トジラレルセカイ(わたつみに溶ける)
火曜日。昨夜はギャルゲーをせず、ユキさんから借りた本を読み切った。可愛い女の子も、サービスシーンの挿絵もなかったけど、案外普通に読めた。古典ってのはやはり素晴らしいのかもしれない。
「おはよう、めぐぅ」
「おはよう、お兄ちゃん。今日は牛乳があるけど、飲む?」
「ああ、もらうよ。……お、悪いねえお姉さん。それじゃあいただきます」
グラスに注がれた牛乳を飲み干すと、めぐがおかわりを注いでくれた。
「今日はお弁当もあるわよ。よかったら持って行ってちょうだい」
有り難い。これで昼飯代が浮くぜ、ゲハハ。なんて言ったら怒られるから素直にご厚意を受け取っておこう。ただ、アレだな。いつまでもめぐの世話になるのも兄としては問題だし、懐の事情は芳しくない。もっとバイトをするべきだろうか。……しかし、暇なんだよなあ。ユキさんと二人きりって言うのは悪くない。むしろいい。けれど客が来ないからどうしていいか分からない。むしろ客が来たらどうしていいか分からない。レジの使い方は最初にちょろっと習っただけだ。
「なあ、めぐ。暇で暇で仕方がない時って、どうやって時間潰す?」
「友達と遊ぶわ」
「それ以外で」
流石に、バイト中に正面切って遊ぶのはやめておこう。
「どうしようもない時は諦めてゆっくりとするのも手よ。そうね、音楽でも聞きながら本を読めばいいんじゃないかしら」
ああ、音楽か。なるほど。そうだな。店に何か、曲を掛ければいいのか。気が紛れそうである。よし、ユキさんに相談してみよう。
坂道を上っていると、優人と遭遇した。軽く手を上げると、やつは難しい顔をして低い声を出した。
「最近、五分くらいのアニメって流行ってるのか? 昨日、たまたま夜中に見たんだけどさ、あっという間に終わって何が起こったのか全く分からなかった。出てくるキャラは大概早口だし」
「……ああ、よく見るよな。俺も見てるぞ。まあ、動画サイトで視聴出来るやつはさ、本編より宣伝の方が長い時もあるけどな」
そして、その宣伝を楽しみにしているという輩がこの世にはいるらしい。どんだけ訓練されてんだ。
「ネタが尽きてきたんだろ。4コマが原作のやつとか、めっさ多いじゃん。短い方がダレなくていいんじゃねえの? あと、低コストっぽいし」
「でも食い足りない感じがすんだよな」
「じゃあブルーレイ買えよ。安いし。そんですげえぜ。一枚に全話収録だ。しかも一周するのに三十分くらいしかかからねえ!」
「マジかよ! じゃあ買おう! そんでお前んちで耐久マラソンだ!」
がははと盛り上がっていると、クラスメートの女子にすごい目で見られてしまった。恥ずかしい。
授業中、俺は榊原書店でどんな曲を流すのか考えていた。とはいえ、俺が持っているCDは大抵アニソンである。想像してみたが、キンキン声のアニメ声が流れるような店ではない。そういや、ユキさんはどんな音楽が好きなんだろう。やっぱりクラシックかな(とりあえずクラシックと言っとけという風潮)。
「禄助、今日は俺も弁当なんだよ。一緒に食おうぜ」
「おうよ。樋山くーん」
俺は樋山くんも呼んで、三人でそこらへんの机をくっつけて弁当箱を開けた。すると、後ろにいた女子が悲鳴を上げた。うるせえな。
「やばっ、石高の弁当、何それ?」
「弁当だよ。どう見たって弁当じゃねえか」
「どれどれ」と、優人と樋山くんも覗き込んできた。
カチューシャをつけてデコを出した女子が、恐る恐ると言った風に指を差す。
「……手、めっちゃ込んでない?」
