シノビヨルセカイ(烈火)
「そんでさ、優人って肝心な時にエナがチャンガしてる状態になってさー」
「えー、マジで? でもさそれってリング・キャパシの度合いにも……石高くん、どしたん?」
「ん、いや、なんか」
ある日、いつものように休み時間、廊下で女子と話していると、妙な視線を感じた。振り向いても誰もいない。怪しい人影など見当たらない。
「……あー、気のせいだったわ」
「前も同じようなことしてなかった?」
「だな」大いに頷く。
俺って自意識過剰なのだろうか。なんかここ最近はこんなんばっかだ。もしかして本当に、スナイパー(ロンゲで金髪でナンパな優男でも敵を十字架に打ち抜くナンパな優男でもライフルをメスゴリラによこしちゃうようなやつでもなく、一人称がボクでロシア製の対戦車ライフルを使っちゃうような女の子がいい)に狙われているのではなかろうか。
「それよりさー、今日、放課後は……って、あれ?」
俺の後ろに誰かが立った。いつの間に、だろうか。全く気付かなかった。何故だか、すぐには振り向けなかった。妙な寒気が全身を駆け抜けていったからだ。
「え、ええと?」
俺と喋っていた女子が目を見開いている。
「楽しそうにおしゃべりしているところ、すみません」
「……なんで、ここに」
振り向くと、そこには申し訳なさそうな顔をした原先輩がいた。彼女の姿を見かけることは何度かあったが、その度に視線を逸らし続けてきたのである。俺にとっては、この人の後姿すらきついものだった。そんな人が、どうして、わざわざ。今頃になって話しかけてくるんだろう。
「お久しぶりですね、石高くん」
「ええ、そう、ですね」
原先輩はにっこりと微笑んだ。……やめて欲しかった。この人を見る度、俺は当たり前のことすら出来なかった、とてつもなく小さいやつなのだという思いを感じてしまうからだ。
「お話したいことがあるんです。今日の放課後、空いていますか?」
何故か、先輩は俺ではなく俺の横にいる女子を見遣った。彼女は生徒会長である先輩を前にして、断ることが出来なかった。俺も仕方なく、頷く。
「分かりました。放課後、どうすればいいですか」
「迎えに行きますから、教室で待っていてもらえますか」
頭の中が真っ白になるのは、久しぶりだった。同時に、懐かしくもある。あの日からまだ、1か月しか経っていないというのに。
授業中も、昼休みも、上の空だったと思う。何を話しかけられてもまともには答えられなかったし、飯の味だって覚えていない。そも、何を食ったかすら思い出せない。
そんな俺を見かねたであろう優人が話しかけてきた。
「大丈夫か」と。
「何かあったのか」と。
俺は、大丈夫だと答えた。何も起きていないよと嘘をついた。
「……そうか。お前がそう言うんならそうなんだろうな。でも、一応気をつけとけよ」
溜め息を吐くと、優人は相好を崩した。
「なあ禄助。今度の日曜さ、いつものメンツに樋山くんも誘おうと思ってるんだ。最近しつこくてなあ。数分に渡って『俺がいかに蔑ろにされているのか』をマシンガントークされたよ。実際、なんか仲間外れにしてるみたいだったし、ちょうどいいかなって。だから日曜日、午前中に集まってさ、どっか行こうぜ。そんでぱーっと騒ぐんだ」
「ああ。いいな、それ。カラオケとか、ゲーセンとかな」
「おいおいおい女子がいんだぜ。もっとこう、華のある感じで行こうや」
にっと、優人は歯を見せて笑う。俺も真似しようとしたが、上手く出来なかった。どっか行って、ぱーっと、か。でもさ、そんで、どうすんだ?
