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タイジスルセカイ(金科玉条Without You)

 それは翌日の出来事だった。

 金曜日の朝、HRを前にした時間のことだった。

「えー、マジ?」

「や、マジだって」

「リュウコと石高が一緒にいたんだって」

「たまたまじゃない? なんか偶然とか」

「結構仲良さげだったらしいよ?」

 俺と樋山くんが教室でだらだらと話していると、そんな会話が聞こえてきた。話しているのは、丹下院といつも一緒にいる黒ギャル集団である。先から、ちらちらと視線を向けられているのが分かった。

「……なあ、石高。やばいんじゃないのか?」

 答えられない。心臓がばくばくと鳴っている。頭ん中が真っ白になる。

 ああ、まずい。見られてたんだ。昨日、あいつと駅前にいるところを。これじゃあ、こんなんじゃ意味がない。だけど言い訳なんて出来ない。俺が丹下院の友達連中のところにのこのこと行ったって聞く耳を持っちゃくれないだろう。あいつ自身がなんとかしてくれるのを祈るしかない。

「あ」

 その時、幸か不幸か、丹下院がだるそうな顔を引っ提げて教室に入ってきた。彼女は敏感だった。いつもとは違う空気を感じ、妙な視線を受け、全てを察したらしい。

「リュウコさー、昨日、あんたって」

「ん、何がー?」

 丹下院は友達連中のところに混ざると、一度だけ、俺に視線を遣った。それだけでは彼女の感情が読み取れず、俺はすぐに目を伏せる。だが、分かった。たぶん、丹下院は怒っていたはずだ。

「石高、トイレにでも行こうぜ」

「あ、ああ、だな」

 もう嫌だ。ここにいたくない。だけど体が動かない。

「石高と一緒にいたん? それって、マジ?」

「あー、たまたまだって。何かー、一方的に話しかけられた感じ?」

「……マジ?」

「マジマジ。何それ? もしかしてさ、あたしとあいつが付き合ってるとか、そんなノリになってるわけ?」

「や、まあ、かもしれないって話してて」

「ふーん。でもまあ、ありえなくね?」

 俺はきっと、ここにいてはいけなかった。

 一刻も早く、ここを出なければならなかった。

 聞いてはいけなかったんだ。


「だってさ、あいつってキモオタだし」


「ぎゃははははだよねだよねー」

「あービクったー。リュウコさん心臓に悪すぎー」

 俺は分かっていた。

 丹下院の言葉が本心なのかどうか。そして、今の場面を切り抜けるにはこうするしかなかったんだということが。理解していた。

 だけど、納得は出来なかった。なんでだよって、どうしてだよって気持ちが溢れてくる。裏切られたって、そんなことを考えた。馬鹿だった。あいつは、丹下院竜子という女は所詮、そういうやつなんだ。初めから分かってた。俺の弱みを握って、すぐに手を上げたり、下品な声で笑ったりするやつなんだ。忘れてたんだ。俺が馬鹿だった。何を考えてたんだ、俺は……!

「お、おい石高っ」

 教室を出たところで優人と出くわす。

「おーす禄助。ウンコか? バレねえようになって、おい? 無視すんなよ!」

 優人をぶん殴ったら気が晴れるだろうか。全部てめえのせいなんだぞって洗いざらいぶちまけちまえば、どんだけ気が楽になるだろう。けど、出来るはずがない。優人は何も悪くないんだ。かと言って、丹下院が悪いわけでもないんだろう。でも、だったら、俺はどうすればいいんだろう。



 学校から離れたかった。

 早退や、保健室に逃げ込むことも考えた。だけど、ここで逃げたら噂は変な方向に広がっちまうだろう。俺は、へらへらと笑って、いつも通りに生活するしかなかった。何の為に。誰の為に。考えたくなかったが、どうしようもない。



 その日の放課後、一通のメールが届いた。差出人は丹下院からだった。『本当にごめん』と。

 返事はしなかった。俺は家に帰って、めぐに起こされるまで布団の中にくるまっていた。



「なあ禄助、昨日はどうした? 何かあったのか?」

「いやー、別に。ちょっとな。ゲームで詰まっちまってムカついてたんだ」

「ならいいけどな」

 土曜日。気分は重かったが、これで最後だと自分に言い聞かせ、奮い立たせて、俺は駅前で優人と遊ぶことにした。昨日のことには触れず、丹下院には今日の予定をメールしておいた。たぶん、どこかでふらっと現れることだろう。そうなっちまえば、あとは腹が痛くなったとか言って抜けちまえばいい。

