春太、旅立たない
「人類諸君、よく聞くがよい」
それは、おれの親父が恵比寿に菓子折りを持っていく途中のことだったそうだ。ようやく大きなプロジェクトに関わることが出来ると思った矢先、親父はその最初の打ち合わせに大遅刻した。その詫びを入れに行くところで、行きたくなさのあまり、今この瞬間に世界よ滅べと、心から祈ったという。
そんなときだから、親父は悪戯を見つけられたときの気持ちで、ぎょっとして空を見上げる。低く、わずかに震えるようでいて、あまりにもよく通るその声は、どうも空から聞こえたように感じられたのだ。
道行く人も軒並み足を止め、同じように空を見上げていたのだそうだ。そのときの写真はとても有名で、教科書にも載っているが、大都会で、すべての人が一様に空を見上げる光景は、壮観の一語に尽きる。余談だが、そんな中、状況を気にも留めず走る一人のサラリーマンの姿が写り込んでいて、彼も一躍有名になった。
非現実的な出来事に、ひょっとすると願いが通じたのかと、すがるような気持ちで空を見つめ、親父は天の声の二の句を待っていたが、その声は言った。
「世界は救われた」
「なんだよ!」
菓子折りを足元に叩きつけ、すぐに自分が何をしてしまったのか理解した親父は、手ぶらで詫びに行くことになる恵比寿の偉いさんの顔を想像すると、恐ろしさのあまり膝から崩れ落ち、男泣きに泣いたという。道行く人々も、もちろんそれどころではないから、誰の目もはばからずに。
少しずつ喧騒を取り戻し始めた人々は、それでもその場から動くことが出来ずにいた。姿の見えない声が、拡声器の類から聞こえるものではないことがわかっていたからだ。経験のないことに、ただ呆然とする者や、その場にしゃがみこんで震える者、何が起こっているのか連れと話し合う者……、行動は色々だったという。もちろん、ひしゃげた菓子を泣きながら拾い集める者もいたようだ。
世界が危機に瀕しているという話は、常に声高に叫ばれてきた。しかし、地球温暖化や環境破壊など、どれもある瞬間に救われたと宣言できるような問題ではない。「救われた」という言葉の意味に、すぐに思い至った者はいなかっただろう。
「魔王が滅ぼされて幾星霜、諸君の根気強い討伐の甲斐あって、ほとんど全ての魔物が排除されたと言っていいだろう」
人々が映画か何かの撮影だと確信して、びっくりしたねえと言い合いながら歩き出したのと、親父が泣き止んだのは同じ頃だったそうだ。
「ふざけんじゃねえ! 期待をもたせやがって!」
親父が空に向かって石を投げたとき、その声はこう言ったそうだ。
「長らく退屈させて悪かった。今、この瞬間より、ニューゲームを開始する」
絹を裂くような悲鳴を聞いたのと、現在、「ニューゲーム宣言」と呼ばれているこの宣言を聞いたのは、親父の体感ではまったくの同時だったという。
どこから現れたのか、新宿駅東南口に、見たこともない生き物が親父の視界いっぱいに溢れかえった。角のある巨大な熊のようなものや、鳥と馬を足したような生き物……。魔物かモンスターとしか呼びようのない生き物が、突然無数に現れたのだ。
口をあんぐり開けた親父が、すぐに逃げ出そうとして立ち上がった瞬間に、ツルのようなものが親父の足を取り、次の瞬間、泣きはらした顔を木の枝で横薙ぎに打たれた。朦朧とする中でかろうじてわかったのは、自分を殴ったのが「木」としか言いようのないものだったこと。右から左からさんざっぱら打ち付けられたので、これは死んだと確信したそうだが、案外しぶとく生きているので、あれ、まだ死なないなあと不思議に思っていたときのことだった。
「魔王を滅ぼして久しい人類諸君、脆く儚く退化した人類諸君よ、今、諸君に修正を施した」
ああ、修正されたから死なないのか、と、樹木にボコボコにされながら、親父は人ごとのように考えていた。
「諸君のすべからくに、優れた生命力を。体力に恵まれた者には、それを上限を超えて行使する才を。魔力に恵まれた者には、それを認識し取り回す能を。いずれにも恵まれなかった者には、彼らを補助する特別な術を」
「パッチ」と呼ばれるこの特別な才能は、その瞬間、全人類に発現し、否が応にもおれたちを「恵まれた者」と「恵まれなかった者」に選り分けた。