放課後。俺はケータイの電源を落としてトイレに行った。優人たちには先に帰ってもらっている。教室に戻ると、残っている生徒は数人程度といったところであった。この後、俺はどうやら原先輩と話をするらしい。あの人の話を聞くらしい。どこか、他人ごとに思えて仕方がない。現実味がないんだ。
「お待たせしました。さ、行きましょうか、石高くん」
だけど、先輩の姿を認めると、いやが上にも認めざるを得なくなる。彼女は確かに微笑んで、俺の前にいる。手を伸ばせば届く距離にいる。
「どこに」
「そうですね。では、ついてきてもらえますか」
すれ違うやつが先輩の姿に見惚れていた。彼女の近くにいる俺には敵意のようなものがぶつけられた。はた迷惑だ。今なら優人の言っていた意味が分かる。高嶺の花で、つり合わない。俺が1万回人生をやり直して生まれ変わったところで、この人の隣にはいられないだろう。耐えられないんだ。先輩が良すぎて、自分がだめなのが分からされて、嫌になる。この1か月で理解したことだ。
無意識の内に歩調が遅くなる。だが、先輩はこっちを見ないで、俺に合わせるかのようにゆっくりと歩き始めた。母親に手を引かれているかのような気分に陥り、反吐が出そうだった。
連れてこられたのは家庭科室だった。照明はついておらず、カーテンも閉められている為に薄暗い。廊下側の窓から差し込む陽光だけが、室内を照らしていた。
「今日は、お菓子クラブの活動がない日なんです。瑞沢先生に無理を言って貸してもらいました」
俺は手近な場所の椅子を引き、そこに座った。原先輩は立ったままで俺を見た。俺を見下ろした。彼女に見られると卑屈な気分になってしようがない。少し前まではそんなことなかった。心が躍った。気分が高まったってのに。
「話って、なんですか。前の、ボランティアの時のことですか」
「それもあります。あの時は、私、大人げなかったですから。本当に、ごめんなさい」
綺麗に頭を下げられてしまう。ここから逃げたくなった。謝らなきゃいけなかったのは俺のはずだった。
「……先輩が頭を下げないでください。アレは、本当に俺がやったことですから」
「でも、石高くんはあい――――獅童くんを突き飛ばしていなかった。彼は振りをしていただけ、だったんですね。しかも、サッカー部の人たちの話は殆どが嘘だったんです。ですから、私は」
「確かめたんですか?」
「はい。それが何か?」
いったい、いつの間に。いや、この際どうでもいいか。誤解は解けたんだ。蟠りまでもがなくなることはないけど、これでいい。これがいいんだ。
「そのことはもういいじゃないですか、先輩。お互い、水に流しませんか?」
「石高くんがそう言うなら、そうします。話は、もう一つだけあるんです。聞いてくれますか? 答えてくれますか?」
そうしなきゃ帰られそうにない。
「ええ、もちろん」
「ああ、よかった。それじゃあ、あの……どうして。どうして――――」
先輩は笑った。
「――――どうして、私を無視していたんですか?」
いつか見た、マネキンのような顔だった。
こないだのことは水に流して、もう二度と先輩には関わらないつもりだった。
「石高くん。私は、あなたの方から謝りに来て欲しかったとは言いません。だって、石高くんが謝ることなんか一つもなかったんですから。ですが、それならそうと事情を説明して欲しかった。正直なことを言ってしまいますね。私は、サッカー部の人たちなんかよりも、石高くんのことを信じていました。ですから、伝えて欲しかったんです。私と話して欲しかった。出来るなら、詰って欲しかった。思い切り、強く。非難されるのが叶わないのなら、せめて、せめて……」
先輩は言葉を区切り、息を整えた。
「私が近づこうとすると、石高くんはするりと離れて行ってしまいました。一日が経ち、一週間が経つと、嫌でも気づきます。私みたいなやつだって気づけるんです。嫌われてしまったのだと。嫌でも。偶然ではなかったんですよね。人づてに呼び出しても石高くんは逃げましたね。どれだけ待っていても来てくれませんでしたね。目すら合わせてくれなかった。ただ、感じていましたよ。たまに、背中越しからあなたが見ていることを。それだけが支えで、救いでした」
