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カクセイスルセカイ(もれる)

「先輩、来てくれたんですね」

 下駄箱にラブレターなんて古めかしい、ともすれば悪戯としか捉えられないような真似をしたのは部活の後輩であった。阿呆臭い。からかわれているのかもしれないと思いつつ、校舎裏に来てくださいとだけ書かれた文に従うまま、のこのこと顔を出した俺も俺だが。

 ともあれ、後輩の顔を見た俺は安堵の息を漏らす。気の弱い彼女は、俺が呆れてしまったとでも思ったのか、常から小さい体を更に縮こまらせた。俺は、違うよと、いつになく優しい声で取り繕う。

「差出人の名前が書いてなかったから、悪戯かと思った」

「え? あ、あっ、うそ、ご、ごめんなさい」

「や、いいよ。なんとなく分かってた」

 俺たちを取り囲む冬枯れの景色は、俺自身の心を映しているかのようだった。

「先輩」

「ん?」

「好きです」

 驚いた。体も、気も小さい後輩ははっきりとした物言いを好まない。いや、出来ないのだ。いつも自信がなさそうで、誰が悪いわけでもないのにすぐに謝る。だと言うのに、今日の彼女はこっちを真っ直ぐに見つめて、決して視線を逸らさない。ぶつけられた熱情が、後輩の白い呼気と混じって立ち上っているかのように夢想した。

 考えていなかったわけではない。頭の中でフローチャートを作って、ここに辿り着くまでの間に何度もイメージした。繰り返してやり直したパターンが、ぐるぐると渦を巻く。

 ああ、声が出ない。答えが出そうにない。

 けれど彼女は、ずっと待つのだろう。たとえ俺が立ち去ったとして、ここで立ち続けるのだろう。


「なあ、俺は」


 テレビがぶつりと音を立てると、『俺』と『後輩』が画面から退場した。真っ黒になったディスプレイに、茫然として間抜けな顔で口を開けた俺が映っている。

「……って、嘘だろ?」

 電源が落ちやがった。慌ててゲーム機の本体に手を当てると、火傷しそうなくらいの熱を放っていた。やり過ぎた。なんてことだ。セーブ、いつしたっけ? うわ、選択肢も二回くらいあった気がする。嘘だろう。冗談じゃねえ。何時間かけたと思ってんだよ。

 俺はケータイで時間を確認した。二時だ。もう遅い。明日は日曜日だけど、昼からアルバイトに行こうと思ってるから、そろそろ寝なきゃあ起きられなくなる。第一、これからさっきのところまでゲームをプレイし直す気力はない。

「だーっ、くそ。めちゃめちゃいいところだったのに」

 ベッドにゴロリと寝転がる。悔しいが、一気に疲労感が瞼に圧し掛かる。部屋の電気を点けたままだったけど、もう面倒くさい。何もしたくない。お休みジュピター。



 日曜日の朝は心地いい。鳥は鳴き、俺は歌う。清々しいことこの上ない。

 意気揚々とリビングに降りて食べる物を探しているとめぐがやってくる。

「おはよう妹」

「こんにちはお兄ちゃん。後姿が何だか情けないわね。それにおはようって、もうお昼前よ。今日はあの、なんとかチャージってアニメは見なかったのね」

「そ、そんな子供向けのアニメは見ねえし! 前は、たまたま見てただけだし!」

「あっそう」

 録画してるから平気だ。しかしめぐには黙っておく。

「お腹減ったの? 戸棚に味付け海苔があったと思うけど」

 味がついているだけマシだった。

「もういいや。バイト行く前にコンビニ寄ってくから」

「あら、アルバイトに行くの? いい心がけだと思うわ。日曜日のお昼前まで眠っているのはどうかと思うけれど」

「余計なお世話だぞ、めぐ」

「はいはい、お店の人に迷惑をかけちゃだめよ、お兄ちゃん」

 もはや感動するわ。なんて優しい妹なんだろうって。



 コンビニで昼飯を買って、アルバイト先の榊原書店へ向かう。

 榊原書店は、客足がまばらどころか開いている店自体が殆どない商店街の奥にあった。俺が見つけられたのは幸運だっただろう。もっと言えば、バイトを募集していることは奇跡だったに違いない。ついでに付け加えておくなら、店長のユキさんが儚げな美人だったのは九蓮宝燈をアガっちゃうくらいに運がよくて、つまり俺はいつ死んでもおかしくないラッキーボーイであった。

