ノリコエルセカイ(電撃)
六時限目が終わり、SHRも終わる。昨日のことで怒られるかな、とか思ってたけど、朝は何もなかったし、宝野が俺たちのことをバラした訳でもない。セーフセーフ、全然セーフ。
すっかり気の抜けた俺は、いつもの三人で揃って教室を出ようとした。
「石高、ちょっと来い」
呼び止められた。一瞬間俺の動きが固まる。優人の眼鏡がずれて、樋山くんの汗が鼻の頭を伝って床に落ちた。
「二度は言わんぞ」
「……な、なんで俺だけ……ふ、二人とも、ちょっと待ってくれ」
ダッと擬音が見えてくるくらいの勢いで、優人と樋山くん、二人のクズが何も言わずに、何も見ないままに飛び出した。おい、めっちゃ早いぞあいつら。
ちらと振り向くと、瑞沢は苛立たしげに出席簿を素振りしている。駄目だ。逃げられん。彼女の様子を察したのか、クラスメートたちは蜘蛛の子を散らすようにして教室から逃げていく。
誰もいなくなった教室。ちょいちょいと、瑞沢は無言で俺を手招いた。
「先生。一つだけ約束してください。どうか、その手を汚さないでください。あなたの綺麗な御手が俺みたいなクッソ汚いやつの血で塗れるのは耐え難いのです。言いたいのはそれだけです」
「一つ言っておくと、血を流させずに苦痛を与える方法は幾つかある」
俺は諦めて瑞沢の前に立った。彼女は満足げに頷く。
「人の目があるから職員室で話そうとも思ったんだが、不思議なことに皆帰ってしまったようだ。ここで話すから、適当な椅子に掛けろ」
「話って、やっぱり……ええと、どのことでしょうか」
「心当たりが幾つあるんだ、お前は」
かわいこぶって『てへっ☆』って感じで舌を出そうかと思ったが、頭をしばかれて舌をちょん切られてしまうイメージが頭を過ぎり、難を逃れた。
瑞沢は近くにあった椅子を引き、俺の対面に座る。距離が何だか近いような気がしてきた。
「私が聞きたいのは、姉さんのことだ。どうだ。あの人は元気でやっているのか」
「……へ」
拍子抜けである。てっきり昨日の鬼ごっこを咎められると思っていたのだが。世間話だと分かれば気が楽になる。
「って、先生が直接聞けばいいんじゃないんすか」
「姉さんはあの日を境に私の電話に出なくなった。店に行っても『帰ってください』と言われてまともに取り合ってくれない」
「ああ、やっぱり心配なんですね、ユキさんのこと」
ふ、と、瑞沢は口元を緩めた。シニカルな笑みだ。
「あの人は殆ど世捨て人だ。他人とあまり関わらない。姉さんが死んでたら、死体を最初に見つけるのは誰だろうな。何にせよ、死体が見つかれば私が対応する羽目になる。心配と言えば心配だ。が、はたして、私は本当に姉さんの身体を心配しているのかどうか」
「……は、はあ。でも、元気ですよ。俺も殆ど毎日バイトに行ってますし」
「ほう、毎日。そういえば、アルバイトの許可は取らないんだな石高くん」
「な、なんのことでしたっけ」
「まあいい。私は何も見なかったことになっている。バイトのことはいい。ただ、他の先生に見つかってもフォローはしないぞ」
もちろんです。俺は力いっぱい頷いた。
「けど、あの時も、今も、どうして見逃してくれたんですか。もしかしてユキさんに弱味を握られてるとか」
わくわくしながら聞いてみた。瑞沢の弱味があるんなら、今度ユキさんに聞いてみよう。
「弱味……と、言うか、お前には借りがあったろう。それを返しただけだ。だから、他のやつには何も言うなよ」
「あー、やっぱそういうことでしたか」
「全く。お前も存外目敏いな。いい思いが出来ると考えて、私を助けたんだろう?」
「や、それは違いますよ」
瑞沢は目を丸くさせた。