原先輩の口調にはおよそ感情と呼べる熱がこもっていない。淡々としていて、どこか機械のようだった。温かみなんか、一切感じられなかった。
俺は思う。この人は、何なんだろう。誰なのかは分かっている。ただ、俺の知っている先輩と今の彼女とでは一致しなかった。……そうだ。この人は、何を言っているんだ? 支え? 救い? 俺は、先輩にとって路傍の石も同然の存在だ。なのにこの人は石ころを気に掛けるようなことを言っている。
「先輩。あの、さっきから何を……」
「ごめんなさい、口を挟まないでもらえますか。今、私が話しています」
背中に冷や汗が流れた。ああ、嫌だ。嫌な予感がする。どうせなら、思い切り打ってくれた方がマシだ。
「石高くん。どうしてなのか、答えてもらえませんか。私は、どうしてなのか気になって眠れないんです。ずっと、あなたのことを考えて考えて、頭の中がいっぱいなんです」
何故なのか。どうしてなのか。聞きたいのはこっちだ。
「……俺は、先輩を無視していたわけじゃあないんです」
「また言い訳をするつもりなんですか」
「今は俺が話しています」
そう言うと先輩は黙った。今にも泣きだしそうな目をしていた。
「聞いてください。先輩はいい人だ。綺麗だし、話をしてても楽しいし、優しい。万人に好かれる人なんていないと思ってたけど、そうじゃないんです。先輩は皆に好かれてて……俺なんかとは違うんです。俺は駄目なやつですから、先輩を見ていると、なんだか辛くなるんです」
本心だった。胸の内に巣食い、もやもやして沈殿していたモノが、するりと口から抜けていく気がした。
「俺なんかと関わってたら時間が勿体ないんです。だから」
先輩は大きな溜め息を吐いた。俺を見る目は、まるでゴキブリを見るそれと同じだった。
「石高くん。私はきっと、あなたが好きです。人間として、お友達としてではなく、男性として好きです」
「は、はあっ!?」
え!? マ、マジで!? なんて、単純には喜べない。好きだと言っている人が、好きな人をこんな目で見るか普通。
「ふううううぅっ。やっぱり、やっぱり言い訳じゃないですか。結局無視をしていたんじゃないですか。私は、私を無視をしていた理由を聞いたんですよ。なのに石高くんは自分が駄目だってことを延々と語っただけじゃないですか。時間が勿体ないなんて、そんなの構いません。私はあなたの為に時間を割いているのではありませんから。私はあなたの為に時間を作り、用意しているんです。何よりもあなたのことが優先されるんです。……私のことを綺麗だと、一緒にいて楽しいと、優しいと言ってくれましたね。嬉しいです。でも、やっぱり万人に好かれるものなんてこの世には存在しないんですよ。何故なら、私は石高くんに嫌われていますから。だから皆に好かれてても意味がないんです。あなたに好きだと言ってもらえないと意味がないんです。どうして、分かってくれないんですか」
「本気で言ってるんですか、それ」
「分かってくれないんですか?」
僅かに、先輩の目に光が宿った。獰猛で凶暴な、肉食獣を思わせる輝きだった。
「本気で言ってるんなら、教えてください。どうして俺なんですか。俺と先輩は会って間もないんですよ。まさか一目惚れなんて言うんじゃないですよね」
「いえ、言います。一目惚れです」
流石に絶句した。
「運命と言うものとは、これなのだと実感出来ました。どうして石高くんを好きになったのか。どこが好きなのか。例えば、強いて挙げるなら、小心なのに、その日は逃げようと思えば逃げられたのに、先生を呼んで私を助けてくれたことでしょうか。私のつまらない話にも相槌を打ってくれて、真剣に答えてくれたことでしょうか。折角のお休みを潰すというのにボランティア活動に取り組んでくれたことかもしれません。でも、決め手は石高くんの見え見えの好意でした。あなたは隠さなかった。いいえ、隠せなかったのかもしれませんね。でも、裏表のないあなたの心根が好きですから、気にしません。綺麗だと言ってくれましたね。嬉しかった。本当に。実際に、綺麗だと別の人に言われたことはありますが、心には響きませんでした。私は、あなただからこそ嬉しくて、好きになったのだと思います。下心を剥き出しにした男の人と話すのは疲れるんです。中途半端な方が、私は一番嫌いなんです。紳士然とした人が怪しく見えて仕方がないんです。でも、あなたは違った。石高くん。あなただけは違うんです。あなたは心を見せてくれたんです。あなたの、私のことが好きだという気持ちが嬉しかったんです」