「お、店は開いてんだ」

 震度1くらいで潰れてしまいそうな榊原書店を見上げて、俺は邪魔にならないところに自転車を置く。この店の戸はたてつけが悪いのだが、戸を斜めに押し込むようにすれば開くのだ。

「ユキさーん、こんにちはー」

「く、くそっ、姉さんの日和見主義にはうんざりだ! 座ってないで、いいから早く助けてくれ!」

「どこまで不器用なら気が済むのですか、あなたは」

 店の中には女性が二人いた。一人はユキさん。幽鬼のように存在感の薄い、肌の透き通った美人さんである。彼女はここの店長さんだ。いつものようにカウンター奥の椅子に座っている。

 もう一人は、揺れる脚立の上ではたきを持ったスーツの女性だ。残念なことに見覚えがあった。なんてことだと頭を抱えたくなる。俺の担任、瑞沢だ。通称はオーガ。

 さて、どうしてオーガがここにいるんだろうと回れ右して帰りたくなるが、流石に危ない。放っておいたらマジで怪我する。

「あら、こんにちは、石高さん。今日はアルバイトに」

「何っ、石高だと……!」

 瑞沢がこちらに振り向こうとした。だが、バランスを大きく崩してしまう。俺の身体が咄嗟に動いた。落下する彼女が妙にスローモーションに見える。

 どうやって受け止める。っていうか受け止められんのか。オーガでけえぞ。俺より重いぞきっと。

「だっ……!」

 四の五の考えてもいられない。落下地点の下に入り、両腕でオーガを抱きとめる。ずしりと、足にも腕にもとんでもない負荷がかかった。死ぬ。視界が明滅して、頭ん中がぐちゃぐちゃになる。

「どっせい!」

 しかし倒れることだけは堪えた。

「……お、おい」

 息を吐き、腕の中の瑞沢を見遣った。高いところから落ちたのでかなりうろたえているみたいだが、怪我はなさそうである。……そういや、この体勢ってお姫様抱っこってやつだよな。最悪だ。俺はもっと可愛い子にお姫様抱っこ処女を捧げたかったのに。

「下ろしますね」

「あ、ああ」

 俺はゆっくりと屈み、瑞沢を床に下ろす。彼女は目を瞬かせていたが、我に返って、俺をじっと見据えつけた。

「石高、平気なのか。怪我は」

「や、大丈夫だと思います」

「石高さんっ」

 ユキさんがカウンターを飛び越えて、瑞沢を押し退ける。

「ああ、あんな重たいものを持って平気なはずがありません。さあ、肩をお貸ししますから、居間で体の様子を確かめましょう」

「重たいとはなんだ! あ、いや、でも、そうだな。石高、見てもらうといい。何かあってからでは遅い」

 ユキさんは心配してくれているのだ。大丈夫だとは思うんだけど、下手に抵抗することもない。ここは従っておこう。

「じゃ、すみません」とユキさんの肩を借りる。あ、なんかいい匂いがする。女の人の肩ってこうも柔らかいのか。



 居間に連れて行かれると、服を脱がされそうになった。流石に恥ずかしいから四肢をばたつかせて抵抗する。

「や、やめてっ、やめてくださいよっ」

「いけません。とっくりと、隅々まで見ないと」

 ユキさんは俺の腕や足を掻い潜り続けていた。いつもはぼーっとしてる人なのに、この身体能力の高さは何だ。俺は、まるで蜘蛛に囚われた蟲みたいな気分に陥る。

「たすけてー!」

「痴女か!」

 ぱかん、と、ユキさんの頭からいい音が鳴った。瑞沢がスリッパで叩いたのである。助かった。まさかオーガに感謝する時が来るとは。

「あ、ありがとうございます」

 瑞沢の後ろに回ってユキさんの様子を観察する。彼女は頭を摩りつつ、無表情でこっちを見つめていた。

「その様子ですと、本当に大丈夫みたいですね。私も心を鬼にした甲斐がありました」

「縁を切りたい」

 そう言えば、姉さんとかどうとか言ってたっけ。もしかしてこの二人。

「あのう、二人はどういう……」

 瑞沢はユキさんをねめつけ、ユキさんは瑞沢に冷えた視線を送る。

「他人です」

「他人だ」

 なるほど。納得した。やっぱり姉妹だったのか。ああ、だから瑞沢がこの店で掃除をしていたのか。で、俺はアホみたいに間が悪かったってわけだ。アルバイトのことを聞かれる前に退散しよう。