親父の目の前で大きなアメーバの下敷きになっていた男が、もがいた拍子に拳をぶつけたガードレールが、鈍い金属音を立てたかと思うと、目にも留まらぬ速さで飛んでいき、巨大なカエルのような魔物の喉元を裂いた。こうした筋力や体力を異様に高める才能は、今ではバイタルパッチと呼ばれている。
親父はその瞬間、その新宿駅のガードレールがどういう素材でどう作られているのか、なぜかすぐにわかったという。ユニークパッチと呼ばれる、恵まれた者を補助するためのーー恵まれなかった者のためのパッチが当てられたのだ。
そんなパッチではもちろんなすすべもなく、植物に完膚なきまでに打ちのめされながら、再び泣き出した親父の視界の外から、まとまりのないヤブ蚊の群れのような光が飛んできて、幹にぶつかるや否やその木を四散させたのが、24年前のこと。
ミスティックパッチーー魔力を本能的に扱えるようになるパッチを当てられた母ちゃんとの出会いだそうだ。
世界がニューゲームを迎えて、今年で二十五年目になる。
研究は大いに進んだ。魔力を火や水や電気などに変質させるための技術体系が研究され、今では書店に所狭しと並んでいる。
ある程度の数の魔物を倒すことで、ある瞬間に大幅な体力あるいは魔力の強化が起こることがわかり、これを「レベル」として管理する科学的・魔術的な手法が一般化し、身分証にまでレベルが記載されるようになった。
現在、人々は小さな島に移り住むか、あるいは城壁を築き、バイタルやミスティックの受け手を中心にそこの魔物をなんとか倒して、魔物のいない生活圏を確保して暮らしている。
「春太、今日はお前の誕生日だな」
「昨日だよ」
朝からステテコ姿の親父が、一瞬、目を見開くが、取り繕って咳払いをする。
「チェスだか将棋だかばかりにうつつを抜かしていた春太も、ついに十八歳になったのね」
感慨深げに、母ちゃんはため息を吐いた。
「なんだよ、起きてくるなり藪から棒に。去年も一昨年も、特に何も言ってこなかったろ」
「この小さな島で生まれ育ったお前が、外の世界に憧れを抱いていることはわかっている」
神妙な面持ちで親父は言う。しかし、
「別にそんなことないよ。島の生活に不便してるわけじゃないし、外には魔物がーー」
「わかったわ、春太。あなたの抑えきれない気持ちはよくわかりました。まったく、聞き分けのない子ね。あなたは昔から、ずっとそう……」
「え?」
「父さんたちの負けだよ、春太」
親父と母ちゃんが何に負けたのか、見当のつかないおれを他所に、うんうんと頷きあい、まったく、まったく、と呟く。
「レベルカードを見せてみろ」
「え、レベルカード? でもおれーー」
「いいから、見せてみろ」
有無を言わさぬ親父の態度に閉口しながらも、財布から身分証を取り出す。レベルカードという名前とは裏腹に、そこには名前と年齢、職業とパッチの種類が記載されているばかりで、レベルの欄は空白になっている。それは当然だ。
「おれ、ユニークだからレベルなんかないよ」
「そうなんだけど、もうお前は黙ってなさい」
「え?」
「母さんたちは、あなたがいつまでもこの島にいてくれたら、それでよかったのよ」
そのつもりだよ。
「わざわざ危険な外の世界に、あなたを送り出したくなんかないわ」
もちろん、行きたくないよ。
「だけど、春太、あなたももう十八歳」
「知らない間に、大人になっていたんだな」
目頭を押さえてうつむく母さんの肩に、親父がそっと手を添えた。レベルカードをおれに返すその手が、わずかに震えているのがわかった。
「行きなさい、春太」
「どこに?」
「外の世界には、たくさんの危険があるだろう。たくさんの発見があるだろう」
「え、おれ外に行くの?」
親父の声が震え、息遣いも荒くなる。顔は赤く上気して、およそ大の大人とは思えない様子である。
「しかし、おまえなら、必ずやたどり着ける」
「どこに?」
「魔王を倒し、おまえがこの島に帰って来るのを、父さんたちは待っているよ」
「え、魔王って言った?」
親父は相変わらず顔を赤くしながらも、さびしげな顔を作っておれに笑いかけ、母ちゃんの肩を抱く。
「いや、親父が何言ってるのか、全然わからないんだけど、どういうこと?」
「春太」
「はい」
親父は、おれの目を見て、しばらく時が止まったようにして何か考えていたが、やがて、
「十八歳になった男の子は、旅に出るものと決まっているがーー」
「決まってないよ。人によるよ」
「母さんたちはね、あなたを外に出すつもりはなかったの」
