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カクセイスルセカイ(運命かもしれない人)

「いってきまーす」

 三和土で靴を履いていると、めぐが目を擦りながらとてとてとやってきた。

「早いのねお兄ちゃん。一番くじでも買いに行くの?」

「いや、だったら日付が変わる瞬間を狙ってコンビニへ向かう。じゃなくてバイトだよ、バイト」

「こんな朝早くに?」

「いや、なんかフリマみたいなのをやるらしくてさ、その準備を手伝うんだよ。店を端から端まで掃除しなきゃ駄目みたいで」

 確か、古本市とか言ってたっけ。

「というわけでお兄ちゃん気合入れて掃除してくるからな」

「自分の部屋は汚いままなのに?」

「いってきまーす!」



 朝の空気は実にいい。爽やかだ。何かいいことが起こる予感がする。おれのなつやすみは始まったばかりだし、夏色真っ盛りのキセキが降り注ぐような、そんな気がする。つーか起これ。

 くだらないことを考えながら自転車を漕いでると、榊原書店に到着した。店の戸は既に開いている。誰かの声も聞こえてくるな。とても嫌な予感がする。

「……おはようございまーす。ユキさん、いますかー?」

「あら、石高さん。来てくださったのですね」

 三角巾を頭に巻いて、感触を確かめるようにはたきを素振りするユキさんがいてくれた。今日も素敵。

「もちろんです。ユキさんとの約束は破りません!」

「私との約束は破るけどな」

「あ、せんせーもいたんですね」

 予想通り瑞沢先生もいた。ユキさんとの時間も掃除も邪魔しないでくれると助かるんだけどなあ。

「揃ったから始めるぞ。石高、お前はあっちの棚から、私は……」

 ユキさんは指示厨の口をはたきで塞いだ。

「姉さん、何をするんだ」

「こんなところに大きな埃が。あっ、凜乃でした」

「わざわざ手伝いに来た妹に言うことか」

「石高さん、無理はしないでくださいね」

 この姉妹はなんつーか、相変わらずだ。

「大丈夫ですよ。掃除くらい簡単ですって」

 俺はユキさんからはたきや雑巾を受け取り、担当箇所を確認する。

「本はどうしたらいいですか?」

「一度まとめていただけますか? 何を出品するのか、まだ決めあぐねているのものですから」

「オッケーです、分かりました」

 よっしゃ、気合入れてやろう。



 脚立を使って、棚の上の埃やらをはたきで床に落とす。濡れた雑巾でざっと拭き、乾いた布巾でさっと拭く。榊原書店の歴史は古い。店の中の物も古い。はっきり言ってこの店をピッカピカにするには業者を呼ぶ必要があるだろう。けど、きっちり掃除することで、この店独特の空気がなくなるのは嫌だったりもする。

「…………うーん」

 掃除するのは嫌いじゃない。鼻歌交じりでやれるくらいだ。

 が、何か、さっきから妙な視線を感じる。瑞沢がちらちらとこっちを見ているらしかった。用があるんならさっさと言って欲しいんだけど。

「なんすか。先生」

「ん? ああ、いや……何でもないから気にしないでいいぞ」

「ずっと見てて何でもないってことはないでしょう。気になるんでさっさと言ってください」

「お前、何か遠慮がなくなってきてないか?」

 気のせいだろう。

 俺は作業の手を止めた。脚立に座って先生を見下ろす。彼女は少しだけ嫌な顔をした。

「前に落ちただろう。ここで脚立から。あ、落ちたのは私だが。……だから、ちょっと気になったんだ」

「俺が落ちないかってことがですか?」

「心配なんだ。悪いか?」

 何故睨む。

「や、嬉しいですけど」

「そうか? うん。そうだろう?」

「でも気が散るんでこっち見ないでくださいね」

「当たりがきついぞ」

 俺は作業を再開したが、先生はやっぱりこっちを気にしているみたいだった。そこまでどんくさくないって。



 時計で時間を確認するより前に、腹の減り具合で昼になったのだと気づいた。ちょっと昼飯を買いに行かせてもらおう。

「ユキさーん、休憩しますよ俺」

 脚立から下りながら雇用主の姿を探す。しかしユキさんは店の中にいない様子だった。いつの間に、どこへ行ってしまったんだろう。

「先生はいるのに」

「どういう意味だ?」

「お腹減ったんでコンビニ行ってきますね」

「その必要はない。姉さんが何か作っているからな。ああ、ゆっくり降りろよ」

 まさかMAKANAIってやつをいただけるのか?

