カカリアウセカイ(閉鎖書店~ラストリゾート~)
放課後、教室で帰り支度をしているところに原先輩がやってきた。俺は近づいてきた優人を無視して、彼女の元へ駆け寄った。
「こんにちは、先輩!」
「す、すごい笑顔ですね。あの、先日はありがとうございました。小林さんが授業を受ける、と言うよりも教室に来るのは本当に久しぶりで……」
まだ1学期だぞ。小林先輩め、こんなんじゃあ卒業出来ないんじゃないのか。
「いやあ、当たり前のことをしたまでですよ。はっはっは」
「石高君には本当に、なんてお礼を言ったらいいのか」
俺は原先輩の顔を盗み見る。ここで自分から『お礼をください』などとは口が裂けても言えん。待つ。待つのだ。今はまだ動く時ではない。耐え難きを耐えるのだ。
「はっは、まあ、苦戦はしましたね」
自分を高く売ってみる。原先輩は僅かに目を細めた。笑っているのか、それともこちらを値踏みしているのか分からず、心細くなる。咄嗟に、ズボンのポケットにあるハンコをにぎにぎとしてしまった。
「本当に感謝しています。小林さんは、たぶん、鈍い方だと思いますし、ご自身の状況をよく分かっていないのだと思いますから」
「……それは、どういう意味ですか」
「小林さんは留年しているんです。既に成人されているとも聞きました。正直、かなり危ない状況にあります。学校側には卒業の見込みのない生徒をいつまでも留めておく理由はないでしょう。温情をかけるのにも限度はあります」
何が言いたいんだ、この人は。俺の視線に気が付いたのか、原先輩は笑みを浮かべて見せた。
「危機感が足りないと思います。鈍さは、時に人の怒りを買うでしょう」
鈍い? あの人が? まるで自分のことのように腹が立つ。小林先輩は鈍くなんかない。敏いんだ。人の感情の機微に敏感だ。だからこそ、教室に入り辛い。自分が異物として扱われているのに気付いている。だけど、言い返せなかった。原先輩の言っていることも間違っていない。むしろ、正しい。分かっていてもどうしようもないって、そんなことは分かってる。
「たぶん、原先輩はすごくいい人なんでしょうね。それに優秀です。でも、あなたには人の気持ちってものが分かってない」
「小林さんにも同じようなことを言われたことがありました」
それだけだ。先輩は謝らず、怒らず、ただ、事実だけを告げる。
「そうですか」
「はい、そうなんです。石高君、ありがとうございます。ここまでしてもらったのです。あとは小林さんが自分でどうにかするでしょう」
原先輩は、自分でどうにかしなければ、どうにもならないだけだと言っている。
「何かお礼をしなければいけませんね」
そうだ。俺は、お礼が欲しかった。……この人のことが好きだったんだ。憧れていたんだ。
「……いえ、いりません」
原先輩は少しだけ驚いていたようだった。俺の態度に、というよりも、見返りを求めないことそのものに対して反応しているみたいだった。彼女は眩しそうに目を細め、優しい声音で言う。
「石高君は、小林さんのことが好きなんですね」
俺は頷かない。だけど、否定もしなかった。そこにあるのはやはり、事実だけなのかもしれなかった。
俺はその日、まっすぐ家に帰り、夕食を作った。いつもより時間をかけたせいか、めぐには何があったのか聞かれてしまった。
何でもないと言った俺を見て、めぐは小さく頷いた。
「お兄ちゃん。遊びましょう」
部屋で馬鹿でかい蟻の大群を撃ち殺しまくるゲームをやっていたところ、めぐがお盆にジュースとお菓子を持ってやってくる。まだ夜の九時前とはいえ、後で歯を磨くように言っておこう。
「じゃ、めぐは2Pな」
「えー、嫌よ。そんな大量殺戮者を生み出すようなゲーム」
「何を言ってるんだ。俺は地球を防衛しているだけだ!」
「でもグレネードで味方を吹っ飛ばしてるじゃない」
正確には能無しの部隊長だけを狙っているんだけど、言っても分かってはくれないだろう。
