06,においたつ肌
電車で2時間、自宅「リオパレス12」308号室に帰ったカノンは嬉々としてバッグから白金家自家製サプリのケースを取り出した。ふたがないのであっちのマンションのホールで常に持ち歩いている黒いビニール袋に入れてしっかり口を結んできた。今やゴミ捨ても有料の専用ゴミ袋が常識のご時世、真っ黒なビニール袋など一般家庭には必要ないだろうがモデルのような職業にはいろいろ見られてはいけない不要物が出ることが間々あるのだ。
なんて大量の白い粉……。
500グラムは優にあるでしょうね。末端価格でいくらになるかしら?
危ない想像をしながら笑みが止まらない。
2ヶ月は十分保つでしょうね。この2ヶ月はわたしの天下だわ!
自分の部屋に帰ってきてみると、ケースから立ち上る青っぽい生臭さが鼻を突いた。
確かにちょっときついわね。ユイの言うとおり家でアバウトな作り方をしてるんでしょうからきちんと精製されていないのね。でもそのユイが毎日使っていてあの肌なんだから、効き目は絶対のはずよ!
カノンはお風呂に入るのも我慢できずさっそく少し手の甲に取って、水道の蛇口からほんの一滴指先に水を付けて、手の甲で溶いた。
さあっと冷たくなって、その後ジンジンと火照ってきた。
あまりの強烈さにちょっと不安になってしまうが、火照りが納まった後の肌はツルツルのピカピカで、白く透明に輝いていた。
これよ! この輝きよ!
カノンは手と足をバタバタさせて、
「やったあーーっ!!!」
と喜びを爆発させた。
「タリラリラ〜〜ン」
掲げた手を中心にくるくるバレエを踊ってしまう。
手の甲で溶いたのではそのまま肌に染み込んでしまうのでお皿に作り直し、顔にピタピタ叩いていった。
スーッと熱を奪われて、カアッと燃え上がる。心臓をドキドキさせて鏡の中の自分の顔を確認すると、その輝く白に喜びがわき上がった。
これを毎日使い続けていたら、アイリどころか、ユイにだって勝てそうじゃない!?
これだけ即効性のある美容液などこの世に他にあるだろうか?
これは世の女性にとってダイヤモンドを溶かし込んだほど価値のある魔法の水だわ!
恐るべし株式会社真珠輝。いいえ、白金家。いったいその家にはどんな美の秘密が隠されているのかしら?
顔に塗ってしまったのでお風呂に入るのはもったいなく、食事の準備をすることにした。
食べてもいいのよね? もらった分は少なくてもったいなくて食べる分に回せなかったけれど。こんなに効き目のある物を一編に採り過ぎかしら?
『100パーセント天然素材!
だから安心して使えるのおー』
で、
100パーセント天然の自然製品ですから食べすぎ、使いすぎによる
副作用は一切ありません。
と言うことだから、大丈夫でしょう。
モデルなんてチャラチャラした印象を持たれるだろうが、プロのモデルは健康管理体調管理は基本中の基本だから料理は得意なのだ。
カノンは料理にも1さじ、粉末を混ぜてみた。
お風呂に入りながらこのお湯がコラーゲン美容液だったらどんなにすごいかしらと想像した。生きている真珠に変身しちゃうわよお!と、お湯をサラサラ腕にかけながら想像する。わたしは生きた宝石、生きた美術品、至高の芸術品よ!
お風呂から上がると、
「フンッ」
と鼻を鳴らして、頭にしわを寄せた。
なあにこの臭い? 物凄く生臭くて、気持ち悪い……
カノンはその臭いが火照った自分の体から立ち上った物だと気づいてギョッとした。
フンッ、フンッ、と鼻を鳴らして、その払いようもない臭いを追いやろうと手でバタバタ顔や胸を扇いだ。
臭い…………
女の子が自分の体臭を臭いと思うほどショックなことはない。
そういえばユイの部屋はなんだか変わったアロマの匂いがしていた。あっちの方特有のハーブでも使った物かと思っていたが、あれは、もしかして、この特有の体臭を消すための特別のアロマだったのでは?
そういえば、ユイもいつもちょっと変わった香水を付けていた。松の葉のような青々した匂いに、甘い練乳がけの苺のような匂いが混じっている。変わった組み合わせだと思っていたが、あれもやっぱりユイ自身の体の臭いが混じった物じゃなかったのか?