「じゃ、いつものコースを回りますかな石高氏!」

「楽しみですな寺嶋殿!」



 メイトに行き、ゲーセンに行き、カラオケに行き、ゲーム屋とカード屋を冷かして回る。疲れたらジュースを買って適当な場所に座り、アニメの話をする。丹下院はまだ来なかった。もちろん、俺だってメールを送り続けていた。だが、返事はない。んだよ。寝てんのかよ。今日が本番だってあれほど言ってたのに。どこまで俺をムカつかせれば気が済むんだよ。

「もう五時かー。じゃ、いつものドリンクバーでクソほど粘ってやろうぜ」

「ん? お、おう、だな」

「……なあ禄助。お前さ、本当に何もないよな? いつもとちょっと違うぞ。ケータイに気ぃ取られてる感じだ。プロデュース業もほどほどにしとけよ」

 こういう時、長い付き合いってのは面倒だ。すぐに見抜かれちまう。



 結局、丹下院が姿を見せることもなく、メールが返ってくることもなかった。俺は優人と別れ、家路をだらだらと歩いていた。どうせ出ないだろうとも思ってたけど、釈然としなかったので、電話をかけてみる。

『……何?』

 出やがった。

 なんで、出るんだよ。

 俺は息を吸い込み、冷静になろうと努めた。家の近くの公園に行き、そこのベンチへ向かうことを決める。

「言いたいことはいっぱいあるけどな。あのな。なんで今日、来なかったんだ」

『行っても、意味ないから』

「はあ!? お前、馬鹿じゃねえの?」

 丹下院は返事をしない。

「メールだって返さねえしよ。今日だけで何通送ったと思ってんだ。ストーカーの気分だぜ」

『声』

 あ?

『声、聞きたかった。メールより、声が』

 震えていた。丹下院の声は小さくて、いつもと違って頼りない。

「何かあったのか?」

『昨日、寺嶋君に振られた』

 俺はベンチを見つけて、そこに座り込む。そうしてから、頭の中で頑張って整理しようとした。丹下院が何を言っているのか、分からなかったからだ。

「……昨日? お前、優人に、昨日、言ったのか?」

『ごめん。ごめんね』

「謝んなよ。意味が分からねえ。なんでだ? なんで、昨日言っちまったんだよ。せめて、せめて今日にしてくれよ!? 今日が無理そうなら、また明日があるし、次の機会があったじゃねえかよ!」

 勝手なことしやがって。いったい、俺は何の為に、何をやってきたってんだ。

『昨日、あんたにメール送った後、樋山に言われたんだ』

 樋山くんが? そういえば、カラオケの時に連絡先は交換していたんだっけ。でも、なんで樋山くんが。

『俺たちを馬鹿にするなって、俺の友達を裏切るなって。あいつが。すげーキレてて。……あたしね、そん時になってやっと分かった』

「何をだよ」

『あんたに、めちゃめちゃ迷惑かけてたんだって』

「今更言うことでも気づくことでもねえだろ」

 迷惑もクソも、俺と丹下院は互いの弱みを握り合ってただけなんだ。

『馬鹿馬鹿言われるけど、あたしもさ、そこまで馬鹿じゃないよ。今日、寺嶋君に好きって言えなくても、仲良くなったらチャンスだって出来た。もうすぐ夏休みだし、焦ることなんかなかったんだと思う』

「だったら、なんでだよ」

『そのチャンスって、あんたがくれるものなんだよね。結局、あたしがあんたを付き合わせて、そんでようやくどうにかなるって話なんだよ。でも、裏切ったから。嫌な目に遭わせたから。これ以上はもう、駄目だって思ったの。もう迷惑かけられないし、かけたくなかった』

 だから、自分でどうにかしようとして、自分だけで優人に告白したのか。……優人は今日、何も言わなかった。俺には何があったのか聞いてきたくせに、あいつはいつもと同じだった。まるで、何もなかったかのように。丹下院に好きだって言われたことなんか、なかったかのように。

 優人は前に言っていた。誰とも付き合う気がないと。だけど、無性に腹が立つ。丹下院の気持ちが一蹴された気がして。同時に、丹下院にも腹が立つ。好き勝手に掻き回して、俺を無茶苦茶にしたんだ。