「もっとかわいらしいゲームがやりたいわ」
「そんなもん俺の部屋にはないぞ。あったとして、ギャルゲー?」
だいたい、据え置きのハードなら格ゲーとかアクションとか、そんなんばっかだ。
「……お兄ちゃんは妹と一緒にそういうゲームをしたいの?」
「シミュレーションもので、めぐが選択肢が出る度に右往左往しているところは見たい」
優人や樋山くんも、俺こと三択の帝王には及ばないが、ギャルゲー経験者だ。パターンを読んでるので、あの二人のプレイを見ていても焼き増し感パない。つまらないのだ。やっぱり初心者が遊んで、開発者の思惑どおりのところで死んだり困ったりしてるのが面白い。
「最近格ゲーしかやってないからなあ。あ、そうだ。ガンシューやろう、ガンシュー」
「結局撃つんじゃない」
言いつつ、めぐはガンシューティング用のコントローラをいそいそと用意し始める。プレイするのはゲーセンから移植されたタイトルで、協力プレイにもばっちり対応だ。
翌日、俺はめぐから持たされた弁当を持って学校へ向かった。昼休みは、優人たちと学食でメシを食った。屋上には行かなかった。何故なのか、自分でもよく分からない。
五時限目が終わって休み時間、優人は俺の近くの椅子に座り、昼休みのことを聞いてきた。
「なんで俺らとメシ食ったんだ? 前に言ってた用事ってのは終わったのかよ?」
「さっきも言ったけど、まあ、最初から大したことじゃなかったんだ。それだけだよ」
俺はただ、原先輩に頼まれて小林先輩と話していただけなんだ。だけど、それも終わった。だったらもう、屋上に行く意味なんかどこにもないじゃないか。
「ふーん。まあいいけどな。そんじゃ、放課後は駅前にでも行くか?」
「ん、ああ、だな」
……いや、違う。違うか。俺は別に、誰かに頼まれたから屋上に行ったんじゃない。俺自身がそうしたいと思ったから、小林先輩へ会いに行ってたんだ。危なかった。声優にさん付けするオタクみたいに気持ち悪い考えに染まっていた。
「ごめん優人。やっぱ、いいわ。駅前はまた今度にする」
「ああ、やっぱ、用事があるのか?」
「まあな。外せないんだ、こいつは」
「そっか」優人は静かに笑う。何もかもを見透かしているような、得意げな顔だ。だけど嫌じゃない。
「じゃ、よく分からんけど頑張れよ」
頷き、俺は放課後を待った。
屋上に向かうと、扉に鍵はかかっていなかった。少しの期待と不安を抱きながら、俺は扉をゆっくりと開けていく。夕陽が目に飛び込んできて、少しの間だけ目を瞑った。
先輩の姿はどこにもない。俺はくるくると辺りを見回し、息を吐き出す。あの人のことだから、鍵をかけるのを忘れて帰ってしまったのだろうか。諦めて背を向けた時、人影を認めた。
夕陽に照らされたそのシルエットは、間違いなく小林先輩のものであった。出入口側にある梯子を上った先、そこにじっと座り込んでいる。だから見つからなかったのか。灯台下暗しである。
先輩は空を見ているだけで動かなかった。
「声、掛けてくれればよかったのに」
「……ろく高くんに、嫌われたんだと思っていたよ」
「上りますね」
許可を得ないまま、俺は梯子を一気に駆け上がり、先輩の傍に座り込む。彼女はこっちを見ようともしなかった。
「別に、気にしていた訳ではないんだけど。ただ、昨日はここへ来なかったじゃないか」
小林先輩の声音には批難の色が混じっている。本人が気づいているかどうかはともかく。
「なんとなくですよ。なんとなく、行かなかったんです」
「……そうか」先輩は分かっているのだろうか。俺たちの間には約束とか、そんなものがなかったってことに。曖昧で、ふわふわとしていて、確かなものなんてどこにもない。
けれど、嬉しかった。少なからず、石高禄助という存在のことを先輩は意識してくれているんだ。
俺は先輩を見ようとして、顔を上げた。彼女は笑っていた。寂しげに、悲しそうに。夕暮れの中に溶けてしまいそうな、儚い表情で。