「じゃあ、俺はこの辺で」

 立ち上がりかけたが、瑞沢が俺の肩を掴んで押し戻す。

「さっき、姉さんがアルバイトとか言っていたな。こんな店に来る物好きはいない。石高、弁解してみろ。面白ければ見逃してやってもいい」

「え、ええと、そ、それは」

 俺はユキさんに助けを求めた。彼女は我が意を得たりとばかりに頷く。

「凜乃。石高さんはうちのアルバイトではありません。愛人です。私の若い燕です」

「尚更許せんぞ」

「分かりました。証拠をお見せしましょう。石高さん、さ、いつものように」

「おっ、おい! いつものようにとはなんだ!? 石高ァ! お前、こんな、爛れた関係を!」

 信じるなよ。



 途中で何度も帰りたくなったが、俺はきちんと事情を説明した。たぶん、バイトはクビになるし停学処分なんかを喰らったりするんだろうなあと覚悟していたら、

「じゃあ、ペナルティだな。生徒会の手伝いをしたら今日のことは忘れて、アルバイトを認めよう」

 まさかの温情采配である。

「い、いいんですか? 俺はてっきり、四肢断裂するくらいの覚悟でいたんですが」

「私をなんだと思っているんだ」

 手伝いって言っても大したことはしないだろう。実質、ペナルティなんか殆どないようなもんだ。ひひひ、やったぜ。

「ああ、言い忘れていた。さっきは助かった。ありがとう、石高」

 心の中でにやにやしていたら、瑞沢がとびきりの笑みを浮かべた。この人もこんな風に笑うのかと、結構びっくりした。

「ところで、結構体を鍛えているんだな」

「そうすか?」

「うん。びっくりした。ちょっとだけかっこよかったぞ。学校でもさっきみたいにシャキッとしていると、担任としても助かるんだがな」

「努力します」

 そうかと頷くと、瑞沢はお店から出て行った。やれやれである。一時はどうなるかと思ったが、なんとかなった。

 俺は息を吐き、ユキさんを見遣る。彼女は薄っすらと微笑んだ。この人も何を考えているのか分からないなあ。マジで。



 バイトから帰って飯を食って風呂に入って、格ゲーのトレモにでもこもるかとやる気を出していると、めぐがてくてくと部屋にやってきた。

「お、どうした。ホラー映画でも見て眠れなくなったのか」

「別に、井戸から死体が出たって、テレビから幽霊が出たって驚かないし怖くもないもの」

 可愛げのないことを言う小学生である。

「でも、映画を見ていたのは本当よ。つまらなかったから、お兄ちゃんをゲームでこてんぱんにして気晴らししようと思って」

「ほっほう、八つ当たりで俺に勝てるとは思わないことだな。じゃ、開幕一秒でケリのつくブシドーでサムラァイなゲームをしようじゃないか」

 ゲームをセットし、めぐにコントローラを渡す。

「あ、めぐ。銃は使うなよ」

「分かってるわ。でも、それ以外ならなんでもやるから」

「フハハ、いいだろう。石高流開祖の俺に勝てるかな?」

 ゲームが始まる。画面の中、二人の侍が睨み合うのは一瞬。駆け出した俺の侍が大上段から得物を振り下ろす。でも呆気なく躱されて、撫でるように片足を切られた。操作キャラの侍は、足を斬られたことで移動速度が落ちる。

「ちょ、なんでそんなことすんだよ」

 めぐの操る侍は段差を上り始めた。俺も後を追いかけるが、上っている途中で蹴られて落下する。何度かそれを繰り返している内に、遂に両足を斬られて、俺のキャラがまともに動けなくなった。

