トジラレルセカイ(完)
時間がじりじりと過ぎていく。真夏の陽は俺たちの体力やら気力やらを少しずつ削り取っていったが、期末テストが終わった。もう夏休みである。怖いものなど何もない。
「禄助、国語何点だった?」
にやにやとしながら答案用紙を見せびらかしてくる優人。俺は無視して、樋山くんと夏休みの予定について話していた。
「夏コミとか行ってみたいな」
「俺は行くつもりだけど? 今年で二回目なんだ。よかったら一緒に行こうぜ。ノウハウを叩き込んでやるよ。あと、列を一人で並ぶのは苦行に等しいんだ」
「無視すんなよ! テスト見せ合おうぜ!」
黙れがり勉。お前に勝てるやつなんか学年に数人もいないんだぞ。クソが。無駄に頭がいいやつはこれだから困る。
「へー、ふーん。そんな態度取っていいのかね、禄助くん。いい話があるんだぜ? なあ、聞きたいだろ? なあ、頼むって。聞いてくれよー、仲間に入れてくれよー」
「ああああああうるっせえな。なんだよもう、言えよ」
優人はずれていた眼鏡の位置を指で押し上げ、愉しげな表情を浮かべる。
「夏休みったらバイトだろやっぱり。なもんで、いいとこを見つけてきた。友達の紹介なんだけどな、三人分の枠をもらってる」
「チン○スみたいなバイトだったらぶっ飛ばすからな。それかモン○ンのデータ消す」
「大丈夫だって。夏ったらプールだ。プールといえば水着の姉ちゃんだ。……監視員のバイトだ。どうだ?」
俺は立ち上がり、優人に頭を下げた。
「寺嶋さん。俺は今日この時よりあなたのしもべでございます」
「俺が先生と呼ぶのは諸葛孔明とニャンコだけでしたが、あなたのことも先生と呼ばせていただきたいと思います。寺嶋先生!」
樋山くんも俺に倣い、うわべだけの言葉をつらつらと口にする。
「うむ、屑ども苦しゅうない。いいぞープールは。バイトなんだから楽で、プラスアルファの美味しい面がないとな」
その通りだ。夏は暑く、冬は寒い。そんなところは御免こうむる。
帰り道、優人は俺と樋山くんにおだられててご機嫌だった。
「やっぱりさー、ひらがな四文字のアニメはもう古いって感じがするよな?」
「その通りです!」
「おっしゃる通り! さすが、ご慧眼をお持ちで!」
昔はダブルダッチをエロイ言葉だと勘違いしていたどうしようもない優人だが、少なくとも今だけは神に見える。
「……ところで、プールのバイトってのはいつからなんだ?」
「ああ、夏休み始まってすぐって聞いてる。ほら、隣町にウォータースライダーのあるでっけえところがあるじゃん? あそこ。半日で日給もそこそこいい。何より一番いいのは、俺たちみたいな半端なやつらでもモテるってところだ。夏はいい。クキキキ、カカカ。女を開放的にさせる。性的な意味でグランドオープンするわけだ」
マジかよ。イベントに行けば圧倒的な黒率、オタの証であるギンガムチェックを着ているような我々に、遂に彼女が!? やべえ。もしかして:俺の時代が来た?
「でもなー」と、優人は俺をちらちら見始める。んだよボケ殺すぞ。
「禄助はもうバイトしてるもんなー。しかも、あんな美人と一緒の職場だ。今更、別にいいんじゃねえの?」
「そんなことねえって」
実際、榊原書店に顔を出す回数も減っている。テスト前で勉強しなくちゃいけないってのもあったが、あそこに行けば自分のことをクズだと認めているようでどうにもいえない気持ちになるのだ。
「とりあえず、夏休みまでに体を絞らなきゃな。部活辞めてからはだらしなくなる一方だ。特にアレだ。樋山くんなんて白豚と間違われると思うし」
「せめてかわいらしく○ーグリって呼んでくれよ。……よし。走り込むか」
樋山くんが意気込んでいる。バイトする前に膝を壊さなきゃいいんだけどな。
「夢が広がるぜ。バイトで貯めた金を有明で放出しよう!」
「ヒャッホー!」
「イエー! 最高だー!」
俺たちの夢が、すぐそこに広がっている。手を伸ばせば届くんだ。いい加減に始まってくれ!