「……俺にだって下心はありました。先輩の勘違いですよ、そんなの」
「少なくとも私の目からは石高くんの下心は見えませんでした。ならば、私が今あなたに対して抱いている思いは恋ではなく、愛なのかもしれません」
だれうま。
原先輩は俺に向き直った。笑みこそ浮かべているが、やはり、俺の好きな笑顔ではない。俺の知る先輩の顔ではない。
「石高禄助くん。私は、あなたを愛しています。もう、理由なんかいりません。欲しいのはあなたです。あなたが私を愛してくれるという証が欲しいんです」
そんなもの、俺は持ち合わせていなかった。手に入れたいとも思えない。先輩は、そんな俺の気持ちを読み取ったのだろうか。顔を曇らせる。そうして、徐に歩き出す。彼女の向かう先には、先生の使う机があった。
「先輩……?」
引き出しを乱暴な手つきで引くと、先輩はそこから一本の果物ナイフを取り出した。彼女は剥き出しになった刃に恐れず、柄をくるくると回して弄ぶ。
「怪我します。置いてください」
「心配してくれるんですか。嬉しいです。……ねえ、石高くん。最近のあなたは本当に、心の底から楽しそうでした。そんなに、そんなに私と離れられて嬉しかったんですか? あんな、どこにでもいるような女の子と話して、遊んで、一緒にいるだけで楽しくなれるんですか? 教えてください。答えてください。今度は、言い訳しないでくれると助かります」
何が助かるんだろうとは聞けなかった。なんとなく、分かってしまったからだ。
「楽しいですよ。俺は馬鹿でモテませんから。だから普通に女の子と話せるだけで楽しくて楽しくて仕方がない」
だん、と、鈍い音がした。先輩は肩で息をしている。彼女は、机の上にナイフを突き立てていた。木造の机を食い破った刃が、西日を受けて煌めいた。
「ごめんなさい。……ごめんなさい、お話を、続けてください」
「……でも、そうやって楽しんでても、心のどこかでは物足りないっていうか、もやもやとしたものがありました。先輩。俺は本当は、あなたに謝りたかった。でも怖かった。話してくれないんじゃないかって、もっと嫌われるんじゃないかって。だから逃げたんです。でも、本当はもっと仲良くなりたかった。あなたと距離を置いて嬉しかったことなんて、一度もありません」
「あ、あああっ、ああ、石高くん、石高くんっ」
何故か、先輩が両腕を広げて近寄ってくる。俺は思わず後ずさりした。
「……………………どうして、逃げるんですか?」
目が死んでいる。先輩の目が。死んでいる。
「いや、なんか、取って食われるような気がして」
「そんなことしません! 今は!」
「今はってなんですか!?」
怖い! この人怖い! 昔動物園で見たゴリラとかライオンよりも怖い!
「だって私たちは両想いなんですから。逃げる必要なんて、どこにもないでしょう?」
「た、確かに先輩は美人さんですから俺だって悪い気はしません。けど、そのう、怖いっす。今の先輩は、いつもの先輩じゃないです」
「直しますっ。私の悪いところは全部直します。気に入らないところがあったら取り替えますし治しますっ。だから嫌いにならないでください」
脳味噌から全部とっかえる必要性を感じる。しかし、口にしたら最後だとも思った。
「なりません。嫌いになりません。だから落ち着いてくださいお願いします」
「何を言っているんですか石高くん。私は今、とてもつなく落ち着てついていますです」
絶対嘘だ。
「ですから私の全部をもらってください」ぺらり。先輩はスカートの裾を自らの手で捲り上げた。
「下げろ馬鹿っ! 何やってんですか!?」 ぺらり。先輩はスカートを戻した。ちょっと残念だと思った自分はどこまで馬鹿なんだと思った。
「すみません、すみません……私、もっと勉強しますから。ですから、嫌いに」
「なりませんなりません。ちょっと言い過ぎました。ごめんなさい」
綺麗なバラには棘があると誰かが言った。しかし目の前にいる人はもはやバラではなく、綺麗なハエトリグサにしか見えなかった。