カノンは美の代償にゾッとした。
あの肌を手に入れるためには、あの独特の青臭く甘ったるい臭いと付き合わなければならない。
思わぬ副作用にカノンは指を噛んだ。
どうしよう? 究極の選択だわ。わたしだっていずれはイケメンの彼氏が欲しいわ。どんなに綺麗でも生臭い女なんて嫌よね?やっぱり。
「ハアーー…………」
カノンは深いため息をついた。
諦めようか。
生臭い、と思ったらユイのあの白い肌もなんだかイカ刺しみたいに思えてきた。蠅にたかられるのも、カグヤみたいな人造人間になるのもごめんだ。そうそう、やり過ぎちゃってる人って自分のことが客観的に見えていないものなのよ。ああわたしは早く正気に戻ってよかったわ。
カノンは密閉容器に移した粉末を眺めてまだ未練がましくため息をついた。
どうしようかしら、これ?
考えていたらいいことを思いついて笑ってしまった。
そうだ、これ、仲直りの印にアイリさんにあげちゃおう。
そうよね、やっぱりアイリさんと喧嘩状態って色々マイナスが多いわよね。そうそう、アイリさんにこれをあげて仲直りして……、アイリさんに生臭女になってもらおう。うふふふふふふ、あの負けず嫌いのアイリさんが、ユイの真っ白な肌を見ていて悔しがっていないはずないものね、あの肌と同じになれるとなれば生臭い体臭になるくらいあの人はなんとも思わないはずよ。そういえば以前焦点された「竜巻」の三本桜君との熱愛はその後どうなったのかしら? いいなあ、三本桜君、わたしも熱愛したいなあ……ポッ。もらっちゃおうかしら? だって、生臭女は嫌よね?三本桜君も。決ーめた。今度アプローチしてみようっと。
心を決めたカノンはもうルンルン気分で生臭美白への未練をすっかり捨て去った。
明日にでもさっそくアイリさんに詫びを入れてサプリを供物に差し出そう。うふふ。
「リンゴーン」
呼び鈴が鳴った。廊下に出てみると、インターホンのライトがついていた。下のエントランスからの呼び出しだ。誰かしら? カノンは反射的に壁の時計を見た。8時40分。宅配便だったりしたら管理人室で受け取ってもらおう。宅配便の配送員はストーカーが一番変装しやすいんだから。
モニターを見ると、ユイだった。
カノンは、げっ、と思った。まさかあれを取り戻すために自宅まで押し掛けてくると思わなかった。人のことは言えないけれど。
さてどうしようかと思った。そのまま返してしまえば丸く収まるんでしょうけれど、それじゃあ苦労がまったく水の泡だ。とりあえず居留守を使おう。
マイクで向こうの音が聞こえる。
『困ったなあ。カノンさん、もうあれ使っちゃったのかなあ……』
心配そうに独り言を言っている。意を決したようにもう一度部屋番号を押す。
「リンゴーン」
居留守を決め込んでいるカノンは無視して答えなかった。諦めてさっさと行っちゃえと陰険な目で眺めながら、ふと、妙に思った。ユイにはここの住所を教えていない。どうやって知ったのだろう?
「ちぇっ、チクリやがったわねえ?」
きっとマネージャーの葵にでも訴えたのだろう。それで住所を聞き出して……でもそれなら先に葵から電話でお説教があってもよさそうなものだ。じゃあいったい…………
「あの人か……」
ユイが泣きついてここの住所を聞き出せそうな相手がもう一人。アイリだ。アイリならここの住所を知っている。「遊びに来てください!」とカノン自身が教えたのだから。一度も遊びに来てやがらないが。
「ちっくしょー…、先を越されたか…、この子もなかなか侮れないわね……」
自分のプレゼント作戦がアイリへのチクリで潰されたかと思うと腹が立つ。
それにしてもユイも陰湿ね、わざわざ訪ねてくる前に電話すりゃあいいじゃない? ま、着信拒否するけどさ。
画面のユイはため息をついて途方に暮れている。帰れ帰れ。
ブツッ、と画面が消えた。1分間なんらのアクションもないと自動的に切れるのだ。
はいはい、帰った帰った。お休みなさい。また今度ね。今度会ったときに謝ってあげるから許してね?
すっかり帰ったものと決めつけて、カノンはそろそろ歯磨きでもしようかしらと思った。その後ゆっくりストレッチして、寝よ。健康第一のモデルの生活は、実はけっこうつまんないのだ。
またふと思いついた。ユイも自分と同じ「リオパレス12」に住んでいる。同じタイプの建物だから部屋のある場所が分かるんじゃないかしら? そうそうあの子、最上階に住んでいて、行ってみて驚いたわよ、ここより2倍くらい広いじゃない? 最上階だけ部屋数が少ないのは知っていたけれど、あんなにグレードが違うとはショックだったわよ。
そう、ユイの住んでいるのは構造の違うハイソな特別室だから下の階の部屋の配置なんて知らないわよね?
