トジラレルセカイ(あとがき)
暑い。
古本市の会場は大きな公園だ。太陽がぎらぎら燦々七拍子、容赦なく照りつけてくる。一応、テントが各店に貸し出されていてある程度の日差しは防げるが、それを組み立てるだけで汗みずくになってしまった。
長机に商品を並べ終えると、俺の体力は底を突く。開店を間近にして限界だ。店から持ってきた丸椅子に腰かけると、ユキさんが水筒のコップを差し出してくる。
「麦茶を冷やして持ってきていました。どうぞ」
「ありがたいです」
一気飲みすると、胃がきゅっと締まった。少しだけ体から熱が引き、俺は息を吐き出す。他のところも準備に追われているようだ。みんな、タオルを首に巻いたり、麦わら帽子を被って作業している。爺さん婆さんばっかりだったが、どこからそんな力が湧いてくるんだろうな。……俺も何か持ってくればよかった。
「お疲れ様です。少し、休んでいてください」
ユキさんはいつもの恰好に、広いつばの麦わら帽子を被っている。彼女はそれを俺の頭の上に乗せた。俺は頷き、目を瞑った。
「……そういや、瑞沢先生はどうしたんでしょうね」
「ああ、あの子なら学校に戻って、クラブ活動の顧問をすると言っていました。確か、お菓子クラブとか」
瑞沢は軽トラを駆り、俺たちと荷物を公園まで運んでくれたのである。そういや、帰る時にはまた呼んでくれとか言っていたっけ。
「ここでかき氷を売ったら儲かりそうですね」
「惜しいことをしました。折角、かき氷機を見つけたのに」
ああああ宇治金時とか食いてえ。
「そろそろ始まりますね」
「ですね」
ノイズの混じった音が拡声器から響いてくる。どっかのおっさんが古本市の始まりを告げたのだった。
客なんか来ないだろうと思っていたが、榊原書店出張版には客足が途絶えなかった。というのも、うちは毎年参加しているらしく、他の店主や馴染の客、あるいはユキさんの知り合いが挨拶がてら店を覗いていくからだ。少しつまらない思いではあるが、疲れていたので接客は彼女に任せることにする。
「ありゃ、榊原さんとこは若い子を雇ったんだねえ。アルバイトかい?」
目を開けると、白髪の婆さんが俺の方を見ていた。立ち上がって、いらっしゃいませと頭を下げる。
「ユキさんにはいつもお世話になってます」
「そうかいそうかい」と、婆さんは面白そうにユキさんを見遣った。……なんだ?
お昼を回ると、お客さんの数も少なくなってくる。立て看板に『休憩中』という札を提げると、ユキさんは外からは見えづらいところに俺を呼んだ。
「お昼にしましょうか。軽いものですが、どうぞ」
ユキさんはバスケットから弁当箱を取り出して、ぱかりと蓋を開いた。おにぎりとちょっとした惣菜がきちんと並べられている。差し出されたお絞りで手を拭いて、一番左端のものを掴んだ。
「それは昆布ですね。少し塩辛いかもしれませんが、夏場にはちょうどいいと思います」
「大好物です、いただきます!」
汗をかいた体には塩気のものが美味しく感じられる。労働の後の白米は格別だ。
「卵焼きもあります。石高さんは甘めの方がお好きでしたね」
ユキさんは割り箸で卵焼きを摘まむと、俺の顔をじっと見てくる。何も言わず、俺は口を開いた。……うん、甘い。
「他のお店を見て回ってきてはいかがでしょうか」と言われたので、俺は財布を持ってうろうろし始めた。
古本市とは言うが、ここらの人は商魂逞しい。変なご当地グッズや、土産物なんかも売りに出している。むしろ、本を売っている正統派のが少ない。いいのかよ。流石にしようもないものを買うつもりはなかった。俺は古本を見回り、レンガのような本を購入し、ユキさんのところへ戻った。
そこには、またまた知らんおっさんがいた。彼はユキさんと世間話をしている。
「お、君が石高ってやつか」
「……? 初めまして、榊原書店でアルバイトとして、お世話になっている者です」
恰幅のいいおっさんはタオルで汗を拭きつつ、豪快に笑った。ユキさんは困り顔の俺を見て、薄く笑む。
「こちらの方は才原堂のご主人です。うちは先代の頃からお世話になっているのです」
「いやいや、そんなことは。それより、ええと、石高くんとか言ったか。ちょっとした噂になってるよ」
噂? 俺が?
