最後のメール
『来週提出の課題終わった?』――「あ、まだ」
『今日の映画、面白かったね!』――「そうだね」
『待ち合わせ時間、何時にする?』――「9時くらいでいいと思う」
淡い青色の空に、綿飴のような雲が浮かんでいる。冷たい空気が頬に触れていった。身を縮こまらせながら横に並んで歩いているのは、いわゆる『彼女』。
恋人の琴美と付き合い始めたのは、中学3年生の体育大会のときから。同じ高校に進み、メールもするし、帰宅時間が重なれば一緒に帰る。そんなありふれた、どこにでもいるような恋人同士。
単なる『仲のいいクラスメート』だった関係が、『恋人』という関係に変わったきっかけは、琴美からのメールだった。実際それから、琴美は俺のことを心から好いてくれていたし、俺も琴美が大切だった。
そんな彼女は、今日の昼休みの友だちとの会話を俺に話している。それも、いつも通りの幸せそうな満面の笑みで。
どうしてそんなに楽しいのか。聞いたのは昔のことで、彼女曰く「横に、君がいるから」だ、そうだ。
「あ。ねぇ、たい焼き買って行かない?」
「たい焼き?」
「うん。寒くない?」
「寒い」
まぁ、冬なのだから当たり前だが。隣で、白いマフラーで鼻まで覆っている様子は、見ようによっては不審者に見えなくもない。
「――買ってやろうか」
「え! え、いいの?」
「驚きすぎだろ」
そんなにケチに見えるか?
そう言ってから財布をポケットから取り出して、店主に声をかける。熱いくらいのたい焼きを琴美に手渡すと、本当に嬉しそうな顔を見せた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
と、礼儀正しく(?)挨拶を交わしてから、早速たい焼きをぱくつく。寒空の下では、ただ温かいというだけでありがたい。甘党の琴美に感化されたのか、いつの間にやら俺も甘党になっていた。……いつからだ、本当に。
――幸せ。とは、このことを言うんじゃなかろうか。
少し抜けてる琴美が側にいるだけで、たまらなく嬉しくなる。バカップルだと罵られようとも、事実だから仕方がない。
だから、俺がこのとき琴美の心境を理解できなくても、仕方がなかった――とは、思う。「……ねぇ」
「ん?」
「今日の夜、メールしてもいいかな?」
珍しい、と思った。琴美からメールが来るのは、毎晩のことだったし、それはお互いの暗黙の了解のつもりだった。今まで見たことがないくらいの深刻な表情に、俺はわざと笑って返した。「いいけど? なんでわざわざ――」
「大事な話があるの」
たい焼きを持っていた笑顔から一変して。琴美の表情が、泣きそうな悲しそうな、それでいて真面目な――俺の苦手な顔に変わる。
冷たい風が、琴美のセミロングの髪を揺らしていった。
『別れよう』
その、たった4文字のメールを受信したのは、風呂上がり後。俺が部屋に帰って、そろそろ寝ようかとベッドにぼんやり寝転がっていたときだった。
しばらく、何を言っているのかがわからなかった。節電のためにディスプレイが暗くなってから、やっと我に返る始末だ。事情を聞くために、白いディスプレイの端に書かれてる『返信』を選択する。
――あまりのことに、俺の思考回路は完全にショートしてしまったようだ。何を聞いたらいいのかすらもわからない。
文字の入力を促すカーソルが、せわしなく点滅を繰り返している。文章を組み立てること以前に、まともに脳が回転していない。
疑問符ばかりが浮かぶ思考を早々に打ち切り、電源ボタンを2回連打する。待ち受け画面から、着信履歴を引っ張り出し、1番上の名前を選択。
単調なコール音は、俺を落ち着かせることはなく、逆に不安を倍増させていくだけだ。やがて聞こえてきたのは、「電波が届かない場所にいるか、電源が切られている」というお決まりのメッセージ。
「琴美……?」
もう1度さっきのメールを引っ張り出し、下に文章が続いていないか確かめる。「なんて、冗談だよ」とかいう文章を期待して。
しかしそれは無駄な行為に終わり、確かに文章はそこで終わっていた。
風呂上がりだというのに背筋に寒気が走り、俺は明日学校で聞こうと、早めに布団に潜り込んだ。
――もっとも、眠れやしなかったが。
結局、一睡もせずに夜が明けた。5時頃に、チラリとだけ眠くなったが、2時間だけ寝ても逆にキツいだろうと思って、そのまま徹夜した。
冷たそうな風が、やかましい音を立てて部屋の窓を叩いていく。窓から家の前を見下ろすと、琴美が――いなかった。
