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タイジスルセカイ

「わりいな、呼び出しちまって」

「うん」

 俺の顔は強張っていただろう。

「なんつーか、その、世話かけちまったなーって。今更だけど」

「別にいいって。マジで今更だから」

「あは、そっか。お前ってアレだよな。いっつもそうなんだよ」

「……うん」

「あたしは、お前のせいで変わっちまった。だから責任取ってくれよな。……好きだよ、お前のこと」

「うん」

「あたしはお前のこと信じてる。だから、乗り越えて欲しいんだよね、こういうのも」

「うん?」

 向こうの方からけたたましい駆動音が聞こえてきた。何故か砂煙が上がっている。その中から姿を現したのは、クッソ長いマフラーだの旗だのがついてアホほど改造されたバイクであり、乗っているのはイカついヤンキーだった。後ろからはキョロキョロしながら走ってくるパンピーや制服を着崩した学生たちがだらだらと歩きながらやってくる。

「つーかー、あたしと付き合うんならやっぱサイキョーじゃないとヤっていうか? 無理っつーか?」

「えええええちょっと俺はレンズマンでもガンカタ使えるわけでもないんだけど!?」

 呆気なく踏み潰された。俺は電源を落とし、窓を閉めて布団の中で叫んだ。

「ふざけんな!」

 ギャルとかヤンキー女って嫌いだわー。このヒロイン両方の属性合わせ持ってるとかえげつなさ過ぎるし。どこまで頭悪けりゃ気が済むんだ。せめてゲームの中だけではって思ってたのに、この仕打ち。この仕打ち!



「……はよー」

「おはようお兄ちゃん。あら、随分と疲れているみたいね」

 リビングにはめぐがいた。彼女はカフェオレ風のブラックコーヒーを飲んでいる。俺は頭を掻きながら椅子に座った。

「めぐはさ、絶対にギャルになっちゃダメだからな」

「なったらどうなるのかしら」

「俺が泣く」

 みっともなく泣き喚く自信がある。

「肌焼いたり毛ぇ染めたり耳に穴開けたり蛍光色のスウェットにキャラ物のサンダル履いて夜中出歩いてその辺のよう分からん男とコンビニの前で駄弁ったりしちゃ駄目だからな」

「そんなことしないわよ。髪の毛は染めるかもしれないけど」

「したら兄妹の縁を……」

 切る。そう言おうとしたが、俺には出来なかった。想像の上でもめぐと縁を切るなんて無理だった。

「分かったから泣きそうな顔をしないでちょうだい。それよりお兄ちゃん、ごめんなさい。牛乳を使い切ってしまったの」

 なんだ、そんなことか。全然構わん。代わりに麦茶でも飲もう。そう思って冷蔵庫を開けると、

「なんだ? 残ってるじゃないか」

 牛乳があった。残り少なかったのでぐいーっと一気飲みする。

「あっ、の、飲んじゃった。それ、期限が切れてたのよ」

「げ、そうなのか? 捨てといてくれよー。でも、別にちょっとくらいなんだし、腹壊すこともねえだろ」

 人間ってのは丈夫に出来ているものだ。屁でもない。パンでも焼いて食っちまおう。



 めぐに弁当を持たされて学校へ行く。自転車をへえこら漕いで駐輪場に停める。坂道を上っていかなければならない。ああ、だりい。

「……ん?」

 なんか、お腹がぐるぐる鳴ってないか? 気のせい? 気のせいだよな。心なしか腹が痛いような気がするし背中に汗をかき始めているけど今朝の牛乳にやられたわけじゃないよな。……あ。駄目だ。一回気にし始めたらもう無理。絶対腹痛だわ、これ。なるだけ刺激を押さえてケツに力を込めつつ学校へ向かおう。決して走らず急いで歩いてきてそして早くトイレに駆け込め。