スキップで帰っていると、優人がずっこけて眼鏡を落とした。巻き込まれた樋山くんは汗をだらだら流しながら転倒し、膝を痛めた。俺は思った。こいつらと一緒にいるとろくなことにならないんじゃないのかって。
変な感じになったので、俺は優人たちと別れ、制服のまま榊原書店に向かっていた。テストが終わったという報告もしたかったし、夏休み中はアルバイトをどうするか決めようとも思ったのである。
「こんちわー、ユキさん、いますよねー」
「ええ、おります。こんにちは、石高さん。試験は上手くいきましたか?」
「追試は免れました。と、思います。通知表が帰って来なきゃ何とも言えないですけど」
ユキさんは微笑む。まるで自分のことみたいに嬉しそうだった。
「もうすぐ夏休みなんですけど、アルバイトはどうしようかと思ってるんです」
「そう、ですね。アルバイトに来てくださったら助かりますが、石高さんがお決めになることですから」
「とりあえず、今日はこのまま働かせてもらうつもりです。夏休みに入ったら、店を開けるところからでもいいですか?」
「開店から、ですか?」
店を開けるのにも準備はあるだろう。時間ならある。ふふふ。ユキさんめ、俺を甘く見たな。そう簡単には甘やかされないぜ。朝から晩まできっちり働く! 俺はクズじゃない! が、俺がクズでアレでなんであれ、彼女が俺に対して(歪んでいたとしても)幾ばくかの好意を持っていてくれているのは確かだ(と、信じたい)。
俺がクズ=ユキさん喜ぶ。距離は近づく。
俺がクズじゃない=ユキさん喜ばない。距離は離れる。
俺だってユキさんのことを憎からず思っている。いや、嘘。好きだ。けど、彼女に好きでいてもらうにはクズというか、甘やかされる必要がある。しかし甘受出来ん。無理な相談だ。剣道なんてやっちゃいないが俺だって男だ。プライドがある! でも、こっちが頑張れば頑張るほど、ユキさんは俺から興味をなくしてしまうのだろう。
望むところだ。
「大変ではないですか?」
「学校へ行くよりかは遅くまで寝ていられますから、平気です」
「無理はなさらないでくださいね」
「はっはっは、余裕ですよ!」
なんたってプライドがかかっている。駄目男を返上するチャンスである。尤も、当のユキさんはそのことを知らないが。
「ああ、では、一つお願いがあるのですが、聞いていただけないでしょうか」
「承りました!」
「ありがとうございます。ですが、安請け合いしては石高さんの男が下がりますよ」
反省。
「実は近々、古本市という催し物が行われるのです。榊原書店も毎年参加させてもらっているのですが、例年よりも準備期間が短くて困っています。少しでも手伝っていただければと思うのですが、構いませんか?」
「もちろんです。けど、古本市ってなんか、難しそうな感じですね」
「堅苦しく聞こえますが、普通のバザーや、フリーマーケットと変わりはありませんよ。本以外にも色々な物が売られています。見て回るのも楽しいと思いますよ」
いいじゃないか、イベント。ギャルゲーだったら間違いなくCG回収出来そう。
「分かりました。俺でよければ、こき使ってやってください」
「ありがとうございます。頼りにさせてもらいますね」
何かいきなり時間が飛んだ気がするが、遂に待ちに待った夏休みが始まった。
「八月、一日?」
「ああ」と、優人は俺の部屋で紙パックの紅茶をストローで啜り始める。
「前から言ってたろ。ほら、友達の紹介でプールのバイトやるって。あれ、日程は決まったから。一日から五日くらいまで。朝から夕方くらいまで。オゲー?」
オッケーじゃない。なんてこったい。
「や、それがさ、ユキさんとこのバイトも同じ日にイベントがあるんだよ。二日間だけどさ、フリマみたいなところに出張で店を出すんだ」
「へえ、そうだったのか。で、その手伝いをするんだな?」
「まあ、そういうことになるな」
「……そりゃあまずいな。プールの方は、一日だけ働けるわけじゃないんだ。ぶっ通しのスケジュールだからさ。どっちかに決めてもらわねえと」