わずかな期待を抱いたが、無駄になってしまった。ため息をつきながら携帯を開いて見た時間は、7時ちょっと過ぎ。
居間に降りていくと、すでに焼けているパンの匂いが鼻腔をくすぐった。中央に置いてあるサラダの大皿から、食べる分だけ入れる。……入れたくない。
ダメだ。食欲の欠片すら湧かない。肉体的な変化が、精神的に相当打撃を受けていることを教えてくれる。
焼きむら1つないトーストに、薄くマーガリンを塗りつけて……食欲がなくなった。相当参っているようだ。
「ごめん、母さん。今日は朝飯残すよ」
「残すよって……全部?」
母さんの返事に小さくうなずいて、2階の自分の部屋に戻って着替えを済ませる。少し早いけども、もう出よう。教室に行ったらきっと、琴美がいつも通りの笑顔で席に座っている。
……なんてのは、期待しないほうがいいんだろうな。
風邪でもないのに重い身体を引きずって、その日は無気力なまま授業を受けた。――琴美は、学校にも来ていなかった。
いい加減、琴美に対する感情が、戸惑いから怒りに変わってきた。あれから4日経ってからも、琴美は学校に来なかったし、連絡1つ入れなかった。
電話は相変わらず、つながらない。メールを送っても返ってこなくなった。琴美と仲がいい女子たちに聞いても、知らないの一点張り。
琴美が俺に会う気がないなら、もう関わるまいと思った。大切にしてきたつもりだったけれど、琴美には伝わっていなかったということだろうか。
今日は何かの会議だとかで、いつもより早く授業が終わった。半ば投げやりな気持ちで、ざわついた教室を出る。いつの間にかホームルームは終わっていて、今日も実りのない1日を過ごした。なんて、柄でもないことを考えた。
何年も琴美と歩いた道を、1人で歩く。たい焼きを買おうとも思わなかった。もう何もかもが、どうだっていい。
琴美がいないだけで、こんなにも違うのか。頭の片隅で、どこか冷静な俺がつぶやいた。
しかし、そんなつぶやきに耳を貸すつもりはない。気付かないフリをして歩き続けると、ふいに携帯がポケットの中で振動した。
ディスプレイを見ると、非通知表示が浮かんでいる。一瞬だけためらってから、俺は携帯を耳に当てた。
「はい」
『あ、もしもし? 琴美の母ですが』
琴美の母親。家に遊びに行ったときに、会ったことがある。
「なんですか?」
本人ならともかく、母親が連絡してくる理由なんて、見当もつかない。やや無愛想に聞くと、母親の声が電話越しに耳に届いた。
『あの……、病院に来てもらえませんか?』
「は?」
明らかに震えている声から、声を抑えて泣いているのがわかった。携帯を握りしめ、向こうの言葉を待つ。
『琴美が今、亡くなったんです』
「…………え?」
思いがけない言葉に手から携帯が滑り落ち、アスファルトの歩道で跳ねた。
聞いた病院に、俺は半信半疑で足を運んだ。実際は、半疑どころではなく8割くらい疑っていたが。
琴美が死んだ? まさか。まさか琴美に限って、そんな馬鹿な。――いきなり突きつけられた事実に、思考がついていかない。「あ」
ロビーに入ると、琴美の母親が駆け寄ってきた。俺は軽く会釈してから口を開く。
「琴美は……」
「……30分ほど前に」
その一言で、伝わった。
病状を説明しようとする彼女の目から、涙が溢れ出る。その涙が俺に思い知らせた。
夢でも冗談でもない。琴美が死んでしまったことは、紛れもない現実なのだと。
――倒れそうだった。今にも気を失いそうだった。いや、失えた方が楽だったかもしれない。「……いつから、こんなことに?」
「かなり前からなんだけど、最近になって急に悪くなって……5日前から入院したのよ」
「…………」
言葉を失う俺をチラリと見て、琴美の担当医らしい医師が彼女を連れて行った。俺は携帯を開き、母さんに連絡を入れる。
――「今日は帰らない」。無機質な『送信しました』の文字を確認してから、携帯を閉じた。
あまりの展開の速さに、俺の身体は涙を流す余裕すらないようだった。言葉にしがたい喪失感のようなものを抱えつつ、飲み物でも買おうと思って病院を出た。
夕焼け空が、白い病院の外観をオレンジに染めていた。自販機を探して周りを見回すと、見慣れた人影が目に入る。
キュッとくくったポニーテールと、琴美より少し高いくらいの背丈。あれは――。
「宮下?」
