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ノリコエルセカイ(打撃)

 夏休みに入って三度目のお菓子クラブの活動に行く時のことだった。八月初頭、クッソ暑い中、えっちらおっちら坂を上って、校舎に入りピロティに向かっていると、瑞沢と誰かが話しているのが見えた。社会の山崎というおっさんの先生である。宝野のクラス、つまり一組の担任でもある。細くてトカゲみたいな目をして、瑞沢とは別方向で冷たい感じのやつだ。ねちっこくて、性根の腐ったような物言いをするので、生徒からの評判は良くない。ぶっちゃけ言うと嫌われている。

 さて、冷血同士の二人は何を話しているのだろう。思わず物陰に隠れてしまったし、今更になって出ていくのは気まずいから、盗み聞きしていこう。


「いやあ、うちの剣道部はぁ、かなり調子がよくてですねえ」

「はあ」

「地区、いや、県大会も夢ではなくて」

「はあ」

「瑞沢先生は、確か、ええと、顧問は……ああ、お菓子クラブでしたかな?」

「はあ」


 どうやら、山崎が自慢話をしているようだ。瑞沢は素気無い感じで返事をしている。


「お菓子クラブとは……能力の無駄遣いと言いますか、瑞沢先生には似合いませんなあ。もっとこう、ああ、いや、詮無きことですな。ところで、何か成果がおありですか?」

「いえ。そういった部活動ではありませんので。お話は終わりでしょうか。これから、その部活が始まります」

「まあ慌てずに。他にもね、色々とお話したいことがあるんですよぉ」


 山崎の顔がいやらしいものになった。瑞沢からすりゃあ先輩教師だから決して顔には出していないが、不機嫌オーラが出まくっている。もしかして、アレか。いびられてんのかな。ちょっとざまあみろ、とも思った。けど、なんか、なんつーか、放っておけないって気にもなる。

 俺は物陰から顔を出して『今来たんですけどー。おやー瑞沢先生奇遇だなー』って感じでノコノコと歩いていく。

「おはようございます。あの、部活のことで聞きたいことがあるんですけど、今って、大丈夫ですか?」

 瑞沢は俺を見遣り、少しだけほっとしたような顔になった。山崎は感情の宿らない目で俺を見る。虫みたいだ。

「石高……君の成績については聞いている。私の授業の時も、いつもぼけっとしているじゃないか。他の先生方からの評判も良くはない。部活動で遊んでいる場合では」

「急ぎの用です。山崎先生、失礼します」

「は? いや、待ちなさい。まだ話は」

 失礼。短く告げると、瑞沢は俺の手を引いてすたすたと歩き始める。山崎の視線は気になったが、残る意味はなかった。



 家庭科室にはまだ誰も来ていなかった。東山先輩たちは皆、時間にルーズである。いや、ルーズになった。

「ふう。助かった」

「やっぱ、面倒なことになってました?」

「生徒が気にすることではない。が、山崎先生とは相性が悪いのは事実だ」

 先生ってのも大変なんだな。俺は口にはせず、心の中に押し留めた。

「く。要らん気を回されたか」

 瑞沢はそう言って、自分の頭に手を遣る。

「あの」

「なんだ」

「手。離してもらえませんか」

「ん?」

 俺は、掴まれたままの手を見遣った。瑞沢は視線をついと下ろして、顔を逸らす。

「ああ、すまん。痛かったか?」

「や、別に、平気ですけど」

 離してもらった掌を見つめる。当たり前だけど、温かかった。

 俺はなんとなく気恥ずかしくなって瑞沢から距離を取る。椅子に座って、持ってきたお菓子の材料を確認した。手持ち無沙汰だったのだ。



 さて、時間になっても俺以外の部員は姿を見せなかった。東山先輩にメールしてみると『今起きたから休むー』とのこと。他の人たちも似たような、しょうもない理由で全滅だった。

「……どうしましょうか」

 瑞沢は目を瞑り、足と腕を組んで黙考し始める。俺としちゃあここで終わってくれて構わない。お菓子の材料だって別に無駄にはならない。ただ、俺の相手をするだけなら、瑞沢にとっては時間の無駄になるだろう。

「石高。お前はどうしたい」

「や、どうするって」

「回りくどかったか。そうだな。お前は、私の為に何か作ってくれるか?」

「……手伝う気はないんすか?」

 そう言うと、瑞沢は皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「足を引っ張ることを手伝うとは言わんだろう」