間違いなく、違う。もしもあの時、脚立の上にいたのが瑞沢だと分かっていたんなら近寄らなかった。バイトしてるのがバレちゃうだろうし。そも、放置出来たかどうかも怪しい。俺だって冷血漢じゃないんだ。
「身体が勝手に動いたんすよ」
「ふん、そうか。まあ、そういうことにしておこう。……ああ、もういいぞ」
「あ、それじゃあ」
俺はそそくさと立ち上がる。
「また呼び出すかもしれんが、それくらいは構わんよな?」
つまり瑞沢は、ユキさんの様子をちょいちょい聞くかもしれないと言っているのだ。そんでもって断ったらどうなるのか分かってるよな、とも言っている。断る理由はなかった。
「それから、昨日のことも忘れてやる」
「いっ?」
瑞沢は椅子を元の位置に戻し、教室を出て扉をぴしゃりと閉めた。やっぱ怖い。
その後、俺は週に何度か瑞沢に呼び出されることになった。クラスメートのいない教室であったり、生徒指導室であったり、職員室であったり、図書室であったり。場所は様々だが、話の内容は互いの共通点ともいえるユキさんのことだ。瑞沢と言えば、今日は姉さんは何を食べてたのかーとか、店の掃除はどうなったのかー、とか。ユキさんには申し訳ないけど、何だかスパイになった気分である。
「おい、聞いているのか石高」
「あ、すいません。今ちょっと石高じゃなくてフィッシャーって気分だったんです」
「何を言ってるんだ」
ちなみに、今日は職員室だ。椅子を持ってきて、瑞沢の机の傍で彼女と話をしている。……最近になってちょっと面白いことが分かった。瑞沢という教師は凡そ人間らしい感情を持ち合わせていない自律兵器だとばかり思っていたのだが、実はそうでもない。呼び出されたとはいえ、俺との話の内容は他愛ない世間話である。なもんで、彼女は他の先生が通りがかるとぴくりと反応し、急に説教を始める。
『姉さんは男を見る目が本当になくてだな』
『はあ』
(別の先生が通りかかる)
『だから私は――――石高、お前はたるんでいる。徹底的に性根を鍛え直してやるから覚悟しろ』
『はあ?』
こんな具合だ。
瑞沢はうちの学校の教師ん中じゃ若い方で、つまり後輩で下っ端だ。好き勝手してるのが見つかったら怒られるんだろう。何かあったら校長にチクってやる。
「ふう。お茶でも飲むか。お前にも淹れてやろう」
「あ、いただきます」
「他の先生が来たら、その原稿用紙に反省文を書いているふりをするんだぞ」
まあ、うん。こんな具合だ。
「よう、石高。お前大変だなあ。マジで同情するぜ」
「さすがに可哀想になってくる……」
「今度なんか奢ってやるよ」
「禄助、俺たちのことは絶対に巻き込んでくれるなよ」
その弊害と言うか。俺は学年でめちゃめちゃ哀れまれる存在に成り果ててた。
中間テストが終わり、俺はまたもや瑞沢に呼び出されていた。今日は生徒指導室で待てと言われている。生徒指導室には物が少ない。長机とパイプ椅子となんか妙なファイルの詰まった戸棚がが幾つかあるだけだ。部屋も狭いしな。
俺もすっかり慣れたもので、指導室に入ると椅子に座り、鞄からお菓子とジュースを取り出して寛ぎ始める。一応、机の上には国語辞書と原稿用紙、筆記用具を並べているので、一瞬で食い物を隠せば言い訳だってばっちりさ。
「すまん、待たせた」
瑞沢は指導室に入り、扉の鍵を閉める。彼女はそのまま窓に近づいて、しゃーっとカーテンを閉めて回った。
「そう言えば、お前の成績のことを他の先生から聞いたぞ。テストの点数だ。あまりよくなかったらしいな」
「きょ、今日はユキさんのことじゃなかったんですか」
「怯えなくていい。どうせ三者面談で苛め抜くんだからな。楽しみは後にとっておけ」