「よっ、今日もいい風が吹いてんな、石高!」

 ぱんと、背中を叩かれる。瞬間、体が蠕動しかけた。背から震えが伝わり肛門へと進撃を開始する。胃が、腸が、立体起動でしゅーんって駆け抜けた。

「うおおおおおああああああああああ!」

「あっがああ!?」

 危うく、俺の肛門番(ア○ルガード)がウンコを通しそうになったが凌いだ。俺はヒットマンに頭突きで反撃を試みる。ヘッドバッドを食らったキモオタみたいなやつが額を押さえてよろけてこけた。よく見たら樋山くんだった。

「何すんだよ!?」

「こっちの台詞だ。ぶち殺すぞ……!」

「えええええ予想以上にキレてらっしゃる。どうしたんですか?」

 腹がいってええええんだよ! こっちは! しかも今の頭突きでまた腹がっ。

「期限切れの、牛乳を……」

「ヒハハハ! 馬鹿だなあ!」

 この痛みが治まったら報復してやる。



 坂道を上っている最中、だらだらと脂汗が止まらなかった。

 俺は漏らせ漏らせと煽ってくる樋山くんにボディーブローを決めて校舎一階のトイレに駆け込んだ。だが、

「なんで全部使ってんだよ!」

「うるせえボケ!」

「クソして寝てろ!」 そうしたいわ!

 個室から聞こえてくる罵声を背に、俺は慎重に次の階へ歩を進めた。その時、階段を降りてくるエセイケメンクソ眼鏡がやってくる。幼馴染の優人だ。このボケは俺が苦しそうなことに気づくと、満面の笑みで近づいてきた。

「なあ禄助、鬼ごっこしようぜ」

「クソ野郎がああああ」

 完全に自分のことを棚に上げて罵ってやった。

「うーん? どしたんかな禄助ちゅわーん? なあ、お腹とか痛いの? 摩ってやろうか? んん?」

「た、頼む見逃してくれ。こんなところで漏らしたら……ううっ、石高禄助、末代までの恥になる!」

「まあ、ここでクソ漏らしたらお前で末代になるのは確かだけどな」

「めぐがいるから、血は絶やされない! でもめぐがお嫁に行くのなんて嫌なんだよおおおおお」

 何言ってんだとでも言いたげな顔で、優人は俺の後ろを顎でしゃくる。

「こっちはやめとけ。妻木くんたちに嗅ぎつけられたらお前の学校生活はまた一歩終わりに近づくはずだ。恨むんならお前のクズさ加減を恨むことだな」

 仕方ねえ。西校舎のトイレに向かうしかない。

「四階まで粘れ禄助。あそこなら、今の時間に便所使ってるやつなんかいねえよ」

「ああ、わりいな」

 俺は足を引きずるようにしながら、来た道を引き返す。

「……期限切れの牛乳なんか飲むからだよ」

 優人が何か呟いたが、俺は無視してトイレを目指した。



 石高禄助は神を信じない。

 無神論者である。が、腹痛の時ならば話は別だ。俺は神を信じる。仏でもなんでも信じるから助けてください。

「ぐ、う、ひ、はあああああ……」

 息を吐きながら、時に優しく腹を撫でながら移動する。今なら俺はどんな神も宗教も肯定出来る。お願いします。あと、もう少しだけ。

 ペンギンみたいな歩き方で廊下を進み、階段を上り、四階に辿り着く。しんと静まり返った空間が腹に響いたような気がした。こそこそと周囲を気にしつつトイレに向かう。別に、大きいのを学校ですることが恥ずかしいんじゃない。小学生じゃあるまいし、生理現象を嘲笑するような行為はクズの極みだ。生きているのなら仕方のないことなんだ。ただ、俺に限って言えばばつが悪い。時期が悪い。きまりが悪い。すわりが悪いんだ。