 まあ、クッキー作ろうとして爆発物になっちゃう人たちだしな。

「作りますよ。今日こそ……ああ、いや、とにかく、折角なんだしやりますよ」

 俺は料理人でもなんでもない。素人だ。けれど少しの意地はある。瑞沢は美味いとは言うけど、表情を変えない。彼女の笑顔はこれまでにも何度か見てきたが、分かりやすい、満面の笑みってのは見たことがない。見たいのかどうかはさておき、この人に心の底から認めてもらいたいって、そう思った。



 八月も半ばを迎えた頃だろうか、俺は瑞沢にメールで呼び出された。お菓子クラブの活動日ではないし、補習って訳でもないだろう。深夜アニメをリアルタイムで見て眠たかったから無視しようかとも思ったが、後が怖いので仕方なく学校へと向かった。

 今の時刻は午前九時三十分。指示されたとおり、生徒指導室の前でぼけーっと待っていると、程なくして瑞沢がやってきた。なんか、両手に本を束にして持っているんだが。アレで不心得者とか言われて殴られたりするんだろうか。

「時間通りだな。感心だ」

「あ、あのー、今日はいったい? 俺、何もしてないと思うんすけど」

「そうだな。何もしていないな、お前は」

 引っかかる言い方だ。嫌な予感はしていたが、俺は促されるがままに指導室へと足を踏み入れる。かちりと、すぐに鍵がかけられた。その音がやけに大きく聞こえた気がして、耳に残る。

「かけろ」

 相変わらず有無を言わせぬ語調だ。俺はパイプ椅子を引き、そこに座る。瑞沢は持っていた本を机に置いて、息を吐きながら対面に座った。

「もう、八月も半分を切ったな。夏休みも残りわずかだ。……前にお前の口から聞いていた進路について、だが。大学に行ければどこでもいいと、そう言ったな」

 俺は頷く。大学には行けるものなら行ってみたい。が、俺は優人や樋山くんとは違って頭が良くない。つーか、悪い。赤点を回避出来る程度の頭脳しか持っていない。

「駄目だ」

「へ?」

「そんな心構えでは受かるところも受からん。志は高く持て。目標は上に設定しろ。石高、お前がどのように夏休みを過ごしているのか、親御さんから聞いた。随分と楽しそうで、生産性がない。このままでは三年に上がれても何も変わらんぞ」

 はああ? なんで? いつの間に? つーか、余計なお世話だっつーの。普通の高校生に生産性なんか求めんなよ。と、反論したいところだが無駄だろう。ここは適当に流すのが最良の選択である。

「……はい、分かりました」

「そうか。分かってくれたか」

「はい。それじゃあ俺は」

 立ち上がると、瑞沢に思いっきり睨みつけられてしまった。

「何をしている。さあ、始めるぞ」

「は? な、何を」

「決まっているだろう」と、瑞沢は机の上に置いたものを指差す。参考書だった。赤本とか言うやつである。俺の部屋にはないもので、この先も本棚には並ぶことがないだろうと思われる類の本だ。

 じっと見られてしまう。さあ座れ。勉強だ、と。

 絶対嫌だ。ふざけるな。今は夏休みだぞ。しかも2年の。来年ならともかく、どうして今の内から受験勉強しなくちゃあいけないんだ。

「石高。お前は嘘を吐いたのか」

「いやいや! ここで勉強するなんて一言も言わなかったじゃないっすか!」

「分かったと言ったろう。適当に返事をして、逃げようとするからいけないんだ。お前はいつもそうだ。都合が悪くなれば逃げる。常に言い訳をして逃げ道を探している。壁にぶつかれば乗り越えようとせず、背を向けるか、狡い方法ですり抜けてしまう」

 だからどうした。

 だからどうだって言うんだ。

 それが俺だ。俺の生き方っつーか、俺を真っ向から否定しやがって。幾ら教師だからって、瑞沢だからって、言っていいことと悪いことがある。

「反抗的な目だ」

「気に障りましたか」

 俺は椅子に座り直して、目の前のやつを見据えた。何故だか、そいつは嬉しそうにして笑った。

「ふ。いや、それでいい。いつもの、私の機嫌を窺うような目ではないから少しだけ驚いただけだ。その目だ。石高、忘れるな。私は何もお前のそういったところを否定するつもりはない。しかしな、いつか必ず、真正面から物事にぶつからなくてはいけなくなる。逃げ道なんかどこにもなくて、言い訳のしようもない壁にぶち当たるだろう。今は逃げてもいい。ただ、今の内から戦う準備だけは済ませておくように」