「だが、おまえが陰でどれほど努力してきたか、レベルカードを見ればわかる」
おれのレベルカードは、年齢の欄と職業の欄以外が更新されたことは一度もない。親父がそこに何の努力を見て取ったのか、おれにはわからなかった。
「お前も、やはり男の子だったんだな」
「父さんの子なんだもの、こうなることはわかってたわ……」
親父はしがない道具屋の店主だ。それとこの状況に何の因果があるのか、それもわからない。
「旅支度は整えてある。あとは扉を開き、外に飛び出すだけだ!」
「あ、おれの鞄!」
親父が取り出したのは、おれの持つ中で一番大きな鞄だった。カーキ色のバックパックがいっぱいに膨れ上がり、親父の手製のポーション類が口から少しはみ出している。
「春太、この島の名前は……」
始まりの島。
ニューゲーム宣言の後、魔物から逃げ惑う人々が寄り集まり、この島を買い取って移住したが、その際、物好きな誰かの提案で、島の名前が変更された。親父と母ちゃんは、その名前に惹かれ、ここでおれを生み育てることに決めて移り住んだ……というのは、酔った親父が必ずおれにする話だ。
「勇者はいつでも、始まりの町から生まれるものだ」
「今時珍しくないだろ、始まりのなんたらって地名は……」
同じことを考えた者が多かったのか、魔物が大して強くないこの辺りには、おれたちの暮らす「始まりの島」をはじめ、「始まりの街」「始まりの村」「始まりの山村」「始まりの港」「始まりの森」「始まりの洞窟」など、「始まり」地名が溢れていて、石を投げれば「始まりの地」に当たるという状況である。これでは、どこで生まれても、大抵は勇者候補になってしまう。
「ちょっと話がおかしなことになってそうだけど、おれ、ユニークなんだから、旅に出たりするつもりないよ。ボードゲームさえ出来れば不満はないしね。バイタルやミスティックだったら、人によっては旅に出たりもするらしいけど、それは魔物を討伐してお金を稼げるからで、ユニークにはそんなこと出来ないんだから、普通、町に留まって店でもやるのがーー」
「うるさい、黙れ!」
親父の正拳を鼻の中心にもらって、おれはもんどり打って倒れた。
「アア、い、痛い!」
鼻血が出ている。
「おれたちだって、息子を心配しながらも、世界と息子の夢のために危険な外界へ渋々笑顔で送り出す両親っていうのをやってみたいんだよ!」
「そうよ、春太。空気を読んで旅に出なさい。お隣の凱亜くんは、十五歳で旅立ったのに、あなた恥ずかしくないの」
「が、凱亜くんはバイタルだろ。あんたらが何言ってんのかわかんないよ」
「しばらくブラブラしたら帰って来ていいから、一回、とりあえず一回旅に出てくれよ!」
「嫌だよ、船の上だって危険なんだぞ」
母ちゃんはそれ以上、言い争いには加わらず、膨れたおれの鞄をまさぐると、見覚えのある古いノートを取り出して言った。
おや、あれは。
「春太、心配しないで」
「な、何を、母ちゃん、そ、それは……」
「わかっているのよ。四年前にあなたの手で記されたこの文書によれば、あなたには特別なパッチ、ダークネスーー」
光の速さでそのノートを奪いにかかる。
おれが掴みかかったと思った瞬間、母ちゃんの体が水のようになる。勢いを殺せなかったおれは前のめりに倒れた。再び実体を持った母ちゃんが、倒れたおれの背中に、いつの間にか正座していた。母ちゃんが「『ロープ』」と唱えると、おれの体は縄で縛られたように動かなくなる。
「ダークネスパッチが当てられているのよね。これは誰にも内緒の力で、レベルカードをも欺いて、しょうもないユニークのふりをしているけどーー」
「やめてください……」
顔に血が昇るのが嫌でもわかる。目の前がボヤけるほど恥ずかしいが、ただでさえ魔法をかけられている上に、最近丸くなった母ちゃんに背中に乗られていては、ジタバタすることさえ出来ない。
母ちゃんは、おれが十四歳の頃に考えた自分の設定・イラスト集のページを容赦なく繰る。
「実際には、異世界からの転生者だったのね。あらゆるものを闇に呑ませる反則級のスキルを使う、悪魔のパッチを当てられていて……。あら、これは未来の春太かしら。春太、絵が上手ね」
「旅に出ます! 魔王を倒しますから許してください!」
やたらと重い鞄を背負って、革のブーツを履いているとき、親父は酒場に行くように言っていた。酒場には討伐軍に参加する人々が登録されていて、仲間を探す人に引き合わせてくれるシステムがある。