「やったぜ。ユキさんの手料理が食べられるだけで幸せってやつですよ」

「どうせ素麺だろう。飽き飽きだ」

「お菓子の一つも作れないのに何を言ってんですか」

 俺は服に付いた埃を払って、居間の方を見た。ユキさんが俺の為に甲斐甲斐しく、てきぱきと動いてくれている。感無量だ。生きててよかった。

 昼食の準備を済ませたユキさんは暖簾を潜り、俺に微笑みかけてくれる。

「簡単なものですけれど。よろしければ」

「いっただきまーす!」

 急いで居間に上がった。

 テーブルの上の木桶(俺んちなら普通にガラスの器だ)にはそうめんと幾つかの氷が入っていた。あと、何故かスライスしたキュウリも。しかし見た目は実に涼しげである。今度試してみよう。

「ああ、私が取りますから。石高さんは座っているだけでいいんですよ」

「え? いやいや、そこまでは」

「薬味は何を入れますか?」

 ユキさんは俺の話を聞いてるのか聞いていないのか、問答無用で隣に座ってくる。そんでもってそうめんを取る為に、こっちに身体を押しつけてきた。

「石高さん?」

「あっ」耳元で囁かれた。ぞわりと鳥肌が立つ。

「あの、じゃあ、みょうががあれば、その」

「みょうがですね」

「ああっ」

 あかん。骨が溶ける。

「はい、口を開けてくださいね。私が食べさせてあげますから」

「お願いします!」

「アホか!」

 先生がユキさんを蹴飛ばした。かなり重そうなローキックだったが、しかし、ユキさんは怯まない。

「そうめんくらい一人で食べさせろ!」

「やめなさい凜乃。食事中にみっともない。埃が立つではありませんか」

「甘やかすなと言っているんだ」

 いきり立った先生は俺からユキさんを引き剥がそうとしている。

「黙りなさい。ここは榊原の家。すなわち私の領域です。あなたが口を挟む権利など存在しません。いいから、あなたは隅っこでキュウリを齧っていなさい」

「石高を駄目な人間にするつもりかっ。戻ってこい石高。そこのメス蜘蛛に骨抜きにされるぞ」

「蜘蛛の巣が張っているくせに何を言いますか」

「生徒の前だぞ!?」

「はあ。凜乃は今の発言をどういう意図で受け取ったのですか、まったく。あなたも早く結婚してみたらどうなんですか。いい歳をして純情ぶって情けない」

「相手がいないんだ。私の理想が高いだけだ」

「上ばかり見てると転びますよ」

「下ばかり見て石ころを拾うような人間にはなりたくない」

 あっ、このめんつゆ美味い。後で作り方を聞こう。



 俺はお昼ご飯の片づけを手伝うことにした。

 榊原家の台所。流し台でユキさんと隣り合って皿を拭く。

「片づけって言っても、三人分で食器も少なかったです。俺だけでもよかったんですけど」

「手伝わせてしまって心苦しいくらいです。どうか、私の気持ちを察してやってくださいな」

 蛇口から流れる水の音は、じきに止むだろう。

「先ほどは、姉妹揃ってお見苦しいところをお見せしてしまって……。どうにも、石高さんのことになるとむきになってしまうのです。私も、恐らく凜乃も」

 先生も? 俺のことで?

「気を悪くされたらごめんなさいね。石高さんは、亡くなった主人と似ているものでしたから」

「顔、ですか」

「いえ。頼りないところが」

 えー。

「石高さんがアルバイトをやりたいとうちにお見えになった時、私は、運命というものはあるのだと、そう信じざるを得ませんでした。こんなおばさんにそんな風に言われても、石高さんに迷惑なだけでしょうけれど。それでも、そう思ったのです」

