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シッソウスルセカイ(法螺吹きの休日)

 夕食を軽めに済ませ、長い時間をかけてストレッチを行う。9月とはいえ、そんでもって陽が落ちてるとはいえ、まだまだ蒸し暑い。既にじっとりとした汗をかき始めている。準備を済ませて玄関で靴を履き替えていると、リビングの方からひょっこりとめぐが顔を出す。

「続くわね。三日坊主にもならないって、お母さんと話していたのに」

 靴ひもをきつく結び直しながら、俺はわざとらしく笑った。

「びっくりしたろ」

「いいえ、私はそんなに。だって私はまだ覚えているもの。お兄ちゃんが楽しそうに走っているのを」

「……楽しそうだったか?」

 めぐは力強く頷いてくれる。そっか。ああ、いや、そうかもしれない。不純な動機だったかもしれないが、俺はいつの間にか、本当に走るのが好きになってたのかもな。



 9月14日、体育祭の当日は晴れであった。雨天中止と聞いていたが、何日も前から天気予報をチェックしていたので不安ではなかった。

「リア充っつーか、運動部は全員死ねばいいのにな」

「……何言ってんだか」

 とにもかくにも、もうじき本番が始まる。教室につき、体操服に着替え終えた生徒たちはグラウンドへ向かっていく。

「石高はいいよなあ! かけっこが上手だからさあ!」

 優人と樋山くんはさっきからぶつくさ文句を言っている。去年の俺なら二人に倣ってサッカー部辺りをバッシングしていただろう。ただ、今年だけは違う。

「今からでも雨が降ればいいのに」

「あー、今日はめっちゃ暑いんだってよ。雲一つない快晴みたいだぜ」



 腐るほど練習させられた入場行進は本番でグダった。教師たちが青筋を立てる中、開会の挨拶に始まり、ラジオ体操が終わる。一つ目の種目は100メートル走だ。出場者は入場門に集まれと、ノイズ交じりの放送が流れている。

「じゃ、行ってくる……俺、帰ってきたら」

「おー、そういうのはいいからまあ頑張ってこいや」

「さっさと来いよ樋山ァ!」

 俺はといえば、応援席(教室から自分たちの椅子を持ってきているだけだ)でプログラム表を眺めていた。樋山くんたちは100メートル走に参加するし、優人はクラス委員という肩書を利用されて雑用に回されている。ちょっと暇だった。

「おい。なあって」

 顔だけで振り向くと、険しい顔つきをした丹下院たち黒ギャル集団と、クラスでもお調子者の連中が大量に群れていた。和やかな話が始まりそうな雰囲気ではない。

「あー、何?」

「何じゃねえって。お前さ、マジで言ってんの?」

 いったいなんだ?

「だからさ、マジでリレー走るのかって聞いてんだ」

「……? そら走るよ」

 ふ、と、丹下院たちは嗤った。

「お前がか? 瑞沢は認めたみたいだけどな、俺らはまだ認めてねえぞ。本気で勝ちに行きたいんだ。けど、お前は……」

「まだるっこしいって。つまりさ、石高。どうせやる気なんかねえんだろ? だったら今のうちに選手交代しときたいんだ。保健室にでも引っ込んでてくんない?」

「……言い過ぎじゃね?」

「いいんだって、別にー。で、どうすんの? ん?」

 どうやら舵取りをしてんのは丹下院らしい。お洒落のつもりか、ウインドブレーカーを羽織った彼女は意地悪い笑みを浮かべて、俺を見下ろした。言いたいことは、まあ、分かる。そのつもりだ。イベントに乗り気じゃないやつもいれば、こいつらみたいに張り切るのもいる。今回に限って言えば、あの瑞沢が焚きつけたのだ。目立ちたい連中からすれば燃えない訳がない。で、俺はと言えばどうだ。クラス対抗リレーに捻じ込んでもらったのはいいが実績がない。中学が同じやつなら少しは俺のことを知っていたろうが、こいつらは高校生の石高禄助しか知らない。