くつくつと喉の奥で笑みを噛み殺すと、瑞沢は俺の対面の椅子に座った。ふと、俺はなんとなく思ったことを口にする。
「先生って暇なんすか」
瑞沢は眉だけを動かして反応した。笑えばいいのか怒ればいいのか、迷っているのかもしれない。
「そう思われても不思議ではないな」
彼女は笑った。自嘲気味なそれは、俺たちみたいな子供では出来ないし、自然と浮かんでくるものでもないだろう。
「私は部活の顧問もしている。お前たちの進級や進路のことも考えている。他にも、まあ、お前たちが思っているよりも教師のやらなくちゃあいけないことは多い。しかし心配するな。私だって大人だ。ちゃあんと考えてお前を呼びつけているさ」
別に、瑞沢を心配してるってわけじゃあなかったんだけどな。
「顧問って、何のクラブでしたっけ。確か、ええと、新宮流の古武術……?」
「そんなものうちにはない。私はお菓子クラブの顧問だ」
俺は思わず吹き出してしまった。咄嗟に口元に手を遣るが時すでに遅し。瑞沢の様子を恐る恐る確認してみる。彼女は難しそうな顔をしていた。
「おかしいか、そんなに」
「へ?」
「お菓子クラブの顧問。そう言うと、みんな笑うんだ」
意外と深刻そうな表情である。気にしてるんだろうか。だったら、もっと立ち居振る舞いを考えて欲しい。
「なんつーか、家庭的なイメージがないんすよ。たぶん」
お菓子と瑞沢って、中々結びつかないんだよなあ。
「部員は何も言わないんだがな」
「一回、どんな感じなんか見てみたい気もしますけど」
「見学に来るか? うちのクラブは週に二回、家庭科室で活動している」
誰が行くか。そう言おうとしたところで、俺は動きを止めた。灰色の脳細胞が急激に活動し始めたのを感じる。俺の脳が、身体が、待てという判断を下したのだ。……そうか。いや、そうなんだ。幾ら瑞沢が顧問をやっているとはいえ、腐ってもお菓子クラブである。ファンシーな響きに誘われるのは決まって女子だ。つーかお菓子作るんだろうが。女の子以外がクッキー焼いたりするのは許せん。決定だ。お菓子クラブには女子部員がいる。否、女子しかいない。見学に行けば手作りのお菓子をもらえるかもしんない。うひょー、最高じゃん。
「部員って、男子はいるんですか」
「いや、いない。全員女子だ。八人いる」
ハーレムじゃねえか。
「必ず行きます。次はいつですか?」
「明日だ。疚しいことをしている訳でもない。好きな時に見に来るといい」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
俺は立ち上がって三回お辞儀をした。瑞沢は面食らっていた。
「石高。菓子か、女子に興味があるらしいが、余計な真似をするなよ。家庭科室だからな。何でもあるんだぞ」
何がだ。
まだ夕方の五時前だ。瑞沢との世間話を終えた俺は、ユキさんのところでバイトする為、商店街へと向かっていた。相変わらず人がいないので、スムーズに移動出来る。唯一の褒められる点だな。
「こんにちはー」
建てつけの悪い戸を開けると、カウンターの方で座っていたユキさんがにっこりと微笑んでくれた。ああ、浄化されるような思いだ。
「今日もバイトに来ました。誠心誠意働きます!」
「ありがとうございます。いつも助かります」
すす、と、ユキさんは椅子から立ち上がり、そこに座るように俺に勧めてくる。
「そういえば、今日も瑞沢先生と話しましたよ」
「あの子に何かされませんでしたか。嫌なことをされたら遠慮なく言いつけてくださいね」
「世間話してるだけですから、大丈夫ですよ」