 少し嬉しかった。

 そんで、少し腹立たしかった。だから、俺の口調はちょっとだけ刺々しいものに聞こえてしまうかもしれない。

「死んだ人が帰ってきたって思ったんですか」

 ユキさんは、その問いには答えなかった。

「だから俺を甘やかして、自分を慰めようとしてたんですか」

「本当に、ごめんなさい」

 二人でやると片付けも時間はかからない。俺はタオルで水気を拭いて、ユキさんから離れた。

「少し、嫌な言い方になっちゃいますけど。死んだ人と俺を重ねて見るのは勘弁してください。そんだけです」

「……石高さん」

「よかったら、今度から普通に接してもらえると助かります。ユキさんの旦那さんに似てる俺じゃなくて、普通の、石高禄助だと思ってください」

「よろしいのですか。私のことを、もっと強く詰っても構わないのですよ。私はそれだけのことをしたのです。石高さんにはその権利があります」

 あったとして、そんな権利は俺には必要ない。ユキさんを責める権利なんか誰にだって渡せないし。

「俺はたぶん、ユキさんに何をされても嫌いになれないと思います。あ、もちろんアルバイトだって辞めませんからね。気まずくなるからクビなんてのはナシですよ」

「本当によろしいのですか」

 ユキさんは泣きそうだった。しまった。言い過ぎちゃったかもしんない。

「どうせならアレですよ。バイトじゃなくって正式に雇って欲しいくらいですよ。俺、ここで働くのも、ユキさんも好きですし」

 本心だった。そりゃあ、この店はお客さんが少ないから楽だ。でも、それだけじゃない。俺は、ユキさんの店だからこそ、ここで働きたいって、そう思ってる。

 それが伝わったのだろうか。ユキさんはようやく笑ってくれた。

「たくさんは稼げませんよ」

「俺とユキさんの分くらいならどうにかなるかもしれませんよ」

 俺がそう言うと、ユキさんは不思議そうに小首を傾げる。

「二人分、ですか」

「はい。二人分です」

「本気で仰っているのでしょうか」

「あ、迷惑でしたか。でも、結構本気っすよ。永久就職ってやつですね」

 ん? ちょっと違うか?

「……石高さん。私のようなおばさんに火をつけたのですから、きちんと責任を取ってくださいますよね?」

「やだなあ、ユキさんは全然おばさんって感じはしないですよ」

「ふふふ、やっぱり石高さんはいいですね」

 あれ?

 そういや、さっき先生はユキさんのことを蜘蛛とか言ってたけど、なんか、今は蛇みたいに見えるっつーか。絡め取られるってよりも丸呑みにされそうなイメージが。



 榊原書店からの帰り際、俺は瑞沢せんせーに後ろを取られた。仕掛けられる前にステップして距離を取り、反転してから頭を振って的を散らす。

「何のつもりだ」

「いや、つい」

「いい加減普通に接してくれると嬉しいんだがな。それより石高。お前、姉さんに何か言われただろう」

 何かって。まあ、色々言われた気はする。

「いや、お前が姉さんにいいことを言ったのかな。今日は酷く嬉しそうというか、いつになく生き生きとしていた。いつもは、いつ死んだっていい、みたいな顔で笑ってるくせにな」

「ユキさんが、ですか?」

「あのクズが死んでから、姉さんはあまり笑わなくなった。だが、恐らく、お前があの店でバイトを始めてから、なんだろうな。姉さんは楽しそうにしている。私は……」

 先生は厭世的な笑みを浮かべた。

「姉さんが妬ましくて、羨ましい」

「先生は、ユキさんが楽しそうにしているのが嫌なんですか」

「分からん。ただ、置いていかれたような気がして嫌なんだ。世の中全部が厭だなんて顔をしている。そのくせ、今日はあんな顔をしていた」

 もしかして先生ってシスコンなんだろうか。

「じゃあ先生も楽しくやりゃあいいじゃないですか」

「根っから真面目なんだ、私は。お前らにも面倒をかけられているしな。第一、姉さんの楽しみと私のそれは一致しない。いや、同じだからこそ、姉さんが楽しんでいる間はその邪魔をしづらいんだ」

 よく分かんないことを言ってんなあ、先生も。

 でも、先生は自分でもよく分かってない、深いところの何かを話そうとしてくれてる。

「先生は結構アレっすよね。難しく考え過ぎてるような気がします。顔もいつも怖いし」

「怖いか」

 怖いっす。

「丹下院なんかはクソほどビビってますよ」

「そうか。少し気にしているんだがな」

「もっと楽しそうにしてりゃあいいんすよ。振りだけでも。何だったら手伝いますし」

「そうか。じゃあ、うん。お前、分身とか出来るか?」

「出来たらどうするつもりなんすか」

 武術だけに飽きたらず、遂に忍術にまで手を出そうと言うのか。



 バイトからの帰り道。俺はふと思い立って駅前に足を伸ばすことにした。

 しゃくしゃくと自転車を漕いで、不細工な犬の彫像を通り過ぎて、近くの駐輪場に相棒を預ける。辺りを見回すと、サラリーマンの姿がちらほら見えた。俺たちは夏休みだが、そうでない人の方が多い。