「走るよ。勝てばいいんだろ」

 俺はそう言って、グラウンドの方に目を遣った。ちょうど、樋山くんが走るところで、あっという間にビリになったところであった。

「石高……!」

 肩を掴まれる。俺は丹下院の顔をじっと見返した。ここで譲るつもりはない。邪魔をするならぶっ飛ばしてやる。そう思いながらねめつけていると、彼女はふっと顔を逸らした。

「ち、気が変わったら言ってよね」

 連中は納得していないらしいが、とりあえず引っ込んでいった。俺はふうと息を吐く。ちょっと怖かった。



 その後、競技は始まって終わっていった。俺はやつらに絡まれることなく、二人三脚やムカデ競争といった種目に出て、まあまあの成績を収めていった。

 クラス全員参加の綱引きが終わったあと、俺は何者かに肩を掴まれた。

「頑張っているじゃあないか、石高」

「ひっ! 瑞沢! ……先生」

 正体はジャージ姿の瑞沢であった。風貌から見るに竹刀とか持っててもおかしくない。彼女は退場門で待ち構えていたのだろう。俺は身を震わせながら周囲を見回して助けを求める。だが、汗だくの樋山くんも優人も、見なかったふりをして応援席へと戻ってしまう。薄情者め!

「得点ボードを見ろ。我が赤組は負けている。白組に大量リードされている訳ではないが、差は中々縮まらない」

「そ、そうですね」

「残っている競技は少ない。部活対抗のリレーや組体操といった茶番では点が入らんからな。午後の部が勝負だ。分かっているよな」

 俺は何度も頷いた。

「ならばよし」と、瑞沢は俺を解放する。

「端から紅白の勝ち負けに拘りはない。重要なのは一組の連中を最後の競技で負かすことくらいだ。……まあ、あまり気にするな」

「ああ、俺を代えろって言われたんですか」

 瑞沢は苦々しそうな顔を浮かべた。

「ちょっと煽り過ぎたな。行事に本気で取り組むのはいいことだが、ああいうのは、好きじゃない。所詮は学校行事だ。競い合っても争い合う必要はない。私がとりなしてやってもよかったが、ク、この場では足の速さが物を言う。分かりやすくていいなあ、お前らは」

「えーと、つまり、自分の力で黙らせろってことですか」

「……そういうことだ。私に噛みついた時の意気を見せてやれ」

 それだけ言うと、瑞沢はテントの方へ歩き去って行った。もしかして、励ましてくれたのだろうか。いやいや、どうだろう。……どうなんだろうか?



 お昼は教室で食べることになっている。高校生にもなると保護者が観覧することもないらしい。まあ、色々と配慮しているんだろう。正直、助かる。だってやっぱ身内に見られるって恥ずかしいもん。絶対めぐとか写真撮るし、父さんなんかビデオカメラ回しまくるに決まってる。

「はー、やっと休める。午後からはダラけられるわー」

 優人がぐでーっとしていた。

「午前中はずっとパシリとかしてたのか?」

「おう。お前らだって見てたろ。選手の誘導とかしてたわ。どうせなら放送席で実況とかしたかったんだけどな」

「どうせ『う、ああああおおお』とかしどろもどろになるんだろ」

「否めんなあ」

 樋山くんはくしゃくしゃになったプログラム表を指でつまむ。

「えー、あとは、部活対抗リレーと、組体操と、長縄跳びと、ん、前座……? まあ、この次にクラス対抗か。よっしゃ、実質もう出番ねえ。ああ、俺の体育祭がやっと終わる。長かった。早く帰って録り溜めしてたアニメ見たい。ああ、犬と、ハサミが……ハサミ枠が」

