95.水の中
95話目です。
よろしくお願いします。
「おおっ、と!」
足首までではあるが、普通の地面に立っているのと足が水に浸かっているのとでは動きの感覚はまるで違う。
股立ちをとったままで袴が水面に広がっていないのが幸いだったが、それでも移動速度は下がる。
仮称ウーパードラゴンは、顔の左右にある突起を揺らしながら感情の見えない黒々とした瞳で足元の一二三を目で追っている。臭いや熱などではなく、視覚で敵を把握するタイプのモンスターらしい。
全身を確認しようとして動き回る一二三に対して、ゆったりとした動きで頭部を振っていたウーパードラゴンだったが、不意に水面に顔を浸けた。
「なんだ?」
すぐに水面に顔を出したかと思うと、ウーパードラゴンは何の前触れも無く大きな口の隙間から勢いよく水を発射した。
「ちいっ!」
不意の飛び道具に、一二三は水に飛び込むようにして横っ跳びに避ける。
まるでウォーターカッターのような勢いで、一二三が立っていた場所が湖底から水面まで泥が撥ねる程に水流が叩きつけられる。
二度、三度と断続的に放たれる水流に対して左右に避けていた一二三は、追い立てられるようにしていつの間にか腰まで湖に入っている。
「ふうっ……」
顔にかかった水しぶきを拭おうとした瞬間、ウーパードラゴンが振り上げた四本指の前足が一二三を頭の上から叩き潰した。
水を吸った道着の為に、完全に避けられなかった一二三は左足を踏みつけられて水中に叩きこまれる。
「ぐっ!」
湖底には降り積もった泥がある為に踏みつぶされるという事は無かったが、側面から膝を押えられた一二三は水中で身動きが取れない。
ぶよぶよとした足も粘膜に包まれてはいるが、足を引き抜けるほどの潤滑性は無いらしく。力を入れても足を引き抜く事はできなかった。
一二三は、わずかに口元から泡を吐きながら脱出方法を考える。
これが人間相手なら足の痛点なり関節なりを攻撃すればあっさりと引き倒せるが、自分の数十倍の大きさがある四足の生物のどこにツボがあるかなどわからない。
考えている間に、水が大きく揺れた。
それがウーパードラゴンが口に水を含む動きをしたのだと気付いた一二三は、腹筋に思い切り力を入れて身体を畳む。
頭上を強烈な圧力を持った水の流れにかき乱されると同時に、周囲の水が急速に濁っていく。
その瞬間だった。
ふと、湖底の一部から魔力の動きを感じた一二三が視線を向けると、水中を巻き上がる泥の向こうに一瞬だけ、淡く緑の光を放つ何かを見つけた。
それが何か。一二三は崖に近い場所にそれがある事から直感的に敵国ウルハッドの魔道具だと感じとった。
見つけた。
一二三は水流にもまれながらニヤリと笑う。
左手の手袋を引きはがし、手の形を作っているパウダーを広げて水流カッターから身を守りながら、背中に触れる湖面に闇魔法収納を大きく展開する。
強烈な耳鳴りを伴う水の流れが発生し、一二三の背後に向かって大きな渦を作りながら流れ込んでいく。
一二三自身は吸い込まれることは無いが、道着が吸い寄せられるせいで湖底に貼りついたような格好だ。
「……ふぅ……」
水位が下がり、ようやく自ら顔を出せた一二三は大きく息を吸い込むと、ほぼ真上にあるウーパードラゴンの顔を見上げた。
突然水位が下がった湖に混乱しているようで、一二三を押えたままで足元をキョロキョロト見回している。
その隙に、一二三は思い切り上半身を跳ね上げて、同時に取り出した短刀を思い切りウーパードラゴンの指に突き立てた。
声にならない悲鳴を上げ、口元から大きな泡を吹き出しながらウーパードラゴンは二歩、三歩と後ずさった。
「鳴き声は出ない、か。っと!」
泥まみれになりながら前転して立ち上がり、そのままウーパードラゴンを追う一二三の頭上を長く伸びた舌がかすめていく。
