シッソウスルセカイ(トリッチ・トラッチ)
男ってのは単純で馬鹿だ。特に中学二年生の男子なんざ馬鹿でしかない。俺はそう思う。ご多分に漏れず、俺こと石高禄助という男も馬鹿のうちの一人だった。
だが、馬鹿は馬鹿なりに張り切るものだ。中学の入学式、俺はある先輩に一輪の花をもらった。個人的に、ではない。セレモニーの一環で、一年生を歓迎する催し物の一環だ。特に意味はない。大した理由もない。ただ、俺はその先輩のことを好きになった。入学おめでとう。これからよろしくね。そんな言葉だけで真っ赤になって、有頂天になったのを覚えている。
先輩の名前は佐藤といった。優人に調べてもらった。彼女は二つ上の三年生で陸上部に所属していた。俺は迷うことなく陸上部に入ることを決めた。
『あ、入学式の時の! えーと、石高君だよね?』
先輩は俺のことをおぼろげながらも覚えていてくれた。嬉しかった。
いい気になった俺はがむしゃらになって走ることに打ち込んだ。先輩は短距離の選手だったので、俺もそうした。幸いにも、走るだけなら自信はあった。昔からサッカーや野球みたいな球技は苦手だった。不器用だったのである。だが、走るだけなら問題はなかった。こういった競技は基本的に孤独だ。集団で練習することもあるが、一人きりで学校の周りやグラウンドを黙々と走っていたのが殆どだったと思う。
実際、俺は凄かった。自分で自分のことを褒めるのはどうにもむず痒いが、タイムだけで見るなら上級生にも負けていなかった。100メートルと200メートルなら、誰にも負ける気はしなかった。期待の新人なんてもてはやされて、先輩からもお褒めの言葉と、それ以上に記憶に残る満面の笑みを頂いた。
一年生の時、地区大会の会場に行った。生まれて初めての経験だった。観衆こそ少なかったが、いつものグラウンドで練習している時に比べればまるで違う。……俺はトラックで選手としてではなく、端っこの方で他の人たちと一緒に先輩たちを応援していた。本当は出られるはずだったのに、怪我をしてしまったのだ。俺は張り切り過ぎた。中学一年なんかろくに体も出来上がっちゃいない。なのに舞い上がって無理をした。オーバーワークである。いいところを見せたかったのに。
先輩はいくつかの種目に出たが、標準記録を突破出来なかった。中学の陸上は、地区大会、県大会、地方大会、そんで全中と呼ばれる全国大会がある。全中に出る為には標準記録を抜かなきゃいけない。彼女だけでなく、他の先輩方もタイムはよくなかった。三年生はこれが最後の大会となった。
俺は泣いた。悔しかったのである。先輩方が上に行けず、ここで部活を引退することが悲しくて、嫌だった。何よりも、俺は自分が不甲斐なかった。俺も一緒に走って、そういう思いを共有したかった。
『石高君なら大丈夫。もっと先へ行けるよ』
『私の分まで頑張ってね』
先輩も悲しかったし、悔しかったろう。本当は自分が泣きたかったはずだ。けれど彼女は、無様にも泣きじゃくる俺に声を掛けてくれた。先輩の優しい声音がすっと染み入り、俺はもっと泣いた。この世に生まれてきた時くらいに泣いた。
三年生が引退して、新しいキャプテンが決められて、陸上部は再スタートを切った。不思議と、俺にはまだまだやる気が残されていた。先輩がいなくなるのは寂しいが、彼女の言葉が力となった。それに、先輩が遊びに来てくれる時もある。練習の手伝いであったり、差し入れであったり、たまにはと、軽く走ったりもしていた。俺は彼女の後姿を見るのが好きだった。いつかは隣同士で、なんて思うこともあったけど、先輩が走るところを見るのは楽しみでもあった。
二年生になるまでは新人の地区大会であったり、記録会に出たりもした。だけどタイムは大してよくなかった。皆、不思議がっていた。緊張していたんだろう、とか、本番ではそうなる、とか、慰められたような気もする。本当の理由なんか言えなかった。
