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トジラレルセカイ(水をめくる)



 月曜日。

 俺は制服に着替えてリビングに降りる。めぐがブラックコーヒーに砂糖とミルクを大量に入れたものを飲んでいた。彼女は俺に気が付くと、微笑を浮かべる。もっと子供っぽく笑いなさい。

「おはよう、お兄ちゃん。ふふ、休まなくてもいいの?」

「『おい』って呼ばれるのはまだ早過ぎる」

 冷蔵庫を開けると、消費期限の切れた牛乳しか残っていなかった。どうしよう。朝はパンと決めている。パンに麦茶は合わないぞ。背に腹は代えられぬとは言うが、俺は今背中を痛めてしまっている。腹まで痛めたらもうどうしようもないので諦めた。

「コンビニでなんか買っていこうかな」

「ごめんなさい。牛乳を使い切っちゃったのよね。私、買いに行ってくるわ」

「いいよ、いいよ。今日はコンビニに行きたい気分だったんだ。めぐ、戸締りは忘れるなよ。あと、知らない人に声を掛けられたら防犯ブザー鳴らすんだぞ。それから、今日は帰ったらリベンジするから忘れるなよ」

「はいはい。それじゃあ、気をつけていってらっしゃい」

 めぐに見送られて、俺は家を出た。



 学校へ行く途中、コンビニに寄って朝飯を買う。先生に見つかったらうるさく言われるが、腹が減ってはなんとやら。坂道を上りながら食べるとしよう。

 俺は駐輪場に自転車を停めて、坂道を見上げた。どうして学校ってのは山の上に建てちまうかな。平たいところに創れよ。

「おーす、石高! なあなあ、昨日の『はたらかないお兄さま』見たか? いやー、やっぱり毎週思うんだけどあの主人公ってただのニートだよな!」

 なんか、気持ち悪いやつが話しかけてきた。俺は無視して小倉サンドを食べる。

「ちょっ、いきなり無視っすか! 石高くーん、朝からシカトっすかー!」

「……話しかけんなよな。お前と友達だと思われたら学校生活の終わりだ」

「辛辣過ぎワロタ、冗談きついぜ。って、おい、歩くの早いって置いてかないで!」

 俺の後ろを歩いているのはキモオタの樋山くんだ。一応友達だ。だけど彼は周りの目を気にしないでオタ話を始めるので、時折十連コンボを決めてやりたいという衝動に駆られる。

「ん、あれ、朝飯、今食ってんの?」

「うん。そんな気分だったんだ。いいよな、こういうのも。山の空気を感じながらの朝食。実に爽やかだ」

「あ、そこ犬のウンコあるぞ。蠅がたかってる」

 俺は口の中に含んでいたペットボトルのカフェオレを噴き出した。

「そんなもん見せんなよ!」

「すまん。事務所の指示だ。それよりさ、早く俺のツイッターフォローしてくれよ。垢取ったんじゃないの?」

 アカウントを取ったはいいが、樋山くんのくだらない呟きをフォローするつもりはない。

「優人はフォローしただろ。俺は勘弁してくれ」

「なに、その押しつけ合い……?」



 部活の勧誘を華麗に躱しながら教室に着くと、優人がにやにやしながらケータイを弄っていた。

「モーニン、エロ眼鏡。朝から声優のアイコラでも見てんのか?」

 優人は顔を上げて、だるそうに手を上げる。

「ちーす。いや、樋山くんのツイート読んでた」

「おお、サンキュー寺嶋。石高はさ、俺をフォローしないとか抜かすんだ。もうこいつからお願いしてきてもブロックしまくってやる」

「いやー、面白いよな。というわけでbotを作ってみた。樋山くん語録だ。ちゃんとリプライにも反応するようにしたんだ。苦労したぜ」

 樋山くんの顔色がサッと蒼褪めた。

「……え、ちょ、何勝手なことしてんの?」

「ちなみに、記念すべき第一回目のツイートは『格ゲーは2Dより3Dのがいい。パンツがリアルだから。温かみを感じる』だ」

「うわっ、気持ち悪い! こないだ樋山くんが本当に言ってたやつだ! ちょっとケータイ見せてみろよ。……うわあ字面だとさらにきつい。たまげたなあ。あ、そうだ。『双子キャラは見分けがつくようになったらオワコン』ってのも追加しといて。アレも中々キショかったから」