俺はカウンターの椅子に座り、鞄の中から一冊の文庫本を取り出した。昔の偉い人の書いた私小説で、ユキさんに勧められたものである。正直言って俺にはよく分からないけど、こういう本を読んでると、自分の頭が良くなった気がして最高にハッピーだ。
「凜乃が生徒さんと世間話、ですか。あの子も丸くなったものですね」
「明日、先生が顧問をやってる部活を見学に行くんです」
「お菓子クラブでしたか。凜乃はああ見えて甘党ですから。あの子からはよく小林堂の羊羹をもらうんです」
小林堂の羊羹と言えばここらでは有名である。石高家ではめったに見ることが出来ない高級品だ。あそこの家の子になったら、死ぬまで和菓子食い放題なんだろうか。超羨ましい。
「じゃあ、先生って料理が出来るんでしょうね」
よくよく考えてみりゃあ、瑞沢は家庭科の担当である。調理実習はまだやっていないが、人に教えられるってことは相当出来る人なのだろう。
「どうでしょうか。私は凜乃の作ったものを食べたことがありません。食べたいとも思えませんね」
「なんか、酷い言いぐさですね」
「だってあの子、不器用なんですよ」
そう言ってユキさんは笑んだ。この姉妹、一応、仲がいいんだろうか。大人になるとよく分かんなくなるわ。
ただいまと家に帰れば無音が返ってくる。石高家とはそんな温かな家なのです。リビングには椅子の上でふんぞり返っためぐがいるけど、俺の方を一切見ない。予想通りだ。このへそ曲がりめ。
俺はバイト帰りに買ってきたものをテーブルに置き、制服の上にエプロンをつけて作業を始めることにした。
まずは土台作りだ。既製品のクッキーをがしがしに砕き、溶かしたバターやクルミなんかを混ぜていく。セルクル(めぐが買ってくれたものだ。愛用品である)の底にアルミホイルを敷いて、土台をガンガンに敷き詰める。次はチョコレートだ。湯せんで溶かしていこう。
「……ん、どうした?」
「別に」
リビングには甘い香りが漂っている。女の子なら絶対に耐えられない空間だろう。ましてやめぐは大の甘党である。さっきからこっちをちらちらと盗み見していた。そうだ。妹の愛を取り戻すにはお菓子しかない。しかもとびきり手間のかかるチョコレートのチーズケーキだ!
「そうかそうか」
頷きながらクリームチーズをトロトロで滑らかになるまで練り回す。ついでにグラニュー糖も加えておこう。お次は卵だ。卵黄を少しずつ足していき、生地が均一になるように混ぜる。コーンスターチも忘れずに。
「今日のはどうだった?」
「え? あ、ええ、美味しかったんじゃない?」
めぐはさっきからそわそわとしていた。
夕食を食べ終わった俺は、ご飯前に冷蔵庫で冷やしておいたケーキの様子を確かめる。自画自賛になるが、すげえ美味そうだった。渾身の力作である。
めぐはケーキについて一度も聞いてこなかった。彼女の意地なのかもしれない。そんなもので釣られないわよ、みたいな。しかし釣り針に引っかけた餌からは目が離せないらしい。
「そうか。じゃあお腹いっぱいだよな」
「そんなことないわ。そうね、たとえば、甘いものなら別腹よ」
出たよスイーツ発言。
「じゃ、ケーキなんかも全然食べられそうか?」
「え、ええ」
ごくりと、めぐが唾を飲み込む。彼女の両目は俺の取り出したケーキに釘づけであった。
「そっか。全部食べていいぞ。めぐの為に作ったからな」
「いいの?」
「たぶん、俺がベッドの下のくだりでめぐを苛めたから怒ってたんだな。悪かった。お詫びとして受け取ってくれ」
めぐの前に大皿を出し、大きめのフォークをくるくると回して彼女に差し出す。妹は椅子の上に立って、ばっと両手を広げた。
「お兄ちゃん!」
「なんだ!」
俺も両手を広げてめぐを待ち構える。彼女はぴょんと跳び、俺の胸に飛び込んできた。感極まった俺たちはくるくると回り出す。