俺は走り続けた。蒸し暑い日も肌寒い日も、雨の日も雪の日も風の日も。馬鹿みたいに。いや、馬鹿だった。中学生になって二回目のゴールデンウィークを迎える頃、俺が部内で一番早くなっていた。
「聞いてて思った。すげームカつくんだが」
「今のところ自慢話にしか聞こえんからな」
俺はいったん話を区切り、時間をかけてジュースを飲み、喉を潤した。
「……続けてよ」
宝野は俺から視線を外さない。一言一句全部聞き逃すまいとしていた。
二年の夏。地区大会も間近に迫った頃だ。俺の生活、人生の中心には陸上があった。走ることも好きになってたし、それ以上に先輩の存在も大きかった。いつか必ず認めてもらおう。褒めてもらおう。そんなことを考えていた。不純だ。
先輩は中学を卒業して、遊びにも来なくなっていた。そりゃそうだ。彼女にも新しい生活がある。当時の俺からすりゃあ高校生はかなり大人な存在だった。アルバイトを始めたのかもしれないし、勉強も部活も慣れるには大変だろうと思っていた。
先輩が引っ越した。
三年の先輩がそんな話をしていた。どうやら、引っ越しというよりも家出同然の駆け落ちだったらしい。今日び珍しい。家族と上手くいっていなかったとか、高校になじめず素行が悪くなったとかで、悪い男に引っかかった、なんてことも耳にした。その後、彼女がどんな街に行って、どんな風に生活しているのか、一切分からなかった。今でも分かっていない。今はもう、知りたくもない。
何も分からないまま、分からなくなったまま、俺は走った。もう走ることしか残されていなかった。地区大会では俺の前を走るやつなんかいなかった。当時のタイムは覚えていない。どうだっていいからだ。ただ、標準記録をぶっちぎってたらしい。顧問も、先輩も、同級のやつらも自分のことのように喜んでくれた。何とも思っていなかったのは他ならぬ俺だけだった。全中なんざ興味はなかった。俺はただ、先輩の笑顔が見たい一心で走ってたんだから。
俺は次の大会に出なかった。結局、陸上部も辞めてしまった。顧問は必死になって引き留めてくれたが、先輩たちは強く引き留めはしなかった。俺の気持ちなんか、とっくのとうに知れ渡ってバレバレだったらしい。
『あんまり気を落とすなよ』
同情されて慰められた。勝手に休んだことを咎められもせず、勝手に辞めちまうやつだってのに責められもしなかった。俺はとうとう、陸上部にいる意味も、走る意味すらも失った。
「そんなことがあったのか……なんか、悪いな。マジで余計なこと聞いちまったみたいだ」
「いや、そんな気にしないでくれよ。今となっては笑い話だからな」
「笑えるものか。ボクの、ボクの気持ちは……」
微妙な空気が流れて、固まる。俺は全てを誤魔化したくてアップルジュースを一気飲みした。そうして長い息を吐く。
宝野の目を見るのが怖かった。だから俺は、彼女がこっちを見ていることに気づきつつも、決して目を合わせなかった。
「つまり君は女なんかにうつつを抜かしてたんだ。告白もしてないくせに、勝手に好きになった人が君の知らないところでいなくなったからって、ショックで辞めたんだ。走ることから逃げたんだ」
「ちょっ、言い過ぎじゃね?」
樋山くんがフォローしてくれるが、俺は宝野の叱責を甘んじて受け入れようと思った。実際、そのとおりである。片思いは実に痛い。独りよがりで、俺は何もかもから……。
「ボクは中一の頃から君のことを知っていた。初めて見たのは地区大会の時だ。君は怪我をしていて、必死になって声を張り上げて応援していたね。君はいつだって違う方を向いていて、ボクのことなんか知らなかっただろう。でも、ボクは君の姿を追いかけ続けていた」
「……なんで俺なんか追っかけてたんだよ」
「その時は分からなかった。気づいたのは、次に会った時だ。記録会で君が走っているのを見た時に気づいた。君は本気を出していなかった。そうだろう?」
息が詰まる。言葉に詰まる。胸に詰まる。申し訳なさでいっぱいになる。まさか、ばれるとは思っていなかった。