 先日、俺は妻木くんという、別のクラスの男子生徒がトイレに向かうところと遭遇した。確か、体育の後の休み時間だったろうか。彼は着替えも終えておらず、額から流れる汗は運動によるものではなかった。過度の緊張による脂汗だ。今の俺と同じ。焦っていたのだ。彼はどうしようもなく死にそうだった。そう、妻木くんも大きい方を我慢していたのである。俺はすぐにそのことに気づいた。隣にいた優人も分かっていたはずだ。だが、俺たちは一時の快楽に身を任せてしまい、妻木くんを散々に煽って邪魔して…………ここから先は語らないでおこう。つまり、彼の地位は、地に堕ちた。いわゆるキョロ充として認識され、そこそこの位置には立っていたのだろうが、たった一日でクラスカーストどころか学校全体の中でも最下層の住民になってしまったのである。たかが衆人環視の状況下でビッグベンを漏らしたくらいなのに。

『クソが、殺してやる』

 妻木くんは涙を流しながらこんなことを言っていた。クソなのはお前の方だけどなって言ったらさすがに優人に怒られたけど。俺としては制服の時じゃなくてまだマシだったねと気さくに慰めたつもりだったのだが。

 とにかく、俺が学校で便器に座ることは途轍もないピンチであり、妻木くんからしたら垂涎物のチャンスである。絶対にバレるわけにはいかない。

 そう思いながらドアを開いた。

「やばっ…………ん? は、はあ?」

「うん?」

 先客がいた。だが、その客は個室にこもっておらず、窓に向かって紫色の煙を吐いていた。『彼女』は俺のクラスメートである、黒ギャル集団の一員であった。だが、そんなことを気にしている余裕などない。俺は出入口に一番近い個室に入り、ズボンとパンツを同時に下ろした。

「ちょ、は!? えっ、なん? 何してんのお前!? なあ、聞けって!」

「うおおおおおおおビッグベンは石高禄助でいきます!」

 発進シークエンスは秒読みの段階をとっくに終えて、俺という母艦に搭載されたモビル○ーツは既にカタパルトから飛び出してしまっていた。

「ふざけんなよ!」

「アイハブコントロール!」



 ふーっ、すっきりした。一時はどうなるものかと思ったし、いやしない神様にも祈りを捧げてしまったが(気張りながら般若心経を唱えて指で十字を切りまくる石高家の男子にのみ伝わる祈りの儀式)、まだ始業のチャイムも鳴っていない。ホームルームにも急げば間に合うだろう。

 俺は鼻歌交じりに手を洗ってトイレから出ようとした。先客のクラスメートはどこかへ消えている。しかし、なんであいつがこんなところにいたんだろう。

「……あれ?」

 そういや、おかしいぞ。ここにはあって当然のものがない。ここは俺の知っている場所の筈なのに、妙な違和感がある。……ああ、そうか。ここには小便器がないんだ。ああ、よかった。そういうことだったのか。

「全然よくなくね……?」

 俺は急いでトイレを出て、確認した。ここは、男子トイレではない。女子トイレだったのだ。その場に崩れ落ちそうになる。楽しみにしていたアニメの録画をミスった時よりもショックだった。

「痴漢」

「あ?」

「いや、あ、じゃないから」

 廊下の壁に背を預けているやつがいた。先に見た女子である。……見られていた。つーかばっちり出くわしてた。確か、彼女の名前は丹下院(たんげいん)。黒ギャル集団のリーダーみたいな存在で、クラスでも学校でもぶっちぎりのカースト上位に位置する、俗に言うリア充であった。肌を焼き、長い髪を染め、制服を着崩し、変なアクセサリーをつけ、化粧までばっちりで、下品で、安っぽい香水の臭いをまき散らす有害物質である。