改めて弁当を見遣る。一段目は色とりどりのおかずが、二段目には米が。海苔や桜でんぶを駆使して、白米の上にめぐの好きなキャラクターが描かれている。いつも、だいたいこんな感じなんだけど。
「もしかして石高が自分で作ってんの?」
「そんなわけねえだろ。妹が作ってくれてんだよ」
「うわ、最低」
「なんでだよ!?」
女子はけらけらと笑ってどこかへ行ってしまった。
「何が最低なんだよ。なあ?」
「まあ、何も知らん奴からしたら、お前が妹を奴隷のように扱って弁当を作らせているという風にしか考えられんわな」
俺はどんな風に思われてるんだ。
「なあ石高、それって、何のキャラなんだ? あんまり見たことないけど」
樋山くんは焼きそばパンにがっつきながら、俺の弁当をガン見している。
「これはな、空からニシンを降らせるステキグラサンなんだ」
「お前の妹ってなんなんだ? すげえな」
放課後、俺は優人と樋山くんにオタショップへ行こうと誘われたが、金がないので断った。正直にバイト先へ行くといえば、今度は樋山くんまでついてくるだろうと簡単に予想出来たからだ。
一人きり、チャリンコをゆっくり漕ぎながら商店街を進む。いつ来ても、いつ見ても寂れてやがる。俺もここらへんのおもちゃ屋に通っていた時分があったが、いつの間にか店のラインナップに興味をなくしてしまい、いつの間にか店は潰れてしまっていた。
ちょっとノスタルジーな気分に浸りながら、榊原書店の前に自転車を停める。
「こんにちはー、ユキさん、いますか?」
「……ああ、こんにちは石高さん。今日はおひとりなんですね」
「アルバイトに来ました。大丈夫ですか?」
ユキさんはカウンター奥の椅子から立ち上がり、そこを俺に譲った。
「ええ、もちろんです。すみません、助かります」
「それじゃあ、今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
俺は椅子に座り、鞄を下ろす。早速だが、朝から考えていたことをユキさんに話してみた。彼女は表情を変えず、口元だけを緩める。
「音楽ですか。いいかもしれませんね。でも、どんな曲を流せばよろしいのでしょうか。若い子の好きそうなものには疎くて」
「ユキさんはどんなのが好きなんですか?」
すると、ユキさんは時計を見つめ始めた。ぼうっとした表情で、たっぷり一分間の間を取った後、ぽつりと告げる。
「あまり、音楽は聞かないことを思い出しました。ただ、雨の音は好きですね」
「雨、ですか」
正直、あまりいいイメージはない。俺は雨が降ってると、じめじめしていて、いらいらとする。
「篠突くような雨は苦手ですが、ぽつぽつぽつって、同じリズムで、扉をノックしているような雨は好きです。落ち着きませんか?」
「うーん。俺は風流じゃないのでよく分かりませんが、ユキさんにはよく似合っているというか……なんというか」
ユキさんは何も言わず、静かに微笑んだ。彼女は適当なところにある本を手に取り、表紙をじっと見つめてからページを開く。時計の針がかちかちと動き、ユキさんがページを繰る音が掠れて聞こえる。なんだ。BGMなんてこの店には必要なかったのか。
「やっぱり、音楽を流すのはやめておきましょうか」
「そうですか? なんだか、気を遣わせてしまったようで……」
「そんなことはないですよ。あ、それから」
リュックサックをごそごそと探り、借りていた本を取り出してカウンターの上に置く。
「面白かったです。って、小学生みたいな感想ですけど」
「楽しんでいただけたのなら、それが一番です。難しいことを言うのは、難しそうな顔をした方にお任せすればいいんですよ」