 何かもう死にそうだった。樋山くんの肌が土気色になってる気もする。

「樋山くんの繊維が喪失してしまった。しようがねえ。オタにとってこの手のイベントは地獄に匹敵する。ここは地獄だ。保健委員の鬼灯さんにどうにかしてもらおう」

「どうせ鬼灯さん呼ぶんだったらアネキの方がいい」



 午後の部は応援合戦から始まった。今、グラウンドでは有志のチアガールたちがポンポン持って足を高く上げている。いいぞ~。

「ブラーボォ!」

「アモーレ! アモーレ!」

 俺と優人は前の席に座ってるやつらを退かして、最前列からどうにかしてスカートの中を覗こうと苦心していた。穿いてるのはパンツじゃないもんとかそういうのはどうでもいい。俺はただ、中を見ようとしているだけなんだ。



 競技も進み、残すはクラス対抗リレーと、前座のみとなった。今のところ、赤組が僅かな差で負けている。逆転の目は最後の種目だ。さっきから妙なプレッシャーを感じる。

「ところで前座ってなんだ?」

「うーん。俺も知らねえ」

 どうやら、何が始まるのか殆どのやつが把握していないらしい。その時、音割れした「軽騎兵」序曲と共に、入場門に教師たちが集まった。彼らはよく訓練された兵士のように一糸乱れぬ動きで行進し、各々の持ち場につく。

「……ああ、そういうことか」

『それではこれより、先生方による紅白対抗リレーを行います! 生徒の皆さんは応援をお願いします!』

 実況しているのは一年の男子で、高めの声がグラウンドに響いた。

 趣旨を理解した応援席のそこかしこから拍手や歓声が聞こえてくる。

『皆さんも知っていると思いますが、グラウンドは一周200メートルです。本来なら一人一周走ってもらう予定でしたが、思うように体が動かないからと、先生方からの強い要望により、アンカー以外は半周となりました。ご了承ください』

 どっと受けた。さっきまでは固い顔をしていた教師も相好を崩し、照れくさそうに頭を掻いている。

「去年はなかったっけ、こういうの?」

「なかったんじゃない?」

 スターターピストルが轟いた。弾かれるようにして第一走者がスタートする。一応、運動部の顧問をやってる人らが選手らしいから見てて面白い範囲だ。しかし全員ジャージだし、どっちが紅組でどっちが白組か分からん。見てる方もよく分かってないから担任だったり、顧問を応援するのが殆どである。

