春太、旅立つ
「葵が説得に応じてくれて助かったよ」
一通りの挨拶回りを終えて、いよいよ船着場へ向かう道中、おれはまだ不機嫌な葵の肩を叩いた。
「説得? そう、あれを説得って言うつもりなの。だったら、私もハルちゃんを説得させてもらおうかしら」
座った目でごにょごにょと呪文を唱えるから、大急ぎで走って逃げたが、葵は案外、諦めた顔をして、追ってくることはなかった。
島の人たちに自作の小説を回し読まれたものと思い込んでいる葵は、ほとぼりが冷めるまで、おれの旅に同行してくれる運びとなった。もちろん、危険は承知だが、葵もミスティックの端くれである。島を出たところで、つまらない低級の魔物に、そうそう遅れを取ることはないだろう。
夕暮れ時、ついに万全の状態で船着場へ到着したおれたちは、船頭にレベルカードを見せると、支度をするからと少し待たされた。これは定期便ではないから、行きはおれたちが船を守るとして、帰りの都合をつけないと、船頭まで行きっぱなしになってしまう。
わずかに持たされたお金の何割かを割高な船賃のために払うと、軽い連絡船に乗り込んで、隣り合って座る。ようやくほっと一息吐いたのはふたり同時である。
「ああ……それにしても、どうしてこんなことに。私が何をしたって言うの。ひどい、ひどすぎる……」
「タラタラ文句を言うな。景気良くいくぞ、景気良くな」
「誰のせいだと思ってるのよ、もう!」
先ほど程度の謀略で、まんまと思惑通りに同行させられてしまうのだから、葵の足りない頭のせいでないとは誰にも言い切れまい。
今だって、怒ったそばから勝手に窓の外へ目を移して、魚が跳ねたと喜んでいる。レベルの上限は偏差値に反比例するなんて俗説があるが、この分だと、葵の上限は60か、ともすれば70か。
葵はサッとこちらへ向き直って、
「ハルちゃん、何か失礼なこと考えてない?」
「おっと、顔に出てたか。気をつけるよ」
船頭が客室に姿を見せて、港を出ると告げたのはその時だった。始めこそ無理に追い出された形だったが、縁遠いと思っていた討伐兵ーーもとい、義勇兵としての生活が、冒険の旅が始まることに、今では小さくない興奮を覚えていることに気が付いた。
葵もほとんど境遇は変わらない。気持ちは同じはずだと思って見れば、今さっきまで魚の跳ねたのに喜んで輝かせていたあの目が、今は泥だんごのような濁りようである。ロボットのような動きの固さで、いま離れていこうとする陸地を、故郷を、無表情に虚ろな目で追っていた。
「あ、あの、葵……、悪かったよ……。本土へ着いたら、お前は引き返して島に帰っていいからさ」
「無理だわ」
「あのさ、実はその、さっき言ってた小説の話は、その、カマをかけてみただけで、本当は誰にも読まれてないんだよ」
「……そうだと思ったわ」
そうだと思っていて、それが正しいと言われてなお、葵の目は泥と濁り、離れていく島にすがるようにして窓に貼り付けた両手には、ほとんど生気がない。
「……ハルちゃんちに……」
「おう、なんだ、挨拶するって寄ってたな」
当然、おれはついていかなかった。
「挨拶に行ったら、おじさんたちが……、すごく熱く、いろいろ言ってくれて……、私も調子に乗って、魔王を倒すって言っちゃって……」
葵がそうしたように、おれも頭を抱えるしかなかった。うちの両親なら、あなたの帰りを、世界の平和を、この島で待っているなんて歯の浮くことを、涙ながらに語るのは何でもないことだろう。頭の良くない葵が上手いこと乗せられて、必ず魔王を倒すと請け合って、三人の馬鹿がひとしきり仲良くおいおい泣いたであろうところまで想像できた。うちでの挨拶が長引いていたのも、その後合流した時に目の辺りが赤かったことも、なまじっか家族ぐるみでの付き合いが深かっただけに、べつだん不思議には思わなかったが、今、合点がいった。
「葵」
「はい」
「ほとぼりが冷めるまで、よろしくな」
「はい」
景気良くいくぞ、景気良くなーーとは、さすがに言えなかった。
「ちょっと待って、これチクワじゃないの?」
船内では暇を持て余す。交互に絵を描いてしりとりをしていたら、あるところで噛み合わなくなって、それでも続けていたが、先に痺れを切らしたのは葵だった。
「チョークだろ。お前の世界じゃ、チクワと黒板がセットで描かれるのかよ。チクワだと思ったんなら、これは何だ」
「ワニでしょ。何だと思ったのよ」
「クリオネ」
「なんでよ!」
これが手で、これが足ね、これが羽でしょうと説明する葵はいつになく饒舌だが、からっきし伝わらない。そればかりか、おれたちの間の「ワニ」という生き物の認識について、埋まらない食い違いがありそうな言葉も聞こえてきたから、絵の説明はいいから、ワニのニから再開しようとした時だった。
「敵襲!」