 とりあえずメイトに向かおうと歩き出したところで、いい匂いが鼻をくすぐった。ホットドッグか何かの屋台である。背の高い女の人が、サクラかなって思うくらい、美味しそうにそれを食べていた。

 しかも缶ビール片手に。

 美人さんだが、野球の試合を見に行った帰りみたいな格好で少しばかり残念感が漂っている。

 ホットドッグは美味そうだが、晩飯が控えている。ここは見なかったことにしよう。

「……お、ろく高くんじゃないか」

 まあ小林先輩なんだけど。ここは聞かなかったことにしよう。

「ああー、無視するのか。酷いやつだなあ」

「ぎっ」

 後ろから思い切り襟を掴まれてぐいーっと引き寄せられてしまう。首の骨が折れたかと思った。

 抗議の声を上げようとして振り返ると、赤ら顔で、にへらと笑う小林先輩の顔が間近にあった。いつも無表情なので胡散臭いと言うか嘘っぽい。おまけに酒臭い。

「だって酔っ払いに絡まれたくなかったんです」

「ろく高くんの作ってくれたおつまみで晩酌出来たらいいなあ。それで、侍らしてお酒を注いでもらうんだ。最後にデザートがあれば嬉しい」

「完全に酔っ払いじゃないっすか」

 こっちの話を聞いちゃいねえ。

「あっ、そうだ。新しい居酒屋が出来たんだ。チェーンだけど普通に美味しいから、今から行こう」

「俺未成年なんすけど」

「あはは、黙ってれば平気だ」

 うっ、目が据わってる。

「い、今から帰って晩ご飯を食べる予定なので」

「……うーん、そうか」

 小林先輩は腕を組み(胸が強調されていた)、低く唸る。

「ああ、じゃあ、私も一緒に食べたい」

「は? 俺んちで、ですか?」

「うん」うんじゃねえよ。

「丁重にお断りさせていただきます」

「やだーっ、行く―っ。ろく高くんちの晩ご飯食べる―っ」

「ぎゃあああああ!?」

 タックルされた。倒れそうになるのを堪えて小林先輩を押し留める。やめろバカ、往来だぞ!

 小林先輩は腹に頭を押しつけてくる。何だこのゴリ押し加減は。いつもの先輩じゃない。

「マジでやめてくださいって! こんなところを知り合いに見られたら……あっ」

「な、何をしているんですか。こんな、こんな……」

 最悪だ。

 原先輩に見つかった。

 景色がぐにゅーっと歪んで、流れているはずの時間が遅く感じて気分はもうすんごいどんより状態。

 というか、どうしてこんなところで一番出会っちゃいけない人と出会うんだよ。

「あ、こんにちは、先輩。今日はお買い物ですか?」

「違います! 誤魔化そうとしているつもりなら怒りますよ。……私は生徒会長としてこの辺りを見回っていたんです。先生方からお願いされて仕方なくやっていたのですが、まさか、こんなところに出くわすとは……! 神の配剤です。二人を断罪したいと思います。物理的に」

「んー? はら?」

 小林先輩がとろんとした目で原先輩を見遣った。

「あっ! お、お酒! 飲酒してるんですか小林さんは!?」

「いいじゃないか。私は成人してるんだぞ。大人なんだ」

「でも学生です。しかも石高くんに抱き着いてぇぇぇ……! いいから離れてくださいっ」

「うるさいな。帰れ。私は今からろく高くんとご飯を食べるんだ。ろく高くんの家で」

 原先輩が卒倒しかけた。が、彼女は持ち前の粘り強さで踏み止まる。

「い、今、頭の中で七十二通りの選択肢が思い浮かびました」

 たぶん、どれも暴力に訴えかける選択肢だろうな。

「言いたいことは山ほどありますが、とにかく、あなたが石高くんの家に行くことは許しません。如何なる手段を用いてでも阻止します」

「何を言う。それはろく高くんが決めることだ。部外者のお前には関係ない。……なあ、ろく高くん」

「な、なんでしょうか」

 小林先輩にじっと見つめられる。完全に酒が入っているからなんだろうが、赤くなった頬と潤んだ目。そんで妙な色気が漂っている。

 逆らうことは、可能か?