「お前らいい加減にしろよ! もう二度とメガミマガ○ン貸してやんないからな!」

「優人、今のも追加しといて」

 樋山くんは豚のような悲鳴を上げた。



 担任の瑞沢がやってきてHRが始まる。この時間中、無駄口を叩いたり、視線を上げる者はほとんどいない。何故なら皆、瑞沢という教師を恐れているからだ。単純に顔が怖い。いかついのだ。

「最初に、部活動に属する者に指導が入ることを伝える」

 何もしていないし怒られるはずもないんだが、全員が顔を伏せている。俺は何気なく担任の顔を見てしまった。相変わらずすごい迫力である。まるで軍人だ。といってもパンツじゃなくてズボンを穿いているような感じではない。ロシアンマフィアの頭目って感じだ。ぎらりと光る両目には凶暴な何かが宿っているようにも見える。

「次に、アルバイトについてだ」

 アルバイト。その言葉に俺は反応した。この学校では無許可でのアルバイトを禁止している。必ず、学校側に届け出を提出する必要があった。それも、確実に認めてもらえるとは限らない。大半の生徒はチクられたり不意のエンカウントに怯えながら勤労活動にいそしんでいる。

「再三の警告にも従わず、先週で八名の違反者が出た。許可を取っていない者は今のうちに名乗り出ろ。少しは罰も軽くなる。反省文、謹慎、停学、アルバイトの職種によっては退学だ。どれでも好きなものを選べ。ただし必ずどれかを選べ。ルールを守れん者には相応の……」

 まずい。でも、今更『はーい僕(許可)童貞でしたー』って名乗り出たところでペナルティ確実なんだろ。言うわけねえじゃん。それに、俺のバイト先がバレるはずがない。商店街のあんな寂れた本屋に誰が行くってんだ(ユキさんごめんなさい)。



 昼休み。俺と優人は食堂で昼飯を食っていた。

「禄助、お前、金持ってたっけ?」

「あ?」

 俺は自分の頼んだもの、カツ丼を見遣る。そうしてから、優人に横合いからかすめ取られないように卵でとじられたカツを頬張った。

「……バイトだよ、バイト。うちんとこ、日払いなんだ」

「ああ、日曜日に行ってきたのか。俺もバイト探そっかな。なあ、お前んとこ紹介してくれよ」

「いや、もう募集かかってない。人手なんかいらんつーか、そもそもアルバイトが本当に必要なのか分からんようなところだぞ」

 優人はたくわんをボリボリと齧る。こいつはこの前の休みに漫画を大人買いしたせいで金欠らしかった。

「かーっ、楽なところねえかなあ。コンビニの夜勤とかどうだろ」

「無理だろ18じゃないんだし、高校生だしな。雇ってもらえねえよ。まあ、でも、ここらは田舎だから楽なんじゃねえの? 居酒屋は無理だけど、飲食はどうだ?」

「やだよ。忙しそうだし。どうせなら女の子がいっぱいいるところがいいな」

 舐めてやがんな、こいつ。アルバイトってのは大変なんだぞ。背中痛めたりすんだぞ。

「かーっ、歯医者になりてえなー、歯科助手の子は全部俺の好みで決めるんだ。かーっ」

「工事現場でも行っとけよ」

「そっからどうやってセックスすんだよ」

「工事現場に行く→セックス」

「なるほどな」



 五限が終わり、俺たち三人は帰って遊ぶ為に昇降口へ向かった。

「石高、部活はいいの?」

「は? 部活? 何が?」

「いや、なんでもない」

 樋山くんは時々意味の分からないことを言うな。俺が部活動をする、だって? ははは、忘れてた。けど、忘れてたってことはどうでもいいってことだ。俺の生霊がしっかり頑張ってくれていることを願っておこう。

