別れ話から始まるお見合い結婚
「トニーク、わたしたち、お別れしましょう?」
少しだけ曇り空の午後。インクの香りが充満する部屋へ差し込む陽の光は穏やか。執務机に向かってなにかを書き留めていたアントニーンは、応接ソファに座ったわたしの言葉に、恐ろしく速い筆記をピタリと止めた。
数秒そのままで、それからオーバルメガネ越しにわたしを見る。そして「理由を聞こう」と低い声で言う。
「わたしたち、幼いころから知り合いでしたでしょう?」
「君が3歳、私が10歳の年の8月に会ったのが最初だ」
アントニーンはペンを置いて、インク壺の蓋も閉めた。あらうれしい。お仕事を止めて、ちゃんとお話しを聞いてくださるみたい。
「まあ、ではもう20年くらいのつき合いになるのね!」
「正確には17年と11カ月だ」
「トニークは、本当に頭の回転が速いわねえ」
わたしは感心して声をあげる。アントニーンは冷静に「理由の続きを聞こう」と言う。わたしは考えてきたことを言おうとしたのだけれど、わたしをじっと見るアントニーンがかっこいいわ、といっしゅん考えたらど忘れしてしまって、なんの話だったか思い出せない。
「なんだったかしら」
「私たちが別れるべきだと君が考えている理由だ」
「そうでした!」
わたしは手を打ち鳴らした。思い出した。そう、とても大切なお話しだわ。
「あのね、トニーク。あなたはわたしにとって、兄のようで、父のようで、家庭教師のようでもあったわ」
「事実私は君が13から16になるまでの3年間家庭教師をしていた」
「そうね。それで、きっとトニークもわたしとお別れした方がいいと思うのよ」
アントニーンは執務机の上で両手の指を組み合わせて、深い蒼の瞳で真っ直ぐにわたしを見る。鋭い眼差し。彼は、お父様とお兄様を亡くしてからずっと、こんな怖い顔を作ってたくさんの商人とやり合って来たのよ。ヴァシュコ商会を取りまとめる長として。たいへんだったと思うわ。子どもが見たら泣いちゃうかも。わたしは慣れているけれども。
彼は「それは直接の理由ではない。その結論に至るまでに君がなにを考えたか、すべて述べてくれ」と言った。まとめてキレイに後ろへなでつけている灰褐色の前髪が、少し落ちた。あらためて、本当にアントニーンは男前だわ、と思う。
それに比べて、わたしはどうだろう。ずっと、考えたこともなかったのだけれど。
ぱっとしないくすんだ茶の髪に、ありふれた榛色の瞳。それに。
「トニークには、わたしのような愚鈍な女はふさわしくないと思うのよ」
アントニーンの眼差しがさらに鋭くなる。そして「パヴラ、それは君の意見ではないな」と即断する。どうしてかしら。わたしが「どうして?」と聞くと、張り詰めた声色で「君の語彙に『愚鈍』などという言葉はなかったはずだ」と言われる。
「そ、そんなことはないわ。本で読んで知っています!」
「私の知る限り君が好んでいるマリエ・スラーンスカー女史の書籍には、そんな言葉は使われないはずだな」
「……新刊が! 『ミルシュカの庭園』の新刊に載っていました!」
「なるほど、後ほど確認しよう。では、どうして君は自分を『愚鈍』だと思ったのか、理由を聞いても?」
わたしは言葉を見失ってしまう。そして、これはいけない、と思った。いつもと同じ状況だわ。きっとわたしは、アントニーンに理路整然と説得され、最後には納得してしまう。
今回は、それではいけないの。
がんばらなきゃ。
「とにかく、わたしは、あなたとお別れしたいのです!」
「却下だ」
「だめです、もう、結婚相談所に登録してきましたから!」
鋭い眼差しが見開かれる。数秒黙った後、アントニーンは立ち上がってわたしのところまで来て、隣に座り、前傾姿勢でわたしの顔を覗き込んだ。森林浴みたいに爽やかな香水がふわりと香る。
わたしが、好きな香り。
「……だれにそそのかされた、パヴラ?」
「そんなことないですっ、もう! 決めたんです!」
わたしは立ち上がって、アントニーンに宣言した。
「わたしは、トニークみたいな素敵な男性ではなくて、身の丈に合った人とお見合いして、結婚するのが幸せなんです! だから、お別れです!」
そして、部屋から逃げ出した。
だって、ぜったい言い負かされてしまうもの。