「……もう走った?」

「や、まだ」

 リレーは進むも、瑞沢は未だ姿を見せない。

「オーガって空手部の顧問だっけ?」

「空手部とかねえし! 確か……お菓子クラブ……? だったような?」

「えっ、嘘」

「言ってて自信なくなってきた」

「んだよ、オーガも結局口だけかよ」

『さあ、いよいよアンカーの先生が走ります! あーっ、速い! ごぼう抜きだ!』

 バトンを受け取った真紅のジャージストが駆ける。瑞沢だった。

「うおーっ、すげえ! いけいけ!」

「マジか!?」

 そんな気はしてたけどオーガめっちゃはええ。興奮したクラスメートは椅子の上に立って手を振りまくって応援している。

「でもなんでT-1000みたいな走り方なんだ?」

「おっ、こっちに手ぇ振ったぞ」

「なんかいつものオーガとは違うな」

「やった、一着だ!」

 さしものオーガもテンションが上がってるんだろうか。弾みもついたし、あとは俺が頑張るだけだ。

「……おい」

 振り向くと、嫌そうな顔をした丹下院がこっちを見ていた。まだ、何か言いたいことでもあるのだろうか。勘弁して欲しかった。

「あんな、どんだけ何を言われたって、俺は」

「それはもう分かってっから。瑞沢もなんか聞いてくんなかったし」

「じゃあ、なんだってんだ」

「やるんなら本気でやってよ。なんか、適当とかやってんの、見てる方はムカつくから」

 反論したかったが、俺は過去二年ほどを一瞬で振り返った。反論も抵抗も出来るはずがない。

「うん、分かった」

「……まあ、負けたら負けたでめちゃめちゃ吊し上げるだけだから別にいーけど」

 よくねーよ。



『クラス対抗リレーの出場者は、入場門に集まってください』

 聞いたことのあるクラシックが流れている。運動会では定番のBGMだ。なんだったっけな、この曲の名前。

 ……ああ、息が重たい。気が重い。自分一人だけで走れれば気楽だってのに、何か余計なものまで背負ってるような気がする。だのに身体は妙に軽い。

『これが最後の競技です。皆さん、頑張ってください。応援する人も、力いっぱいでお願いします』

 周りを見ると、皆速そうだった。実際、今の俺で敵うかどうかは分からない。どこのクラスもメンバーはガチだ。全然知らないやつもいるが、二年三組のインパラと呼ばれた柿原くんもいるじゃないか。俺だけなんか浮いてんな……ん? あっ、やばい。ちょっと緊張してるかもしんない。

 俺は固くなったものを解き解そうとして、頭の中でルールを確認する。クラス対抗リレーは男女混合で行われる。各クラスから代表者を十人選び、第一走者とアンカーだけがグラウンドを二周する。400メートルぶっ続けで走るわけだ。最初に一年、次に二年、最後に三年が走って、それだけだ。分かりやすい。だからこそ盛り上がるんだろう。足の速さだけが全てを決める。ガキっぽくて、単純でいい。勝負には持ってこいだ。だろう?

 と、宝野の様子を確認するが、こいつは徹底的に俺を無視している。今になって、彼女が勝負を受けてくれないんじゃないかって不安も出てきた。俺、第一走者だからなって言ったよな?

「おい、石高。お前が出るんだな」

「……ああ、なんだ、お前か」

「おいおいおい、そりゃねえだろう」

 好戦的な笑みを浮かべたのはバスケ部の小野である。こいつも出るのか。

「お前んとこは勝負捨てたみたいだな」

「かもな」と、適当に返しておく。眼中になかった。

 俺はじっと宝野の背中を見ていた。その時になって思う。ああ、こいつもこんな気持ちだったのかなって。そんなこと今になって気づいてもどうしようもない。遅かった。だけど遅過ぎるってことはない。まだチャンスはある。

 大きな歓声が上がった。はっとしてグラウンドを見ると、一年生のアンカーがゴールしていたみたいだ。はちまきをした好青年がめっちゃガッツポーズとかしてる。

『続いて、二年生の入場です』

 俺は気を取られていたが、皆からは一拍遅れて立ち上がった。砂埃が舞って、視界が滲んだ。



 ――――もっと先へ行けるよ。



 夢を見ていた訳じゃない。ただ、少しの間だけ思い出していた。俺は、本当はどうなっていたんだろう。本当に先輩の言っていたように、先へ行けたのだろうか。

 目を開ける。心臓がどくんと鳴った。真正面には人がいる。グラウンドを取り囲むようにして人がいる。どこもかしこも人がいて、逃げ場がない。皆が俺を見ている。そんな気がした。音も嫌だった。頑張れだとか、そういう声が聞こえてくる。言われなくても分かってくることをわざわざ叫ばなくたっていいだろうに。そう言えば、俺は結局、大勢の人がいる中を走ったことがなかった。成績だけで言うなら地区大会止まりである。こんなのは初体験だった。

『第一走者の人は、位置についてください』

 アナウンスに促され、俺は立ち上がる。心臓がずっと鳴りっぱなしだ。さっきよりも強く、速く。誰かに聞かれているんじゃないだろうなって、周りに目を遣る。二年は六クラスある。六人の走者がいて、俺の隣には宝野がいた。

「……緊張しているのかい」

 宝野はこっちを見ないままで言った。いつもと変わらない、平坦で、抑揚のない声だ。だけど、心臓の音がうるさくて何を言ったのかは聞き取れない。

「え?」

「ふうん。集中はしているみたいだ」

 え、あ、何が? 集中って、俺が。いや、ちょっと待ってくれ。

『それでは位置についてー、よーい』

 あっ。トランペット吹きの休日だ。

 今流れている曲の名前を唐突に思い出した。

 どこかで何かが鳴った。一拍遅れて飛び出した。五人分の背中が見えた。



『最初に飛び出したのは二年一組の宝野さんです。次に……』

 しまった、しまった、やっちまった! 出遅れた!