『今まで、ごめん。ありがと』

「……あ?」

『もう、弱みとか、そういうのはナシ。あたしは絶対、あんたのことを悪く言わない。でも、そっちはあたしのことを好きに言いふらしていいから。誰かにチクったっていいよ。一生、あたしのことを死ぬまで嫌いで、恨んでも我慢するから』

「おい、何言ってんだよ。意味が分かんねえって」

 突然、丹下院が笑いだす。くつくつと、喉の奥で。

『だったらさ、あたしと付き合う? 今、あたし死ぬほどへこんで弱ってる。ねえ、つけ込んでよ。あたし、あんたとだったら……』

 ……ふざけんなよ。

「俺は優人の代わりじゃねえ。第一、お前は俺の好みじゃねえよ。髪だって染めてるし、肌だって焼いてるし、馬鹿みてえに笑って、くだらねえことですぐに手を出しやがる。俺は、お前みたいなやつがこの世で一番嫌いだよ。ああ、お望み通り嫌ってやるし憎んでやる。お前とは二度と会いたくねえ。じゃあな」

『石高。優しいね』

「言ってろ! 馬鹿が! ホントにどうしようもねえよお前は! 畜生!」

 石をけっ飛ばす。遊具に当たったそれは微塵に砕けた。電話を切ると、さっきまで気にならなかったはずの虫の声がうるさくて、大声で喚きたくて仕方がなかった。



 期末テストが終わり、終業式の日を迎えた。

 あの日以降、俺は丹下院と目を合わせることすらなくなった。広まりかけていた噂は、丹下院自身がどうにかしたんだろう。俺は平穏に学校生活を送れることが出来た。

「禄助、ちょいちょい通知表見せてみろよー。なー、赤点あったかー? んー?」

「うぜー、無視しようぜこいつー」

 教室は阿鼻叫喚、とまではいかないが、結構騒がしくなっている。通知表を配っている瑞沢も諦めているらしく、眉間にしわが寄っていたが、何も言わなかった。

「おらおら早く見せろよド低能どもが!」

 優人が自分の通知表をぷらぷらとさせている。樋山くんと俺は顔を見合わせ、通知表を奪った。

「おい!」

 俺は優人の通知表で紙飛行機を作り、樋山くんがそれに消しゴムを括り付けて重りの代わりとした。

「やめろォ!」

「エントリィィィィィ!」

 で、外に向けて飛ばした。グラウンドを目指した優人の紙ヒコーキは、すぐに落下し始める。

「何してくれてんだよ!?」

「はっは、どうやら海が見えたみたいだな。あ、樋山くん。終わったら駅前にでも行っとく?」

「無視すんなよ!?」

 俺はモテないし、優人の気持ちが分かるなんて言うつもりはないけど、やっぱり男友達と遊んでんのが、今は一番楽しいと思える。さあ、夏休みは何をしよう。



 夏休みが始まって、俺たちはフィーバーしまくった。プールの監視員として、古本屋の店員として(店長のユキさんには申し訳ないがめちゃめちゃ暇だった)、稼いだ金を有明に突っ込んだり、俺んちで夜通しゲームやったりアニメマラソンしたりめぐに蔑みの視線を浴びせられたりしてもはや喜怒哀楽の喜と楽しかなく、気楽な夏休みをガンガンに過ごしていた。

 そして楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。気づけば夏休みの課題がしこたま残っており、明日はもう始業式である。9月1日さんの登場だ。帰って。

「お兄ちゃん、早く寝た方がいいわよ。明日から学校なんだから」

「いや、宿題が残ってんだよね。寝たら死ぬ」

「えっ、やってなかったの? あんなに遊んでたのに」

「遊んでたからやる暇なんかなかったんだよ」

 威張って言うことじゃなかった。ああ、くそう。通りすがりのサラリーマンが助けてくれないかなあ。

「夏休みがエンドレスにループしてくんないかな」

 美しい夢を見続けていたい。もしくはタイムマシンが欲しい。夏休みだし。

「馬鹿言ってないで、さっさと宿題を片づけたらいいじゃない」

「駄目だ。絶望的にやる気が出ない。チアガール百人に囲まれても無理だ」

「どうなったって知らないわよ」

 めぐはあくびをして俺の部屋から出て行った。さて、どうしよう。寝たらやばいけど。やばいくらい眠いんだよな。よし。寝る。明日のことは明日の俺がどうにかしてくれるだろう。