♪ —— ♪
「商会長ー、なんすか? パヴラちゃんがとっとこ走って店から出ていきましたけど」
秘書のオレクサンドルが商品見本を両腕に抱えて脳天気な表情で入室してくる。俺は治まらない腹の虫のままオレクサンドルへ命じる。
「オレク、パヴラに余計なことを吹き込んだ人間を突きとめろ。早急に」
「なんすか、なんかあったんすか」
「……別れると言い出した」
荷物を応接テーブルに仮置きし、一拍後にオレクサンドルは「はあ⁉」と声を上げ振り返った。驚きの顔で固まった後、憎たらしくにやにやと笑い始める。
「ふっふっふ、そっかー、振られちゃったんすね、商会長!」
「減給2割半年だな」
「ちょーーーー、ちょーまってください、それはあまりにも人でなし! 俺の家には腹をすかせた小さな弟妹が!」
「いないだろう」
「そうでした。——なんかあったんすか? パヴラちゃん。あんなに商会長のこと大好きなのに」
一転して心配そうな表情になる。こいつは本当に商人向きだと思う。どんなときにもその場に必要な表情ができる。俺のように愛想を母の腹にわすれてきた人間ではない。
「俺みたいな素敵な男性ではなくて、自分の身の丈に合った人とお見合いして結婚するのが幸せなんだそうだ」
「絶妙なノロケ混ぜ込むのやめません?」
「必ずその思想を植え込んだ人間がいる。探り出せ」
俺が命じると、オレクサンドルは「へーい」と言ってから「でも、そんな黒幕みたいヤツ、いますかねえ?」とつぶやく。
「あの子、ちょっと思い込み激しいっていうか……けっこう読んでる本とかに引きずられてるじゃないですか。なんかそういう雑誌とか読んだんじゃないですか?」
「いや。本心から納得して別れたいと言っているわけではない」
俺が断言すると、オレクサンドルは「ほうほう、その心は?」と言う。
「パヴラは、俺に隠しごとをするとき、敬語になる」
それで、確信した。この件には、パヴラを惑わしている人間がいる、と。
「なるほどねえ、そりゃ、商会長にしかわからんですね。承知しましたよー、さくっと調べてきます」
言うが早いが、オレクサンドルはすっと退室した。メガネを外して、眉間を揉む。
なんでこんなことになったんだ。パヴラ。かわいい俺のパヴラ。
本来なら、俺がパヴラと婚約を持つことはなかっただろう。それでも、今はそれなしに今後の人生を考えられない。
仕事中の不幸な事故で父と兄が死んで、急きょ事業を引き継がなくてはならなくなったのは、ちょうど俺が大学卒業を控えていた時季だ。家業は兄が継ぐはずだった。俺は卒業後に弁護士事務所への就職が決まっていたし、いくらか修行して独り立ちしたら、法律顧問として戻ってくるつもりだった。その計画は、根本から崩れた。
嘆いている暇はなかった。祖父母の代から親交のあるストルナドヴァー家へすぐさま詫びの連絡を入れたのは、兄が新規の事業を立てるにあたり、出資をしてくれたのを知っていたからだ。そして、息女であるパヴラの勉強を見ることは、もうできそうにないことの断りも。
ストルナドヴァー家は、一家全員で葬儀に参加してくれた。ありがたかった。とりわけ、その後長きに渡って今も、弱りきった母の支えになってくれているのは、感謝してもしきれない。
執務机の、引き出しを開ける。
手の大きさくらいの箱がある。その蓋を開け、中に保管しているカードを取り出した。
『今日は、朝日がキレイでした。先生もご覧になりましたか。わたしは元気です』
『素敵な表紙の本を買いました。まだ読んでいませんが、素敵な気がします』
『クワガタ虫がわたしの部屋へ遊びに来たのです。砂糖水をあげてから、外の樹へ連れて行きました』
パヴラから、月に二度ほどとりとめのない内容の絵葉書が届くようになったのは、葬儀が終わった後だ。教えていたのは主に算術だったので、まさかここまで脈絡のない文章を書く娘だとは思わなかった。きっと励ましのつもりだったのだろう。俺は返信をしなかった。意味がわからなかったからだ。けれど次はなんて書いて寄越すのか、と心待ちにするまで時間はかからなかった。
そして、一年が過ぎて。寝る間も惜しんで働いて、どうにか父と兄の遺したものをそのままの形で継承できたとき。
ストルナドヴァー家を訪れて、俺は頭を下げた。