「……戦うって、んな物騒な」

「大学に行きたいんだろう? 受験とは戦争だよ。ついでに言うなら、相手がいるって訳でもない。勉強とは自分との戦いだからな。私が教えてやれるのは大したものじゃない。お前らには武器を与えてやりたいが、さて、私に出来ることと言えば、まあ、殆どないんだ」

 受験、か。別に、大学に絶対行きたいって訳でもないんだけどな。ただ、どっかに引っかかって受かればいい。四年間のモラトリアムってのは興味深いが、落ちたら落ちたでそこまでだ。そう考えていたんだけど、分かってしまった。俺と瑞沢はそんな長い付き合いじゃあない。ただ、他のクラスメートよりかは一緒にいる時間が長いってだけ。それでも、分かる。ああ、この人は、本当に俺のことを心配してくれているんだなって。

「お前に辛く当たっている訳でも、苛めている訳でもないぞ。私は」

「なんか、母親みたいな感じですね。母さんと話している時みたいな気分になりました」

 瑞沢は目を見開いた。彼女は口を開きかけたが、困ったように頭を掻いて、苦笑いを浮かべる。

「褒め言葉として受け取ってもいいのか、それは」

「先生に任せます」



 夏休みも残りわずか。用事や部活動のない日は、俺は個人授業っつーか、補習の名目で学校に行き、生徒指導室で参考書をぺらぺらめくったり、問題を解いたりしていた。正直言ってつまらないの極みだ。何が悲しくて残り少ない有意義な時間をこんなところで浪費しなきゃいけないんだよ。

 瑞沢が付きっきりというわけではない。ただ、彼女は少しでも時間が空けば、俺がサボっていないか様子を見に来る。携帯ゲーム機で遊んでいても俺は足音には敏感だ。瑞沢の足音なら聞き分けられる。

「調子はどうだ」

「まあまあです」

 ゲーム機を鞄にしまって、シャーペンを握り締めてみる。今の今まで問題に悩んでいました感を上手いこと演出しているだろう。ふはは。

「そうか。ところで、本が逆様だぞ」

「えっ。……あ」

「誤魔化すのならもっと上手くやれ」

 どうやら、付き合いが長いと言うか、やり口を見抜いているのはお互い様らしい。瑞沢は呆れたように息を吐き、椅子に座る。

「勉強する習慣が身につけばそれでいいんだがな」

「先生は受験の時、どんくらい勉強しました?」

「私か? どうだろう、あまり覚えていないな。日に何時間か……大学に入ってからの方が、よく勉強していたような気もするが」

「……そんな昔のことですか? まだ二十代でしょう?」

「子供といると時間の流れが速く感じられるんだ。もちろん、私が年増だと言うことではない」

 俺は思わず鼻で笑っていた。

「あ、今、笑ったな。その問題集、10ページ分を解くまで帰さんぞ」

「ヤですよ。そんなことより、俺の面倒ばっかり見てていいんですか。いや、きっとよくないです」

「気にしないでいい。私だって、きちんと考えて動いているんだからな。さあ、始めるぞ」



 週に何度か、学校の指導室にこもって問題集と数時間は向き合う。俺が好きな教科は一つもないが、現国と社会だけはまだマシだ。が、数学なんかちっとも興味がない。興味がないから分からないし覚える気も起きない。


「採点したぞ。石高、すごいぞ泣いて喜べ。13点だ」

「おー、ユダですね。裏切りの数字だ」

「そうだな。私の期待を裏切ったな」


 瑞沢の調教方針は、俺の苦手なものをなくすこと、らしい。なもんで、連日、数学の問題集とだけ睨み合う。今まで勉強らしい勉強をしてこなかった俺も頑張っていたが、流石に限界だった。というわけで、爆発寸前である。彼女の呼び出しに応じず、アルバイト先に逃げ込むのも仕方のない話だろう。そんでもって、俺がどんなに頑張って辛い目に遭っているか、ユキさんに聞いてもらうのも仕方のない話のはずだ。

「まあ、可哀想に。石高さんは一切悪くありませんよ。悪いのは加減を知らず、鞭で打つことしかしらない愚妹の方です」

 と、俺の話を聞き終えたユキさんは心底から同情してくれている。居間に上がらせてもらい、お茶と和菓子を勧められた。今日ばかりはのんびりとした時間を過ごそうじゃないか。