 一年坊主が群れた応援席付近の第一コーナーを、俺は最下位で走り抜ける。前を見ると、既に宝野とは距離が開いていた。取り返せない訳じゃない。だが風が痛くて走りにくい。上手く目が開かない。なんかすんごく息がしづらい。バトンなんか邪魔だ。

『赤組、五組の石高いしだかさん、頑張ってください』

石高こくだかだ!」

 走り方すら忘れそうなほど緊張してたらしいけど、声を出したことでどうにかなった。コースの内側は全部押さえられてる。だったら外から行くしかない!

 二つ目のコーナーを回り、長いストレートが迫る。こっち側には二年生の応援席があった。近づく度、応援の声が大きくなる。

「何やってんだボケ!」

「てめえ大口叩いてビリとか殺すぞ!」

「石高ー! こけろー!」

「ぎゃはは、バーカ!」

 めっちゃ煽られてるし怒られてる。ふざけんな。

「好き勝手言うな!」

「言ったのはお前じゃねえか! 本気で行けって! 死ぬ気で走れーっ!」

 悲鳴交じりの声が聞こえた。丹下院のものだろう。

 マジでふざけんな! 直線で五人抜けばいいんだろうが!

『凄い追い上げです。五組の第一走者が…………えっ、四人抜き?』

 足を溜めてた訳でもなんでもない。中学ん時の走り方っつーか、雰囲気を思い出しただけだ。外からぶち抜く。邪魔なやつらを一人抜く度に、視界の端で、嘘だろ!? みたいな顔が映り込む。邪魔だ。

『最下位から二番手になりました。石高さん、帰宅部のエースです!』

「よっしゃマジかー!?」

「ぶっちぎれ禄助!」

 後ろから歓声が聞こえた。まだだ。まだ足りない。二番じゃ駄目だ。俺は一番にならなきゃいけない。あいつを抜かさにゃ意味がない。

 三つめのコーナーを、宝野に遅れて曲がりきる。最後のコーナーでも、短い直線でも追いつけない。後ろから見た彼女は酷く綺麗だった。理想のフォームである。羨ましい。俺は中学時代、顧問に口を酸っぱくして言われていた。『なんか変だ』、『なんか汚い』と。そうだ。目指すものはアレなんだ。

 二週目に入った。もはや俺たちを邪魔するやつはいない。差はない。手を伸ばせば宝野のうなじに届くだろう。だが、これが壁なんだ。僅かに、あと少し、今一歩。コンマ一秒を縮めることに心血注いだことがあるからこそ分かる。サボっていた俺とは違うんだ。

 一つ目のコーナー。二つ目のコーナー。差は縮まらない。畜生、瀬戸際で抜いたって意味がねえんだ。宝野の前に出なきゃ始まらねえ。俺は、こいつに……!



「だから何やってんだ馬鹿野郎!」

「そんなチビ抜かしちまえ!」

「いけーっ、いけ! 勝てよ石高!」

『デッドヒートです! 赤勝て、白勝て、どっちも応援してあげてください!』

 外野がうるさい。

「禄助っ、転校生ちゃんにいいとこ見せるんだろうが!」

「頑張れバカーっ!」

 応援席が目に入る。うちのクラスのアホどもは全員立ち上がり、コースに乱入する勢いだった。さっきまでとはえらい違いである。すげえ勝手で、すげえうるさい。でもありがとう。

 ふ、と、息を吐く。姿勢が自然と低くなる。こういうフォームで走ったら顧問はうるさかったっけ。綺麗なフォームだねって褒めてくれる人も今はいない。俺を縛るものなんか、もうないんだ。