「……ろく高くん。もう、ここには来ない方がいい」
言って、先輩は立ち上がる。
「いや、私なんかと会わない方がいい」
「嫌な目に遭うから、ですか?」
先輩は答えず、梯子を使わずに飛び降りた。追いかけようとしたが、彼女が着地をミスって尻を摩っているのを見て、力が抜けてしまう。
「先輩っ、俺は!」
「……ばいばい」
手を振り、小林先輩は扉を開けて、出て行った。あとに残された俺は何も出来ず、しばらくの間、夕陽が落ちていくのを眺めていた。
翌日の昼休み、屋上の扉へ向かうと鍵が掛かっていた。どれだけ力を入れたって開かない。無駄だった。未練たらしくその場に留まっていると、足音が聞こえてくる。期待して振り向くと、そこにいたのは先輩は先輩でも、原先輩の方だった。
「こんにちは。小林さんは今日、お休みですよ」
「ああ、そうだったんですか」
尤も、そうでなくてもここは開かれていなかっただろう。俺は居心地が悪くなって、先輩の横を通り抜けようとする。
「まだお礼をしていませんでしたね」
「結構だと、そう言ったはずです」
「小林さんはお家にいますよ。お店の手伝いをしているんだと思います」
「……それが、俺へのお礼になると思ったんですか?」
原先輩は小さく頷いた。悔しいが、正解だった。
「昨日、職員室に用事があったんです。そこで、担任の先生が言っていました。小林さんは学校を辞めてしまうかもしれないって」
「そんな、嘘だ」
だけど、予感はあった。昨日見た小林先輩の表情は、何とも言えず儚かった。まるで、最後のお別れをするみたいな、そんな気がしてならない。でも、どうしろって言うんだ。これはあの人の問題なんだ。俺みたいな門外漢が口を出したって仕方ないだろう。
そのまま、俺は固まってしまう。まだ学校は終わっちゃいない。抜け出して会いに行くのか? けど、そっからどうすんだ。会ってどうする? 意味なんかない。たぶん、何もないんだ。俺と先輩は何もない。何をしたって、もう無駄なんだ。
「行かないんですか? 小林堂はもう開店していますよ」
「……行ったって、どうしようも」
「そうですか。……ヘタレやなあ」
原先輩は軽蔑したような視線を投げて、軽快な足取りで去っていく。また、取り残されてしまったような気がした。
「よーう、禄助ー。用事ってのはもうねえんだろ? 駅前であっそぼうぜー」
優人はへらへらと笑っている。今だけはこいつのアホ面が有り難かった。
「樋山くんは?」
「部活に行ってんだ。暇なんだよな。あんまし長くここに残ってたら黒ギャルとかに誘われてめんどいんだよ」
女子に誘われてめんどい、だ? 贅沢なやつだな。俺の心が黒に染まっちまう。
「そうかよ。羨ましいぜ」
「……んだよ。ノリが悪いな。まだなんかあんのか? 引きずってんのか?」
「何もねえよ」
強がりだった。
「はあ、そうかよ。けどなあ、そんなツラぶら下げて遊びに行ったって仕方ねえな。頭冷やせば? バイトにでも行って来いよ」
「バイト?」
「おう、家に帰ってもだらだらゲームするだけだろ。小遣いでも稼いで、また遊びに行こうぜ。ああ、そういや新作のゲームだって出るんだろ」
確かにそうかもしれん。非生産的な行為に耽るくらいなら、ユキさんときゃっきゃうふふしたい。俺は頷き、商店街へと向かった。
俺のアルバイト先、榊原書店は今日も静かだった。
本を読み、時計の針が動く。頁をめくる掠れた音だけが室内にあった。物語の佳境に差し掛かったであろう推理小説をいったん置き、傍にいるユキさんをちらりと盗み見る。彼女は詩集を読んでいた。良く似合っていると思った。
「……石高さん。そわそわしていますね」
「え? そ、そう見えますか?」
「と、言いますか。何か、よそに気を取られているように見えます。何かあったのですか?」
俺って、思ってることが顔に出ちゃうタイプなんだろうか。自分ではポーカーフェイスだと信じていたんだけど。