「なるほど。あの、続きを借りてもいいですか?」
「もちろんです」
ユキさんは頷き、カウンターの上の本を両手で抱きしめる。そうしてから、小さく首を傾げた。
「ああ、申し訳ないです。時系列で言えば、これが最終巻にあたるのでした」
「別の本でお願いします」
許可をもらったので、俺は店の売り物の本の中から読めそうなものを探した。トム・ソーヤーの冒険を見つけたので、読ませてもらうことにした。
「バイト中なのに、いいんでしょうか」と尋ねると、ユキさんは構いませんよと言ってくれた。お言葉に甘えよう。
……懐かしいな。もっと小さい時に読んだ覚えはあるんだけど、今になって改めて読み進めると、中身はあんまり覚えていなかった。ユキさんが前に言っていたことを思い出す。色を変える、か。優人や樋山くんたちと二次元ドリー○ノベルでテンションを上げていたのが馬鹿みたいに思えてくる。
かち、かち、かち。
ぺら、ぺら、ぺら。
時間を忘れて物語に没頭していた。客観的に、離れたところで見ているんじゃない。まるで登場人物の一員として話の中にいるかのような感覚だった。こんなに集中出来たのは、AVのモザイクを透視してやろうと意気込んでいた時以来ではないだろうか。
「石高さん」
俺は本から顔を上げる。ユキさんが本を閉じ、何故だか、嬉しそうな顔をしていた。
「そろそろ、お店を閉めようと思います。よろしければ、手伝ってはもらえないでしょうか」
「え……って、もう八時回ってるんですね。あの、先に家に連絡してもいいですか?」
「もちろんです。妹さんが寂しがっているのではないでしょうか。石高さんの声を聞かせて、安心させてあげてくださいね」
頷き、ケータイを確認する。やはり、めぐから連絡が入っていた。
俺は店の外に出て電話を掛ける。外はもう暗くなっていた。全く気付かなかったな。かれこれ、三時間以上はここにいたのか。
「あ、もしもし、めぐー?」
『お兄ちゃんのバーカ! ……本当に馬鹿なんだから。頭の中に何がつまっているのかしらね。遅くなるんだったら連絡を入れてちょうだいってあれほど言ったのに』
めぐ氏、ご立腹である。
「あー、ごめん。気づいたらこんな時間だったんだよ。父さんと母さんは?」
『もうとっくに帰ってきてるわ。それで、約束を簡単に破ってしまうお兄ちゃんは何をしていたの?』
「バイト。今、店の外から電話かけてる。片付けの手伝いするからさ、それが終わったら帰るよ」
『あら、そうだったの。怒鳴ってごめんなさい。てっきり、優人くんたちと遊びまわっていたのかと思ってたわ』
「ふふん、俺を侮るなよ。いつまでも遊び呆けてはいないんだよなあ、これが」
『帰ってきても遊んであげないから』
「わーーーーっ、ちょっと待って、折角キャラ対考えたんだから!」
電話を切り、俺は店の中に戻る。ユキさんはレジのお金を確認しているようだ。というか、お客さんは来ていたんだろうか。
「そういえば、俺が来る前にお客さんは来ましたか」
「ええ。四人、お客様がいらっしゃいました。絵本や、地図が売れましたよ」
へえ、こう言っては失礼なんだろうけど、意外だ。あ、そういや、常連の人がいるとかなんとかって言ってたっけ。
「心配せずとも、お給料はお支払いしますよ?」
「あ、そういう意味で言ったんじゃあないんです。けど、今日も座っているだけだったなあって。なんか、その、あんまし働いたぜって感じがしなくて。給料泥棒って感じです」
「……いいんですよ。石高さんを採用させていただいたのは、お話していて、楽しかったからなのです」
へ?