 最 悪 だ ろ 。

 丹下院は俺の表情を認めた後、にやにやとした笑みを浮かべた。

「何してたん? なあ、教えてよ?」

「……コ、です」

「えー? 聞こえないんだけどー?」

「ウンコです!」

 ぎゃははと、やはり下品な声で笑うと、丹下院は徐にケータイを取り出した。

「女子便でやるとかありえんくない? どんだけ変態レベル高いかしんねーけどさ、通報とかしたら一発なんですけど」

 なんてことだ。なんて日だ。よりにもよって、こんなやつにバレるなんて。

「ちょっと待って欲しい。なんか勘違いしてるみたいだから言っとくわ」

「いや、我慢出来なくなって女子トイレに駆け込んだって話っしょ」

「ま、まあ、そうなんだけど」

「だから変態だし痴漢だって言ってんじゃん」

 草が生えまくった口調で言われるとめちゃめちゃ腹が立つ。どうしてこいつらはデフォルトでへらへらしてんだろうな。

「石高くんがー、こんな人だったなんてー、あたしめっちゃショックー。だから一斉に送信しちゃおっかなー」

「何をだよ!? 勘便してくれよそんなつもりなかったんだって! 俺はただウンコがしたかっただけなんだ!」

「でも女子トイレに入ったのは本当じゃね?」

 その通りだ。今にして思い返せば得難い経験である。ちょっとどきどきしてきた。

「俺にはそんなつもりなかったって。信じてくれよ」

「どーしよっかなー」

 あ、これ駄目だわ。絶対信じてない。というかベクトルが違った話だ。このアマ、俺から何か引き出そうとしてやがる。嘘でも本当でもどっちでもいいんだ。このアホがその気になれば嘘でも本当になる。痴漢の冤罪ってのと同じだ。

「……何が望みなんだよ」

「あ?」

「だっ!?」

 踏み込まれて、腹を軽く殴られる。痛くはなかったが、女子にボディーブローを食らうという事実に驚いて、すぐには動けなかった。

「ちょー、あんま舐めてっとマジで痛い目見っから。とりま、さ、保留にしとくからさ。放課後はあけといて。色々とやってもらうかんね」

 にししと笑って、丹下院は去って行った。俺はチャイムが鳴っても、しばらくの間はそこから動くことが出来なかった。



 一時限目の途中、俺は先生に頭を下げながら教室に入った。へらへらとした顔を作っていたが、内心は死にそうだった。俺を見るみんなの目が怖い。もう、全部あのボケにばらされてるんじゃないのかって。……ただ、今のところはその心配も必要なさそうである。

「よう、大漁だったみてえだな?」

 優人が声を掛けてくるも、答える気力はなかった。



 二時限目も三時限目も四時限目も何も起こらなかった。俺は、ばれないように丹下院の様子を探っていたが、彼女はいつも通りにくだらん連中とくだらんことを話していた。

 丹下院竜子(りゅうこ)。クラスメート。ギャル。知っていることといえばそれだけだった。が、今日をもってやつは俺の敵となった。ならば敵の情報を仕入れる必要がある。俺は優人からさり気なくやつについての話を聞き出し、自らの五感を持って新たなデータを入手することに成功した。

 ……まあ、普通のギャルなんだよな。大した情報はない。つまり弱みは握れない。しかもよく見たら結構、普通に、可愛かったりもする。化粧と黒い肌のせいで分からなかったが、顔だちは整っている方だろう。髪の毛は長く、明るい茶色に染まっている(しかし担任の瑞沢から再三注意を受けている)。背は一五〇の後半だろう。手足は長く細い。かと言って痩せぎすというわけでもない。なんつーか、男好きのしそうなボディである。AVに出てても不思議ではない。声は性格とは違い、舌足らずで微妙に可愛い。クッソムカつく。完全にモテる女である。愛されガールである。

「勝ち目ねえな」

「どうした禄助。また熱帯でボコボコにされたのか?」

 優人は学食のうどんを飲み込むと、楽しそうに笑んだ。樋山くんはかつ丼をひたすらにかき込んでいる。俺はといえば日替わり定食を頼んだが、まだ半分も食べられていない。

「優人。俺もう駄目かもしんない。もしもの時はハードディスクの処分を頼んだぞ」

「分かった。ご家族の前で順番にフォルダを開放していってやるよ」

「俺の魂魄が百万回生まれ変わってもみちづれにしてやるからな……!」

「スリップダメージで殺すからいいよ」

 対策を取られてしまった。

「なんかあったのか?」

 俺は助けを求めようとしたが、優人まで巻き込んでは元も子もない。まだ打てる手は残されている。凌げるはず。対丹下院戦での切り札として、いざという時の為に残しておこう。それに、こいつは争い事が嫌いだしな。