「今日はどうする? ブコフで立ち読みでもすっか?」

 嫌だ。俺は本はゆっくり読みたい。立ち読みとか馬鹿げてる。中古屋で何時間も居座るようなやつらは頭のネジがぶっ飛んでるに決まってる。

「じゃあ立ち読みはやめて、ちょっとエッチな漫画読んでる小学生を囲んで泣かそうぜ」

「そうするか」異議なしだ。俺たちは地域の治安を守る防衛隊である。ひひひ。

「ぶほっ」

 靴を履き替えた時、樋山くんがいつものように気持ち悪い声を放った。

「どうしたオーク樋山」

「誰が亜人だよ! そうじゃなくて、ほら、校門のところに原先輩が立ってる」

「え? 原先輩の肛門がなんだって?」

「耳鼻科通い詰めろ」

 吐き捨てるように言うと、オークは部活の勧誘を監視する我が校の生徒会長こと原先輩を指差した。……いや、いつ見ても素敵だ。美人だ。真っ白い肌に、背中を流れる艶やかな髪。一見すれば冷え冷えとした美貌で他者を寄せつけないようにも映るが、原先輩は穏やかな心の持ち主に違いない。

 優人は恍惚とした表情を浮かべた。

「俺、あんな人に雇って欲しいなあ。何でも出来そうだぜ」

「例えば?」

「手を使わずに眼鏡を外す芸を御覧に入れる。こんな風にな! よっ、く、とおおおお」

 なんちゃって眼鏡くんは口や頬をもじゃもじゃと動かして、眼鏡と格闘している。髪型で誤魔化していたイケメン(www)面がボロボロと崩れていた。お前はそこで乾いていればいい。こんな芸を見せた方が金を払うべきだ。

「行こう、樋山くん。あいつはもう人でも獣でもない。この三人で人間でいられたのは俺だけだ」

「えっ、まだオーク設定引きずってんの?」

「ほらっ、眼鏡取れたぞ! って、お前らちゃんと見とけよな!」

 俺は校門を通り抜ける際、穴が空くほど原先輩を見つめた。彼女は淡い笑みを浮かべて、誰かに向けて手を振っている。ああ、いいなあ。羨ましい。俺も原先輩に手を振ってもらいたい。『ろっくん』って呼んでもらっていちゃいちゃしたい。



 榊原書店とは違い、チェーン展開されている古本屋に行くと、おるわおるわ。うじゃうじゃと暇を持て余したカスどもが。

「こいつら皆、見ず知らずのやつの手垢のついた本を読んでるんだよな。垢舐めって妖怪を思い出すぜ」

「うるせえな禄助。お前だって中古のゲームとか買ったりすんだろ」

「本は新品派なんだ。女と本は新品に限る」

「出たよクズ発言。石高禄助語録も作ってやろうか」

 望むところだ。俺は自分の発言を後悔した覚えがない。

「処女厨はほっとこう。それより、青年誌コーナーにいる小学生に圧をかけてやろうぜ。そんでもって後姿をじろじろと見送ってやろうぜ」

「おう、そうしよう!」

 俺たちは意気揚々と青年誌コーナーに向かった。そこには棚を背もたれ代わりにしてR15指定くらいの漫画を読んでる小学生がいたが、女の子だった。世も末である。

「……えー、引くわ」

「やっぱすげえな最近のガキって」

「俺なんか小学生ん時は廃品回収に出されてたスポーツ新聞のエロ紙面で興奮してたってのに」あ、今の樋山くんの発言は絶対使われる。優人が何食わぬ顔でケータイを弄り出したぞ。

 あと、俺たちも普通に注意されてエロコーナーから追い出された。



 仕方ないので、適当な漫画を買っていつものファミレスに行く。店にとってはこの時間帯、俺たちのようにドリンクバーでクソほど粘る嫌な客しか来ない。店内の半分以上は制服の学生で占められている。