 明日の俺は何もしてくれなかったらしい。机の上でそのままになっている宿題の山から目を逸らし、息を吐く。今日の俺はお腹が減っているので、見なかったことにしてリビングに降りてパンを焼く。

「神はいなかったか」

 この世は所詮ショッギョムッジョでインガオホーでサツバツとしているんだな。神も仏も血も涙もねえよ。

 リビングでパンを齧っていると、眠たそうな顔をしためぐに指差される。

「酷い顔。プギャーって言ってやろうかしら」

「止めてくれめぐ。めぐに煽られたら泣ける自信があるからやめておいた方がいい。その術は俺に効く。止めてくれ」

 めぐ嬢にブラックコーヒー(に砂糖とミルクをたっぷり入れた液体)を作って手渡すと、彼女は満足げに頷いた。

「宿題は出来たの?」

「いんや、出来なかった。ちょっと彼女が寝かしてくれなくってさー」

「また変なゲームをやってたのね。呆れた」

 俺のオアシスを馬鹿にしてはいけない。

「それよりお兄ちゃん。最近、丹下院さんと対戦していなかったわね。飽きられちゃったの?」

 嫌でも動きが、思考が止まってしまう。夏休み中は聞かれなかったことだが、まあ、そうだよな。めぐはあいつとの勝負を楽しみにしていたんだし。気になるよな。

「ま、そんなとこだな」

 多くは語らず。が、めぐは何かを察してくれたらしい。

「そう」とだけ呟き、コーヒーに口をつけた。

「少しだけ思ったのよ。お姉ちゃんがいたら、どんな風に遊んでくれるのかしらって。もしかしたら、こんな風に話して、遊ぶのかなって」

「そっか」

 うちの両親は朝早くから夜遅くまで働き詰めだ。俺も学校があるし、めぐに構ってやれる時間は少ない。もちろん、めぐにだって友達がいるから、決して独りじゃないし寂しくないだろう。けれど、友達は友達で、家族は家族だ。俺に出来ることといえば、朝と晩、一緒にリビングでご飯を食べるくらいのものだ。たかが知れている。

「だったら、俺が早いとこ結婚してやんよ。したらめぐに義姉ちゃんが出来るだろ」

「……ちょっと歪んでないかしら、その結婚」

「えー、だったら血の繋がっていない姉ちゃんを探すしかねえな」

「いいわよ別に。私にはお兄ちゃんがいるんだもの」

 感動した。俺は感動した。兄でよかった。妹がいてよかった。感無量だ。

「私がお世話するのはお兄ちゃんだけで充分だもの。もう一人増えたら面倒くさいわ」

「聞き捨てならねえ」

「遅刻しちゃうわよ?」

 めぐは時計を指した。う。確かに、いつの間にかぎりぎりな時間になっていた。

「じゃ、俺は行ってくる。戸締りと防犯セットを忘れるなよ。何かあったら俺のケータイか、母さんに連絡を入れて……」

「子供じゃないから、分かってるわよ」

「いや、子供だから」

 きょとんとした顔で小首を傾げるめぐ。いや、子供だから!



 チャリを漕ぎ、坂道を上り、教室に着く。

「いよう、石高。元気か、久しぶりだな?」

「いや、二日くらい前にスカイプやらで喋ってたじゃん」

「知ってた。言ってみただけ」

 2学期とはいえまだまだ暑い。樋山くんは額の汗をタオルで拭った。

 夏休みで、俺たちは大量のアニメやゲームを消費し、消化した。話題は中々尽きない。

 ゲハゲハ話していると、黒ギャルが横を通ろうとした。樋山くんの席の近くに立っていたので、俺は道を譲ってやろうと思い、そっとスペースを作る。

「……ウザ」

 あ?