「確か、記録会ではその先輩がいなかったはずだ。君はそのせいで単純にやる気がなかったんだろうし、気を遣ったんだ。今のボクなら分かる。君はボクみたいなやつも構ってくれる優しい人だ。だから、先輩たちに気を遣ったんじゃないのかい。年上を差し置いて……いや、佐藤という先輩を差し置いて自分が先へ行くことに」
違うとは言い切れなかった。少なからずそんな気持ちがあったのは確かなのだ。ただ、宝野に言われるまで、自分自身で言葉には出来なかった。そんな気持ちがあった時点で、俺は先輩たちを貶めていることになる。天狗になったつもりなんかなかった。だけど、俺のやったことはクズだ。
「気持ちは分かる。出る杭は打たれるからね。力を隠すのも処世の一つだ。……だけど、二年の地区大会だ。君は見違えるようだった。いや、あれこそ君の本気で、本当の君なんだろう。まるで鬼のようだった。誰も君には追いつけなかった。ボクですら敵わないと思い知らされた。タイムの差だけじゃない。君はあの時、とてもすてきだったんだ。だけど、君が姿を見せることはなかった。君の走る姿を見ることも、二度となかった。ボクは中学二年の秋にアメリカへ渡ったんだ。君がいなくなったからなんだよ?」
俺がいなくなったからアメリカへ? 訳が分からず、ただただ宝野の表情を見るしか出来ない。彼女は俺のぶしつけな視線など意に介さず、話を続ける。
「君を越えたかった。でも、君はいない。この国でボクと勝負出来る人なんかいない。そう思ったから海を渡ったんだ。確かに、やっぱり向こうの人は違うよ。身体から、生まれからして違う。それでも、そいつらに負けたって思えなかった。負けた。こいつを越えたい。そう思えたのは君だけなんだ。君だけがボクの心を震わせた。ボクにとって、君は全てだ。ボクの全てなんだ。だからこうして帰ってきて、君のいる学校にやってきた」
思わず、息が漏れた。
熱い気持ちをぶつけられたのは生まれて初めてだ。宝野の口調も瞳も熱っぽくて、まるで――――。いや、よそう。とにかく、俺は知らない間に宝野に見られてて、影響を与えていたんだ。
「やっと分かったよ。そういうことか、俺に勝負を挑んできたのは。もっと早く聞いとけばよかった」
「ボクも言おうと思ってた。けど、悔しかったんだ。ボクのことなんか君は知ってるわけがないのに、知ってて欲しかった。……そうだ。君が先輩に認めてもらいたかったように、ボクも君に認めてもらいたい。悔しいし、妬ましいよ。君に思ってもらえた先輩が。だけど感謝もしている。その先輩がいなければ、君は陸上部に入ることがなく、ボクは君の存在を知ることもなかったんだ。今となっては恐ろしいよ。君のいない人生なんか、ボクには想像もつかない。想像もしたくないんだ」
一呼吸ついた宝野は、すっきりとした顔つきで笑んだ。言いたいことが色々あるとか言ってたけど、ようやくになって吐き出せたんだ。
「だから、君に改めて勝負を申し込みたい。今の君がどれだけ走れるのかは分からない。だけど、君と勝負して決着をつけない限り、ボクは先へ進めないんだ」
「……お前の気持ちは分かった。勝負を」
「えっ? 何かっこつけてんだよ禄助!? まだ全部喋ってねえだろうが」
俺は固まる。樋山くんと宝野は頭の上に疑問符でも浮かべていそうな顔だ。優人だけがへらへらと笑っている。
「……? どういうこと?」
「いやー、たぶんさー、こいつは調子こいてっからいいように言ってたけどな? 本当はそんな理由じゃないと思うんだよな。転校生ちゃんに嫌われたくないからそれっぽいこと言ってるだけだって」
「よ、よせ。やめとけよ優人」
「やめるわけねえだろ」
優人はグラスに残った溶け掛けの氷を口いっぱいに頬張り、ばりばりと噛み砕いてから話を始めた。俺が止めようとするのにも関わらず、だ。