どうしたものかと考えていると、優人は眼鏡の位置を指で押し上げ、頭を掻いた。
「頃合い的にはいいんじゃねえの?」
「何のだよ」
「バイトを辞めるかどうかだよ。だってよ、お前言ってたじゃねえか。女の子と仲良くなりたいっつーか付き合いたいって」
優人はゴロリと横になっていたが、体を起こして胡坐をかく。そうして、俺を睨むようにして見てくる。
「でもさ、あそこでバイトしてたってユキさんと付き合えんのか? あの人、結婚してたんだろ。歳だって離れてるしよう。確かに美人だし、いい人だとは思うぜ。お前が好きになってんのも分かる。でも、無理だって。前にも言ったろ。非攻略対象みたいな人だって」
「別に俺はそういうつもりでやってんじゃねえよ」
「こう言っちゃお前らに悪いけどよ。あの本屋は夏は暑いし冬は寒いだろうな。時給だって取り立てていいってわけじゃない。お前は金と出会いを求めてる。でも、あそこにいても何も得られんぞ。分かってんのか? だから、選べよ。んで、決めるんなら早いとこ決めてくれ。俺も、友達に伝えるまではさ、ギリギリまで待つから」
「……悪いな」
「いいってことよ」
二兎を追う者は一兎をも得ず、か。
ちりん、と、風鈴が鳴った。七月、最後の日であった。
「石高さんは、どうしてうちでアルバイトをしようと思われたのですか」
俺は、古本市に出す本を選び、紐で束ねながら考えた。ユキさんは答えを待たず、話を続ける。
「うちは、御覧の通りの古い建物で、古い人間しか住んでいないのです。気の利いた空調もありませんし、よそ様よりお給金が高いというわけでもないのです。石高さんのような若い方に働いてもらえるような環境ではないと自覚しております」
たぶん、いや、きっとその通りなんだろう。同年代のやつらなら、コンビニだのファミレスだの、そういったところでアルバイトをする。実際、そういうやつのが殆どだ。優人も、樋山くんも、明日の今頃はプールで楽しくやってるんだろう。
「本当のことを言えば、別にここじゃなくてもよかったんです。ただ、たまたまここを見つけて、楽そうだなって。たとえば榊原書店って名前じゃなくて、ユキさんがいなくたって、アルバイトの面接をお願いしてたんだと思います。……古い本が特別好きってわけでもないです。理由なんか特になかった」
「偶然で、ここにいらしたのですね」
そうですと答える。ユキさんは、よかったと呟いた。
「石高さんがこの店を見つけてくださって、よかったと思います」
でも、今は違う。俺ははっきりと認めていた。榊原書店でよかった。ユキさんがいてくれてよかったって。
結局、俺はプールのアルバイトを選ばなかった。いや、ユキさんを選んだんだ。……尤も、彼女が俺を選んでくれるということではないのだが。
「今日も暑いですね」
「ええ。お昼は素麺でも茹でましょうか」
「いいですね、夏っぽくて」
夏休みといえば、昼飯には素麺か焼き飯の二択である。
「ああ、すみません。お箸が見当たらなくて」
「はあ」
何故かユキさんが俺の横に座っていた。めんつゆの入った器も一つしかない。なんだろう。お前に食わせる麺はないってやつなのかな。俺、知らない間に調子乗り過ぎてユキさんを怒らせていたのだろうか。
「ですから、食べさせてあげます。石高さんは、私があーんと言ったら口を開けてくださいね」
「え、いや、な、なんでそうなるんですか?」
使い捨ての箸くらいあるんじゃないか? そもそも食べさせてもらう必要はない。昼飯くらい買いに行けばいいんだ。
「あのですねユキさん。色々と言いたいことはありますが、俺はもう幼稚園児や小学生のような子供ではないんです」
「薬味はどのくらいお入れしましょうか」
「あ、じゃあ、葱を少しだけ……って! 違います!」
ユキさんは小首を傾げる。彼女は箸で麺を掴むと、つゆに浸し、俺の方にそれを近づけてきた。よ、よせっ。やめろォ! 俺は甘やかされる為にここへ来たんじゃない! でも空腹には逆らえない! あと、ユキさんの目には抗えない! というか抵抗なんか無意味だし、無理に拒否っても仕方なくね?