一二三は展開した闇魔法収納を自分の周囲にまで広げ、湖水を抜くと同時に泥に足を取られるのを防いでいる。
対して、水の浮力にある程度頼っていたらしいウーパードラゴンは、巨体の割に細い指しかない四肢を泥濘に沈め、ぎこちない動きをしていた。
そして、湖の中央付近にまだ残っている水に顔を押し付けた。どうやらその辺りに地下水路との接続場所があるらしく、水が新たに流れ込んでいる。
「なるほど。お前鰓呼吸なんだな?」
泥まみれの不快感を感じながら、一二三は走りながら握りしめた短刀を逆手に構え、真正面に見えた巨大な頭部から斜め上に向かって跳躍した。
彼を追うようにウーパードラゴンの頭部が持ち上がるが、その口先を蹴り飛ばしてさらに一二三は上へと飛ぶ。
「うん? えらが見えないな」
首のあたりにこれと言った穴や隙間が見当たらない事を確認した一二三は、ふとウーパードラゴンの頭部左右にある三対のひらひらとした突起を目にした。
「ひょっとして、あれか?」
物は試しとばかりに、左手のパウダーを細く伸ばして突起の根元に巻きつけると、突き飛ばすように伸びてくる舌を避けながら一二三はその突起にしがみ付いた。
片腕で一抱えほどの太さがある突起の根元。ぬるぬると滑る表面に逸らされないように短刀をまっすぐに突き刺す。
痛みを感じているのか単に鬱陶しいのかわからないが、ウーパードラゴンは大きく首を振って一二三を振り落とそうとするが、ロープ上にしたパウダーを突起にきつく巻きつけた一二三は離れない。
ぷつり、と一本を斬り落とすと、同じ要領で残り二本を立て続けに切り離す。さらに反対側にも同じように飛びついた一二三は、あっという間に全ての突起を切り離してしまった。
「どうだ?」
しばらくは激しく暴れていたウーパードラゴンだったが、一二三の目の前で見るからに弱っていく。
真っ黒だったのが白く濁り始めた瞳が一二三を見つけたらしく、ウーパードラゴンは動きを止め、直後に舌を伸ばしてくる。
しかし、その動きは遅い。
「ふふん。俺の勝ちだな」
二歩だけ動いて舌を避けた一二三は、巻き戻し始めたウーパードラゴンの舌へと短刀を突き刺した。
それでも巻き取りの勢いは衰える事が無く、真一文字の傷を受けた舌を口の中に戻した直後、ウーパードラゴンはその巨体を湖の中央に力なく横たえる。
しばらくは口の周囲をひくひくと動かしていたが、それもほどなく止まる。
「はぁ、やれやれ……」
泥濘の上に座りこんだ一二三は、泥まみれになった短刀を見て眉を顰めた。
「こりゃあ、柄巻きから何から全部ばらして掃除しないとな」
闇魔法の収納を展開しウーパードラゴンの死体を取り込むと、その巨体があった場所から滾々と水が湧き出てくる。この湖の水源はそこにあるらしい。
「問題は、あれか……」
一二三が首を巡らせた先には、水中で一瞬だけ見えた一抱えほどの大きさがある何かの装置らしき物が置かれていた。
一二三は、とりあえずそれを蹴り飛ばした。
☆★☆
ホーラントの城内に匿われていたミキは、目を覚ましてからもあちこちを怪我していた事も有り、サウジーネの指示を受けたごく一部の侍女たちの助けを借りながら城内で密かに静養していた。
長い期間がかかったが、怪我も治って以前の通りに動けるようにはなった。
だが、他の問題が残っている。ミキが身ごもっていたユウイチロウとの子供の事だ。
「産んで、一人で育てるつもりなのですね?」
「はい……今となっては、この子はユウイチロウの形見のようなものですから」
ゆったりとした服を着て、それでもかなり目立つお腹をさすりながらミキはサウジーネの質問に答えた。
「本当に、ご迷惑をおかけしてすみません」
礼を言われたサウジーネは、微笑みだけを浮かべて応える事無く、侍女にミキの為の新しいホットミルクを用意するように伝えた。