「石高さん。勉強というのは無理をすること、という意味があるのです。強いられることが勉強です。強く押しつけられるものを吸収しようとするのは、酷く窮屈に感じられるでしょう。いいんですよ、無理はなさらないでください。ここなら、あの羅刹も手が出せませんから」

 あーーーーユキさんは優しいなあ。瑞沢とは大違いだ。

「ああ、石高さん。少し、顔色が悪いような……よろしければ、ここで休んでいってください」

「や、流石にそういうのは」

「私に気を遣うことはありませんよ。お店も今は閉めていますし、遠慮なさらず」

 確かに、ここ最近は疲れ気味だ。頭を使うと体も疲れる。幾ら寝ても寝足りないような状態なのだ。どうせだから甘えついでにもう一つ甘えさせてもらおう。

「それじゃあ、ちょっと横にならせてもらいますね」

「ええ、それでは枕を持ってきます。少し、待っててくださいね」

 頷き、俺は畳の上でごろりと寝転がる。い草の匂いが婆ちゃんちを思い起こさせて懐かしくて気持ちがいい。

 しばらくしてユキさんが戻ってきた。が、何故だか申し訳なさそうな顔をしていらっしゃる。

「申し訳ありません、枕が見当たらなくて」

「ああ、そんなの構いません。平気です」

「ですから、どうぞ私の膝をお使いください」

「はあ。…………はあ?」

 ユキさんは俺の傍に座り、自分の膝をぽんぽんと叩いた。

「どうぞ」

「いや、どうぞって言われても」

「どうぞ」

 めっちゃ真顔やんけ。いや、前にも膝枕をしてもらったけど、あれは事故みたいなもんだし。抗う余裕なんかなかった。……ユキさんは、家族でもない年上の女性だ。アルバイト先の店長さんだし、そんなことが許されるか。しかし、俺はどうしても彼女の膝から目が離せないし逸らせない。ああ、きっと頭をあそこに預けたら柔らかくて心地いいんだろうなあとか、どうせなら太腿に挟まれたいとか、ユキさんにだったら腕ひしぎ十字とか三角締めをかけてもらいたいなあとか。そんなことを考えていたら、あら不思議。いつの間にか俺の後頭部はユキさんの膝枕に埋もれていたいたとさ。

「ありがとうございます!」

「お礼なんていいんですよ。さ、ゆっくりお休みなさい」

 そうか。ここがシャンバラか。俺は一つ、この世の理というものを理解した。

 その時、榊原書店の建てつけの悪い戸がガタガタと音を立てる。誰かが来たのだ。しかしユキさんが対応するような気配はない。お客さんだったらどうしようと思っていたら、


「石高ァァァァァァァァ!」


 羅刹が来た。

 店は閉めていたが、戸に鍵はかかっていない。羅刹こと、瑞沢凜乃は足で戸を開けて居間を睨んだ。俺は咄嗟に起き上がり、ユキさんの後ろに回る。彼女は小さく頷いた。

「やはり、ここにいたか!」

 やはり、ここまで追っかけてきたか!

「凜乃。石高さんは疲れているのです。あなたのような騒がしい人が来てはゆっくりと休めません。帰りなさい。いえ、消えなさい」

「姉さんが甘やかすから! 姉さんが甘やかすからいけないんだ!」

「聞こえませんでしたか。学校では、私は手を出せません。ですが、ここは私の店で、家で、空間なのです」

「石高、駄目だ。このままではいけないんだ。お前、姉さんに囚われるぞ」

 実の姉に対してなんて言い草だろうか。

「この人は蜘蛛だ。絡新婦だ。喰われるぞ」

 喰われたっていい。だって優しいもん、ユキさん。

「はあ、しつこいですよ凜乃。あなたには分からないのですか。石高さんは休息を望んでいるのです。いいですか。人間は厳しいだけの人にはついていかないものです。飴と鞭の使い分けが大事なんですよ」

「飴しか与えない人がよくも言う」

「鞭しか振るわない人に言われたくはありません」

 姉妹が睨み合う。この二人を足して二で割ったらちょうどいいんではなかろうか。

「……仕方ありませんね。では、あなたが膝枕をしてあげますか。石高さんは鞭に打たれて痛い痛いと泣いています。無理矢理引っ張っていくような真似は見過ごせません。どうしてもあなたが折れないと言うのなら、石高さんを諦めないと言うのなら、証拠を見せなさい」