 見くびりやがったな、あのビッチが! 俺を怒らせたやつがどうなるか思い知らせてやる。



 五時限目が終わり、俺は呼吸を整えた。

「どうしたんだよ石高、システマ式呼吸法なんかしちゃってさ」

「ちょっと聖戦に、な」

「はあ?」

 俺の学校生活を脅かそうとする者を生かしてはおけない。とまでは言わないが、舐められっ放しは我慢出来ねえ。椅子に座り、あの腐れが接触してくるのを待った。



 そこから一時間。俺は椅子から立ち上がった。教室には誰もいない。グラウンドの方から野球部の掛け声が。向こうの校舎からは吹奏楽のぷあーって音が聞こえてくる。

「こねえし!」

 なんでやねん! どんだけ焦らしてんだよ宮本武蔵かあいつは! って、したら負けんの俺じゃん!

「……長物持ってるしな」

 暇なので、野球部から借りてきたバットで素振りをする。気持ちを落ち着けなければ。というか、どうしよう。さすがにこれ以上は待ちたくない。帰ってアニメ見たいしゲームしたいし小腹も減ってきた。明日がどうなるのか、考えると怖いけどここで居残り続けるのもだるい。帰るか。

 バットを放置して、机に置いといたリュックサックを担ぐと足音が聞こえてきた。扉の方に目を遣ると、鼻歌交じりの丹下院がやってきた。来たか!

