シノビヨルセカイ(炎)
衝撃的な展開と言うか、超展開だ。2部構成ってことに気づかず手を出してしまったギャルゲーを思い出す。1部では頭とろけるくらいの萌えゲーだったのに、何故か2部から燃えゲーでお主人ちゃん! 皆は自分の買おうとしているゲームのライターくらい、きちんと確認しような!
家に戻り、鞄と制服をベッドに放る。手早く着替えて飯を済ませる。めぐを風呂に入れてやり、部屋に戻って格ゲーで遊ぶ。いつも通りだ。驚くくらいに何もない。本当に俺は今日、原先輩と出会ったのだろうか。
「お兄ちゃん、確反が温いわよ」
くっ、しまった。考え事をしていたらあっという間に逆転されている。
「もおおおおおおKアレやめてくれよおおおおおお!」
「前キャンありきのAアレ使ってるくせに、騒ぐのはやめてちょうだい。みっともないわよ」
俺の使っているキャラが真っ赤に燃えている相手キャラによってボコボコにされている。画面端から逃れようとしたら、狙い澄ましたかのような投げを食らった。
「死ななきゃ安い!」
「この状況で光るとか噴飯もの……えっ、ちょっとやだっ、やめてよ!」
負けたくなかったので、俺はさり気なく寝ころび、めぐの肩を足で小突いた。彼女は操作を誤り、その隙に俺はコンボを叩き込む。
「ふははははははははああああああああああああバニコンミスったああああああ!? へぶしっ」
俺は対戦に負けた上、リアルサイクバーストを使った代償としてめぐに平手を食らった。
「くそ、次はレシオ4のサムライが相手だぞ」
「情けないんだから。あら? お兄ちゃん、ケータイが光ってるわよ」
「お? おお」立ち上がって、ベッドに放置していたケータイを確認する。着信履歴が53。メールが23通届いていた。
「……おお?」
なんだ、この量は。俺はいつからこんなに人気者になったんだろう。やばいな。目覚ましが来て笛を吹いちまうぞ。
「どうしたの?」
めぐが小首を傾げた。非常に残念だが、お遊びはここまでのようだ。なるほど。家に着いたからと油断していた。間違いない。こんなことをするのは原先輩だ。あの人から鬼電である。俺はこれでもそこそこフラグを立てられる(ゲーム内で)。そのせいで修羅場もいくつか抜けてきた。そういう者にだけ働く勘がある。その勘が言ってる。俺はここで死ぬ。
めぐを自分の部屋に戻し、俺は窓を閉めた。そうして、震える指でケータイを操作した。メールを打とうと思ったが、文章を考えている内に電話を鳴らされまくったので、こっちから掛けるしかない。
『もしもしっ、はい、原です! 石高くんっ、ああ、よかった。やっと出てくれたんですね。あれから、ちゃんと家に帰られたか心配で心配で』
1コール目で繋がった。
「し、心配をかけてしまって、すみません。少しケータイから目を離していたものですから」
『本当ですか? また私を無視して愛ちゃんと遊んでいたんじゃあないんですか?』
「あはは、そんなわけ……なんで妹の名前を知っているんですか」
数秒、沈黙。
『私は石高くんのことならなんでも知っていますから。そう、例えば』
「言わなくていいです」怖いから。
「というか、俺の番号とアドレスを誰から聞いたんですか」
『ああ、サッカー部の方を突いたら、快く教えていただけました』
突くって。いったい、何をされたんだろう。そういや、サッカー部が大人しかったのっていつからだったっけ。まさか、その時から原先輩に何か……。
『ちゃんと私の番号を登録しておいてくださいね。それで、明日はどうします? 色々と私の方でも考えているんですけど』
「え、えっと? あの、明日ってなんですか? どうするって、え?」