「禄助は確かに中一、中二の真ん中までは凄かった。正直、俺も幼馴染だからって美味しい思いをしたことはある。学校中であいつはやべえ、将来はオリンピックに出るかもしれないって話があったくらいだ。禄助の人生の中心には陸上が居座ってたのも本当だ。昔からこいつを知ってる俺が言うんだからな。今みたいなクソドオタクになったのは……まあ、素養はあった。誰だってメシ食いながら夕方のアニメ見るし、漫画読むし、ゲームだってするだろ? 禄助だって休みの日は走るだけじゃなくて俺とゲームして遊んでたり、新しい漫画は買ったりしてた。ただ、深いところまではいかなかった。皆やってて当たり前ってなものばっかで、今で言うにわかなオタクだった。いや、オタクってところまでもいかなかったんだよな。で、そんな陸上馬鹿が変わったのは件の先輩が街から出てった、というのは大きい。大きいけど全部じゃないんだ。確かにこいつはショックを受けて、悲しがった。けど俺だけは知ってる。禄助が明確に、今みたいな石高禄助になったのは、県大会の前の晩だよ。正確には午前一時過ぎだ。こいつは数時間後に目覚めて、大会に出る為に家を出なきゃいけないって時に目が覚めちまったんだ。で、あるものを見た。それは深夜アニメだ。笑えるぜ。ストーリーの筋もキャラクターの名前もまともに分からないもんを途中から見てな、こいつ、ぼろぼろ泣いたんだ。別に泣ける話って訳じゃなかったらしい。誰かが死んだり、裏切られたり、みたいなことは一切なくて、日常系のアニメをぼーっと見ている間に自然と涙が流れてたんだってよ。で、観終わっても寝られずに後番組のアニメをしこたま見て、眠れたのが朝の五時前だった。大会には寝坊したんだ。はっと目覚めた時、こいつは馬鹿みたいに焦った。まず、顧問に連絡しようと思った。だがどうする? 『寝坊しました。アニメ見てて』、なんて言えるわけがない。だから無断で休んで、その理由は顧問や部活の先輩が勝手に想像して作って、勝手に同情したんだ。『憧れの先輩があんな風になってしまったんだし、石高はさぞかしショックだろうなあ』って。そのまま理由なんか言い出せず、部活にも行きづらくなって、ずるずるって引きずって辞めちまったんだよなあ。ああ、そういや、禄助はその先輩のことなんか一瞬で吹っ切れてたんだ。何故なら、こいつは間もあけないで二次元のキャラクターに恋したからだ。『女は紙媒体に限る』とか悟り開いて。なんつーか、唆したと言うか、気分転換になるかと思って色々と勧めたのは俺だけど、ドハマりするとは思ってなかったんだよなあ。はっはっは。あれ? 何の話だっけ?」
お前を殺すって話だ。
長々と、だが楽しそうに話をしていた優人は宝野を見た。彼女は目を瞑っていた。
「……つまり、君は、深夜アニメのせいで寝坊して、理由を言えなくて」
「まあ、そんで辞めたんだよな」
俺はもはや笑うしかない。笑うことしか出来ない。
「××××! ××××××××!」
「はっはっはっはっはっは! まあそういうことだ!」
怒り狂った宝野に水をぶっかけられた。跳び蹴りを食らった。馬乗りされて揺さぶられた。ファミレスからは追い出された。
夏休みの間、宝野の顔を見ることはなかった。
残暑厳しい9月の頭。二学期になり、俺たちは一か月ぶりの学校へと通うことになる。嫌だった。理由は一つきりだ。勝負勝負と鬱陶しかったが、やつのことを考えれば寂しくなるだけだ。考えても仕方がないんだけどなあ。
「樋山くんはすごいよなー。どうしたらそんなにメールが読まれるようになるんだ?」
「あー、まあコツはあるんだけどな。まずはその声優の宣伝をしないと。『ところで、もうそろそろ新曲の発売ですね☆』みたいな感じ。CDとか、写真集ってのもあるし、イベント関連も調べとくとベネ。こういうのを混ぜないとだいたい無視される。でも、そもそも番組が始まってからの常連じゃないとなー。新参と常連でネタが被ったら、大概常連が勝つし」
「樋山くんの名前が読まれると期待感あるもんな。絶対盛り上がるネタ振るし。リスナーは作家の用意したもんだと思ってるぜ」
「……でもなあ、基本的に声優がパーソナリティのラジオはさ、補正かけないと中々……」
言うな! 俺たちリスナーは面白い話が聞きたいんじゃない。声を聞きたいんだ!