「いただきます」
「ええ、どうぞ」
あんぐりと口を開ける。……うん、いいつゆだ。俺んちで使ってるような市販品とは違うような気がする。もしゃもしゃ咀嚼していると、ユキさんは満足そうに笑んだ。そうしてから、彼女も素麺を食べようとする。思わず、止めそうになった。
「どうされました?」
「いや、美味しいですって言おうとしたんです。気にしないでください」
たかが。そう。たかが、なのだ。間接キスくらいで動揺してたらカッケー男になれねえぜ。
「伸びない内に食べ切ってしまいましょう」
口の中のものを全部飲み込んだのを見計らっていたのか、ユキさんは次の麺を俺の口に運んでくる。やばい。なんかどきどきしてきた。味が分からん。つーかユキさん近くね? 絶対近いって。
「姉さん、明日のことだけれど」
「あ」
店に入ってきたのは瑞沢だった。彼女は、あーんしてもらっている俺と目が合うと、ふっと溜め息を吐く。
「悪化しているじゃないか!」
「な、何のことですか?」
瑞沢はずかずかと歩き、靴を脱いで畳に上がるなり俺の襟首を掴んだ。
「しらばっくれるな。石高、お前はこういうことをされるのが嫌で、こんなことを受け入れるような男になるのが嫌だと言っていただろう」
「…………だ、だってオラは人間だから」
「姉さんも姉さんだ」
睨まれているというのに、ユキさんは一切の動揺を見せず、素麺を飲み込んだ。
「何故、石高を甘やかす。こいつはアルバイトだろう。雇ったのは姉さんだ。働かせろ」
「石高さんはよく働いてくださっています。甘やかしているつもりはありません」
「自覚がないのが余計に性質が悪い」
「それよりも凜乃。石高さんから手を放しなさい」
舌打ちし、瑞沢は俺から離れる。ああ、怖かった。ユキさんのお陰で助かったぜ。
「やはりお前はクズだ」
「面目ない。素麺だけに」
「反省しているのか!?」
「やめなさい。人に向かってクズとはなんですか。あなたは気性が荒過ぎます。仮にも教職に就く者の言動ではありません。教育委員会に言いつけますよ」
ユキさんが俺に対して、自分の背中をちょいちょいと指差した。俺はそそくさと彼女の背後に回った。
「石高ァ!」
「ごめんなさい!」
「謝る必要はありませんよ、石高さん」
確かに俺にも非があるが、かと言ってユキさんに抗えるやつがいるのかどうかと聞かれれば答えるのは難しい。男子高校生の日常にはないシチュエーションなんだ。経験値が不足している俺では無理だ。
「……もういい。それよりも、軽トラを知り合いから借りられることになったから、積んでいくものは決めておいてくれ。明日の朝、商店街近くの駐車場に停めておくからな」
「分かりました。ありがとう、凜乃。助かります」
瑞沢は最後にもう一度俺をねめつけてから、諦めたように目を瞑る。
「義兄さんを思い出すよ。全く」
褒め言葉ではないんだろうな、やっぱり。
瑞沢が帰った後、昼食を終えて再び店へ。アルバイトの再開である。明日は古本市だから、出品する本を選ぶだけだったが。
「石高さんは普段、どのような本をお読みになるのですか」
「漫画か、ライトノベルくらいですね」
「ライト……うちには置いていない種類の本です」
ユキさんは興味が湧いたのか、ラノベがどんなものなのか尋ねてきた。どうしたものか。アレって、定義が難しいんだよな。
「ええと、とにかく表紙に可愛い女の子が載ってたらラノベっぽいですね。あと、挿絵もついてます」
「絵、ですか」
「俺みたいな中高生が読むようなもんで、ストーリーなんかもいろいろありますね。魔法使ったり、剣を振って冒険したり、可愛い女の子といちゃいちゃしたり」
棚から適当な本を抜き出すと、ユキさんはぱらぱらとページをめくり始める。
「今も昔も、あまり話に違いはありませんね」
「主役級のキャラクターを女の子にすり替えると、あっという間にラノベっぽくなりますよ」
「三国志あたりだと、凄まじいことになりそうですね」
「それはもうあります」
英雄だって女体化されるような時代なんだし。どっかの偉い人から訴えられたりしないんだろうか?