「なんで女子プロレス団体を経営するだけのゲームにプレミアついてんだろうな。面白いのか? アレって」

「オンリーワンなやつはなんだかんだで強いんじゃねえの。あれ、声優豪華だし」

「女子プロレスと言えばさ、樋山くんはアルバイトしてんの?」

 樋山くんは変なミックスジュースを飲み干してから俺を睨んだ。

「俺と、女子プロの、せ、っ、て、ん! どうやったら繋がるんだよ」

「声が甲高いってところかな」

「……ああ、なんか納得した」それはよかった。

 空になったグラスをもてあそぶと、樋山くんは声を潜めた。

「バイトはしてるよ。グッズとか欲しいしな」

「へえ。どこの屠殺場でしばかれてんの? 時給いくら?」

「親戚の手伝いで引っ越しのバイトをたまにやってるんだよ。マジで石高、お前バイトやってんのチクるからな」

「バイト? 何のこと? それより樋山くん、バイトやってるんだ。えらいねええええええええ」

 よせ、よせ、と、優人が俺たちの間に割って入る。

「しかし、短期のバイトか。そういうのもありだな。後腐れなさそうだし」

「ああ、寺嶋も石高も、よかったら今度紹介してやろうか」

「マジか? いいの?」

「引っ越し業界って言うの? つーかどこもそうだと思うけど、人手不足なんだよ。若いやつのが使えるし、みたいなことを親戚の兄ちゃんが言ってた」

 俺は無言で、樋山くんの空になったグラスを掴んだ。

「ボス、何がいいですか?」

「変わり身はえーなコイツ。じゃあ、ジンジャーエール」

 優人と樋山くんの会話を聞きながら、俺はドリンクバーに向かった。

「でもさ、樋山くんいじめられそうな体型してるけど大丈夫なのか?」

「今みたいな発言をされると、寺嶋ってさ、やっぱり石高の幼馴染なんだなって感じがするよ。まあ、俺の親戚は偉い人らしくてさ、俺とも仲がいいんだよ。ゲームの貸し借りとかするし。なもんで、俺をいじめたらクビが飛ぶ」

「やっぱりコネって最強だな」

 よくよく考えりゃ、バイトなんて星の数ほどあるんだよな。これから先、暑くなるし寒くもなる。そうなったら、空調がしっかりしてるところの方がいいし、時給だって高い方がいい。友達と一緒ならもっと気楽にやれそうだ。



 六時を回ったところで、樋山くんが帰ってアニメを見たいと言い出した。なんでも、今日は録画するのを忘れていたらしい。彼は自転車に跨るや否やダンシングで帰っていった。

「ああいう時は俊敏な動きを見せるんだな。で、優人。どうするよ?」

「うーん。俺も帰ろっかな。それか、お前んちで……いや、待てよ」

「待つよ。何?」

 優人はいやらしい笑みを浮かべて、俺の肩をぽんと叩いた。

「お前のバイト先、見てみたいなー」何っ。

「禄助ちゃんったら、バイトのお話を全然してくれないでちゅからねえ。一回どんな感じなんか見てみたい」

「やめとけって。何にもねえし、何も起こらねえぞ。マジで」

「どうでもいいよ。暇なんだ。さ、行けよ」

 ハリーハリーと優人が煽ってくる。まずい、こうなった時のあいつは引き下がらないぞ。他人が困っている様をどうしても見たいというゲスな理由で、寺嶋優人は大関もびっくりの粘り腰を見せるのだった。経験上、ここで撒いたとしても、次の日からより一層面倒くさい感じで絡んでくるに違いない。