 なんか言われた気がするけど、黒ギャルの背をねめつけるくらいしか出来ない。

「どうした? なんかこええ顔してるけどさ」

「あ、いや、何でもない」

 け、やはりやつらはカスでクズだ。天罰を受ければいい。神の杖がピンポイントで、もしくは殿下の号令と共にあいつらの家なんか薙ぎ払われてしまえばいいんだ。



 HRが始まる五分前のことだった。優人が教室に着き、俺たちはいつものように三人でコフコフと笑って話していた。


「石高ってさー、マジでウザいよね。つーかキモい」

「なんで寺嶋君があいつと仲良くしてんの?」

「えー、だって委員長って優しいからー」


 カクテルパーティー効果とでも言うのだろうか。教室の騒めきから、俺は、黒ギャルたちのそんな会話を聞いてしまった。ふと見ると、優人は黒ギャルたちをじっと見据えている。

「なんだよあいつら、陰口なんか言いやがって」

「寺嶋は優等生だなあ」

「言わせとけよ。言ってるだけなら害にゃあならん」

 正直、今すぐにでも近づいて震脚からのコンボを叩き込んでやりたいところだ。しかし我慢である。というか、もはやあいつらなんかどうでもいい。二度と関わりたくないんだ。


「えー? マジー?」

「うっそーヤバー」

「ヤバイヤバイ」


 どうやら、当分はあいつらに目をつけられた状態での生活が始まるらしい。まあ、諦めてはいたから大丈夫なはずだ。しようがないんだよな、もう。

「優人、いいって。やめとけ」

「でもよう、我慢ならねえって」

 優人が黒ギャルたちのところへ行こうとするのを止める。こいつにはもう、こういうことには巻き込まれて欲しくない。

「無視してりゃあ飽きるだろ。人の噂もなんとやら、だ」

「……分かったよ。お前が言うなら、今は我慢しとく。今はな」

 頭に来ていた優人が椅子に座り直すと、樋山くんが安堵の息を吐いた。俺は目を瞑り、耳が聞こえなくなっちまえばいいなあ、なんてことを思った。その次の瞬間、けたたましい物音が聞こえてくる。

「は?」

「え? あ、何……?」

 黒ギャル集団が目を見開いていた。彼女らの近くにあった机が宙を舞い、床と激突して中身をばら撒く。教室中が一瞬掛からず静かになった。何が起こったのか分からず茫然としていると、一人の女の子が目に入ってくる。それは、今までに見たことのないやつだった。

「誰だ? あれ」

 優人がぽつりと呟く。……机を蹴飛ばしたであろう女の子は、綺麗な黒髪を肩のあたりまで伸ばしていた。烏の濡れ羽色とでも言うのだろうか。窓からの陽光を浴びて妖しく照り輝いている。地肌は白く透けているのだが、今は怒っているせいか、朱に染まっていた。元が白いだけにいやに目立つ。

「……かわいー、あんな子いたっけ?」

 確かに。横顔からだけでも、その造作は整っているのだと容易に分かった。まだまだ残暑の厳しい盛りだと言うのに、制服のボタンは一番上まで留められているようで、立ち姿にはどこぞの令嬢みたいに気品があり、ただただ見惚れた。

「ん、んだよ?」

「なんか文句でもあんの? つーかカンケーなくね?」

「……カンケー? あるよ」

 少し舌足らずな声だが、凛とした響きも持ち合わせている。聞く者をはっとさせ、振り向かせるような魅力があった。だが、誰だ? もしかして転校生だろうか? でも、だとすると、どうしてこの子がブチ切れてるのかが分からない。だってそうじゃないか。あの黒ギャルどもは彼女ではなく、俺に対してグチグチと言っていただけなんだから。

 女の子は言った。

「カンケーならあるに決まってんじゃん。あんたらさ、誰のことにごちゃごちゃ言ってたか分かってんの?」

 黒ギャルどもは答えた。

「は、は? 石高だし」

「だからあんたにはカンケーねーって言ってんの!」

「あったまおかしいんじゃない?」

 すると、女の子は黒ギャルが座っていた椅子の足を蹴り飛ばす。短い悲鳴を上げて、座っていたやつはそこから飛び退いた。

「あのさ。あいつに嫌われてもいーのは、あたしだけなんだよね」

 黒ギャルどもが喚き出す。だが、女の子は全く意に介さず、一睨みで彼女らを黙らせた。

「独りよがりだけど約束したから。だから、あいつを悪く言うやつは……」

「わ、分かったって! つーか何? マジで意味分かんない!」

「そうそうそう! いきなし何なの!? あんただって前まで石高をキモイとか言ってたじゃん!」

「うるっせ……う、うるさい! 気が変わったの!」

 ……ん?