 丹下院は俺の存在に気が付くと、眉根を寄せて顔をしかめる。

「うわ、キモ。なんでいんの?」

 開幕にジャブを食らった。

「ふざけんなよ、そっちが放課後あけとけって言ったんだろうが」

「……は?」

 丹下院はじっと俺の顔を見た後、ああ、と、どうでもよさそうに言った。

「あー、忘れてたわー。どうでもよすぎてさー、そかそか。や、なんかそんなんも言ってたっけ?」

「じゃあ、お疲れ」

 気が抜けた。俺は帰ろうとして丹下院の横をすり抜けようとしたが、肩でぶつかられてしまう。安い香水の匂いが鼻を突いた(ハードボイルド的表現)。

「ちょいちょいちょい、帰んの早くない? つーかさ、あのバット石高のだよね? アレでもしかしてあたしを殴ろうとか思ってなかった?」

「思ってねえよ。ちょっと転校させようとしただけだ」

「はああ? ……じゃ、ネタが一個増えたってことで」

 しくじった。脅迫材料を自らの手で増やしてしまった。

「……くそう」俺は手近な椅子を引き、座り込む。駄目だ。やっぱり逆らえないのか、こいつには。

「何をすりゃいいんだよ、俺は」

「今さ、財布にいくら入ってる?」

「ええええ、いきなりカツアゲすんの? お前さ、血も涙もねえの?」

「女子トイレ」

 ぐ。

「侵入」

 ぐ、うう。

「痴漢。変態」

「グ、グムー……」

 丹下院はへらへらと笑いながら、ケータイをちらつかせる。俺が首を縦に振らなければ、すぐにでも誰かに連絡を取るつもりなのだろう。

「ま、別に金とかいらねえけど」

「金持ちっぽい名前だしな」

 院、とか、寺、が苗字についてると金持ちの法則。ただし寺嶋だけは除く。

「……うるさいっつの。名前なんかどうでもいいっしょ。じゃ、あんた何が出来んの? あ、女子トイレに入る以外で」

 この野郎、どこまで人をおちょくれば気が済むんだ。

「けどなー、別にかくし芸とか見たいわけじゃないしなー。どうしよっかなー」

「じゃあ保留にしといてくれよ。二十年くらい」

「頭良かったっけ、石高って?」

「いや、自慢じゃないけどよくない」

「じゃ、ノート代わりにもなんないね」

 俺がデスレースの参加者だったらこいつ轢いて高得点狙うわ。

「どうしよっかなー」

 丹下院は扉に背を預け、髪の毛先を弄り始める。考え付かないんなら解放して欲しい。

「そういや、俺のことを忘れてたくせに、何で一人でここに戻ってきたんだ?」

「んー? 別にー、なんとなく」

 こいつらその場のノリだけで生きてんの? すげえわ。逆に尊敬する。流れに掉さすどころか波に乗り乗りじゃん。

 ……はあ。こんなことなら、朝に期限切れた牛乳なんか飲まなけりゃあよかった。そうすれば、腹痛に襲われず、女子トイレに間違って入ることもなかったんだ。人生ってのは、どうしてこう駄目な感じで出来てんだろう。

「勘弁してくれよ。あ、代わりにさ、俺の知り合いを生贄にすっから」

「えー? 友達って、だいたいキモオタじゃん」

「おい! 樋山くんのことを馬鹿にすんなよな!」

「誰も樋山のことは言ってないんだけど……あ」

 丹下院は何かに気づいたのか、少しだけ目の色を変えた。

「そ、そういやさー、石高ってー、委員長と友達だったっけー?」

「委員長? ああ、優人のこと?」

 そういやあいつ、委員長だったっけ。そんな仕事やってる素振りもないし、忘れてた。無駄な設定だな(マジで)。

「友達だよ。幼稚園くらいん時から。何? 生贄はあいつでいいの? 喜んで差し出すぜ。あいつも涙を流して喜ぶと思うわ」

「ち、ちげえから。寺嶋君は別にいいから。あ、そうじゃなくて」

 丹下院はなぜか慌てていた。いつもの余裕っぽい態度はどこかに消えている。

「じゃあ樋山くんでいい? 樋山くんめちゃくちゃ物まねが上手いんだ。グラサンかけたら紅の……」

「いや、あいつはいらねーから」

「ですよね」

「……したら、寺嶋君のこと紹介してよ」

 なんだ。そんなことでいいのか。簡単だ。俺は大きく頷いて見せる。

「寺嶋優人。17歳。男。委員長。俺の幼馴染で、家族構成は」

「その紹介じゃねーし! 家族構成は気になるけど!」

「は? じゃ、紹介って……あ、そういうこと、なの?」

 丹下院は小さく頷き、そっぽを向いた。マジかよ。優人でいいのかよ。いや、いつも一緒にいてる俺はあいつの趣味も性根の曲がり具合も熟知しているが、何も知らないやつからすりゃあ、あいつの顔だちはそこそこいい。委員長で頭もいいし、眼鏡は伊達で運動神経はないに等しいにしても、まあ、モテる方なのか。ムカつくが、今日に限っては見逃そう。優人のお陰で助かりそうな空気になりつつあるからな。

「優人のこと、好きなん?」

「だってかっけーじゃん。一年の時もクラス一緒で、いつもさー、テスト前にベンキョー見てくれんだよね。それからさ」

「お、おう」



 優人のいいところ、とやらを十分近くも聞かされてしまった。正直、殆ど知ってるような話だったが。

「寺嶋君ってちょっといいよね?」

「ねって言われてもな……」

 ここで俺が同意したらどうするつもりだったんだ、この女。

「ま、分かった。じゃあ、俺が優人をお前に紹介するから」

「あー、あたしはあんたが変態だってことを黙ってりゃいいんでしょ?」

「……もう、それでいいよ。揉め事にさえならなけりゃ、それで」

 ありがとう優人。俺は今、お前に感謝している。あいつを有り難く思うなんて、小学生の時分に駄菓子屋で十円くれた時以来だろうか。

「ちょっと待ってて、あいつのアドレスと番号書くから」

 俺はリュックサックから筆記用具とノートを取り出す。さっさと済ませちまおう。こいつらがどうなろうと知ったこっちゃない。尤も、優人は丹下院とは付き合わないだろう。それどころか、邪険にするはずだ。あいつがこのビッチの面倒を見てやってたのは、恐らく、他にもいろんなやつが周りにいたからだろう。やつはリア充のペルソナを装着する為にいい顔を浮かべるのが得意なのだ。そこらへん、俺とは違う。世渡りが上手いんだ。