ぐすんぐすんとすすり泣いていた先輩が落ち着いたのは、三十分も経った頃の話だ。俺は椅子に座り、息を吐き出した。原先輩はびくりと肩を震わせる。何事かと思ったが、どうやら、俺が先輩に対して悪感情を持ったのだと勘違いしたらしい。宥めるのに、更に十分程度の時間を要した。
「……あの、大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい。面倒ですよね、うざいですよね、すぐに、すぐに泣き止みますから」
「ちょっと、なんで自分の目にナイフ刺そうとしてるんですか。止まるどころかもっと別のもんが出てきますって」
俺、どうしてこの人を好きになったんだろう。
「何度も言いますけど、俺は先輩を嫌いになりません。ただ、いきなり付き合うとか、そういうのは早いと思うんです」
「はい、はい、分かります。石高くんの言う通りです」
「本当に話聞いてます?」
「石高くんの言うことなら何でも聞きます」
重い。
「私は石高くんを愛していますから」
「あの、重いんですけど……」
「愛なら仕方がないと思いませんか?」
にっこりと微笑まれる。相変わらず能面みたいな笑顔だけど、なんとなく、いつもの原先輩らしさが戻ってきたような気がする。
「お、お友達からはじめましょう。先輩、愛は人を盲目にするとゲームで言っていました。たぶん、先輩は俺のことを過大評価してるんですよ」
「いいえ、していませんよ? 石高くんは素行がよくないくせに本物の不良には道を開けてしまうくらいの小者ですし、成績だって、ルックスだって並以下です。でも、そこがいいんです。私はあなたの全部を分かっています。分かっていて好きになったんですから大丈夫です。何の問題もありません。なので、時間をかける必要はありません。出来れば、今日中にでも籍を入れたいくらいです」
ひい。アクティブ過ぎる。どうしてこんな人が野放しになっていたんだろう。知らなかった。生徒会長からは逃げられない。
「ちょっとホント勘弁してもらえませんかね」
じっと見つめられてしまう。先輩の目には何の光も宿っていなかった。真っ暗だ。吸い込まれそうになる。嫌な意味で。
「付き合うのも結婚も俺は、早いと思います。こういうのは、双方が合意しないと意味がないと思うんですが」
「では、どうしたら合意してくれますか」
「時間が解決してくれる問題だと思います。俺は、先輩のことを憎からず思っています。だから、ゆっくりと、その、いきましょう」
時間を稼ぐしかない。先輩が3年で助かった。彼女は俺よりも先に学校を卒業する。たぶん、普通にいけば大学に通うだろう。環境が違えば、距離が離れれば、俺に対する執着のようなモノも冷めてしまうに違いない。あと1年もない。原先輩が卒業すれば、何のかんので理由をつけて逃げられるはずだ。だけど、先輩だってそんなことは分かっているだろう。強硬に断られそうだ。
「分かりました。石高くんがそう言うのなら、我慢します。時間は有限ですが、私の、あなたに対する愛は無限ですから」
よかった。物わかりがよくて、本当に。
原先輩はにこにことしていた。一気に機嫌が良くなったらしい。
「楽しみですね。これからが楽しみです。石高くんと一緒にいられるだけで幸せです。けれど、修学旅行や運動会。文化祭に、ああ、テスト前に一緒の部屋で勉強するのも……素敵です」
「は、はあ。……え? 修学旅行?」
「はい。私、決めました」
何を。
「私、留年しますね」
「う、うわあああああああああ!」
俺は逃げ出した。しかしあっという間に回り込まれて正面から抱きしめられた。柔らかなおっぱい(バリトンボイス)の感触と、先輩の長い髪から漂ういい匂いに包まれた。あ、ちょっと役得っつーか幸せです。
「石高くん」
「ふ、ふぁい。なんでしょうか」
ぎゅっと、ではなく、ぎぎぎ、という感じで抱きしめられる。
「好きです。愛しています。ですから、逃げないでください。次にそんなことをされたら、私、ショックで何をしでかしてしまうか、自分でも分からないと思いますから」
耳元で囁かれた。先輩の透き通った声は、頭の中でリフレインし続ける。
違う。俺は確かにこういうことを望んでいた。先輩とこんな関係になることを望んでいた。だけど、あれ? あれれー?