「そういや、面接とか言ってましたけど、ただ、雑談していただけのような……」
本は読むのかー、とか、学校はどんな感じなのかー、みたいな。
「こういう商売ですから。アルバイトの方も、何人も雇っても仕方ありません。石高さんは二人きりでいても穏やかな気持ちでいられるような、そんな人でしたから」
「そ、そう、でしたか」
「こう見えて、私は人を見る目があるんですよ? ああ、なんて言ったら、少し偉そうですね。ごめんなさい、気を悪くしないでくださいね」
とんでもない。でも、ちょっと残念だな。つまるところ、男として見られていないってことなんだろうから。……ま、ユキさんからしたら、俺みたいなのは鼻を垂らしてその辺走り回ってるガキと同じだろう。
「じゃあ、片づけますか」
なんとなく照れくさくて、俺は話題を変えた。
「そうですね。では、お店の外に出してある立て看板を、中に入れてもらえますか?」
「お安いご用です」
今日もらった封筒は、いつもよりも重たく感じられた。気のせいだろうか。大して働いてもいないくせにな、俺。
家に帰ったらめぐに罵られた。悔しかったので髪の毛をくしゃくしゃにしてやった。
「もう、ご飯、温め直してよね。冷めちゃってるから。それから、お父さんとお母さんにもお兄ちゃんはアルバイトだったって伝えてあるから」
「……なんだかんだで世話焼きだよな」
「お兄ちゃんがだらしないからよ。それで、アルバイトはどうだったの?」
「うーん。ずっと本読んでたかな」
めぐはジト目を向けてくる。
「どんなアルバイトなの、それ。誰にだって出来そうじゃない」
確かにそうだが、ユキさんから言わせれば誰にでもというわけではないのだろう。俺はある意味選ばれし存在なのだ。すなわち神である。
「めぐはなー、まだ子供だから分からないんだよなー」
「……そうやって馬鹿にして。もういいもん。明日はお弁当作ってあげないから」
「怒るなよ、機嫌直せって。ほら、プリン買ってきたぞー」
めぐは俺が提げているビニール袋を認め、目を輝かせた。
「ふわふわのやつだぞー。上に生クリーム乗ってるやつ」
「やたーっ、お兄ちゃん、大好き!」
チョロいぜ。甘いぜ。
飯を食って風呂を済ませた後、俺は優人と格ゲーの熱帯をやっていた。バンパイア……的なやつである。やたらゲームスピードが早く、出てくる奴らはモノノケがほとんどっていうエキサイティングなタイトルだ。
「ちっ、あの野郎、久しぶりだから自信がないとか言ってたのに、こっそり練習してやがったな」
優人の使ってるのは赤ずきんちゃんみたいな野太い声を放つ女の子だ。ダッシュキャンセルを使って地上でひたすら固めてきやがる。
「お兄ちゃん、とりあえず無敵技で割り込めば?」
「いや、俺のキョンシーちゃんにそんなものはない」
俺の持ちキャラは判定がでかく切り返し能力に恵まれていない。一度攻め立てられれば立て直すのは難しい。しかし相手は優人だ。頑張れば相手ミスるから、なんとかなる。
「負けず嫌いのくせに、どうしていつもマゾっぽいキャラを使うのかしら」
「めぐ。男にはな、夢がある。ロマンがあるんですよ。弱いキャラで勝つ。困難な状況を覆す。格ゲーの醍醐味だね。あと、このキャラ死んでるけどおっぱいがでかいんだ。そこがいい」
そうこう言ってる間に嬲り殺された。
「まあ、次があるから問題ね……くそが! メッセで煽ってきやがった!」
「一瞬であったまってどうするのよ。どいて。お兄ちゃんの仇をとってあげる」
俺からコントローラを受け取ると、めぐはお手軽強キャラを選び、優人をボコボコにしていた。容赦ねえ。
「優人くんもお兄ちゃんも対空が甘いのよね」
精進します。
その後、俺は精進しながらだらだらと日々を過ごした。バイトは週に四回は入れていた。お金に困ることはあんまりなかった。一学期の中間テストが終わり、俺たちの住んでいるところも梅雨に入った。
小雨の中、俺は学校から一旦家に戻り、傘を差して榊原書店に向かっていた(以前、傘を差しながらチャリに乗ってったらユキさんに叱られた)。ただでさえ人通りの少ない商店街だが、今日は更に人気がない。