と、そんなことを話しながら三人で坂道を歩いていると、風と影が俺たちの横をサッとすり抜けていく。宝野だった。彼女はこっちを見ようともしなかった。睨まれることも、罵られることもない。好きの反対は無関心と聞いたことがある。まあ、そういうことなんだろう。俺はもう宝野にとってのライバルでも憧れでもなんでもない。あいつにとっちゃ俺は、人生を掻き回すだけ掻き回して自分を無茶苦茶にした正真正銘のクズだ、くらいにしか思ってないんだろうな。
始業式が終わり、瑞沢が二学期の予定について話をする。その間、俺たちのクラスは通りがかったやつが引くくらい静かになる。黙り込む。オーガの話を遮った愚か者にはどんな制裁が待ち受けているか……。
「以上。次に体育祭についてだ。9月14日、土曜日に行われる。雨天中止。予行演習に力は入れないそうだ。が、どうせやるんなら真面目にやれ。特に運動系の部活に入っている者はな」
なんてことを言って、瑞沢は教室を出ていった。そうか。体育祭か。俺にはあんまり関係ないし、興味がない。二人三脚とか、そういった種目を狙おう。
体育祭のことなんかすっかり忘れていた頃。いつも通りのHR。いつも通りの学校生活。いつも通りの、
「やる気を出せ」
……瑞、沢……?
扉をぶっ壊す勢いで教室に入ってきた瑞沢は、室内をじろりと見まわした。俺たちには何が何なのか全く分からない。ただでさえ怖いのに、分からないからさらに怖い。
「体育祭だ。遊びだと思うな。死ぬ気で……いや、こう言ったらPTAが怒るな。まあ、とてもとても頑張れ。ただし結果は出せ」
体育祭? 瑞沢は何を息巻いているのだろう。そんなもん、ただのイベントだ。紅白に分かれて競うって形式ではあるが、ガチでやり合うって訳じゃあない。男子なら気になる子にちょっといいところを見せてやろうって感じだし、仕切りたがりの一部を除けば女子だって殆どやる気はない。走り回って動き回るのは疲れるからだ。
だが、そんなことはお構いなく瑞沢の様子はおかしかった。いや、いつもが正しいっつーか普通と言えばそうではないが、それにしたってどうなんだ。やる気に満ち溢れている鬼担任の姿は酷く珍しい。クラス全員が瑞沢の様子を不思議がっているところに勇者が登場した。
「なんかあったんすか?」
委員長の優人である。こいつはヘタレで危機回避能力に長けているが、場の空気を読めることくらいは出来る。誰かが聞かなきゃ始まらないと思ったのだろう。瑞沢は眉根を寄せて鋭い視線を優人に向けた。
「私はこの世の中で高校生という種が最も愚かだと信じている」おい。
「だが、お前らは私の可愛い生徒だ。そんなやつらが馬鹿にされていることに、私は耐えられない」
ざわざわと、教室内でどよめきが起こる。馬鹿にされてるとかも言ったけど、今、瑞沢が可愛いとかなんとか言ったぞ。信じられねえ。
「馬鹿にしたのは一組の担任だ。少しは運動が出来る転校生が来たからか、図に乗っている。私はそれが許せん。実に腹立たしい。なので、お前らはやつの鼻を明かすように努めろ」
教師同士にも確執はあるんだろうなあ。
「我ら五組は赤組だ。都合のいいことに一組は白組と、実にやりやすい。奴らの掲げる白旗を、やつら自身の血で真っ赤に染めてやれ。いいな?」
「よくないっすよ!?」
「私もそう思う。しかし一組だけには負けたくない。啖呵を切ってしまったからな。種目は体育の時間で測ったタイムを基にして決めようと思う。適材適所というやつだ。出来る人間を遊ばせる理由はない。異論はないな?」
「お、おお……!」
誰が言えるものか。
瑞沢が怖いからというのもあるが、それ以上にムカついた。あずかり知らぬところで馬鹿にされてたなんて腹が立つ。啖呵とかなんか言ってたが、恐らくは瑞沢と一組の担任との間で賭けでも成立しているんだろう。悲しいかな。瑞沢麾下の俺たちは彼女にかなり飼い慣らされている。いつもはびしばし鞭で打たれてるだけだが、さっきの発言はめちゃめちゃ甘い飴だった。だったらやってやろうぜと、クラスメートの意気が上がっている。