「行っても、いいよな?」

 不可能である!

「リクエストには何でも答えます!」

「石高くん!? いけません! ホンママジで無理! アカンて!」

 原先輩は一足飛びで距離を詰め、小林先輩に手刀を放った。が、小林先輩はその攻撃をぬるりと回避する。

「ろく高くんがいいって言ってるんだぞ」

「へー? へえええええ? そーなんですかー? じゃあ石高くんに死ねって言われたら死ぬんですかー?」

 子供か。

「……そんなことをろく高くんが言うとは思わないが、言われたら、私は本当に死ぬかもな」

「いや、そんなこと言いませんって」

 激高する原先輩に対して、小林先輩は冷静だ。というか酔っ払いに反論される人ってどうなんだ。

「コルルァ! 何をKPコクダカポイント稼いどんねん!」

「何だそのポイントは。原。お前は馬鹿なのか?」

「すまし顔で! あなたという人はぁぁぁ!」

 ここは地獄だ。獄卒の牛頭と馬頭が暴れている。誰か。助けて。



 視線をあらぬ方に向けた時、俺は神を見た。お釈迦様の差しのべた蜘蛛の糸を見た。

「た、丹下院!」

 駅前のコンビニから丹下院が出てきたのを見て、俺は彼女に向けて必死で手を振った。

 すると、丹下院も俺の存在に気が付いたのか、こっちを見て自分を指差し始めた。何やってんだボケ! いいからこっちに来い!

 って、あれ? もしかしてあいつ一人じゃないのか。なんかコンビニから男がわらわら出てくるんだけど。んだよビッチが。『ごっめーん☆ あたしってクソモテるから』って自慢したかっただけかよボケ。もういい。俺は一人で帰るぞ。


「てめええ石高ぁぁぁぁぁぁ! 無視してんじゃないってー! マジでやばいから助けてってー!」


 うわ、人目もはばからぬ大絶叫。助けて欲しいのはこっちなんだけど。

 しかし祈りは届いた。

 丹下院のシャウトを聞いた原、小林の両名が喧嘩を止めてこっちにやってきた。

「……どうしたんだ、あれ」

「丹下院さんではないですか。もうこれ以上競争相手を増やしても仕方がないので放置しておきましょう」

「なんか様子がおかしいんすけど」

 丹下院はちゃらい連中に囲まれている。てっきり友達か(セックス)フレンドかと思ったんだけど、険悪っぽい雰囲気だ。

「んん? あの背の高くて頭の悪そうなのは、岩男くんですね。ああ、なんだ。同じ学校の生徒なら何も問題はありませんね」

 岩男? そういや、前に待木が言ってたっけ。丹下院は確か、そいつから逃げてるんだよな。めっちゃ自業自得だけど。

「めちゃめちゃこっち見てるんすけどあいつ。しかも『助けてくれ』ってガッツリ言ってますよ」

 行ったら絶対面倒なことになる。というか暴力沙汰になるぞ。でも、丹下院を見捨てられるのか? 思い出せ。俺は、あいつに…………いや別にいいやつじゃなかったな。つーか何回も痛い目に遭わされてるし、助ける義理なんかどこにもない。

「ほっといて帰りましょうか」

「確か、岩男くんには妙な疑いがかかっているんですよね。女生徒を襲っては食べ、襲っては食べ、というような」

「そんなビーストを野放しにしてるんですか」

「まあ、アレですよね。証拠がないんですよ。真実だとしても『自分が無茶苦茶に犯されました』なんて言えるような被害者は少ないでしょうし、やっぱりこの世の中はやったもの勝ちなんですね」

 原先輩が俺を見ている。

「……さすがに、そんな話を聞いて放っておくわけにはいきませんね。後味悪いですし」

「えっ、石高くんが丹下院さんの為に動くんですか? いいなあ、羨ましいです」

「先輩はもう少し状況を考えて物を言いましょうね。……正直、俺一人じゃあどうにもならなくってボコボコにされるのがオチなんで、ここから様子見だけしといてください。危ないって思ったら一目散に逃げてくださいよ。あと、警察に通報するのもお願いします」