「早く止まねえかなあ」
店の前に着き、傘立てにビニール傘を入れて、扉を開く。こんにちはと声を掛けると、本を読んでいたであろうユキさんが顔を上げ、薄く微笑んでくれた。彼女は無表情に見えるが、最近になって、微妙な感情の変化というか、そういうものに気が付くようになった。
「こんにちは、石高さん。濡れませんでしたか?」
「小降りですから大丈夫でした。お客さんは来ましたか?」
「いいえ、この雨ですから」
快晴であろうと、榊原書店を訪れる人は少ない。俺がバイトを始めてから三か月が経とうとしていた。その間、接客もなんとか出来るようになったが、お客さん自体は相変わらず少なかった。
土日以外は、この店で過ごすことが多くなっていた。優人や樋山くんが冷やかしがてら遊びに来てくれる時もあるが、やつらの狙いはユキさんである。見え見え過ぎてなんだかなあ、という感じだ。
俺は定位置であるカウンター奥の椅子に座り、読みかけだった本のページを開く。今は、釣った魚を食われちまった漁師がどうのこうのって海洋小説を読んでいる。これの次はユキさんから勧められた宝島やネモ船長のアレに手を出そうかと考えている。時間がいくらあっても足りないような気がして、字を追うスピードが速くなっていく。
「石高さん」
だが、そういう時に限って、というか、ユキさんが俺の焦りを見越すのだ。
「本は逃げませんよ」と。
「……一日が六十時間くらいあればいいんですけどね」
「そうなったら、人は本を読まなくなるかもしれませんね。時間があるから、まだいいやって後回しをしてしまうかも。そうして、本がうずたかく積まれていくんです。一日が二十四時間だからこそ、人は本を読んだり、音楽を聴いたりするのかもしれない。私はそう思います」
俺はゆっくりと息を吸い、吐き出した。雨が屋根を叩く音が、心臓の鼓動と同じ風に聞こえてくる。本の中の海が、現実世界の雨と一緒くたに混ざって溶ける。いつの間にか、ここでこうして座っていることが当たり前になっている。
「それでも俺は、一日が二十四時間なんて少な過ぎると思います」
ユキさんは何も言わなかった。
来る日も来る日も雨が降る。そうでなくても雲がある。はっきりとした太陽の姿は、ここ数日の間は見ていない。しかもどうやら、台風が近づいてきているらしい。
俺はベッドの上で転がりながら、途中まで読んでいたライトノベルを枕元に置いた。しおりを挟んでいなかったが、大して気にはならなかった。
「暇だ」
時間はある。金もそこそこある。ただ、これといって欲しいものがなかった。何も手がつかなくて、ぼけっとしたままだ。天井を眺めて、息を吐く。
「お兄ちゃん? 起きてる?」
「……起きてるよー」
めぐがドアを開け、寝ころぶ俺を見て眉根を寄せた。子供はもっとかわいらしい顔をしてなさい。
「最近、お休みの日はずっと寝ているじゃない。机に向かうか、優人くんたちと遊べばいいのに」
「遊んでるよ」
主に樋山くんで。彼の語録は日に日に増えていく。ここ最近のヒットツイートは『読み合いがしたいんならじゃんけんでもやるか? ん?』 だ。ちなみに、この名言は樋山くんが俺と優人にぶっぱなし昇竜をすべて防がれた後で言ったものである。かっこよすぎる。そして樋山くんbotをフォローしている人間は少しずつ増えつつあった。世の中何が受けるか分からないな。
「アルバイトにでも行ったら?」
「なんだよ。どっか行って欲しいのか? 大丈夫だって。もう、めぐの友達が来てる時に押しかけたりしないから」
この間、リビングでめぐたち女子小学生が楽しそうに懐かしいアニメを鑑賞していたので、お菓子とジュースを差し入れするついでに『その子は七番目の魔女見習いにはならないよ』と告げたところ、空気が凍り付いてめぐに半日ほど口を利いてもらえなかった、ということがあった。
「ちょっと、やめて。本当によしてよ。あの時は、もう二度とうちには友達を呼びたくないって思ったのよ」
「分かってるって」