しかし俺は見ていた。瑞沢の顔が昏い喜びで歪んでいるところを。彼女にどんな思惑があるのかは分からない。まあ、せっかく盛り上がったところに水を差すのも、瑞沢に逆らうのも俺には出来そうになかった。……それに、いい機会だ。
昼休みになり、俺は教室を出て、廊下の前でそいつが来るのを待っていた。ほどなくして目的の人物は姿を見せる。今から食堂に向かうところだったのかもしれない。
「よう、宝野」
二学期になっても制服ではなく、パーカー姿の宝野は、俺を無視して通り過ぎようとしていた。
「俺と勝負しようぜ」
ぴたりと、宝野は足を止める。無視は出来まい。行き交う人も、騒めきも、今の言葉の前じゃあ見えなくなるし聞こえなくなるに決まってた。
宝野は俺の傍まで歩き寄り、じっと、こちらを見上げる。
「君が?」
常なら平坦で感情の読み取り辛い彼女の表情には様々な色が滲み出ていた。嘲りであったり、自信であったり、軽蔑であったりと、まあ、そりゃそうだろうなと俺は息を吐く。
「ふふっ、いいよ? トランプ? かくれんぼ? それとも」
「体育祭だ。最後の種目、クラス対抗リレーで、俺は一番最初に走る。トップバッターだ。受ける気があるんなら、お前もそうしてくれ」
「……本気?」
俺は頷いた。本気である。中学の時分ならいざ知らず、今の俺はブランクのあるポンコツ同然だ。だが、伊達に夏休みの間走り込んでいた訳ではない。本番までにどこまで取り戻せるかは分からない。だけどやる。今年になって測ったタイムは適当に流したから最初は信じてもらえなかったが、さっきだって瑞沢に食いつかん勢いで、ようやく種目に捻じ込んでもらったんだ。ここで引けるか。
「いいよ。でも条件がある。もう、ボクは君を必要としていない。あの日に見た君の姿も、何もかもを忘れたんだ。だから、今のボクにとって君は何でもない。石ころと変わりがないんだ」
「いいから、条件ってのを言えよ」
むっとした様子で宝野は俺を見る。
「ボクが勝ったら、今後一切ボクに関わるな。ボクは三年生に上がる前にこの学校を去る。この国から出ていく。もう、ボクの世界からコクダカロクスケってやつはいなくなる」
「それでいい。ああ、じゃあさ、俺が勝ったら」
「君が勝つ? ありえないよ。君は勝負事を、走ることを舐めてる。確かにあの時の君は凄かったけど、今の君は大して速くもない。ボクもトレーニングを積んでるし、以前よりも速くなった。負ける要素はないんだ」
「俺が勝ったら、そうだな。デートでもしてもらうか」
宝野が目を見開いた。そうして、困惑する。
「正気? ボクと? 何を言ってるんだ、君は」
「本気だって言ってんだろ。正直、お前と会えないのも話せないのも寂しかった。なんかこう、もやもやしてた。だから、結果がどうなろうとケリをつけたい。頼む」
「…………君が、そこまで言うなら」
彼女は俯いて答えた。
「失望させて悪かったな。まあ、確かに今の俺はこんなんだ。けど、あん時の俺は本気だったよ。お前が俺に憧れてくれて、見てくれた。その時の俺だけは本物だった。って、そう信じたいし、そう信じてくれたお前を嘘吐きにしたくないんだ」
「どうせ勝てないよ、君は」
いいや、勝てる。そんな予感がある。
「お前だって知ってんだろ。俺は好きな人の前なら馬鹿みたいに頑張れるやつなんだ」
「は、はあ? まさか、君、ボクのことを」
「その先の話は体育祭が終わってからにするよ。ま、そういうわけだから。じゃあな」
俺は背を向けて駆け出した。どこへ向かうのは決めていない。照れ隠しだった。ああ、何か勢いで言っちまった。もういよいよどうしようもない。後は先へ進むしかない。