「ちょっと、その、喧嘩をしちゃったんです。その人ともう会えないかもしれないって考えてたんですよ」
ユキさんは本を閉じて俺を見つめる。
「気を悪くしたらごめんなさい。でも、大丈夫だと思います。喧嘩をしてもしなくても、会えない人とは二度と会えないものです。しかし縁さえあればまた会えます。人生とは、そういう風に出来ているのです」
「縁、ですか」
「と、さっき読んだ本に書いてありました」
そう言って、ユキさんは薄く笑った。おちゃめな人である。だけど、そのとおりかもな。
「ですが、喧嘩をしたという方ともう一度会って、仲直りしようって努力を欠かしてはいけないとも思いますよ」
ぐうの音も出ないほどの正論だ。だけど、怖いってのもある。小林先輩は俺の話を聞いてくれるだろうか。……まあ、本当のところは喧嘩じゃなくて一方的に避けられてるだけなんだけどな。
「そうします。何か、心配をかけてしまって申し訳ないです」
「いえ、もっと心配をかけてもらっても平気ですよ」
「いやいや、さすがにそれは」
「…………そうですか」
あれ? 何だかユキさんの目が暗く淀んでいるような気がするよ。どうしてだろう。変なことを言ったつもりは毛頭ないぞ。
本を読み切ったところで、ユキさんが申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。
「一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか」
「あの、俺はアルバイトなんですから、もっとこき使ってくれていいんですよ?」
「とんでもない」とんでもないのか。
「つい先ほど常連のお客様から、本を取り置きしてもらいたいという連絡がありました。三十分後に受け取りたいとのことだったのですが」
なるほど。お安い御用だ。
俺はユキさんから、注文された本のメモを受け取って二人して店の中を探し回った(ユキさんも本の場所を正確には把握していないらしい)。ほどなくして三冊の本を見つけ出す。ちなみに文庫本ばかりだった。それを袋詰めにして、あとはお客さんが来るのを待つだけとなる。
「石高さん。さっき私が言ったことを覚えているでしょうか」
「……? はい、もちろんです」
「よかった」と、ユキさんは小さく頷き、何故か、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
榊原書店の戸ががたがたと動いた。この店のそれは建てつけが悪くなっていて、戸を斜めにしないと開かないようになっている。お客さんは常連のくせに知らないらしい。見かねた俺は椅子から立ち上がり、戸を開けてやった。
「いらっしゃいませ。予約していた……」
尻餅をついている人がいた。若い女の人である。彼女は摩訶不思議なロゴの入ったシャツの上に深緑色の、『小林堂』と胸に刺繍の入ったエプロンを着ていた。
「……す。ストーカーだ」
そう言って、女の人は、小林先輩は俺を指差す。
どうして。なんて聞くまでもなかった。俺はこの店でバイトをしていて、小林堂はうちの常連さんなのである。だったら、こうなることは当然。なのかもしれなかった。
「ストーカーじゃないです。立てますか?」
先輩は、俺の差しのべた手を掴まずに自分だけで立ち上がる。
「……帰る」
「待ってください」
「君と話すことなんか、ない」
くるりと背を向ける先輩。
「いや、予約してた本を取りに来たんでしょう?」
随分と長い間、先輩はその場に立ち尽くしていたが、諦めたかのように振り返り、俺のことを無視してすたすたと店の中に入っていった。
どうしたもんかなあ。そんなことを考えつつ、俺も店内に戻る。先輩は本を早く渡して欲しそうだったが、ユキさんはうふふと微笑みながら世間話をしていた。不思議に思っていると、彼女は俺を見て、僅かに目を細める。……もしかして、援護射撃ってやつか?