「パヴラ嬢が大学を卒業された折に、私の妻として迎えたいのです」
御両親はふたつ返事で了承してくれた。パヴラも、顔を真っ赤にしながら「ふつつつか? 者ですが、よろしくお願いいたします」と。
それから、3年と5カ月。
「……文書にしておくべきだったな」
基本中の基本だ。わかってはいた。だが、あまり執着心を見せると逃げられるのではと思ったのだ、あのときは。ストルナドヴァー家とは口約束でも必ず守られて来た背景もある。なんらかの機会で正式な書面に署名させよう。
カードをすべて見返していてふと思い出した。しまった、オレクサンドルに頼むべきだった。
しかたないので卓上にある呼び鈴を振り鳴らす。数十秒後にノックがあり、入室を許可した。
「お呼びでございましょうか、ヴァシュコ商会長」
白金の髪を後頭部でまとめた女性が入ってくる。一昨年雇用した、オレクサンドルの下で秘書としての実務経験を積んでいる者だ。こうして俺の元で育てた人間を、いずれ各現場へ投入する予定でいる。父の代から勤めてくれている者たちには、俺が上に立つことを毛嫌いする者もいるからだ。影響力を保つには必要なことだった。
「取り寄せてほしい書籍がある」
「はい」
すぐにメモを取り出して構える。オレクサンドルなら一度で暗記できるのだが、と考えてしまう。
「マリエ・スラーンスカー女史が書いた『ミルシュカの庭園』の新刊を手に入れてくれ。今日中に持ってくるように」
「……は?」
少しだけ万年筆を走らせた後、眉根を寄せて俺を見て来たので「マリエ・スラーンスカー女史が書いた『ミルシュカの庭園』の新刊だ」ともう一度言った。
「どうした、スコヴァー君」
「……婚約者様へのプレゼントですか?」
「いや、彼女はもう持っている。私が読む」
俺がそう言うと彼女は驚きで目を見張ったが、それ以上は詮索せず「承知しました、直ちに」と言って去った。
「さて……」
情報が来る前に、俺も成すべきことをしよう。
♪ —— ♪
わたしは、今日、登録していた結婚相談所に来ている。紹介された方とお見合いをするために。
「——アントニーン・ヴァシュコと申します。気軽にトニークとお呼びください」
なぜか、いつもよりさらにかっこよく着飾った、アントニーンが居た。
「あの……トニーク。どうして……」
「あなたの情報を拝見して、ぜひともお会いしたいと思いました。申し込みを受けてくださりありがとう、パヴラ・ストルナドヴァーさん。思った通り愛らしいお嬢さんだ」
わたしが事前にいただいた情報は、アントニーンのものではなかったはず。だって、相談員さんに「わたしの身の丈に合った人をお願いいたします」って言ったんですもの。
相談員さんは清掃会社を経営されている男性を「こちらの方からお申し込みがありますが、いかがですか? きっとあなたにお似合いだと思いますよ」と勧めてくださったの。お名前はわすれてしまったのだけれど、アントニーンではなかったのは確か。どうして今、わたしはアントニーンと向き合っているの?
「あの、わたし、お見合いをしに来て……」
「ええ、光栄です。お互いこれから知り合って参りましょう。お名前でお呼びしても?」
「えっ、あ、はい」
「資料をご覧になってご存じかもしれませんが、私は清掃会社をひとつ経営しております。本業は商いですが。28歳ですので、21歳のパヴラさんとお似合いですね」
「あ、あの!」
「はい、なんでしょう?」
「資料と、お名前が、違うと思います!」
思い切ってわたしが声をあげると、アントニーンは「ああ」とさわやかにほほ笑む。
「こちらに登録したのは、仕事上の通称です。本名より通りがいいので」
「あの、聞いていません!」
「はい、ですので今申し上げました」
アントニーンはオーバルメガネ越しににっこり笑って言う。……なんて卑怯なの、そんなかっこいい顔で笑いかけるなんて!
ここまで来たら、わたしにだってわかる。別れ話を持ち出したわたしの先回りをして、わたしが他のだれかとお見合いをしないよう、アントニーンが手を回したのだわ。
そんな手に乗るものですか。わたしは、なんとしてもアントニーンとお別れして、身の丈に合った方と結婚するのです!
アントニーンのためにも!