『一緒に学校へ行くという話ですよ? では、私が石高くんを迎えに行きますね。ふふふ、自転車に乗るのなんて久しぶりです。いっそ、学校に向かわず二人きりでどこかへ行くのもいいですね』
初耳だぞ。先輩は俺と誰かを勘違いしているんじゃなかろうか。
『じゃあ、朝の六時に向かいます。お昼ご飯は用意しなくていいですからね。私がお弁当を作っていきますから。石高くんの好きな唐揚げをいっぱい作りますから期待していてください』
「なんかもう、色々と言いたいことはあるんですけど、まず、行かないですよ。俺は先輩と一緒に学校には行きません。しかも朝早過ぎますし」
『あ、で、でしたら六時半くらいで』
ちょっとー。どんだけポジティブな耳してんだよこの人。時間とか関係ないんだっつーの。大前提として行かないって言ってんのに。
「先輩、言ったじゃないですか。ゆっくりとでもいいって。付き合ってもないのに、そんなことはよしましょう」
『そ、そんな……そんなのって』
なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだ。本当なら、女子と一緒に登校とか胸熱のイベントだってのに。俺は溜め息を吐くのを堪えて、先輩の反応を待った。すると、変な音が電話口から聞こえてくる。なんだ、これ? 何か、削ってる? いや、擦ってるのか。金属が金属とぶつかるような、嫌な音だ。
「何やってんですか?」
『ごめんなさい。今、刃物を研いでいました』
「何故、今、研ぐ?」
『すぐに使うかもしれませんから』
剣を向けてきやがった! 矛先をこっちに定めてやがる!
「ちょっと、暴力に訴えようなんて真似は汚いですよ。仮にも生徒会長なんですから、もっと賢い方法でお願いします」
『だって石高くんと半日近くも会えないなんて、私、死んでしまいます! せめて朝の八時に学校へと続く坂道の手前で待ち合わせしてくれないと、私っ。私!』 しゃーっ、しゃーっ、しゃーっ、と、刃物を研いでいる音が聞こえてきた。
「ゴリ押し過ぎますよ!」
なお、どうにもならん模様。
朝8時。坂道の前。自転車で駐輪場へ向かう途中、原先輩は既にそこにいた。俺に気が付くと、ぶんぶんと大きく手を振ってくる。なんか、恥ずかしい。友達と遊んでいる時に、街中で母親と遭遇してしまったことを思い出した。
俺はぺこりと頭を下げて、駐輪場に自転車を停めた。なんか、微妙に注目されているような気がする。恐らく、気のせいではない。
「おはようございます。石高くん石高くん、荷物、持ちましょうか?」
「け、結構です。それより先輩、約束は覚えていますよね?」
原先輩は俺の隣に並んで歩き始めた。
「もちろん、覚えていますよ。まだ小さい頃、私と石高くんとで結婚の約束を誓い合った時の」
「頭大丈夫ですか?」
「ああっ、石高くんに心配されるなんて幸せ過ぎます」
この頭の悪い会話、周りに聞かれていたらどうしよう。というかどうするつもりなんだろう先輩は。
「そうじゃなくって、必要以上にべたべたしないって約束です。一緒に登校するくらいならいいですけど、過度のスキンシップは敵を作ります……って言ってる傍から腕を組もうとしてんじゃねえよ」
「ごっ、ごめんなさいっ。でも、でも、私はどうすればいいんですか。どこまでがセーフで、どこからがアウトなのか基準を設けてください。膝枕はセーフですよね?」
「腕を組むのがアウトなのに、どうしてそれをセーフと思えるんですか」
先輩は少しだけ距離を詰めて、口の端を歪めて見せた。
「じゃあ、誰も見ていない状況なら、どうなりますか?」