だったら、やることは一つだ。
「先輩」
「……私に後輩はいない」
言いつつ、先輩は反応している。
「学校を辞めるって本当ですか?」
ぴくりと、小林先輩の肩が震えた。彼女は振り向き、誰に聞いたとでも言いたげな目でこっちを見てくる。
「学校を休んでお店の手伝いをしてるってことは、本当なんですね」
「だったら何だと言うんだ。ろく高くんには関係ない」
「お店を継ぐのは嫌だって言ってたじゃないですか」
俺は戸を閉め、壁に背を預けた。
「確かに言った。けれど、もっと嫌なことがあるって分かったんだ。私はもう、学校には行けない。行きたくないんだ」
「理由を聞きたいです」
「……この前、君のお陰で、いや、君のせいで授業に出たことがあったろう。あの時思ったんだ。私の居場所はここにないって。やっぱり、屋上に一人でいる時の方が楽だって」
目を瞑る。風に吹かれている先輩が。夕暮れ時に手を振る先輩が。一緒にご飯を食べて、美味しいと言ってくれた先輩が。……先輩しか思い出せない。でも、彼女には本当にそれしかないのだろう。小林先輩はどれだけ頑張って学校のことを思い出そうとしても、屋上のことしかないんだろう。何だか、とても嫌な気分だった。
「親の言いなりになるのは嫌だけど、でも、そうするしかないってことも分かっているんだ」
俺も分かる。たとえば、強い意志があればいい。これをやりたい。自分はこうなりたいってものさえあれば。けれど、ないんだ。きっと、殆どの人にはそういうものなんてない。だから流されるしかないし、実のところ流された方が楽だったりもする。
だけど。
「屋上で。一人で」
「……うん。そうだ」
「だったら先輩は……俺とのこともどうだってよかったんですね」
ややあって、先輩は口を開いた。
「そうだ」と言った。俺は彼女の顔を見られなかった。時計の針がかちりと動いた。
「俺は先輩のことをどうだっていいなんて、そんな風には思えなかった」
先輩の顔を見られなかった。見たくなかった。俺を突き放すつもりなら、どうして、そんな風に悲しそうにしているんだよ。
「先輩と出会って、話していたのはちょっとだけかもしれなかったけど、それじゃあ嫌だって思ったんです。俺はもっと先輩と話していたいって、そう思えた」
「……君は」
もっと話したい。色んなことを聞いてみたいし、聞いて欲しい。昼休みに屋上で。そんな限られた時間と場所でも構わない。
「責任を取って欲しいんです。俺は、先輩に俺の初めてを捧げたんですから」
「君は!?」
さっきまで俯いていた先輩が顔を上げて、何故か周囲を見回した。彼女の頬は朱に染まっている。そしていつの間にかユキさんは姿を消していた。しかし、奥の和室に繋がっているであろう障子戸が少しだけ開いていた。
「初めてって、何が……」
「え? いや、弁当っす。俺、人に作るのって今までなかったんで」
「……そ、そうか。いや、そうに決まってたけど。少しだけ驚いただけだけど」
何を驚いたんだろ。
「とにかく、私は学校には戻らないつもりだ」
「いや、戻ってください」
「……それも」
先輩は俺の目をじっと見る。無機質でどこかロボっぽい瞳だが、それは確かに揺れていた。
「原に言われたからか。あいつに頼まれたからなのか」
咎めるような視線を受け、俺は考える。どうして、ここで原先輩の名前が出てくるんだろう。今は俺と先輩の問題なんだ。あの人は関係ない。
「……君は、原と楽しくやっていればいいじゃないか」
だが、先輩は喋り出す。彼女の言葉はまるで恨みごとのようにも聞こえた。
「あいつの方が頭がいいし、話していてきっと楽しいだろう。私は口下手だし、学がない。食べ物のことしか喋られないと思うし、それに、原の方が美人だし、可愛げもあるだろう。だから」