思わず口をついて出た声に、人影が振り返った。間違いない、宮下だ。テニス部員であると同時に琴美の一番の親友でもあった、俺らのクラスメート。
「なんで、こんなところに……琴美か?」
「そうだよ」
宮下がペットボトルのふたを閉めた。泣きはらした赤い目が、じっと俺を見つめる。「あんたも、琴美でしょ?」
「あぁ」
ポケットから小銭を出し、無造作に自販機に突っ込む。しばらく沈黙が流れ、俺は乾いた喉にウーロン茶を流し込んだ。「……俺には、何もできなかったからか?」
と、思わず口をついて出た言葉に、宮下が驚いたように顔を上げた。言った後に自分が声を発したことに気がついたのだから、俺自身もびっくりした。「何が?」
「――俺らさ、1週間くらい前に別れたんだけど」
「うん、知ってる。琴美から聞いた」
「一方的に『別れよう』ってメール、送られたんだよな。それ以来、連絡取れなくて」
「…………」
重い病気だったから。医師でも何でもない俺には、何かできるはずもなかったから。だから。
「だから、琴美は俺に別れようなんて……」
宮下が、キッと俺をにらみつけた。瞬間、頬に走るビリビリとした痛みに、平手で思い切り打たれたのだと悟る。「宮下?」
「馬鹿! 琴美はね、何度も私に言ってたんだよ。
あんたを『悲しませたくない』って。『心配させたくない』って。だから、別れたんだよ。
――死んじゃう本人が1番悲しいのに。なのに……」
宮下はそこで言葉を切り、涙をグイと拭った。何とか荒い息を整えてから、まだ少し震える声で言う。「……メールボックスの、受信フォルダ。見てみてよ」
ジーンズから出された琴美の携帯を、震える手で受け取った。うまく動かない指で、使い慣れない携帯を操作する。「……あんたといるときの琴美は、そりゃあ嬉しそうだった。話した話題、観た映画、つまらない雑談だって、あの子にとっては大切な――」
「もう、言うなよ」
涙声になっている宮下の声を、さえぎった。
言わなくたって、何を言いたいのかくらい、俺にもわかった。
『あ、まだ』
『そうだね』
『9時くらいでいいと思う』
誰にだって打てるような、何てことのない、つまらないメール。受信フォルダに溢れかえった絵文字1つない俺のメールについていたのは、それらが消えてしまわないための、保護を意味する鍵のマーク。
どうして、こんなメールを保護する必要があったのだろう。ここに来る直前、琴美に対して俺は勝手に怒りの感情すら抱いてしまっていたのに。
待ち受け画面に戻そうと、クリアボタンを押した。すると一瞬だけ目に入る、『未送信メール1件』の文字。宮下には告げず、そのメールを開いた。
――つらそうに涙をこらえていた宮下の顔が、くしゃりと歪んだ。そのままうつむいて、声を抑えて、泣き出した。
「なん、で。なんであの子が、死ななきゃ、ならなかった、んだろ」
途切れ途切れの、誰に対するものかわからない問いは、白い息と共に宙へ消える。それに答えられなかった俺は、再び口をつぐむしかない。
俺の目から一筋、涙が落ちた。夕日の美しいオレンジに、ただ照らされながら。
琴美の母親から、病室に案内された。白い布で覆われていない顔は、それでも紙のように白かった。
「5分だけ、2人きりにさせてもらえませんか?」
10分もしないうちに親類が来ると言っていた。頭を下げて無理を言い、やっとこさ了承を得て、病室に足を踏み入れる。
ベッドの脇にしゃがみ込んで、琴美の左手に触れた。……冷たい。いつも感じられたぬくもりは、今は感じられない。
別れた理由は、『俺を悲しませないため』か。
「――カッコよすぎるだろ、マジで」
文句を言っても、あの困ったような笑顔は返ってこない。あぁ、本当に死んでしまったんだ、と。琴美の左手に触れた指先が震えた。
拭いたはずの涙が、再び溢れてくる。俺の涙腺はどうかしてしまったんだろうか?
「琴美」
細過ぎる手を取り、もう動くことのない薬指にそっと口付ける。こぼれ落ちる涙が、真っ白なシーツに痕を残した。
「琴美……ッ!」
最後のメールが『別れよう』だなんて悲しすぎる。
お前の携帯に残された、あの未送信メール。あれを、俺らの最後のメールにしてほしかった。
今となっては、もう叶わない願いでしかないけれど。
――遅すぎたなんて言わないで。
優しくて明るくて。誰よりも大切なお前に向けて、最初で最後のプロポーズ。
お前と全く同じ想いを、今度は俺からもぶつけよう。
未送信メールに残された5文字の告白。
『大好きだよ』