「ちょい待ってよ。紹介って、もっとさ、フォローとかしてくんない? いきなりメールしてもキモイとか思われんのヤだし」

「どうすりゃいいんだよ」

「……今日から、ちょいちょいあたしのこと話しといて。で、物価上げといて」

「物価? ああ、株ね。つっても、お前のことなんか話題にならねえよ」

「いや、だからさり気なく言えって言ってんじゃん」

 言ってねーし。

「めんどくせえな。いい感じには言っとくから、適当に話とかして、どっか遊びに誘ったりすりゃあ早いだろ」

「無理」

「ああ?」

「そういうの、寺嶋君って無理らしいんだよね」

 ……そういえば。本当に、そういえばの話なんだが、優人は半分リア充だが、休みの日は俺や樋山くんたちとしか遊ばない。たまーに、クラスのやつらと遊びに行ったりもするが、だいたい俺も誘われてる場合が殆どだ。恐らく、プライベートくらいは気を遣いたくないとでも思ってんだろうな。

「つまり、なんとかして優人の、お前に対する好感度を上げろってことだな」

「そそそ、そんな感じ。外堀から埋めてく」

「城攻めかよ。なんかえげつねえな」

「恋愛ってそういうもんだから」

 俺のやってるギャルゲーにはあんまりないパターンなんだけど。リアルとは違うんだな。やっぱり俺は2次元がいい。

「まあ、面白そうだし協力するわ」

「そんじゃ、あたしの連絡先教えとくから。なんかあったらすぐ伝えて。いつでもいーから。それから、あたしもあんたに命令する時あるからすぐに返事して」

「えー?」

「……痴漢」

 俺は黙ってケータイを差し出した。丹下院は莞爾とした笑みを見せる。案外、さっぱりした感じでも笑えるんだな、こいつ。



 連絡先を交換した後、俺は丹下院と別れて家に帰った。なんか、どっと疲れる一日だった。週の初めからこれじゃあ先が思いやられる。しかも優人にあの女を売り込む必要がある。へらへらと笑うセールスマンだって、これには苦笑いを浮かべるしかないだろう。

「ただいまー……」

「お帰りなさい、お兄ちゃん。あら、もしかして疲れてる?」

「まあ、ちょっとな」

「それじゃあ、夕食はスーパーで惣菜でも買おうかしら」

 俺は、めぐがソファから立ち上がろうとするのを留めて、鞄を下ろした。

「今日は手の込んだものでも作ろうかな」

「お兄ちゃんって、嫌なことがあったら家事に逃げるタイプよね」

「うるさいよ。何か、リクエストはあるか?」

 冷蔵庫にはろくなもんが入ってない。そういや、野菜も使ってたっけ。今からスーパーに直行だな。

「前にお兄ちゃんが作ってくれたパエリアは美味しかったわね」

 アレかー。本場じゃあ夕食にはしないらしいけど、ここジャポンだし。いっか。

「じゃ、それにしよう。買い物行ってくるから、もうちょい待っててくれな」

「私も一緒に行くわ。お兄ちゃんが余計なものを買わないように見張ってあげる」

 余計なお世話だ。

「めぐこそ、ついてきてもお菓子は買わないからな」

「えー? プリン食べたい」

 珍しくめぐがだだをこねている。もう少し焦らしてたら涙目で太腿をポカポカしてくる姿が見られるのだが、更に機嫌を損ねたらレスラーでも嫌がる地味な技、抓りが来るので線引きが難しい。

「じゃ、はぐれないように手ぇ繋いで行くか」

「嫌よ。子供じゃないんだから」

「子供だろ!」

 たまに、めぐが年上に思える時もあるけど。

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