「お兄ちゃんだいすきー!」
「俺もだー! 俺もめぐが好きだぞー!」
楽しかった。
ケーキを前にしたスイーツモンスターめぐだが、俺の分も切り分けてくれた。なんて優しいんだろう。妹の優しさは三千世界に響き渡る。
「ところでお兄ちゃん。私が怒っていたのは別の理由なんだけど」
「え? そうなのか?」
「お兄ちゃん、優人くんに漫画貸したでしょう。あれ、私が読みたいって前から言ってたやつなのに」
「……そ、そうだったっけ」
そんなことで怒ってたのかよ。なんてこと言ったら、絶対また機嫌悪くなるんだろうな。
「すまん。最近さあ、学校で色々あって俺のSAN値がガリガリ削られてんだ」
「誰かにいじめられてるの?」
めぐはきょとんとした顔でそんな酷いことを聞く。しかし、あながち間違いでもないのかもな。
「担任に目ぇつけられてるんだと思う。なんか、結構呼び出されるんだ」
「悪いことをしたからでしょう。もう義務教育は終わったんだから、言い訳出来なくなるわよ」
「別に何もしてないんだけど」
「じゃあ、どうして呼び出されるの?」
なんでだろう。改めて、よく分からん。そりゃあ、瑞沢がユキさんのことを知りたがってるってことなんだろうけど。
「悪いことをしてるんじゃないのなら、呼び出しに応じなければいいじゃない」
そのとおりだ。俺はどうしてのこのこ呼び出されているんだろう。瑞沢が怖いからか? 断ると何をされるか分からないからか? ……うーん。分からん。
「まあ、心配しなくても平気だよ。俺は悪いことなんかしないから」
「女の子って、ちょっと悪ぶってる子が気になっちゃうみたいだけどね。不良っぽい男の子に惹かれるのって、どうしてかしら。私はあんまりそういう人に興味を持てないけれど」
「じゃあ、めぐはどんな奴が好きなんだ。学校で気になる男子がいるのか?」
めぐが彼氏を連れて家に来る、か。そう遠くない将来、そんなイベントが発生しちゃうんだろうな。
「髪の毛染めてちゃらちゃらしたやつだったら、小学生でもぶん殴るかもしれん」
「私はそう言う人に興味ないって言ったじゃない。大事なのは、顔よ」
案外俗っぽかった。
「あと、料理も出来たら嬉しいわね」
「あ、それは俺も嬉しいな」
兄妹の仲を再確認したところで眠気に襲われた。さて、明日はお菓子クラブ(と書いてハーレムと呼ぶ)に顔を出そう。うひひ、楽しみだなあ。
翌日。学校。昼休み。
「何かお前、朝からずっとそわそわしてんだよな。気持ち悪いから食堂のおばちゃんに頼んで刺し殺してもらえよ」
「ふざけんな」
「そうだよ。石高を殺して罪に問われるのはおばちゃんだぜ」
「そっちかよ」
食堂で飯を平らげた後、俺たちはテーブルを陣取ってだらだらとしていた。じき六月だ。梅雨になったら蒸し暑くなるだろう。そうでなくても、うちの学校にはクーラーがない。今の時期だって教室よりも食堂の方が陰があって涼しかったりする。
「そろそろ衣替えだなあ」
「まだ早いんじゃないの?」
俺はちらりと、隣にいる宝野を見遣った。こいつは未だに制服を着てこない。最初は手違いで届くのが遅いとか言ってたけど、とっくのとうに制服は届いているはずだ。
「お前さ、パーカーとか暑くねえの?」
「いや、別に? 制服のが暑いんじゃないの?」
いやいや、そうじゃなくて制服を着ろよ。
「うーん」優人は何故か、真剣な顔つきで宝野を見ていた。
「このままだと転校生ちゃんは生徒会長に怒られるな。……実にいいじゃないか」
「は? なんで?」
「原先輩とお近づきになれるかもしれん。で、俺たちが転校生ちゃんを叩きのめせば、先輩の好感度もうなぎのぼりだ」
「気が引けるわ」
