それを見届けたように消失する。それからしばらくして、クラーケンの飛び込んだ波が収まると、ようやく、船に静寂が戻った。
先ほどとは打って変わるあまりの静けさに、耳をしんと鳴らしながら、おれは膝立ちに崩れ落ちた。
「勝った……」
自分でこぼした言葉のせいで、少しずつ実感がこみ上げてくる。
「葵、おれたち勝ったぞ」
今ではまるで大魔法使いのように思われる宿屋の娘の元へ、ふらふらと引っ張られるようにして寄り付いて、おれはもう一度、嚙みしめるような気持ちで言った。
「勝ったんだ、生き残った!」
葵はその場にへたり込んで、わっと泣き出した。おれは震える足を引きずって操舵室へ登り、船頭に親父の回復薬を飲ませて気つけすると、甲板で泣きじゃくる葵の手を引いて、客室へと引っ込んだ。
「ずいぶん効いたわね」
どれほど泣いてからか、葵は目鼻を未だにぐずぐずとさせながら、そう言った。
「契約している妖精を呼び出して、唐辛子を出すだけの魔法なのに」
「その妖精って、唐辛子の妖精なんだよな」
「そうよ」
それにしては、呼び出す文句があまりに仰々しいので言葉も出ない。暗くなり始めた窓の外に見えてきた本土の大地を眺めながら、おれは葵に言った。
「催涙薬の主成分は、カプサイシンだ。唐辛子に触った手で目をこすると、大変なことになるだろ。しかも、水では流れないから、海に潜ってもしばらくは痛みが取れない。まして、全身が粘膜みたいなクラーケンにあんな量をぶっかけたんだから、そりゃあ効くさ」
いかに低級のレッサークラーケンとはいえ、あんなことで死ぬことはないからこそ魔物と呼ばれるのだが、ほとんど戦力らしい戦力もなしに、海の上でその魔物を追い払ったのだ。今はただ互いを労って無事を喜ぶことにしても、罰は当たらないだろう。
本土の灯りがいよいよ近づいてきて、ここまで来ればさすがに魔物も出まいと、葵に気を休めるよう言おうとして、すでに浅い寝息を立てていることに気が付いた。
おれはこの初陣で、この美しい魔法使いのゲロと唐辛子に救われたのだ。
荷物の中から真新しい毛布を引っ張り出して、肩から葵にかけてやると、わずかな時間とはいえ、おれも落ちるように眠りについた。
おれたちは故郷を離れ、初めて島の外の世界に足を踏み入れる。そこでの出会いも、騒動も、戦いも、今のおれたちには知る由もない。だから、今は眠ろう。
冒険は始まったばかりである。