めぐのご機嫌パラメータがガンガン下がっていく。このままいくと俺の妹の顔がマーダーフェイスになってしまう。プリンを与えなければならないが、あまり遅い時間、特に夜中の12時過ぎに与えると『太っちゃうじゃない馬鹿』と文句を言われてしまう。ここは兄の威厳を見せびらかしてやるとしよう。
「じゃあ、バイトにでも行こうかな。俺は小学生と違って自分の力で金を稼げるというところを見せてやる」
「お兄ちゃん一人じゃ洗濯も掃除も出来ないじゃない。ご飯は美味しく作れるけど」
「ありがとう。なんか褒められてる……褒められてるんだよな?」
頷き、めぐは窓の外を指差した。
「でも、大丈夫? 夜から、雨が強くなるって言ってたわ」
「そんな遠いところに行くわけじゃなし。平気だよ」
思い立ったが吉日即実行だ。榊原書店は朝九時過ぎから夜八時くらいまで営業で、年中無休である。
まだ小雨だ。雨脚が強くなるのは夜からだと言っていたし、夕方くらいに戻ればいいだろう。
「こんにちはー」
がらりと戸を開けると、ユキさんが驚いたような顔でこっちを見てきた。
「……石高さん、もしかして、アルバイトに来てくださったんですか?」
「はい。そのつもりですけど、もしかして都合が悪かったですか」
「いいえ、そのようなことは。でも、今日は台風が来るという話ですし、それに、石高さんは学校がお休みの日にこちらへいらしたことが今までになかったので、驚きました」
そういえばそうだったっけ。
「天気が酷くなる前に帰ろうかなあって、それまで、いいですか?」
「もちろんです。少しだけ待っていてくださいませんか。今、タオルをお持ちしますね」
「や、そんな。ええと、お気遣いなく……?」
ユキさんは首を振り、突っ掛けを脱いで奥に向かった。
「風邪を引いてしまいますから」
俺はその場に立ち尽くし、濡れた服を見遣る。頭に手を遣ると、髪の毛が湿っているのが分かった。
「お待たせしました」と、ユキさんが淡い、青色のタオルを持って近づいてくる。俺はそれを受け取ろうとして……腕が空振りした。
「ちょ、何してんですか」
「髪の毛を拭こうと思ったのですが」
「自分で出来ますって。子供じゃないんですから」
そうですかと、ユキさんは引き下がってくれた。子供じゃないと言ったが、やっぱり彼女からすれば、俺なんかガキに見えるんだろうな。
「洗ったばかりですので、汚れてはいないと思います」
「……そうですか。ありがとうございます」
俺はタオルで自分の顔を隠す。たぶん、素直にお礼を言っているような表情には見えなかっただろうから。
髪の毛を拭いている内、風の音がごうごうと大きくなってきた。木造の建物が少しだけ震えている。大丈夫かな、ここ。屋根がぶっ飛んだりしないだろうか。
「案外丈夫ですから、心配なさらないでください。去年、一昨年も台風は来ましたが、無事でしたので」
「は、はあ。そういや、ここって何年くらい前からやってるんですか? ……あ、タオルお返しします」
建物の古さからすれば、俺が生まれるより前からやってんのは確かだろうけど。
ユキさんは俺から受け取ったタオルを抱えたまま床を見つめる。
「……ここは、元の主が亡くなってしまったので、正確には分かりませんが、半世紀前からなのは確かだと思います。その後、私が受け継がせていただいたのです」
「老舗ですね(言ってみたかっただけだった)。ところで、受け継いだって、その、どなたから、でしょうか」
聞いていいのかどうか少しだけ悩んだが、俺の馬鹿な口は勝手に開いていた。ユキさんはぶしつけな質問だっただろうけど、躊躇った様子も見せず、答えてくれた。
「母です。彼女が亡くなった後、本来なら、ここの土地は売りに出されるはずだったらしいのですが、何分、場所が場所で。……二束三文でしたので、私が買い取る形で店を引き継がせてもらったのです」
ふと、斜めになって、字が掠れたこの店の看板を思い浮かべた。風雨の勢いは更に増し、ぎしぎしと建物が揺れる。いやが上にも、心の中身がざわざわと波立った。