シノビヨルセカイ(HAPPY END)
「それじゃあ行きましょうか、石高くん」
頷き、俺は彼女に倣って歩き出す。差し出された手を、何も考えないで握る。
「結構ドキドキしますね」
「そうですか?」
葉桜を背にして、彼女は笑んだ。
文化祭は終わった。
もう、あの日、あの時の屋上でのことは思い出したくもない。
ただ、一つだけ。あの日あの時。俺に名を告げられた時の、原先輩のほっとしたような、何とも言えない笑顔だけは忘れられそうにない。たとえ死んだとしても。
俺は原先輩を選んで、部活をやめた。気まずかったからだ。居残ればもっと気まずいことになるだろうと思ったからだ。逃げた。そう後ろ指を指されても仕方がない。
そうして、原先輩は学校を卒業して、俺は三年生になった。
「一人暮らしを始めたんですよね」
俺がそう言うと、原先輩は小さく頷いた。
原先輩が大学生になってから、俺と彼女は週末に会うようになっていた。週末だけだ。お互い、新しい生活が始まって忙しいだろうと思い、気を遣ったのだ。
そんな折、ゴールデンウィークの最終日に原先輩から連絡があった。私の家で会いましょう、と。断る理由はない。むしろこの連休で一度も会っていなかったのが不思議なくらいである。何せ俺たちは彼氏彼女の関係なのだから。
「まだ石高くんを家に招待していないなあって。大学のお友達は呼んだんですけどね」
「一人暮らしって憧れるんですけど、すげー大変そうですよね」
「一か月も経てば慣れちゃいますよ」
先輩は実家を離れ、大学に近い場所のアパートを借りたらしい。彼女の新しい家までの道中、色々なことを話した。互いの用意する話題が噛み合わなくて少しずつ修正していくのも、新しい季節が来たんだと実感するのにちょうどよかった。
見覚えのありそうでないような、そんな道を進むこと十分。原先輩がとあるアパートを指差した。築年数が四半世紀も過ぎたような朽ちかけたそれは、彼女には似つかわしくないように思えた。
二階の一番端が原先輩の部屋らしく、俺は彼女の背を追いかけた。
「石高くん」
「はい」
先輩が鍵を取り出して扉を開ける。彼女は俺を部屋の中に招き入れる。その誘いに応じて室内の暗がりを見回している内、サムターンが冷たい音を発した。
「私、寂しかったんです。石高くんは寂しかったですか。私と、会えなくて」
「ええ、もちろん」
俺は靴を脱ぎ、先輩の家に上がる。後ろから抱きすくめられて、そのまま押し倒された。その際、頭を強かにぶつけて目の奥で火花が散る。久しく覚えのなかった痛みにビビったのか、情けない声を漏らしてしまった。
身体を起き上がらせようとしたが、先輩は俺の手首を掴み、無理くり俺の体を反転させて馬乗りになってきた。色気も、品性の欠片もない粗暴な立ち振る舞いだ。
「石高くん」
先輩の目玉が俺の目玉を射抜いてくる。彼女の視線には一切の光が宿っていなかった。
「寂しかったのなら、連絡をしてくれてもよかったじゃあないですか」
涙声。先輩の言い分は尤もだった。そうだ。寂しいのなら会えばいい。俺たちは何にも隔たれていない。普通の少年少女だ。会いたいのなら会えばいい。
「……そうしなかったってことは、寂しくなかったってことなんでしょうね」
俺の口から出た言葉は自分でも驚くほど白けていた。だが、正鵠を射たのだと悟る。
先輩は反射的に、衝動的に右手を振り上げていた。しかし、手を上げることは躊躇われたのか、力なく、ゆっくりとその手を下ろす。
「そう、ですか」
そうして彼女は当たり前のように、その手を俺の首に這わせてきた。すべらかで冷ややかなそれは蛇か、あるいは蛞蝓か。どちらにせよ気持ちのいいものではない。
「そんな気はしていたんです。いえ、ずっと。あなたに選ばれてからもずっと疑っていたんです。石高くん。あなたは私を見ていなかった。ずっと、他の誰かのことを見て、思っていたんですよね。最初はそれでもいいと思っていました。嬉しかったから。二番目でも、三番目でも、何番目でも構わなかった。選ばれたから、それだけで。けれど駄目なんです。これ以上は私が耐えられなくて壊れてしまうから。だから……」
俺は抵抗しなかった。
晦冥を背にして、彼女は笑んだ。
薄れていく意識の中で、俺はあの日の先輩の顔を思い出した。
俺は思う。
……いや、何も思わない。何も考えられない。思いたくないし、考えたくもない。
何でだろう、とか。やり直せるなら、とか。そんな陳腐なことしか浮かんでこない。
けど、そうだな。そんなことでも構わない。ありきたりでも、何でも。俺じゃない俺が。俺とは違う答えを選んだ俺がいたのなら、どんな風に、どんな人生を送ったんだろうかって、そう、思ってしまう。そんな俺がいたんなら、まあ、頑張れ。今の俺よりはマシだろうからな。