 メグザムライは禄助侍の周囲をぐるぐると走り回る。舐められているようだった。

「もういいだろ! とどめ刺してくれよ!」

「えー、諦めて切腹したらいいじゃない」

「武士の情けは高楊枝だぞ!」

「何言ってるか分からない。ほら、せっぷくせっぷくぅ」

「クソがぁ、来いよめぐ! そんな刀なんて玩具は捨てて! 勝負しろ!」

「してるじゃない」

「ヤエエエエエ!」

「お兄ちゃんってホント、威勢だけはいいわよね」

 結局、五十戦くらいやって、十回しか勝てなかった。



 翌朝、俺はリビングに降りてめぐがいることに気づいて舌打ちする。

「何、今の舌打ちは。もしかしてお兄ちゃん、昨日さんざん負けたから拗ねてるの?」

「そ」

 俺は一瞬で悲しくなった。自分の単純な思考回路を恨めしく思った。妹に看破された挙句、慰めるような口調で言われてはこちらの立つ瀬がない。

「そんなわけないじゃーん!」

 だから必要以上におどけてみせた。めぐの目は優しかった。

 気を取り直してコーヒーでも飲もう。冷蔵庫をどちゃりと開けると、ありゃ、賞味期限の切れた牛乳しかない。新しいのは買い置きしてないみたいだ。

「ああ、ごめんなさいお兄ちゃん。私が全部使っちゃったの。古いのしか残ってないから……」

「そうなのか。じゃあ、今日は俺もカフェオレにしようかな」

「やめた方がいいんじゃない? 何なら、私のを飲む?」

「気にしないでいいよ。コップ半分くらいだったら、なんともなりゃしないって」

 俺のメンタルは弱いだろうが、胃腸はそうでもない。牛の乳から出た液体がなんだ。俺はそんなものに屈しない。ぐっとカフェオレを呷ってやった。



 めぐに見送られる形で家を出た俺は、意気揚々と学校に向かっていた。今日は月曜日だが、気分は最高だ。空元気である。今日は瑞沢の言っていたペナルティとやらもあるし、いつもよりマシマシで気分が重い。

「うん? あれ? おい」

 気分だけじゃなく足まで重くなっていた。ペダルを漕いでも進まない。おかしい。まだ駐輪場まで距離はあるが、俺はいったん自転車から降りて、タイヤを確かめてみる。すると、しゅーという音が聞こえた。よく見ると前輪に小さな穴が空いている。パンクだ。漕いでる途中、尖った石を踏んづけてしまったのかもしれない。おおお、神よ……!

 さて、どうしよう。無理矢理に漕いでいけば行きの分の空気は持つだろう。帰りは鉄屑を押して帰らなきゃいけないってのが難点だが。ここに置いておくのは……駄目だ。民家は多いけど知り合いの家はない。まさか見ず知らずの人に自転車を預かってくれとは言えないし。では家に戻るか。否である。これは絶対にありえない。確実に遅刻する。遅刻したら瑞沢に何を言われるか分からない。

 ああ、ますます気が重い。結局、駐輪場までぷしゅうと空気の抜けていく相棒を連れて行くしかない。っていうか、もう押していこう。漕いでる方が疲れる。

 自転車を押して好奇の眼差しに晒されつつ、とぼとぼと歩いていると、背後に気配を感じた。誰だてめえと振り向くと、お、可愛い子が立っていた。何か用だろうかと思い、じっと見つめていると、ふいと視線を逸らされる。なんだそりゃ。



 駐輪場に自転車を置いて坂道をめためた上っていると、視線を感じた。否、感じている。さっきからずっとだ。振り向けば、そこには小さくて(乳が)薄い、パーカーを着た女の子がいる。同級生か? いや、そもそも高校生なのか、こいつ。いい加減鬱陶しかったし、貧乳に優しくする道理はない。