船頭が操舵室から短く叫んで、客室の照明が点滅する。これが緊急事態のサインだと、乗船に先駆けて説明を受けたのを思い出した。
「ニからな」
「ハルちゃんからでしょ」
「あ、そうか」
船頭がギャアと悲鳴を上げて、船が大きく揺れたとき、葵とふたりでしかめっ面を見合わせて、護送の兵士は何をやっているんだと言いかけたが、おれが自分の立場を思い出したのとまったく同じ瞬間に、葵もハッと顔を真っ青にして、慌てて甲板に飛び出した。
「何やってんだ! 遅いぜ、葵ちゃん! ハル坊は危ねえから引っ込んでろよ!」
一段高いところにある操舵室を見上げて、葵がへこへこと頭を下げるのを見ながら、おれは戦力にならないことを船頭の言葉で思い出した。
大きく揺れる船のそこかしこに掴まりながら、おれはよろよろと客室に戻ったが、待っていてもつまらないから、葵の初陣を写真に収めて、おじさんたちに送ってやろうと思い付いた。
荷物の中から取り出したフィルムカメラを携えて甲板に出ると、水道管ほどもある白い触手のようなものが、海も中から何本も飛び出して手すりに貼り付いていて、船の進むのを妨げているのが見えた。
こちらに背を向けて、その魔物に凛々しく対峙する葵の姿は、着の身着のままの春めいた普段着姿だが、風にたなびく黒髪と白いスカートが、すこぶる画になる。後ろ姿で残念だが、これは是非にも、一枚撮っておいてやろう。
「しかし、デカイな。これがクラーケンか!」
おれがのんびりと構えたカメラのファインダー越しに見たのは、振り返って号泣する葵の姿だった。
「バ、バルぢゃァん! だじけてェ!」
「え?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその顔を、間違ってピントもしっかり合わせて撮ってしまったことよりも気になったのは、杖も持たない普段着のミスティックが言った、嗚咽にまみれた聞き取りづらい言葉に、どうやら「助けて」という語が入ってはいなかったかということである。
「なんだって、葵! ちゃんと喋ってくれ!」
レッサークラーケンの触手が、また新たに海中から飛び出して、船の手すりに取り付いた。その拍子に船は一際大きく揺れ、おれたちの立つ甲板を、海水が雨のように打つ。
「ギャア!」
葵は叫んで、手すりに、それも触手からなるべく遠いところにつかまると、とうとう大声で泣き出した。
操舵室では、揺れのせいで船頭が頭を打ったのか、情けない顔で伸びているのが見えた。
揺れる船の上で泣きわめく葵の姿を写真に収めるのには難儀したが、三枚目でなんとかピントも合った。
「葵、もういいぞ。倒しちゃってくれ!」
船頭を叩き起こす必要があるし、いい加減、船の揺れるのが気持ち悪い。葵らしい情けない写真は撮れたから、あとはシャキッと魔物を倒しているところを見せて欲しかった。
ところが、肝心の葵は腰が砕けて立てそうにないばかりか、貝のように押し黙って、身体を固くする。
「何やってんだ、何でもいいから魔法を使え! クラーケン乗ってきちゃうぞ!」
おれだって、大事な船出のこの吉日を、触手をくねらせる魔物と相乗りして台無しにしたくはない。
葵は目をグルグル回しながら、べったり座り込んだままとはいえ、ついにクラーケンの触手に右手を突き出して叫んだ。
「『ブルーム』「ブルーム』、『ブルーム』!」
「ばかやろう、掃除してどうするんだ!」
思わず叫ぶのと同時、今、つかまっていたはずの手すりが、新品同様の輝きを取り戻す。さすがに、魔法の効力はそこいらの洗浄剤とはものが違う。赤錆も黒ずみも何もかも落ちて、わずかな傷まで磨き上げられて目立たなくなっていた。この分なら、岸につけたときにいくらか船賃を値切っても良さそうだとさえ思われる、
グイとひとつ船の前身が海に沈み込んだので我に返ったおれは、一旦手すりを離れ、甲板をなんとか横断して葵のそばまで寄ると、父親譲りの逆境への弱さを叱りつけた。
「コラ、葵、なにやってるんだ。ふざけてないで、早く何か攻撃魔法を打ちなさい!」
「で、でぎない!」
「よし、じゃあ! ……なに?」
クラーケンの足に向かって指した指の力強さが、思いがけない事態にしおしおと抜けていく。
「できないって、何がだよ。何でもいいんだぞ。火でも雷でも……」
クラーケンに背を向けるのも構わず、正面に回って葵の顔を覗き込むと、へたりこんだ自分の膝をじいっと見ながら、口元をむにむにと動かして、
「何にも知らない……。ごはんとか、掃除とか洗濯とか、裁縫なんかの家事なら、一通り魔法でどうにでも出来るけど……」
ようやくおれにも嫌な感じが伝わってきて、まさかとは思いながらも尋ねた。
「せ、戦闘に使える魔法は」
「……だから、その」
へへへと、自嘲気味に乾いた笑いを静かに吐き出す。
「何にもない……」
「ヘラヘラしてんじゃねえよ!」