 他の人が止めに入ってくれりゃあいいんだけど、そう上手いことはいかないか。

 俺はガードレールを跳び越えて、向かいにいるやつらを確認する。岩男ってでかいの以外にも、なんかすんげー強そうなのが三人くらいいる。殺されないことを祈ろう。

「ちょっ、一人で行くんですかっ」

「先輩たちだって『一応』女性なんですから」

 原先輩は生徒会長だけど、学校の外じゃあ大して意味はないだろうし。

 俺は車が来ていないのを何度か確かめて、道路を突っ切った。

「って、小林先輩?」

「……一人じゃ危ないから」

 小林先輩がついてきてしまっていた。危なそうだから帰って欲しいんだけどな。

「それに、どうにかなるかもしれないし」



 俺たちが近づいていくと、丹下院は男の囲みから抜け出して、俺の後ろに隠れた。

「よっしゃ石高、こいつらぶっ殺していいから」

「あのなあ」

「あ? なんだよ竜子。つーかこいつ誰?」

 半グレどころか全グレ集団が一斉に俺を睨みつけてくる。予想通りの展開になりそうで心臓バクバクだ。

「あのー、人目もありますし、この辺で勘弁しといてもらえないっすかね」

「あー、お前何? 二年? 仕切んなって。いいからどっか行っとけよ。それとも」

 岩男とやらが一歩前に出る。ハンパない威圧感だが、鬼と呼ばれた先生よりはマシだった。

「丹下院。お前マジで覚えてろよ。絶対借りは返せよ」

「あんたがどうにかしてくれるんならどうにだって返すけどさあ」

 一触即発とはこのことか。なんてことだ。

 覚悟を決めようとした瞬間、さっきまで何も言わなかった小林先輩がひょこりと前に出て、岩男を指差した。

「ああ、ガンちゃん。やっぱりガンちゃんじゃないか。なんだ。今日は店の手伝いをしないでもいいのか?」

「あ? ……は?」

 俺と丹下院は顔を見合わせる。岩男以外の連中も不思議そうにしていた。

 もしかしなくても、小林先輩はこのでかいやつのことを知っているのだろうか。

「ん、んだよこいつ。意味分かんねーことを」

「あれ? 私のことを覚えていないのか? そんなわけないよな、同じ学年になったんだし」

「い、岩さん、この女なんなんスかぁ?」

「知らねーって!」

 小林先輩は首を傾げた。

「そうか。私の勘違いか。てっきり商店街の近くのケーキ屋の一人息子だが、ケーキ作りが嫌で家出を繰り返していたガンちゃんに似ていると思ったんだけどなあ。家から逃げ出す度にご両親に叱られてわんわん泣いてたガンちゃんに似てるんだけどなあ。あと、中学二年までおねしょが治らなくて、本気で家族に心配されて病院に連れて行かれそうになった、『あの』ガンちゃんだと」


「……ケーキ屋?」

「俺の実家はなんとか組とか言ってなかったっけ?」

「ガンちゃんってなんスか?」

「つーか中二でおねしょとかマジ?」


 ざわつくガンちゃんの友達。

 丹下院は笑いを堪えるのに必死で、俺の肩をばんばんと叩き続けていた。

「ああ、そう言えば、ついさっきもおばさんに会ったな。『プリンを冷やしているから、早くおかえりよ』だそうだ。ガンちゃんに会ったら伝えてくれと言われていたのを今思い出した。ちゃんと伝えたぞ」

「プリンて」

「マジか岩男」

「めっちゃいいお母さんじゃん」

「お、おおお、おおおおあ……!」

 岩男は天を仰いだ。彼が帯刀していたなら、とっくの昔に切腹していたことだろう。

 その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。岩男はその音で我に返ったのか、俺の後ろにいる丹下院を指差した。