「石高っ」

 女の子が振り返る。つかつかと歩いてくる。彼女は俺の前でぴたりと止まった。教室にいるやつらの視線を浴びているのが分かる。

「えーと、あなたは?」

「は?」 と、女の子は不思議そうに小首を傾げた。この声。この仕草っつーか偉そうな態度。黒髪と白い肌だけでは誤魔化し切れないビッチ感。あれ? こいつ、まさか。

「……丹下院、か?」

「や、あたししかいねーじゃん。誰だと思ってたんだよ」

 げえと樋山くんが悲鳴を上げる。優人の眼鏡がずり落ちて床に落ちた。丹下院は、にししと笑って、それから、申し訳なさそうに俯く。

「意外と似合ってるっしょ、これ?」

 丹下院竜子。夏休み明けでまさかの逆デビューだった。

「何、やってんだよ」

 ちょっと、頭がついてかない。すると何か、アレか。丹下院は髪も肌も元に戻して、俺の悪口言ってたやつらをぶっ飛ばしたってことになるのか。なんでだ。なんで今更そんなことするんだよ。

「迷惑だった?」

「じゃなくて、お前、もう関わんないって言ったじゃねえか」

 実際、今日までこいつは俺とそうしてきた。俺だって無視してきたんだ。

「うん。あたしも、そうしようって思ってた。けど夏休みの間中、ずっとあんたのことばっか考えるようになっちゃったから、あ、もう無理だって。……気づいたらね、あんたの好きなものばっかり思い出してた。アニメとか、漫画とか、ゲームとか、何でも。ふ、あは、片っ端から見ちった。あんただったら、こういうシーンでテンション上がったりすんのかなーって想像したりしてた。一緒に遊びたかったし、話したかった。どんなにくだんないことでもいいなって」

 丹下院は顔を上げる。俺を見る。

「髪も肌も、あんたがこういうのが好きって言ったから戻した。あのままだったら、絶対こっち見てくれないって思ったし。馬鹿が嫌いって言ってたから、頭だって良くなるよ、あたし。けど認めてとか言わない。好きになってとも言わない。あたしがあんたを好きだって、今はそんだけでいいんだ。でも、いつか必ずって夢見てもいーよね? って、そんだけ。それだけ言いたかったの。宣戦布告ってやつ」

「なあ、丹下院」

「い、いいって。もう、何も言わないで。なんか、ごめん。いきなしでびっくりさせたよね。でも、収まんなかったから。……あたし、寺嶋君のことはちょっといいって言ったよね」

「ファッ!?」

 優人が飛び火を受けていた。

「でも、石高。あたしはあんたが嫌だ」

「ファッ!?」

 俺も火の粉を浴びてしまった。丹下院は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「ひひ、嘘。あたしは、あんたじゃないと嫌なの」

「……んだよ、それ。つーか皆見てる前でよくもまあ」

 もはや笑うしかない。というか、嬉しかった。なんかほっとしてる自分がいることに気づいて、俺は声を上げて笑ってしまった。そっか。俺は気づいてない振りをしてたのかもしれない。

「なあ。言ったよな。もう、弱みとかそういうのはナシだって」

「うん」

「ごめん、いっこだけあった。俺はたぶん、かなり前からお前に握られてたんだ」

「何、それ。そんなの……」

「惚れた弱みだよ」

 たぶん、俺はもう丹下院には逆らえない。

「だから好きにしてくれ。俺は、馬鹿っぽいお前が好きだし、髪を何色に染めても肌をこんがり焼いても何をしても好きなんだ」

「……は? だから、え? 何、それ?」

 力が抜けたのか、丹下院はその場に屈み込んだ。

「あたし、無駄な努力だったってこと?」

「いや、なんか、そういう見た目も新鮮でいい感じがする」

「あ、ありがと。って、なんか違う気がする……」

 うーん? と、丹下院は難しそうに唸る。そうしている内、瑞沢が教室にやってきて変な雰囲気の教室を見回した。何があったのか事情を聴いて、にやにやとし続ける丹下院を見遣る。

「丹下院。騒動を引き起こしたのはお前か?」

「うーん。そういうことでいいっすよ。そっちのがセンセも都合いいっしょ?」

「……事情は聞かせてもらうからな。あとで職員室だ。場合によって生徒指導室に付いてきてもらう」

「じゃさー、石高ー。とりあえず放課後はー」

「反省の色なし! やっぱり生徒指導室だ!」

 俺の好きな人はやっぱり馬鹿だった。

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