「子供が生まれるまで……いえ、良かったらここにずっといていただいても構いませんよ」
「その……助かります。でも、良いのですか?」
「ええ。私の話し相手になってもらえたら嬉しいです。他の世界から来られた方のお話は興味がありますし」
にこやかに話すサウジーネに、ミキも笑みで返した。
「はい、私で役に立つのであれば……でも、あの人もここにおられたのなら、色々と話を聞かれたのではありませんか?」
ミキが言う“あの人”とは一二三のことだった。ミキは彼の名前を呼ぼうとはせず、サウジーネも恋人を殺した人物のことを自分から話題に出す事は無かった。
「いいえ。戦いの話ばかりでしたし、私よりもここの兵士や騎士が気になっていたようでしたから」
「そうですか……それじゃあ、私がいた国の話からしましょうか」
「ええ、是非」
最近はホーラントの情勢も落ち着きが見えてきた。水面下でオーソングランデの貴族であるビロン伯爵から会見を求める打診も着ているが、ミキがいる今は返答を保留して様子を見ている。
サウジーネとしては、今の状態が長く続いてホーラントの貴族領や直轄地の整理が終了し、民心が落ち着く事を願っていた。
魔国の動きも、それに対抗しようとするオーソングランデと聖イメラリア教の動きも確定不確定織り交ぜて耳に入って来るが、全てと距離を取るつもりでいる。
「サウジーネ様は、どうして私を保護してくださったのですか?」
恐る恐るという雰囲気で尋ねてくるミキに、サウジーネは内心の不安を見せないように努めて笑みを作った。
ミキは王や貴族といった権力に対して、素直に敬意を見せる。肩書など歯牙にもかけない一二三と比べると、同じ場所から来たとは信じられない程だ。
「ミキさんには、私と同じように自由に振る舞って欲しい。そう思うのです」
「自由、ですか?」
それは一二三を見て、イメラリアを想ったサウジーネが決意した思考であったが、そのことは伏せておく。
「私は色々とあって、本来は一般の平民として生活していました。それが父や弟の意思によって王族を存続するための駒として使うために王城へ呼び出され、仮初めの女王となったのです」
その頃に一二三と出会い、結果として王族は彼女を残して全て亡くなった。
「お飾りの時はそうでもありませんでしたけれど、本格的に国を背負う事になった私は、その重圧に押しつぶされそうになりました。城の兵士や侍女たちだけでなく、王には国の民すべてに対する責任があります」
だが、結果として彼女は自分の意思によって自分の為に自由に生きることで、重圧に感じていた地位を自分らしく生きるための力だと考えるようになっていた。
「ミキさんには力があります。勇者としての能力だけでなく、今後は母親としての強さも得られます。……でも、どうか勇者という肩書に押さえつけられる事無く、その力を自分と子供の為に使って欲しい。そのお手伝いがしたいのですよ」
「サウジーネ様……」
思いつめた表情を見せたミキに対して、サウジーネは話題を変えた。
「そろそろ昼食です。私は経験がありませんが、母親になるというのは随分と体力が必要らしいですよ。しっかり食べておきましょう」
ミキは自分にあれこれと考え込む癖がある事を自覚しており、それを優しく解きほぐそうとするサウジーネの優しさに、心が軽くなるのを感じていた。
その夜、ミキはサウジーネに願い出た。出産と一定の子育てが終わってからは、ホーラントの兵として働きたい、と。
サウジーネは、結論を先延ばしにした。全ては子供が産まれてから考えるべきだと。
お読みいただきましてありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。