思わず唾を呑んでしまう。あれ? おい禄助。石高禄助。これはチャンスじゃないのか。大人の階段を上ってチェリーくんから卒業する絶好のチャンスじゃないのか。よくよく考えなくても原先輩は美人だ。学校で一番かもしんない。寿司で言ったら特上で、デザートで言ったら○ごとバナナくらい最強に可愛い。しかも、そんな人が俺を好きだと。愛していると言っている。おまけに昨日は全てを、さ、捧げる……と言った。何をビビってんだ俺! 行けよ! やれよ! 勝利を掴めよ! ごめん、無理! だって怖いって! もしも先輩とそういう関係になってしまったら、俺はきっと死ぬまで逃れられないだろう。蜘蛛の糸に絡め取られた羽虫のような存在になってしまうだろう。
「あ、ああああアウトです」
「そうですか。では、休み時間ごとに石高くんの教室に行くのはセーフですか?」
「それもちょっと……昼休みくらいなら考えますけど」
「うーん。初日ですから仕方ありませんね。我慢します。でも、お弁当は一緒に食べましょうね。生徒会室を空けておいたんです。邪魔が一切入りませんから何をしても大丈夫ですよ」
生徒会室はレッドゾーンだな。絶対に立ち寄らないようにしよう。
「今日は天気もいいですし、中庭か、人のたくさんいる教室で食べましょう」
「……………………はい、分かりました」
また目が死んでる。
先輩と歩いているうち、声をかけられることが多くなってきた。先輩の友達であったり、俺の知り合いであったり、
「禄助……? えっ? あやや、なんで? なんで原先輩と?」
優人であったり。
「おはようございます、寺嶋くん。実は、私と石高くんは男女の関係にあるんですよ」
優人は目を丸くさせた。面白い顔になっていた。
「な、何があったんだよ。意味が分からん。何から聞けば……」
「さあ、行きましょうか石高くん」
「うわあ入り込めない! 俺の親友が遠い! 置いてかないでくれ!」
「俺だって進みたくないんだよ」
「ろくすけーーっ」
「ゆうとーーっ」
先輩にじっと見つめられる。感情の宿らない瞳に射抜かれた俺は、彼女に従うしかなかった。
ホームルームでも授業の合間の休み時間でも、俺は質問攻めを食らっていた。そりゃそうだ。原先輩と一緒に登校なんて羨まし過ぎてハゲる。逆の立場だったら咎を責め抜いて首を晒すところだ。が、いざ当事者になってみると優越感も嬉しさも感じない。贅沢者と言われようが仕方ない。原先輩は恵まれた容姿に糞のような思考を持っているのだ。
「付き合ってんのか? 殺すぞ?」
「どこまでいったんだ? 殺すぞ?」
「もうこいつ殺そうぜ」
付き合ってないし、殺されたくもない。一生分の『殺すぞ』を聞かされたところで、四時限目が始まった。……昼休み、やはり先輩は仕掛けてくるのだろう。
予想通りと言うべきか、俺が教室から逃れる前にケータイに着信が入った。メールも入った。
「禄助ー、飯食いに行こうぜ」
「あー、そうしたいんだけどな」
「……原先輩か?」
俺はめぐに持たされた弁当箱を机に置いて、息を吐き出した。その時、教室の扉が物凄い勢いで開かれた。乱れた髪の毛を気にする様子もなく、肩で息をしながら、原先輩がその場にいる人たちの注目を集める。
「ごめんなさいっ、石高くんごめんなさいっ。遅くなりました。許してください、どうかわたしを嫌いにならないでください!」
「あー。あー、あのさ、禄助?」
「言うな。何も言うな」
「お腹空いてますよね。お弁当を作ってきました。あーんして、食べさせてあげますからね。あ、ふふふ、恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ? おなかがくうくうなっているんでしょう? いっぱい、食べさせてあげますからね」
「こくだかああああああぁぁぁぁぁ!」
樋山くんが吼えた。俺だって叫びてえよ! あーん、だぞ。あーん。夢見ていたさ、そんなシチュエーション。相手がこの人じゃなけりゃあな!