「証拠? 何を見せろと」

「飴を。あなたのような鬼子でも飴を与えられることを証明なさい。でなければ、石高さんを預けるわけにはいきません」

 瑞沢は頭を掻きむしった。言いたいことは分かる。だけど、俺にとっては願ってもない話だ。呼び出しに応じず逃げ出したのも、瑞沢が怖いっつーか、優しくないからである。俺は叱られるよりも、ほめられてのびるタイプ。略してほめたいだ。

「どうですか。石高さん」

「うーん。そうっすね。先生が優しくなったら俺も頑張りますよ」

「便乗するな!」

 憤る瑞沢だが、ユキさんが目だけで黙らせる。

「…………石高。お前、本当は嫌だったのか? いや、だろうな。教師にはそんな、本当のことを言えないだろうからな。謝るつもりはない。だが、時間を無駄にしてしまったと思うなら、もう、やめよう。余計なお世話だったんなら。ああ、違う。そういうことを言いたいんじゃあないな、私は」

 珍しい。瑞沢はいつもはっきりものを言うってのに、歯切れが悪い。混乱してるっつーか、なんつーか。で、俺は思った。彼女をわけわからん状況に陥らせたのは、俺なんだって。

「先生。俺は、先生のことが嫌いとかじゃないです。マジで嫌だったら、今日みたいに逃げてますから。だから、俺の方こそ、先生の時間を無駄にしちゃってるみたいで、すみません。俺は出来のいい生徒じゃないっすから、面倒ばっかりかけてて」

「自分で、自分のことをそういう風に言うな。私はお前のことを出来が悪いなんて思ったことはない。時間を無駄にしたつもりもないんだ」

「じゃあ、ちょっとだけでいいんで、あのー、優しくしてくれますか?」

「だから、どうしろと」

「凜乃。それを考えるのが先生あなたのお仕事の一つなのでしょう?」

 瑞沢は長い間、何事かを考えているみたいだったが、深く、長い溜息を一つした後、分かったと短く言った。



「いいか。私はお前だけを特別扱いして甘やかすことが出来ん。教師だからとか、そう言う理由じゃない。性分だからだ」

 榊原書店からの帰り道、俺の隣を歩いていた瑞沢が、難しい顔でそう言った。

「しかし、まあ、たまにはいいだろう」

「へ? いいんすか?」

「ああ。甘やかす、とはよく分からんが、姉さんの真似をすればいいんだろうな。とりあえず、今度、甘いものをやろう」

「……安直な」

「なんだ? 甘いものは好きなんだろう?」

 不器用、か。前にユキさんの言ってたことが、やっと分かってきた。

「ああ、そうだ。ついでだから家まで送ってやろうか」

「あの、優しくされたいとは言ったんですけど、俺なんかに気を遣う必要はないと言いますか、別に、今まで通りでも大丈夫と言いますか」

 瑞沢は困ったような顔を作り、低く唸り始める。腹を空かした肉食獣みたいだ。

「難しいことを言うんだな、お前たちは」

「難しく考え過ぎじゃあないですかね」

「そうか? ……そうかもしれないな」

「そこが先生の魅力だとも思いますよ!」

「おお、そうか? じゃあ、やっぱり厳しくいこう。バッキバキにいこう」

 要らんことを言ってしまった!



 ユキさんのところに逃げ込んだ翌日の昼過ぎ、俺は立派なラブライバーとしてアプリの音ゲーに没頭しようとしていた。が、不粋な電話の音で気が逸れる。面倒くさいから無視していたのだが、子機を持っためぐが部屋に押し入ってきた。

「お兄ちゃん、学校から電話よ。瑞沢って先生が、お兄さんはいますかって」

「……いないって言ってて」

「あ、スピーカーになってるんだった。今の会話、向こうに聞こえちゃってるわね」

「わざとだろ、めぐ」

 もっと面倒なことが起こりそうな気がしてきた。



『言い忘れていた。夏休み最後のお菓子クラブの活動を、今日、やる。お前がいないとどうしようもないから是非来て欲しい。よろしく』

 返事する暇すら与えられなかった。けど、今日は勉強するのとは違って、お菓子を(俺一人で)作って(皆に)食べ(させ)るだけだ。楽でいい。

 とにかく、先輩方は集まっているみたいなので、これ以上待たせてはいけない。急いで向かおう。



 家を出て、自転車を漕いで、駐輪場に置いて、坂道を競歩で踏破する。昇降口で靴を履き替えて、お菓子クラブの活動場所である家庭科室へとたどり着いた。が、違和を感じる。

「……なんか、甘い?」

 ふわふわした、お菓子のような甘い香りが家庭科室から漂っている、らしい。そんな馬鹿な。今、この部屋には先生や料理の『さしすせそ』を一切知らない人たちしかいないんだぞ。火薬や硝煙の臭いならともかく、甘い香りだなんて……あ、ああ、そうか。甘い臭いのする爆弾でも作ってるのかな。なら、納得だ。