「……分かったよ。ただし、変なことすんなよ。俺はともかく、店の人に迷惑かけるのは勘弁してくれ」

「おお、分かった。流石にそこまではしねえよ」

 仮に何かあったとしても、辞めちまえばいい。もう二度とあの店に近づかなければ済むだけの話だ。



 榊原書店の前に着くと、優人は露骨に顔をしかめた。

「こんなとこ、この商店街にあったんだなあ」

「オンボロだけどな。ああ、チャリは横の方に停めておいてくれ」

 もしかしたら。万が一。億が一。……那由他に一くらいの確率で客が来るかもしれんからな。

「そんじゃ、邪魔するとすっか。お、開かないんだけど?」

「コツがあるんだ。ちょっと斜めに押してやれば……」

 硝子戸の立てつけは相変わらず悪かった。

「ほらな。開いた。……こんにちはー」

「うわー、埃くせえなあ」お前頼むから黙っといて。

 薄暗い店内のカウンターに、生きているのか死んでいるのか分からない感じのユキさんがいた。彼女は昨日とあまり変わらない格好で本を読んでいる。俺たちの来訪に気が付くと、薄く微笑んだ。

「こんにちは。今日はどうされたのですか、石高さん」

 そういや、別にバイトしに来たってわけじゃないんだよな。ま、正直に言おう。

「俺の友達が、アルバイトしている店を見てみたいってしつこいもんで。ちょっと、顔を出させてもらいました」

「ああ、そうでしたか。どうも初めまして、榊原雪と申します」

「……すげえ美人じゃねえか」

 優人は制服のネクタイを締め直し、髪の毛を撫でつけながら胸を張って返事をした。

「ご丁寧に、ありがとうございます。私は寺嶋優人。石高くんとは昔からの付き合いです。いやあ、しかし、石高くんも素晴らしい職場で働いているようだ。安心しましたよ。ははは」

 しかも声まで変わっていた。

「やめとけよ優人。どうせボロが出るんだから」

「そうかな?」

 ユキさんは困ったように笑い、本をゆっくりと閉じた。彼女は大儀そうに立ち上がり、その辺に置いてあった丸椅子を二つ引きずって、俺たちに勧めてくれる。

「ありがとうございます、寺嶋さん。でも、うちはただの古本屋ですよ。それに、石高さんはもう来てくれないのかと思っていました」

 へ?

「ああ。禄助がいらないことをしたんでしょう」と、優人が鞄を下ろしながら言う。んで俺を指差した。

「こいつは根っからのクズですからね。たぶん、レジの金も抜かれています」

「やめろバカ!」

「お二人とも、仲がよろしいんですね。でも、大丈夫ですよ。石高さんはそんなことをしないと信じています」

 小さな舌打ちが聞こえてくる。優人め。俺を引きずり降ろしてここでバイトしようって魂胆だな。やっぱり連れてくるんじゃなかったぜ。

「石高さん、背中はもう平気ですか?」

 俺は昨日やらかしたことを思い出して、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。

「だ、大丈夫ですよ。もう全然へっちゃらです」

「あれ? お前バイト中に怪我したん? さっきもイテーイテーって言ってたじゃねえかよ。なあ」

 背中を思い切り平手打ちされて、俺は情けない声で呻いた。

「……やはり、まだ痛むのですね。少し待っていてください」

 止める暇もなく、ユキさんは突っ掛けを脱いで奥へと行ってしまう。優人は気まずそうな顔になっていた。

「いらんことしちゃった?」

 何とも言えん。俺は息を吐き出した。



 戻ってきたユキさんは湿布を手にしていた。しようがない。これをもらったら、今日のところはお暇しよう。

「ありがとうございます。それじゃあ、俺たちは」

「脱いでいただけますか?」

 ユキさんはあまり表情を変えない。崩さない。きっと、大真面目に言っているのだろう。だけど、しん、と、室内に沈黙が降りた。優人は何故か眼鏡を拭き直し、ブレザーを丸椅子の上に置いた。お前じゃねえよ。