原先輩はずんずんと歩き、邪魔な机を動かしてまっすぐに進んでくる。彼女は俺の机に持参した弁当を置こうとしたが、
「………………なんですか。これは」
「いや、俺の弁当ですけど」
めぐに持たされた弁当箱に気が付いたらしい。原先輩はそれを、親の仇でも見るような目つきで睨んだ。
「誰が、作ったんですか?」
「妹、ですけど」
「へえ、そうなんですか。私、言いましたよね。私のお弁当を食べてくださいって。お昼は用意しなくてもいいって。そんなに、私の作ったものが嫌ですか。私みたいなやつの作ったものは手も付けられないってことですか」
なんか空気重くね? つーか、遠巻きに見ていたやつらも教室を出て行っちまうし。
「こんなもので石高くんを餌付けしようだなんて、あなたの妹さんも面白いことを考えるんですね。選んでください。私か。妹か。どちらのお弁当を食べるのか、選んでください」
「あ、じゃあ、めぐの作ってくれたやつを」
俺が弁当箱を開けると、先輩が無言で蓋を閉めた。目にも止まらぬ動作であった。
「え、選んでください」
「いや、今完全に選んでましたけど。宣言までしましたけど」
先輩は耳を塞ぎ、目を瞑り、よろめいた。
「聞こえませんでした。見えませんでした。あの、ええと、冗談ですよね?」
「あー玉子焼きうめえ」めぐの玉子焼きは絶品だ。
「なんでやねんっ」
崩れ落ちた先輩は、何故か関西弁を放った。がっくりとうな垂れ、天井を仰ぐ。
「めちゃめちゃ頑張ったのにっ、なんで報われへんねん!」
「落ち着いてください先輩。キャラがおかしくなってます」
「……取り乱しました。でも、実は私関西出身なんです。ごめんなさい。軽蔑しましたよね?」
「いや、何言ってんですか。関西出身だからって軽蔑しませんよ普通。思想歪み過ぎでしょう」
大阪はパスポートがないと入国出来ないらしいが、たぶん嘘だろう。
「はあ、よかった。石高くんに嫌われるかと思って、地元の言葉を使うのは我慢していたんです。感情を制御出来なくなると、勝手に出てしまうんですけどね。お恥ずかしいです」
先輩は適当な椅子と机を引っ掴み、俺の机とくっつけた。彼女は自分の弁当箱を開けて、唐揚げを箸でつまむ。そうして、にこにこと笑った。
「はい、あーんしてください」
「……それはちょっと」
「どうしたんですか? はい、あーん」
唐揚げが右目に押し付けられそうになる。すごくジューシーそうです。
「そこは口じゃないです」
「あーん?」
吐息交じりに言われてしまう。やばい。エロい。もうどうなったっていい(脳内ライブ会場でスネアを蹴飛ばしながら)!
「い、いただきます」
口を大きく開けた。
「召し上がれ」
唐揚げが口の中に入る。あ、そういやこれってアレじゃね。原先輩の箸なんだよな。今のうちに死ぬほどねぶっておこう。
「ふふふ、お味はどうですか?」
「ごぼっ!? がっ、お……!」
「ん?」
「まっじい!」
俺は唐揚げを吐き出していた。意識してやったことではない。身体が勝手に反応し、拒絶したのだ。床の上をコロコロと転がっていくそれを見て、原先輩の目から光が消えた。そんなことよりびっくりした。こんなものを食べたのは生まれて初めての経験だった。肉がぶにぶにしていて皮が辛かった。しかも変な味がして、未だに舌が痺れている。
「喉が詰まったんですか? ふふ、がっついて食べるからですよ」
「えっ、いや、思いっきりまずいって言ったんですけど聞こえてませんでしたか。俺は正直驚いてます。こんなウンコみたいな唐揚げを食べたのは……すいませんウンコは言い過ぎました。でも、これ味見とかしました?」
「しましたよ」と、先輩は唐揚げをもぐもぐと食べ始めた。吐き出す様子もない。おかしいな。舌がいかれてるのは俺の方なのか。