「竜子、お前なあ」

「はあ? つーか呼び捨てすんなや『ガンちゃん』。あたしの尻追っかけんなら一人でやれっつーの。仲間呼んで囲むとかマジうぜえし」

「何? ガンちゃん、そんなことをしていたのか? 今度、おじさんとおばさんに」

「はあああああ!? うっぜー、うるせえんだって! 親父は関係ねえだろぉぉ! 分かったって! もう手ぇ出さねえからマジで関わんないでくれよ!」

 どんなに厳ついボディを持ってても、やっぱり父親ってのは怖いらしい。子供ん時にしこたま躾けられたんだろうな。

「行くぞてめーら!」

 去っていく岩男グループ。俺たちは彼らの背中を見送った。


「お前ら、あんなわけ分かんねーやつの言うことは信じるなよ!」

「分かった分かった。もうこういうのはやめとこうな、ガンちゃん」

「今度ケーキ買いに行くわガンちゃん」

「ガンちゃーん、ガンちゃーん」


「ひひひ、あいつめっちゃ煽られてんじゃん。ざまーねーっつーの」

 エ○・ウッドの映画みたいに無茶苦茶な状況だったが、どうにかこうにか丸く収まってくれたのかもしれない。

 が。

 だがしかし。

「……待木の言ってた通りだったな。人を馬鹿にするようなことばっかりしてるから痛い目見るんだぞ」

「はあー? 何あんた。あたしの親父かよ。ごちゃごちゃうっせーし」

 丹下院に反省の色、なし。俺と先輩を巻き込みやがってこの野郎。

「とりあえず小林先輩に礼を言え」

「あー、んじゃ」

 丹下院はへらへらしながら小林先輩に向き直る。

「小林センパーイ。やー、さっきはマジで……っ!?」

「いっ?」

 小林先輩は何も言わず、丹下院の襟を掴みあげて、乱暴な所作で自分の顔の近くに引き寄せた。何だその男前な行動は。

「な、なんすか」

 至近距離で睨まれた丹下院はマジで泣き出す五秒前である。

「……私は別にいいんだ」

「な、何がっすか」

「でも、ろく高くんが殴られていたら、丹下院ちゃんはどうするつもりだったんだ? 少なくとも私は許さない。殴ったやつも、その原因を持ち込んだやつのことも。謝るだけじゃ済まないことだってあるんだぞ」

「そ、そんなん……」

「もちろん、丹下院ちゃんのことも心配だった。せっかく可愛いんだからな。傷物にされたらとんでもないことだ。だから反省しろ」

 小林先輩は丹下院から手を離し、彼女の頭に手を遣った。

「……とりあえず怪我がなくてよかった」

 丹下院はそれきり何も言えず俯いてしまう。馬鹿の目にも涙ってやつだな。



 それからしばらくして、原先輩がひょっこりと姿を見せた。

「あれ? もう済んだんですか?」

「…………先輩、その細長い袋には何が入っているんですか」

「ああ、これはですね。(何か言っていた気がするが記憶から抹消した)って言うんですよ。必要になるかと思って駅前のロッカーから持ってきたんですが」

「ところで、警察を呼んでくれてたんですか?」

「いいえ? さっきのサイレンは偶々だと思います。その前に、急いでこの(名状しがたい何か)を持ってきたものですから」

 本当によかった。血を見ることにならなくて、死人が出なくて本当によかった。



 歩く凶器と化した原先輩と小林先輩に別れを告げ、俺と丹下院は二人とは逆方向に歩き始めた。

 無視して帰りたかったけど、先輩たちに一人で帰すなって言われちゃったしな。しようがない。

「うっぜーなーお前。泣いてないでとっとと歩けよ」

「……るっさい」

 丹下院も絶望的なまでにアホではなかったらしく、人並みにショックを受けているみたいだった。俺には関係ない。

 顔も目も真っ赤の丹下院は、俺をじっと見つめた後、小林先輩たちの歩き去った方を見た。

「やばい」

「何がだよ」

「あたし、好きかもしんない」

「え? 俺のこと?」

「じゃなくて」

 丹下院は両手で顔を隠し、頭をぶんぶんと振り始める。奇行種か。

「じゃなくて、小林センパイが好きなのかもしんない」

「……冗談だよな」

「や、結構マジかもしんない」

 俺は今、人間が道を踏み外す瞬間を目の当たりにしたのかもしれない。

「あと、あんたのこともそこそこ好きかもしんない」

「ついでみたいに言うなよ!」



 丹下院を家の近くまで送った後、俺は自転車を駅前に置きっ放しだったことに気づいて、吐瀉物を口から発射しそうになった。

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