「少し、面白そうですね」
「あ、よかったら今度持ってきましょうか」
「よろしいのですか」
勿論と言いかけた瞬間、俺の脳味噌がフル回転し始めた。脳内司書の(口癖は『はわわ』)眼鏡をかけた女の子が、俺の所持するラノベをリストアップしていく。そこから挿絵が際どいものを除外。無駄なお色気描写があるものを除外。削除。削除。削除削除削除削除削除削除削除……。
「勿論です!」
片手で数えられる程度しか残らなかった。どうしたラノベ業界。いや、どうかしてるのは俺の嗜好か。
「無難な学園ものをお貸ししますね」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね。ところで、石高さんはどのような学校生活を送っているのか、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。ただ、お話するようなことは大してありませんよ」
「些細なことで構わないのです。高校生の時分、私は女子校に通っておりました。共学の学校というものが気になるのです」
ああ、なるほど。しかし、ユキさんが女子高生、か。アレかな。やっぱり曲がったタイを直したり、ストロベリーなパニックに巻き込まれたり、乙女がお姉様に恋したりしてたんだろうか。夢が膨らむぜ。めぐには、出来れば女子校にいってもらって、身内枠として学園祭にお呼ばれされたい。
「俺の友達に樋山くんっていうのがいるんですけど、前にきた太っちょの彼です。あいつが……」
困った時には樋山くんエピソードに限る。気をつけなければ、コクがあり過ぎて胸焼けするのが難点だが。
うつらうつらとしてきた。外は暑いが、店の中は風通しがいいのか、思っていたよりも涼しい。むしろ、ちょうどいいくらいである。
俺はカウンターにぐでんとして頭を預けた。ふと、そよそよとした風を感じた。顔を上げると、ユキさんが団扇で扇いでくれている。雇用主にそんなことをさせられない。
「大丈夫です。すみません、少しだけダレちゃいました」
「お気になさらず。私が好きでやっているだけですから」
えっ、俺のことが好きで?
「こう暑いと、氷菓が食べたくなりますね」
「ああ、いいっすね。かき氷とか」
「……少々お待ちいただけますか」
言うと、ユキさんは奥に引っ込んでいく。どうしたんだろう? ……ふと、嫌な予感がした。いや、実際にはいい予感なんだけど。
「あのう、ユキさん?」
台所の方に顔を出すと、ユキさんが戸棚を開けて何かを探していた。
「かき氷機を探しているのですが、見当たりません」
「急にどうしたんですか」
「石高さんが食べたいと仰ったので」
まずい。一分ごとにタブーが増えていく魂を賭けるゲームみたいに迂闊なことが言えなくなってくるぞ。この調子だと終いには船盛とか出てきそう。
「そんな、一々俺に世話を焼く必要なんかないんですよ?」
「……しかし、これしか知らないものですから」
ユキさんは開け放たれた戸棚で顔を隠していた。だから、俺は彼女の表情を見られない。
「人様を繋ぎ止めておけるような術を、私は他に知らないのです」
「術、って」
「常から、私はそういう風に生きてきました。この間から、石高さんと凜乃が楽しそうに話しているのを見ると、不安になるのです。浅ましいと、どうかお笑いください。私は実の妹に嫉妬しておりました。あなたを、盗られてしまうのではないのか、と。……石高さんは、誰のものでもないのに」
その時、俺はやっと気づいた。ユキさんは優しいわけじゃあない。臆病なんだ。だから、彼女は時間をかけて言葉を紡ぐ。頭の中でぐるぐると色々なことを考えて、人に嫌われないようにしている。ただ、そのう。なんか、途轍もないことを言ってらっしゃるな、この人は。
「ユキさん。あなたは一つ勘違いしています」
はいと、ユキさんは儚げな声で答えた。
「俺は、瑞沢先生と楽しそうに話した覚えはありません」
「はい?」
「そんで、ユキさんのものになったつもりもありません」
ユキさんは戸を閉め、幽鬼のように、ゆっくりと立ち上がる。
「ごめんなさいね、石高さん。私みたいなおばさんが、あなたみたいに若い人を……きっと、暑さのせいで頭が茹ってしまったのです。先の言葉はお忘れください」
そういうわけにはいかなかった。忘れることなんか出来やしない。口を開きかけたが、喉がからからに乾いているのに気付いて唾を飲み込む。俺はユキさんの顔をじっと見つめて、覚悟を決めた。
「好きです。俺は、ユキさんのことが好きです」
「……冗談はよしてください。慰めなら」
なんかもう、駄目だった。口が勝手に動いてる。
「歳の差とか、結婚してたとか、そんなの関係ありません。俺はユキさんが好きなんだ」
「どうして、そのようなことを仰るのですか」
ユキさんはぼうっとしてて、アホほど世話焼きで、でも、そんな彼女のことをいつしか、俺は好きになっていた。
「ユキさん。あなたは気づいていないのかもしれません」
目の前の女性は小首を傾げる。
「あなたは、趣味が悪いんですよ」
蝉の声がうるさくなったような気がして、俺は顔をしかめた。