「大丈夫ですよ。ちゃんと薬の味がします」
「警察沙汰になりますからね」
調味料じゃなくて、この人はっきりと薬って言ったぞ。何仕込んでくれてんだ。もう嫌だ。絶対無理。俺は原先輩に背を向けて愛妹弁当を貪った。胃が浄化されていくような気分だ。
「ま、まだ他にも色々とありますよ? ほら、私のウインナーだって負けていません」
ちらっと視線を遣ると、やたら切れ込みの入った、リアリティのあるタコさんウインナーが目に入った。凝ってて気持ち悪い。
「石高くん? 石高くん?」
おろおろとしている先輩を放置するのは心が痛む。
「先輩、一つだけ言っておきます。もしも先輩が二目と見られない不細工だったら、俺はとっくに通報してますからね」
「やん、美人だなんて。とても嬉しいです」
「ストーカーだって言ってるんですけど」
「誰がですか? もしかして、石高くんはストーカー被害に遭っているんですか? 分かりました。教えてください。その人には痛い目に遭ってもらいますから」
先輩が自分の腹に何度もナイフを突き刺すのを想像し、俺は頭を振った。なるほどな。言葉が通じないってこういうことなのか。
「どうすれば分かってもらえるんでしょうね」
「奇遇ですね。私も同じようなことを思っていました。どうして、私の愛が石高くんに分かってもらえないのか。不思議で仕方ありません」
同時に溜め息を吐く。
「今、一緒のタイミングでしたね。ちょっと嬉しいです」
先輩は小さく笑った。……マネキンや能面じゃない。俺の知っている原先輩がそこにいた。
放課後、俺は優人と樋山くん、はては他のクラスメートからの追及を避けるべく、窓からパイプを伝って逃げた。ケータイがぶるぶると震え続けている。グラウンド側に着地し、俺は電話に出た。
『石高くん、今から迎えに行きます。どこにいますか?』
「……今ちょっと、異世界に召喚されちゃって。ここがどこか分からないんですよね」
『そこから動かないでくださいね』
通話終了。たぶん、俺の位置はすぐに割り出されるだろう。急いで靴箱に向かい、履き替える。馬鹿正直に正門から逃げる必要はない。かと言って、裏口からってのも危険だ。ここは――――。
「ああ、中に誰もいないと思ってたんですけど。よかった。こんなところにいたんですね。さあ、石高くん。帰りましょう」
「……何故分かったし」
俺は靴を履き替えて先輩たちをやり過ごす為に校内へと戻っていた。誰もいない3年の教室の掃除用具入れの中で息を潜めていたというのに、十分もかからずに見つかってしまった。ティンダロスの猟犬もびっくりの追尾性能である。
「石高くんのことなら、私、何でも分かってます。何でも知っているんです」
「え、あの、ちょっと帰るんでしょう? どうして中に入ろうとするんですか? ここ死ぬほど狭いんですけど!?」
至近距離で見る先輩の顔は素晴らしく作画が良かった。いい匂いもする。何だかくらくらとしてきた。
「狭いところって落ち着きますよね。ああ、こんなところで石高くんと二人きりなんて、どうにかなっちゃいそうです」
やばい。俺は先輩を突き飛ばして、掃除用具入れから脱出した。あのままだと、何をされても不思議ではなかった。MOTTAINAIが、俺にはまだ覚悟が足りていない。
「か、帰りましょうか、先輩」
先輩はとても残念そうな顔をしていた。
帰り道、坂を二人で下る。他の生徒はまばらだ。
「石高くん。一つ提案があるんです。聞いてくれますか」
「はあ、聞けそうなことなら大丈夫です」
「あだ名で呼び合いませんか? そっちの方が仲良しって感じがして、いいと思うんです」
素敵な提案だ。女の子とあだ名で呼び合うなんてギャルゲーでも中々ないぞ。