泣き疲れたおれは少し気力を取り戻した。考えてみれば、魔王討伐などは論外として、他の町で商売をやるというのであれば、それは少し楽しみだった。この島にはない食べ物や風物にも、まったく興味がないわけではなかった。そしてなにより、この島では手に入らないゲームがあるかもしれない。ドイツなんか行ってみたい。
討伐軍に入れば、それはレベルカードに記載される。町から町への移動の際、手続きが必要なくなる特典は、もはや旅する他ないおれにとって、大きいものだった。
酒場への道中にある船着場に、船が着いたところだった。
本土とこの島を結ぶ唯一の交通手段だが、普段はほとんど機能していない。魔物に侵された海を渡るには危険が伴うし、そうまでして島を出る人も、この島に来る人もいないからである。
珍しい仕事に張り切った船頭が、声高に到着を知らせると、連絡船として流用されている漁船を降りてきたのは、全身を金属の鎧で固めた、いかにも実力のある討伐兵といった風貌の男だった。男はしばらく辺りを神経質に見回した後、船に振り返って手招きをした。船内から出てきたのは、同じように鎧をまとった女性と、杖を持ったローブ姿の女性である。いずれも、この島ではほとんど見たこともないような美女であったから、おれも足を止めて、思いがけず見入ってしまった。
「羽根を伸ばすには良さそうな島だ。魔物の気配もない。すっかり討伐されたんだろう」
「そうね、もし、仮に魔物が出ても、アキトが守ってくれるんでしょう」
ミスティックと思われるローブの女性が、アキトと呼ばれたバイタルの手にそっと触れる。アキトは少し顔を赤らめて、こんなところでよしてくれと言いながら、照れくさそうにその手を払った。
「ふ、フン、私は、アキトなんかに守ってほしくなんかないんだからね!」
鎧の女性は少し距離を置いてそう言うと、アキトの方をちらと伺うそぶりを見せた。
「何言ってるのよ、セリナは前衛なんだから、アキトと一緒に私を守ってくれなくちゃ」
「わ、わかってるわよ、ただ、私だって……」
「私だって、なによ」
自らの計算に違いはなかったという不敵さで、ミスティックがセリナに笑いかけると、セリナはさっと顔を赤らめて、パルムと叫んで、ミスティックの女性を恨めしそうに叩いた。
「おいおい、止せよ、セリナ。せっかくの休暇だ。楽しくやろう」
「だって、パルムが!」
セリナは相変わらずパルムのローブを引っ張って、負けじと憎まれ口を叩く彼女に突っかかるが、どこか楽しそうなアキトはやれやれと肩をすくめ、ふたりを置いて歩き出した。
もみ合っていた二人の美女は、それに気付くと、アキトアキトと呼びすがりながら、後に付いて行ってしまった。
さて。おれは何を、細かいことを考えていたのだろうか。外の食べ物や風物などどうでもいい。魔物が出ようが関係ないではないか。
兵士はモテるのだ。
もう迷うものか。何を犠牲にしても、討伐軍に参加しよう。おれがそう決意したことは言うまでもないことである。
この島に宿屋は橋田のところ一軒しかないから、後で旅に出る前に葵に顔を見せに行くふりをして、美女の鎧やローブを脱いだ姿を見に行こうとも思った。
扉を開くなり、むんとした酒の匂いが鼻をつく。昼間から酒場に入り浸って酒を飲むのは、労働者には珍しいことではない。ニューゲーム以降、世界はいくつかの点で大きく後退したが、こうした勤労意識の低下は、そのひとつだ。
ビールジョッキを持って忙しく動き回る店員のひとりを呼び止めて、討伐軍入りを志願すると、彼女は訝しげにおれの姿をじろじろと見たが、やがてあごをしゃくって、受付の方を示した。そちらには、赤い絨毯が敷かれた一帯があり、その中心に、円形のカウンターがある。いかにも冒険の始まりにふさわしい、質実剛健ながらも厳かな雰囲気漂う、討伐軍参加受付であった。
「討伐軍に志願したいのですが」
受付の女性は、景気良く返事をすると、一枚の登録用紙を差し出して、レベルカードの提出を求めた。おれはカードを差し出して、用紙に名前を書いた。
「あれ、あの、パッチを書く欄に、ユニークという項目がないんですが……」
「え、ユニーク?」
受け取ったばかりのカードに目を落として、ふっと鼻先で笑うと、
「すみません、ユニークの方は討伐軍には参加できないんですよ」
おれの旅は終わった。