俺と樋山くんは優人に向かって手を振った。宝野はグラスに入った水を眼鏡にぶっかけていた。優人は眼鏡を外して、自分の母親に『女子会に行ってくる』とでも言われたかのような青い顔をして必死になってレンズをハンカチで拭いている。
「ところで、そわそわしてるのは本当みたいだね。ロクスケ、なんかいいことでもあったの?」
宝野は俺のことをロクスケと呼ぶ。こいつの発音だとコロッケが好きなカラクリ呼ばわりされてるみたいで微妙な気持ちになるのでやめて欲しい。
「まあ、ちょっとな。放課後、俺は君たちと違って建設的な行為に励むのだよ」
「工事現場でアルバイトでもするのかな? 本屋さんはクビになったのかい?」
「宝野ちゃんには皮肉が通じないなあ」
ちなみに、樋山くんも優人と同じで、宝野をちゃん付けで呼ぶ。二人は常々ゲームの中の世界に行きたいとか言ってるので、城下不死教区でガーゴイルに殺され続けていてくれないかと、ここに強く願う。
「バイトじゃなくて、部活を見学するんだよ。ふはは、聞いて驚くな。お菓子クラブだぜ」
優人と樋山くんが椅子から立ち上がった。しかし意味がないのですぐに座り直す。
「ま、マジかよ。なんだよそのファンシーな響きは。部室とか絶対いい匂いがするに決まってんじゃねえかよ」
「てめえラノベの主人公にでもなったつもりかよ!? そんなの許さねえ、阻止してやる!」
「……? 一緒に行けばいいんじゃないの?」
宝野の疑問は尤もだが、優人は強く首を振った。俺は満面の笑みを浮かべる。さすがは幼馴染だ。よく分かっていらっしゃる。
「このゲスはそんな優しい世界に生きてないんだ。俺たちの羨むところを見て悦りたいだけなんだよ! なあ、そうだろ!? 笑ってねえで何とか言ったらどうなんだ!」
「お菓子か。ボクはあまり興味がないけど、君が行くって言うなら一緒に行こうかな」
「えー、お前かー。なんか女子に可愛がられるタイプだしなー。ダメー」
「ボクはあまり女の子に興味がないんだけどな」
何でもない台詞の筈なのに、俺は何故だか妙な危機感を覚えた。
「……ん? いや、待てよ。お菓子クラブって確か、顧問が瑞沢じゃなかったか?」
「おー、良く知ってんじゃん樋山くん。そうそう。見学に来ないかって言われたんだよ」
「み、瑞沢に?」
俺は頷く。樋山くんの汗は止まらなかった。
「正気かよ石高。虎穴に入らずんばとは言うけどよ、そこまでして女の子の手作り菓子を欲しいとは思えん。なんつーのかな、瑞沢の居城に行くわけだぞ? だったら全裸になって体中に肉括りつけて腹ぺこの虎の前でケツを高速で振ってる方がまだマシだ。あのアニメのエンディングみたいにな。そっちのがまだ助かる見込みがある」
「おい。嫌な想像しちまったじゃねえか」
「ああ、樋山くんの言うとおりだ。禄助よう、お前、最近瑞沢に呼び出されまくってるけど、洗脳でもされてんじゃねえのか」
そこまで言うか。別に、嫌なことなんか何もされてないんだけどなあ。
「行きたくないんなら別にいいって。俺は行くから。んで、クッキーとかマシュマロとか食べさせてもらうんだ。明日どころか、今日の夜にしこたま自慢してやるけど、悔しくなってゲロ吐いても知らねえからな」
「クソが。毎クール毎クール『今期は不作だわ』とか抜かす豚よりムカつくぜ。もういい、行こう樋山くん。ここにいたらあまりの怒りで眼鏡が曇っちまいそうだ」
優人と樋山くんは行ってしまった。しかも自分たちの空っぽになった食器と盆を置いていきやがった。片づけろよ。
「宝野。お前はどうする?」
「……い、行くわけないじゃないか」
宝野はまだ瑞沢に苦手意識を持っているようだった。