「榊原のところの雪さんに悪い虫がついたってな」
「……え、ええと」
そういや、見て回っている時に妙な視線を感じていたけど、もしや。
「才原さん、からかうのはやめてくださいな」
「ん? いや、からかっちゃあいないんだが、まあ、いいか。それじゃあ、また。明日は曇るといいですなあ。この陽気は少々堪えますわ」
言って、おっさんはどっかに行ってしまう。残された俺たちは顔を見合わせた。
「どうせなら、夫婦って言っとけばよかったですね」
「大人をからかわないでください」
ユキさんはそっぽを向いてしまう。顔が赤くなっていたのは夏だからか。それとも。
陽が暮れる。烈しい日差しは鳴りを潜め、涼しげな風が吹いた。
「今から片づけかあ。明日も同じことするんですから、置いてったらだめですかね」
「駄目です」
ユキさんはタオルで俺の汗を拭い、小さく笑う。
「石高さん、少し焼けていますね。皮が」
「え、マジっすか。風呂入る時にしみそうだ」
「……皮が」
じっと二の腕あたりを見つめられている。
「こう、私は、ついついかさぶたを剥がしてしまうのです。ねえ、石高さん」
「……駄目ですよ?」
「残念です」
行きと同じように、台車に荷物を載せていく。しばらくすると、瑞沢も軽トラでやってくるそうだ。瑞沢と軽トラ。怖いくらい似合っている。
「俺も免許取ろうかなあ」
「良いお考えだと思いますよ。ないよりは、ある方がよろしいかと」
「そしたら、再来年辺りは瑞沢先生に頼らなくてもいいですから」
「……再来年、ですか」
ユキさんはぼうとした様子で空を見上げた。
「来年も、再来年も。その次の年も。俺はこうやって、ユキさんと一緒にいたいですから」
「嬉しい反面、申し訳ないという気持ちもあります。本当に、私みたいなおばさんでもいいんですか?」
「俺も年を食えばおっさんになります。だいたいですね、ユキさんはおばさんっていうよりもお姉さんにしか見えませんよ。……免許を取って、車を買って。あ、そうだ。ゆくゆくは榊原書店を大きくして、チェーン展開しましょう。フランチャイズでウハウハですよ。左団扇です」
それは素敵な考えですと、ユキさんは口元を緩める。
「ですが、私はあの店だけで充分です。石高さんにとっては狭く、暗く、息苦しく感じられるでしょうが、触れ合うにはちょうどいい空間だと思うのです。あまり広くて、忙しいと、こうして過ごすには難しくなるでしょう」
「ユキさん」
胸がじんわりと温かくなる。俺は思わず、ユキさんの手を取り、彼女の顔を見つめていた。後ろから咳払いが聞こえてくるが無視する。肩を叩かれても無視する。声を掛けられても無視する。
「そこまでだ石高。不純異性交遊は見逃せん」
舌打ちし振り向くと、嫌そうな顔をしている瑞沢と目が合った。お邪魔虫め。
「凜乃、ありがとう。ですが石高さんは不純ではありません」
「……もういい、やめてくれ。姉さんとこいつの話を聞いていると頭が茹ってくる。おかしくなりそうだ」
息を吐くと、瑞沢は公園の向こうを指差した。
「いい場所に停められなかった。少し歩くが、我慢してくれ。ほら石高、ぼんやりするな。テントを畳んだら台車を運べ」
「えーっ、俺、超疲れてるんですけどー?」
「では、もう少し休憩していきましょう。もしくは、凜乃。あなたが全て運んでください」
瑞沢が吼えた。