「……くっ」

『あっ、抜いた! 抜きました!』

「おっしゃあああああああ!」

「そのままトップでいけーっ!」

 俺を見ろ。

 俺を認めろ。

 世界で誰に無視されたっていい。誰に嫌われたっていい。でも宝野、お前だけは俺を認識してくれ。

 風が強く吹いている。視界が狭まったままで三つめのコーナーを抜ける。抜いたが、殆ど横並びだ。まだだ。まだまだ足りない。先へ行きたい。だけど辛い。400は正直、ブランクのある俺じゃあしんど過ぎる。作戦もクソもない。ただ突っ走ってるだけなんだ。だから、ラストスパートをかけるのも無理がある。

「いけええええええっ、石高ァァァァァァァ! うおああああああああ!」

 向こうから声が聞こえてくる。普通じゃない大声だ。樋山くんめ。保健室からわざわざ駆けつけてくれたのか。

 普通なら。

 普通なら、無理だ。

「ふ、は、はは」

 これは記録会でもなんでもない。いわば遊びだ。宝野だって疲れてる。誰だってラストはきついはずなんだ。普通なら飛ばさない。

 だが宝野だって普通じゃない。彼女は必ずラストスパートをかけるだろう。そんな雰囲気があった。だからもう、ここで折る。俺はバトンを握った方の腕を掲げた。歓声が一段と大きくなった。めっちゃ気持ちよかった。



 四つ目のコーナーを回って、最後の直線に入る。心臓も足も限界だ。どくんどくんと体中から音が鳴っている。

『さあ石高さんが帰ってきました。二年五組、リードを広げています。大金星です』

「やったぜ石高! お前がトップだ!」

「はやくこっち来い!」

 見えた。聞こえた。バトンの受け渡しを待つ第二走者が俺を呼んでいた。

 宝野の背は前にない。俺がトップだ。どうだ。俺の背中はあの時と変わらないかよ。振り向きたくなる衝動を堪えて、残ったものを全部振り絞る。手を伸ばして、バトンを渡そうとする。

『あっ!』

 あ?

「あああああ!?」

 バトンが消えた。しかし探す元気はない。俺はその場に倒れ込みそうになるのを堪えてふらふらと歩き、コースの端の方に仰向けになって倒れ込んだ。何かが宙を舞っているのが見えた。

『バトンミスです! 五組のバトンが高々と空を飛んでいます! その間に一組の宝野さんが、次のランナーにバトンを渡しました! 一組、トップに返り咲きました! 頑張れ五組、まずはバトンを拾ってください!』

 俺は丸くなって耳を塞いだ。



 体育祭が終わった。閉会式の後、一部の生徒を除き、殆どの人らは着替え終わって楽しそうにおしゃべりしている。俺たち五組は瑞沢からの差し入れだと言う缶ジュースを受け取り、思い思いにそれを飲みながら彼女の話を聞いている。

「お前たち、よくやった。お疲れ様だ。お陰で一組の鼻を明かすことが出来たな」

「赤組負けちゃったけどなー」

「あー、誰のせいだったっけー」

 俺は熱くなった頬を、温くなり始めたジュースの缶で冷やしていた。

「おーい、その辺にしとけって」

「おい、委員長が言ってんでしょうが」と、丹下院が騒いでた連中をねめつける。

「丹下院さん。ついでに禄助にも謝ってもらいたいんだけどな」

「え、ええと、ご。ごめんね、石高」

「……いいよ。これくらい」

 頬を摩る。これくらい。ビンタ一発くらいで五組の皆の気が済むなら安いものだ。すげえ痛いけどな。痛いけどな!