「おい。マジでさ、さっきから何なんだよ。ストーカーなら相手間違ってんぞ。そうじゃないならレッツビギンだこの野郎」

「……石高、禄助……!」

「おう、俺の名前だ。で、お前は誰だ?」

 俺はこの子を知らない。初対面のはずだ。だってのにめちゃくちゃにがむしゃらに睨まれている。前世からの因縁でもあるのだろうか。

「ボクは宝野遥。君は、ボクのことを覚えてもいないし知らないだろうけど。でも、ボクはずっと君を追いかけていたんだ」

 平べったい胸をしているくせに熱っぽい口調である。人違いってわけじゃあなさそうだけど。

「だから、さあ、勝負だ」

「勝負ぅ? 嫌に決まってんだろ」

「怖いのかい?」

 まあ、怖い。だって初対面で勝負とか言い出すやつ、普通はいねえし、普通じゃねえよ。並ならぬ思いってのは嫌でも伝わってくる。

 坂道を上ってる奴らは俺たちを避けながら歩いていく。このタカノハルカとか言うペタンコは恥ずかしいとか、そういった気持ちを持ち合わせていないんだろうか。

「なあ、なんで俺なんだよ。そこを教えてくれないと何とも言えないって」

 AAAカップ(推定)の白眼視が突き刺さる。

「中学」う。

「陸上部」うう。

「佐藤」な、なんでそこまで知ってんだよこいつ。

「まあ今のは勘だったけど、君の表情から察するに当たったみたいだ」

 こいつ、俺の中学時代を知ってやがる。全部は分かってないみたいだけど、俺が部活を辞めたってことは知っている。

「な、なるほどな。なんとなくわかってきた。だからもう喋らないでくださいますか」

「声が震えているよ。大丈夫かい。……分かってくれたのならそれでいいけど」

 こいつの正体が何者なのかは分からんが、俺にとってよくないことを喋るに決まってる。逃げよう。うん。俺は背を向けて早歩きでぐんぐんと坂道を上っていく。待ってよと、宝野と名乗った女は追ってくる。ひい、いったい俺が何をしたって言うんだ!



「お願いだっ、話だけでも聞いて欲しい」

「い、いやだっ。もう中学の話はやめてくれ!」

「分かった。それはやめよう。だから」

 ええい、鬱陶しい! 

 校門を潜る。この時期は運動部の連中が勧誘をしており、校門どころか昇降口までずっとごった返していた。

「ちょ、ちょっと、邪魔だ! 邪魔だってば!」

 宝野は人ごみに捕まった。俺はその内に昇降口へと駆け出す。急いで靴を履き替えて、息を吐き出した。

「たすか……う、うっ?」

 一難去ってまた一難。ストマックが痛い……! 誤解を恐れず言わせてもらえるならうんこがしたい。ストレスか? トラウマをほじくり返されて胃腸にダメージが来たのか? あ、いや、牛乳だ。朝に飲んだ消費期限の切れたアレのせいだ! あああああそうじゃない。そんなんはどうでもいい。俺は今、核爆弾を抱えているようなものだ。早くトイレに行って、ブツを流しちまわないと。



 ひょこひょこ歩いてトイレからトイレを渡り歩く。理由は簡単だ。行く先々の大便器、個室が全て埋まっていたからである。どうして今日に限ってこんなことになるんだと、俺は既に半泣きだった。限界に近かったが、西校舎、特別棟とも言われる場所の四階まで辿り着く。

 廊下には誰もいない。しんと静まり返っている。ここでクソを漏らしたらどうなるのかという強迫観念に襲われた。そいつを押し殺し、男子便所のドアを開く。出入口に一番近い個室に入り、便座を上げて、ズボンとパンツを同時に下ろした。

「うおおおお元気爆発ゥゥゥゥ!」

 俺の肛門ガンバルガー!



 ああ、すっきりした。死ぬかと思った。

「あー、マジうっぜ……あ?」

「あっ」

 男子トイレから出てきた俺に遅れて、隣の女子トイレから誰かが出てきた。誰もいないと思っていたからびっくりしたが、それ以上に、その女子が同じクラスのリア充グループのブラックギャル丹下院だと言うことにも驚き、更に、丹下院が煙草を銜えていることに目が飛び出そうな思いだった。

「何見てんの? 超うざいんだけど」

 なるほどと得心する。こいつは朝の一服をする為に、人気のない便所を選んでたばこを吸っていた訳だ。で、俺と出会っちまった。大凶と大吉ってどちらも低確率でレアなんだよなあ、とか、そんなことを思った。

「は? シカトしてんの? つーかなんか言えよ」

「お、ああ、おはよう。じゃ、俺は教室に行くから」

「いやいやいや、おはようとかウケんだけど」

 草生やしたような喋り方しやがって。

「待てって石高くーん。こんなん見といてスルーとか信じらんないんだけど。なあ。チクる気だろ、瑞沢に」

「面倒くせえからそんなことしねえって」

 俺は風紀委員でもないし正義感があるわけでもない。こんなギャルと絡んだって時間の無駄である。

「信じらんないって言ってんだけど」

「いや、もうチャイム鳴るから。マジで何も言わないって」

「生意気じゃね? ねえ、なんでそんな見下した目ぇしてんの?」

「……じゃ、10円でいいよ。10円くれ。そしたら黙る。あ、ガムとかでもいい」

「ふっざけんな!」

 どうしてそんなキレてんだろう。丹下院は、女子にしてはキレのいい動きで蹴りを繰り出す。腹痛から解放された俺にとっては児戯にも等しい。身体をちょこっとだけ動かして避ける。瞬間、見えた。私にも見えた。

ネロ

「あっ!?」

 スカートが翻る。その奥のものを俺はしかと目に焼き付けた。絶対、絶対に忘れない!