榊原書店に戻り、片づけを手伝って店を出る。もうくたくただ。汗で気持ち悪い。明日は着替えを持って行こうかな。
チャリンコに跨ると、何故か外で瑞沢が待ち構えていた。
「おつかれーっす。さようならー」
「待て」
ハンドルを握られて、至近距離でガン見される。ユキさんに助けを呼ぼうかと思ったが、そこは何とかして堪えた。
「なんでしょうか……?」
「お前は結局、義兄と同じだ。クズで、どうしようもない」
ほっとけ。頼むから。ユキさんと一緒にいられるんなら、俺は何にだってなるし、何だってやる。
「夏休み前と比べても改善の余地は見られんな。むしろ悪化している。石高、お前、姉さんの甘やかし攻撃に抵抗しなくなっただろう。さっきもナチュラルに膝枕で耳かきをしてもらっていたな」
「ええと、それが何か?」
「もはや自覚もないのか」
何故だか、瑞沢は憂鬱そうだった。彼女は俺から距離を取り、榊原書店の看板を見上げる。
「……だが、姉さんは良く笑うようになった。義兄が逝ってから、久しく見ていなかった表情だ。お前のお陰なんだろうな」
「ね、義姉さん」
「そんな風に呼ばれる筋合いはない。殺すぞ」
担任に殺すぞって言われちゃった。
「でも、いずれはそう呼んでみせますよ。……ってあれ? でも、俺がユキさんと結婚するってことは」
瑞沢ははっとし、心底から嫌そうな顔を浮かべる。俺はげへへと笑った。
「そうか。先生は義姉じゃなく、俺の義妹ってことになるんですかね。はっはっは、安心してください。俺は妹の扱いは上手いですから!」
「私も兄の扱いは上手かった。何度しばき回してやったことか」
「絶対無視します。二世帯住宅なんかごめんです。先生が独り身で可哀そうでも助けてあげませんから」
「お前に心配される謂れはない! 石高、お前こそあんな成績でいい大学に行けると思うなよ。いい学校に入って、いい会社に入って……姉さんとどうのこうのなんて話はそこからだ。馬の骨に姉さんはやれん」
「案外シスコンだったんですね」
「お前と家族になるのなんて嫌なだけだ!」
ふと、視線を感じた。振り向くと、硝子戸が少しだけ開いていることに気づく。
「……ん? 何を笑っているんだ?」
「俺の好きな人は嫉妬深いんですよ、ああ見えて。なので、今日のところはさようなら、先生。今度は夏休み明けに会いましょう。それから、ユキさん、また明日!」
俺はきっと明日も明後日も、一週間後も一か月後も一年後も、ずっと、あの店に行くんだと思う。そうして、ユキさんと一緒にいるんだろう。雨の音を聞きながら一緒に本を読んで……歳の差だったり、障害というか、俺たちを邪魔するものはたくさんあるはずだ。けれど、幸せだから。たとえ世界を敵に回したって、俺はあの人と一緒にい続ける。二人だけの閉じた世界だとしても、生きていける。二人なら乗り越えられると信じている。
もっと上手く出来たらなあって、そう思う時はある。だから、違う俺が見たいという気持ちもあった。俺じゃない俺が、ここではないどこかの世界で、どんな風に過ごすのかを。まるで古い本を開くみたいにして。破れないように、大切にページを繰るんだ。俺じゃない俺はユキさんと出会わないのかもしれない。それでもきっと、今ここにいる俺は、何回人生をやり直したって必ずユキさんと巡り合うんだ。それでいい。結末なんてものはまだ見えない。何も分からないけれど、今の俺は世界で一番幸せなんだ。幸せだって、それだけは分かってる。