「な、なんでですか……?」

「ああ、それは、湿布というものは服の上から貼っても効果がないからです」

 ユキさんは何でもない顔で俺の脇に手を入れて立たせる。どこか慣れた手つきで制服の上着を脱がせて、断りを入れてからカウンターの上に置いた。

「シャツはめくれそうですね」

 背後に回られる。優人は俺の正面に立ち、ベガ立ちしていた。

「少し、冷たいかもしれません。我慢してくださいね」

「あ、あの、一人で貼れますよ?」

「せめてもの罪滅ぼしです。石高さん、私を許してくださいますか?」

 ぞっとした。たぶん、全身に鳥肌が立っているだろう。ユキさんの声には、同年代の女子にはない色気というか艶めかしさがあった。

「許すも何も、俺の方こそ、本を駄目にしちゃって……」

「お気になさらず。貼りますね」

 シャツが少しずつめくられていく。ユキさんの手指が素肌に触れて、声が出そうになった。湿布ではなく、冷たいのは彼女の手の方だ。ふと、俺は顔を上げる。優人が悔しそうに歯を食い縛っていた。どんな羞恥プレイだ。

「う」

「いきますよ?」

 ぴたりと、僅かに熱を持っていた箇所にぬめるような感触が貼りついた。ユキさんは剥がれないように湿布を撫でて馴染ませると、小さく息を吐き出す。彼女はシャツを戻し、服の上から湿布を摩った。

「見たところ、ただの打ち身のようですね。少しだけ腫れていましたが、すぐに引くと思います」

「そ、そうですか。あの、お手数をおかけして……」

「いいえ、いいんです。ああ、それから」

 まだ何かあるのか……? 次はどこを脱がされるんだ。

「お貸しした本はどうでしたか」

 俺は気が抜けて、ただただ苦笑いを浮かべるしか出来なかった。



 そのあと、少しばかり雑談していたが、めぐからの連絡が入り、俺と優人は榊原書店を後にした。

「……いいな。いいなあ、ユキさん。俺もここでバイトしたい。毎日のようにここに来たい」

 優人は自転車をこぎながら、夢見心地のアホみたいな面を浮かべる。

 誰もいない商店街をゆっくりと並走しつつ、俺は背中に貼られた湿布を感じた。

「実にいい。なんつーの? ギャルゲーのさ、非攻略対象な感じするよな。エロゲーだったら間違いなくヒロインだけど」

「何でもかんでもゲームに例えるなよ」

「ほら、ヒロインの母親って感じ。大概、見た目が若いんだよな。……ユキさんって結婚とかしてんの? なんかさあ、こういういい方はアレだけど、未亡人って感じがしたな」

 人妻。母親。……未亡人、か。確かに、それが一番しっくりくる。

「そうじゃなかったら、いや、何にしても失礼だろうがよ」

「あー、悪い悪い。興奮しちまった。直接的な意味で。だってさ、俺らの周りにゃいないタイプの人だろ」

「まあな。けど、あんましそういうことは聞けねえよ。俺らみたいなガキがずかずかと来るのは誰だって嫌がるぜ」

「いつもの禄助とは思えん発言だな。まるで聖者だ」

 普段の俺はどんだけカスだと言うんだ。



「遅いわ」

 と、玄関開けたら二秒でめぐに怒られた。

「もう七時を回っているじゃない。お兄ちゃん、連絡しても中々出ないし」

「ごめんごめん。バイト先に行ってたんだよ」

「私、一人だけで寂しかったのに。いいご身分ね。また、優人くんと遊んでいたんでしょう?」

「バイト先に行ったんだってば」

「優人くんと二人で押しかけたに決まっているわ。全く。……お帰りなさい」

 ただいまと、めぐの頭を撫でてやる。彼女は俺の手をぱしんと叩いた。

「傷つくなあ」

「お腹が空いたわ。簡単なもので構わないから、お願いね」

「はいはい」

 寂しがらせてしまったか。じゃあ、今度は早めにうちに帰って時間のかかる料理でも作ろうか。

「お兄ちゃん、お風呂も一緒だからね。頭、ちゃんと綺麗にしてよね」

「ははーっ、仰せのままに」

 生意気な口を利くこともあるが、めぐは小学生だ。うちは両親の帰りが遅いし、平日は一人きりにさせちまうからな。もっと構ってやろう。

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