 バランスを崩した丹下院は尻餅をつく。俺は彼女の下半身を凝視した。

「なっ、どこ見てんだよキモい!」

「お前が勝手にサービスしたんだろ」

「ホントうざい! うざい! もうじっとしてろって殴るから! グーで!」

 樋山くんだったらご褒美ですとかありがとうございますとか言って笑顔で殴られるんだろうなあ。

「えー、どうしたらいいんだよ。俺は誰にも言わないって」

「そんなんカンケーないから。殴らせてくれたらそれでいいから。お前らってそういうの好きなんでしょ」

「好きじゃねえよ。オタをなんだと思ってんだ」

 二次元の目がでかい女の子にならともかく、どうして三次元の女にしばかれなきゃいけないんだ。だいたい俺は暴力を振るうヒロインが嫌いである。パンツ見られたとか、着替え見られたとか、ヒロイン側の危機意識がガバガバってところに非があるはずだ。自分の不注意で下着見られた。それくらいで殴りかかってくるとか完全に頭おかしいとさえ思う。でも可愛かったらオーケーさ。

「そんなわけで、俺は絶対に殴らせない。むしろそれ以上仕掛けてくるようなら殴り返すぞ」

「……女殴んの? うーわ、最悪じゃん。マジ死んで欲しいんだけど」

「偉い人が言っていた。おっぱいや尻は好きだが、女は嫌いだ、と」

「ゲス過ぎんだけど」

 俺は本気だ。じっと見据えつけてやると、丹下院は僅かにたじろいだ様子を見せる。これだけ強気に出られるのも、こいつがたばこ吸ってる馬鹿だってところに起因していた。何せ、どっちもが弱みを握っているようなものなのだ。

「石高あんたさあ、こんなムカつくやつだったんだ。マジ笑える。面白過ぎてムカついてくる」

 言い返してやろうとした時、俺の腹に電流が走った。こ、これは。


『艦長! 敵軍からの第二波、来ます!』


「腹パンさせてよ」

「そ、それは出来ない」

 俺は丹下院に背を向けて男子便所に入ろうとする。彼女は何かを察知したのだろう。俺の前に回り込んで扉を塞いだ。

「おいっふざけんなって!」

「あーやっぱり。へえ、したいの? したいんだ?」

 うっ。丹下院のちょっと舌足らずで飴玉を蕩かしたようなボイスで『したいの?』 って、ちょっと、いい。じゃなくて、事は一刻を争う。

「た、頼む……! 何でもしますから……!」

 一転して不利になった。丹下院は新しいおもちゃを買ってもらった子供のような顔で笑う。どこまでも無垢で、どこまでも残酷な笑顔だ。

「じゃあ腹パンさせてよ」

「てめえクソが分かって言ってんだろ!」

「クソはお前じゃん。漏らす? 漏らすの? そんなことになったら、もう明日からっつーか今日からでも学校にいられなくなっちゃうかもね」

 たかがウンコ。されどウンコ。中学二年生を過ぎたとはいえ、高校生はまだまだ思春期だ。多感な時期だ。このままでは俺の思春期が殺されてしまう。駄目だ。問答している時間はない。脂汗が流れ続けて気持ちが悪い。

「おおおおっ! 押しとおーる!」

「ぎゃあああああなんだよ近づくなやバカ!」

 丹下院のおっぱいを揉むふりをする(あわよくばという気持ちがあったことは否定出来ない)。ビッチのくせに清純ぶった彼女は俺の手から逃れた。その瞬間、肩から扉にぶつかって個室に辿り着く。

「逃げられたとか思ってんなよ石高! ここで待ってるし! ぜってーフクシュウしてやっから!」

「ダイナマイトォォォォ! エクスプロージョン!」

「何叫んでんだようぜーなホント!」

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