黒い人
「黒い人はね、どこでも居るよ。学校、市役所、国会議事堂。診療所、病院、老人ホーム。川や湖、海辺にも。果ては道路や家、先生の後ろにも。」
「なるほどね。それで、黒い人はどういったことをするのかな。」
「黒い人は何もしないよ。ただそこに居るだけ。でも、みんなにはそうじゃないように見えるみたいだね。」
「そうか。ただそこに居るだけなんだね。」
取調室のような狭く簡素な部屋で、机を挟み向かい合わせで座り先生と少女は話をしていた。
少女は白衣姿の先生を見てはいたが、時折その肩や足元にも視線を動かす。
まるで、何か動くものを見つけた猫のようである、そんなことを思いながら先生―――高名な精神科医は真面目かつ不真面目に少女とおしゃべりに興じていた。
「だけれど、本当に黒い人が何もしていないのならば、どうして黒い人が物を奪ったり人を殺したと声をそろえて言うのだろう。」
「簡単だよ。人を殺した、物を奪った。そんなこと自分は出来ないとみんな思いたいからね。」
薄く白い磁器のティーカップを持ち、色が黒く苦味しかない紅茶を少女は一口含んだ。
ほうと小さくため息をつき、カップを皿に置く。
先生は、ただ少女の動向を見るだけだった。
「自身の起こした異常行動を、誰かが言い始めた黒い人に投影しているのか。」
「そうだと思うよ。私みたいに、自分が異常だって思う人の方が少ないみたいだし、思っても言わないのが普通だからね。」
空になったカップを持ち、少女は振りかぶって壁に投げた。
大きな音を立て、細かくなった磁器の破片が先生の髪にべったりと張り付き、マーブル模様を描いた。
涼しい顔をして先生は頭をはたき、磁器の粉を落とす。
眉ひとつすら動かさず涼しい顔なのは、いつもの事だからだ。
「いつまでこれは続くのかな。」
「みんなが黒い人を忘れるまで。つまりは…。」
一瞬、二人の視線が交差する。
ふと先生は目を閉じ、世間という物を思い出す。
何か事件が起きれば、メディアを通じて情報が拡散される。
テレビを付ければしたり顔の大学教授が説明し、新聞を見れば細かな事実が羅列されている。
ラジオでは投書募り、ネットでは個々人が意見を交錯させる。
そして、メディアが忘れても、人々はふとした時にその事件を思い出す。
遥か過去の事であってもだ。
すで今回のことがそのまま乗った、「黒い人事件」という命題の本さえ出版されている。
きっと人々は、忘れない。
つまり―――。
「いつまでも終わらない、か。」
「もしかしたら、黒い人の亜種で赤い人とか黄色い人が出てくるかものね。」
少女はけらけらと嗤った。
白く輝く犬歯を見せ、彼女はただただ笑うのだった。
そして、皿に置かれたティーカップを手に取り、一口飲み込む。
いつの間に紅茶を淹れたのだろうか。
「黒い人が入れてくれた。」
ぼそりと少女は呟いた。
口を開き、先生は少女を見た。
少女も、先生をしっかりと見ていた。
そして、先生は気づいてしまった。
彼女の目に映る、自身と、自身の後ろに居る黒い影を。
即座に振り向き、後ろを確認するが、影などなく、あるのは白い壁だけだった。
少女は、そんな光景を見てまた嗤うのだった。
目に、黒い影を宿して。