「というわけで、私のことはサトミンと呼んでください」
「なんか引っこ抜かれたり増えたりしそうなあだ名ですね」
「私が増えたら、その分石高くんを愛せそうでいいですね!」
全然よくない。
「石高くんのことは……ろっくんって呼んでもいいですか?」
俺は思わず足を止めてしまう。ろっくん。何故か、懐かしい響きだと感じた。
「ご、ごめんなさい。気に入りませんでしたよね。じゃあ……」
「あ、いえ、ろっくんでいいですよ、サトミン」
「はっ、ああああああああああっ。やばいです石高くん。いいえ、ろっくん。私のろっくんに対する好感度が『♪』って、こんな感じで上がってます。も、もう一度、もう一度言ってみてくれませんか?」
気持ち悪いくらい興奮している先輩を見て、俺の脳裏に走馬灯が過ぎる。先輩を初めて見た瞬間、先輩と初めて話せた瞬間、色々なものが一瞬で巡って消えていく。俺は心の中で涙を流した。
「サトミン」
「あー、うち、もう死んでもええわ」
先輩がよろめいた。……その姿を見て、なんだか、どうでもよくなっていることを感じた。というか、俺たちが馬鹿で、浅はかだったのかもしれない。原里美という人を外面だけで判断して、凄まじくいい人だと決めつけて、自分の価値観や理想を押しつけていたんだ。
「なんか、先輩って面白い人ですよね」
「面白い人は嫌いですか?」
「いいえ。好きです」
「……わ、私もです」
手が伸びてきた。先輩を見ると、彼女は俺の方を見ずに、俯きながら左手を伸ばしている。おずおずと、拒絶されるのを恐れているみたいだった。俺は何も言わず、右手を伸ばした。その瞬間、彼女の目が光った。まるでクリオネが獲物を捕食するかのごときスピードと獰猛さをもって指を絡ませてくる(クリオネの触手はバッカルコーンと言うらしい)。しかも手汗のせいで妙に湿っていた。
「幸せです。今なら、ろっくんのお願いをなんだって聞けそうです。屋上から飛び降りてオリバポーズ出来ます」
「したら絶交ですから」この人を鎖に繋げる人がいたら見てみたい。
駐輪場でチャリに乗り、途中まで先輩と一緒に帰って、俺は家に戻る。玄関に着いて靴を脱ぐと、ようやっと人心地がつけた。
「お帰りなさい、お兄ちゃん。……なんだか、とても疲れているみたいね」
「うん。まあ、な」
「夕食は店屋物にする?」
俺は少しの間だけ考えて、首を振った。勿体ない。確か、まだ材料は残っているはずだ。こないだ買ったほうれん草が痛み始める前に使い切る必要がある。
「今日はパスタにしよう。めぐ、ほうれん草をいっぱい入れてやるからな」
「私、ほうれん草は苦手なんだけれど」
「めぐは好き嫌いが多いなあ。そんなんじゃでっかくなれねえぞ。でも俺の身長は抜かさないでね」
「わがままね」
どっちがだ。
寝ても覚めても先輩のことばかり考えている自分がいた。眠っている間は夢の中で追いかけられ、起きている間も追いかけられる。ノーウェイアウト。俺のぱらいそはどこにある。
『ろっくーん、あははははははは、うふふふふ』
ここだった。俺のぱらいそはここだった。
原先輩は周りのやつらが外から判断していたような人ではなかった。が、それだけだ。先輩は先輩である。ストーカー気質で思い込みが激しくてアクティブ過ぎるきらいもあるけど、そういうところが先輩なんだ。そうじゃなかったら先輩じゃない。こうして考えてみれば、俺はやっぱり、先輩が好きだった。あの人を好きになってよかったとすら思える。対応や選択を間違えたら、とんでもないことになりそうなスリリングな関係でもいいじゃないか。
「……明日は休みか」
さっきからケータイが光って震え続けている。電源を落とし、睡魔に身を委ねた。