そう思いながらもやっぱり気になった。まさか……と思いながら、念のため部屋の灯りを消して、カーテンをそっとめくって下の道路を見た。
居た。
街路灯の灯りの端に、白いボレロを羽織って、こんなに暗いのにくっきりと、白い顔をしたユイが、幽霊みたいに恨めしそうにじっとこっち、いや、はっきりここを、見上げている。
うっぎゃあ〜〜!、と思ってカノンは引っ込んだ。
「キッモ〜〜。どこまで嫌みったらしくしつっこいのよ?」
寒気がしてブルッと腕を抱いた。
やっぱり、返しちゃった方がいいかなあ…………
「リンゴーン」
「きゃあっ!」
カノンは悲鳴を上げ、ハッと、インターホンに駆けよりモニターを見た。
ひいいいーー…………
ユイだ。カメラを見る目が、はっきりこっちが見ていることを分かっている。
カノンはげっそりする思いで、「負けたわ」と思った。
マイクのスイッチを押して話す。
「ユイちゃん」
『カノンさん、もう飲んじゃいましたね?』
カノンはゾッとしながら言った。
「まだ使ってないわよ」
あんなにたくさんあるんだから分かるわけないじゃないと高をくくって嘘をついたが、ユイはニタッと不気味な微笑みを浮かべると、操作パネルの上部に付いているカメラに向かってぬーっと顔を近づけてきて、鼻をほとんどくっつけるようにして、
『フフンンン、フフンンン』
とマイクに近づきすぎて割れた音をさせた。モニターにはユイの鼻の穴が陰になりながら大写しになっている。女の子が鼻の穴なんてまともに見せるものではないが、ユイの鼻の穴はヨーロッパ人みたいなピーナッツ型をしていて、鼻の穴まで美人だった。しかしカノンはユイの異常な行動に顔をしかめて思いっきり退いてしまっている。
次にユイはカメラに口を映すと、舌を出し、
べろべろべろべろ、
と、素早く上下に動かした。
うっわあ〜、何、この子〜?、と、カノンは気持ち悪くて仕方なかった。
ユイの息でカメラが白く曇った。曇りの向こうにようやくユイは普通の距離に戻り、胸から上を映した。
『カノンさん、飲んだよね? あれ』
「の、飲んでないってば」
『うふふふふふふふふ。嘘をついても駄目。分かるのよ』
カノンの心は気持ち悪いから怖いに変わっている。
『あれね、ホルモンがたっぷり入っているの』
「ホルモン?……」
訊ねるカノンの声は震えている。
『そうよ。ホルモンって言っても大阪名物臓物肉焼きのことじゃないわよ? エストロゲンの分泌液よ? あれにはちょっと普通の人間にはない特殊な動物のホルモンがたあーっぷり、入っているの』
「特殊な、動物の?……」
『そうよ。それはね、特に、目と、鼻と、舌に効くの。仲間を嗅ぎ分ける嗅覚に特に特化するのよ。ほら、普段と違う臭いが、あなたの体からもしているでしょう?』
カノンはゾクッと背筋が震え、思わず腕を上げてクンクンと体の臭いを嗅いでしまった。なんとも青臭く甘ったるく生臭い臭いがはっきり嗅げた。カノンは泣きたい気分になった。
「ごめんなさい。飲んじゃいました。ね、お願い、なんとかして?」
ユイは声を出さずに笑った。
『今、行ってあげる。ドアを開けて?』
「うん」
カノンは「OPEN」のスイッチを押した。
ユイの姿がモニターから消え、じきにカメラが切れた。
ユイの到着を待ちながらカノンはだんだん不安が募っていった。
あの子はいったいなんなんだろう?
仲間を嗅ぎ分けるって、じゃああの子もわたしを仲間として嗅ぎ分けているってこと?
特殊な動物のホルモンって、いったい何よ?
そんな物を飲まされてしまって、どうにも胸がむず痒く気持ち悪くて仕方なかった。
あんな得体の知れない子を部屋に入れちゃって大丈夫かしら?
ユイをまるでホラー映画のモンスターのように思って、まさかね、と打ち消したが、ねっとりまとわりつく不安と疑惑が拭われることはなかった。
「リンゴーン」
コツコツ、とドアがノックされた。
「ユイです。開けて?」