 ビビッてその場で立ち尽くしていると、先生が扉を開いて顔を見せた。

「何をしているんだ。もう菓子は出来上がっているぞ」

「へ? どっかで買ってきたんですか?」

 そう言うと、先生は狂的な笑みを浮かべる。

「ここをどこだと思っているんだ。買ったんじゃあない。無論、作った」

「誰が、ですか」

「私たちが、だ」

「はあ、じゃあ帰りますね」

 背中を向ける。距離を詰められて襟を掴まれた。くるんと回されて、至近距離で見つめられる。つーか睨まれる。

「いや、お前には世話になったからな。私たちから感謝の気持ちを込めて、石高禄助君の為に菓子を作ってやったんだ。遠慮なく、食べるといい。食べてくれるよなあ。なあ?」

「もちろんです」

 怖かったから断れなかったんじゃない。先生が、めちゃめちゃ嬉しそうにしていたから、とてもじゃないけど、いらないとは言えなかった。

「お、だっくんやっと来たん? おっそーい、めっちゃ待ったんですけどー」

「さーさー、こっちこっち。ほらほら、そこに座りなよ」

 勧められるがまま引かれた椅子に座る。途端、俺の周りを先輩方が囲み始めた。『おー、まるでハーレムだな。やったぜ』なんて喜んでいられない。この人たちは決して都合のいい女じゃあない。へらへらとして、鼻の下を長くしてたら何もかもをむしり取られる。砂漠の死神よろしく、魂まで持ってかれちまう。

「お客さぁん、肩凝ってませんかー?」

 耳元に息を吹きかけられた。なるほどな。ここから逃げられないようにしているのか。

「あー? もしかしてさ、だっくん照れてない? やー、年下の子は可愛く見えちゃうなー」

「だよねー」

「……石高が困っているだろう。からかうのはよせ」

「アレー? りのちゃんが言い出したことなのにー? だっくんに愛のこもった手作りのお菓子を食べさせてあげたいって言ってたのに?」

 たぶん、うん、樋山くんがここにいたら死んじゃうかもしんない。

「好き放題言うなあ、お前たちは」

 先生は可愛らしーくラッピングされた、小さな包みを差し出した。

「クッキーだ」

 俺は包みを受け取り、中を覗く。クッキーだ。ザ・クッキーである。驚くほど普通の見た目をしていた。たかがクッキー。されどクッキー。簡単なお菓子だと侮るなかれ。そんなものですらこの人たちは作られなかったのである。そのことを思えば大進歩だ。つーか進化だ。三葉虫からチンパンジーに……。

「今、余計なことを考えたろう。いいから食べてみてくれ。味見はしている。ちゃんと、その、甘いはずだ」

「お、お先に、先輩方から頂いた方が」

 言ってみたが、東山先輩たちは揃って首を横に振る。

「えー? もー無理だってばー。ダイエットしてるのに、どんだけ食べさすのって感じ。だってさー、りのちゃんたら、アホほど失敗するんだもん。失敗作残さず食べろって拷問じゃん?」

 失敗作? 訝しんでいると、先生が、俺の持ってた包みからクッキーを一つつまみ、こっちに向けた。

「石高、口を開けろ」

「は? ……ん?」

 クッキーを口の中に捻じ込まれてしまう。先輩たちが囃し立てていた。子供か。

「どうだ?」

 自信満々の先生を見て、俺は優しい言葉をかけようと思った。が、俺はお菓子には嘘を吐けない人間である。

「口ん中がパッサパサっすわ。ちょっと固過ぎますし」

「……素直に褒めてくれてもいいんじゃないか?」

「や、褒めるところなんかは別に」

「熱意とか、あるだろう」

「まだ食べられるって点は評価したいですね」

「照れ隠しか?」

「次に期待しときます」

「照れ屋さんめ」

 先生は俺の頭に手を遣って、くしゃくしゃになるまで撫で回した。……これって、甘やかされてるってことなんだろうか。ペットにでもなった気分だ。

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