「だから、なんですか。先輩。俺を見くびらないでください。俺は原先輩じゃなくて、あなたがいいんです。あなたじゃないと嫌なんだ」
「……でも」
どう言えば分かってもらえるんだろう。そう思った時には、俺の身体は勝手に動いていて、とっくの昔に先輩の手を握っていた。彼女は振り解こうとしたが、ここで離せば機会は二度と訪れないのだと、そんな気がして腕に力を込めた。
「先輩は学校が嫌いなんですか?」
「……そうだ」
「じゃあ、休み時間は。お昼ご飯を食べるのは嫌いですか?」
何をと、そう言いたげな目で先輩はこっちを見つめる。
「文化祭は? 体育祭は? 修学旅行は? 楽しそうなことも嫌いなんですか? 先輩は楽しいってことも嫌いですか?」
先輩は答えなかった。だから分かった。この人はきっと、学校が嫌いじゃあない。もちろん、イベントごとが嫌いだってわけでもない。ただ、先輩は。
「あなたはきっと、独りが嫌いなんだ」
「ち、ちが……」
ぎゅっと、手を握る。さっきよりも強く。先輩は何か言いかけたが、黙り込んでしまった。
「……君はどうして、私を。そうまでして構うんだ」
どうしてだろう。
いや、もう分かっているんだ。あの日、あの時、俺の作った弁当を食べてもらった時から……いや、きっともっと前から好きになってたんだって。なんかあんまりにも青春っぽくて認めたくなくて、斜めに構えてりゃあ誰も傷つかないからって、そんなことを考えてたんだ、俺は。
「俺には夢がありません。なりたいものだってないし、やりたいことだって今までなかった。けど、一つ思いつきました。俺はもっと、先輩に美味しいって、そう言ってもらいたい」
そうして、先輩の笑っている顔が見たい。今思うのは、これだけだ。
「……と」
「と?」
俺が先輩の顔を見ると、彼女は視線を逸らし、顔を逸らした。
「年上をからかうなよ」
普通の女の子っぽくて、小林先輩が死ぬほどかわいく見えて、俺は顔がにやけているのを見られるのが嫌で俯いた。
「先輩。あなたは前に、私と関わると嫌な目に遭うと言いました。でも俺は、あなたに関われない方が嫌なんだってはっきりと分かったんです」
俺の右手が先輩の左手を握っている。彼女は少しだけ力を抜き、そっと握り返してくれた。
「ろく高くんは、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「一年ください。出来るなら、叶うなら、あと一年だけ待ってください」
「……一年?」
「俺と一緒に卒業しましょう」
しんとした間が耳に痛い。俺は先輩の様子を窺うようにして、盗み見るように彼女に目を向ける。
「さっき言ったイベントも一緒に……体育祭で二人三脚しましょう。文化祭で出店を回りたいし、一緒に修学旅行へ行きたい。俺は先輩と、もっとずっと一緒にいたいんだ」
もちろん、叶うとは思っていない。先輩には先輩の事情がある。もう一年留年してくれって、そんなわがままが通るとは思わない。ただ、俺の気持ちを聞いて欲しかった。分かって欲しかった。それすらもわがままだとされるなら、俺はもう何も言うまい。諦めよう。そして二度と和菓子は食べない。
「ろく高くん」
手を、指を、ゆっくりと解かれる。俺はなすがまま、されるがままだった。先輩は少しだけ屈み、俺と目線を合わせてくる。
「私は、特別なことはいらないんだ。君の言うイベントも、実のところ、大して心は躍らない」
だけどと、先輩はそう言って、小さく微笑んだ。
「君のお弁当はまた食べたい」
「作りますよ。絶対。絶対に美味しいって言ってもらいますから」
「うん。言うよ。絶対に」