 優人がへらへらと笑う。彼は二つの缶を机の上に置いていた。樋山くんの分だ。あとで自分が届けるからと言って受け取ったのである。

「さあ、あとは片付けだ。任せたぞ」

 愉しげに言うと、瑞沢はクーラーボックスを持って教室を出ていった。体育祭ももう終わりだ。だけど、ここからだ。



 陽が落ち始めている。さっきまでのクソ暑さは鳴りを潜めていた。吹く風はもう涼しい。秋が訪れるのだろう。

 俺は、食堂の前の自販機で宝野を待っていた。お祭りが終わって、学校からは殆どの人がいなくなっている。話をするにはもってこいだった。

 心臓はもう、痛いほどには鳴っていない。俺はベンチに座り込み、太腿を摩った。明日か、明後日には筋肉痛だ。覚えのある痛みだが、久しぶりだから慣れることはないだろう。

「……待たせたかな」

「よう」

 手を上げて応える。宝野は俺の隣に座った。彼女はしばらくの間口を利かなかったが、小さな息を漏らす。そうして、俺を見据えた。

「ボクの負けだよ」

 俺はその言葉を噛み締める。その意味を確かめる。

「まだまだ程遠い。けれど、君はやっぱり君だった。それが分かったから、満足だよ」

 宝野は笑った。含むところのない、爽やかな笑みであった。

「俺の勝ちってことでいいんだな?」

「うん? ああ、そうだ。君の勝ちだ。リレーでは一組の勝ちだったけど、最初からそんなものに興味はない。ボクと君との400メートルだけが全てだったんだから」

「そっか。そうか……」

 やっと、終わった。

 身体から力が抜ける。狭くなりっぱなしだった視界もようやく戻ってきたような気がした。俺は何も見なかったふりをして立ち上がる。

「話はもう終わりかい?」

「ああ。それじゃあな、また今度な」

「ふうん? デートは?」

 悪戯っぽい顔をした宝野が俺を見上げた。

「したかったんじゃないの?」

「……う、あ、ああ、まあ、な」

 宝野は立ち上がり、俺の胸に顔を埋める。鳥肌が立った。

「ふ、ふふ。抜けてるなあ、君。だから言ったのに。ボクでいいのかって」

 俺から離れた宝野は、その場でくるりと回る。

「どう? 似合ってるだろう?」

「えーと、コスプレか何か、か?」

「馬鹿を言うなよ」

 似合っているかどうかはさておき。宝野は、パーカーではなく、制服を着ていた。ただし、男子の。

「手違いがあったって言ったろう? 失礼な話だよ。ボクのもとに届いたのは女子の制服だった。新しい制服が届くまで、ボクは私服で着ても構わないと言われていたんだよ。向こうじゃそれが当たり前だったし、そっちのが慣れてたからね。ただ、あの生徒会長にはとっくに制服が届いていたことがばれてたみたいで」

 以前、宝野は原先輩に詰め寄られていたっけ。

「ボクは私服のが楽だから校則は無視してたんだ。でも、勝負はついたから。これもいい機会だと思って、今日からはこっちを着ることにしたよ。案外、悪くないし」

「ふーん」

「ところで、君は気づいてなかったの?」

「な、何が?」

「だから、ボクが男だってことに。君のお友達や、妹さんは気づいてたと思うけどな」

 まさか。まさか。

「へえ、気づいてなかったの? じゃあ、女だと思ってたんだ。ふうん。図書室でボクを抱きしめた時も? てっきり友達同士のじゃれ合いだって捉えてたけど」

「や、やめてくれ。許してくれ」

「いやいや、何も怒ってるわけじゃない。ボクの性別を勘違いする人は珍しくないんだ。面倒だから一々訂正することもしないしね。それに満更でもなかったよ。どんな理由があるにせよ、君がボクを気にしてくれたことは嬉しいんだ。正直、ボクもそう言う風に振舞っていたかもしれない」

 走馬灯だ。それが見える。頭の中が破裂しそうだった。なのに宝野は話を続けようとする。

「君が言ったんじゃないか。ボクのことを好きだって。思うところはあるけど、素直にうれしいと思ったよ」

 それきり宝野は口を噤んでしまった。さあ、どうする。問われているようだった。どうするもこうするも、彼女は……いや、宝野は男で、俺ももちろん男で。お、俺は、いったいどうすればいいんだ!?

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