「失礼します!」
立ち上がって去ろうとしたら、アントニーンが「いえ、それはムリですね」と言う。
「こちらの結婚相談所の規約をお読みになられましたか?」
「……少しだけ」
じつを言うと、文字が細かくてぜんぜん読んでいないのだけれど。
「第6項13条。組み合わされた相手とは必ず3回以上の仮交際をし、その後に本交際の可否を判断すること」
「え、聞いてません」
「入会時の説明にもあったと思いますよ。ちなみにこれに違反した場合、入会金の三倍の違約金が発生します」
「えーっ⁉」
……どうしましょう。入会金ですら、それなりのお値段だったのに。
お父様に借り……いえ、そんなことを言ったら怒られてしまう。アントニーンとお別れしたことだって、まだ告げていないのに。
「——最低、3回。お付き合いしてくださいますね?」
アントニーンがかっこいい笑顔で言う。
しかたがないので、仮交際の日にちを決めた。 もう! なんだかぜんぶアントニーンの思い通りな気がするわ!
そして帰り際に言われたのは。
「ところで、最近個人的に、マリエ・スラーンスカー女史の著作『ミルシュカの庭園』を、新刊も含めて9巻すべて通読したのですが」
「えっ」
ドキッとしてしまった。だって、あれはわたしが十代の早い時期から聖典と仰いでいる、すごく素敵な恋愛小説なんですもの。男性主人公のマルツェルがかっこいいの! まさかアントニーンが読むだなんて思わなくて。どう考えても、若い女性向きの物語よ。やだ、なんだか恥ずかしいわ。
「言葉遣いが平易で、ていねいなのが記憶に残りました。やはり人気のある女流作家なだけはある」
「そうでしょう!」
好きな作家先生が褒められてうれしくなってしまった。わたしは思わずアントニーンに向き直って、あの作品がいかに素晴らしいかを語ろうとした。
けれど。
「念のために秘書にも読ませたが。すべての巻を通して、決して、どこにも『愚鈍』などという言葉はありませんでしたよ」
……そうだった。わたし、あの本の中でその言葉を学んだ、と言ってしまったんだ。
アントニーンは、真剣な眼差しで言った。
「——パヴラ。言ってごらん。だれからそんな風に言われたんだい」
わたし……逃げてしまった。
♪ —— ♪
「どうっすか、首尾は?」
にやにやしながら秘書のオレクサンドルが尋ねてくる。やはり減給でいいな、と手元の手帳に書き込む。俺は「おまえの首尾は?」と聞き返した。
「そう返すかー! いいっすよ、先に報告します。……最近パヴラちゃんに、匿名の封書が何度か届いているみたいっすね」
思わず俺はオレクサンドルを睨みつけた。おどけて「商会長ったらー、こわぁい!」とクネクネし始めたのをムシして「内容は」と尋ねる。
「それが、だれにも話してないみたいで。パヴラちゃんちのメイドにも探りを入れたんですが、鍵付きの箱にしまっているみたいですね」
「そうか。確認しに行こう」
立ち上がって上着を着込む。オレクサンドルが「いってらっしゃ~い」と手をヒラヒラさせたので、鏡を見て服装を直しながら「おまえも行くんだよ」と言う。
「俺? なんで?」
「俺が家の人々を引き留めている間に、パヴラの部屋から手紙を取ってこい」
「なんすかその白昼堂々犯罪宣言⁉」
執務机の中から、カードを入れている箱を取り出す。カードを出してそのまま引き出しにしまい、鍵をかけてから箱をオレクサンドルへ渡した。
「パヴラは登校している時間だ。鍵がかかるものなら、俺が昔プレゼントしたものだ。これと同じ箱だ。すり替えて来い」
「えー、えー、いいんすかねえ、それ……」
「俺だってパヴラの部屋におまえが入ることは気に食わん」
「気にするとこそこじゃないと思うっす」
文句を言いつつも着いてきて、いっしょに社用馬車へ乗り込む。御者へストルナドヴァーの名を告げると、するりと発進した。道が混み合う時間でもないので、30分もかからずに着く。到着したと同時に「二階の向かって一番左側の窓の部屋だ」とオレクサンドルへ知らせる。
「まあ、まあ、アントニーン! それに、秘書さんだったかしら? いらっしゃい!」
先触れのない急な訪問にも関わらず、上機嫌で夫人が迎え入れてくれる。パヴラはどちらかというと父親似だが、顔の輪郭と表情の多彩さは母親譲りなので、パッと見では姉妹のようにそっくりな母娘だった。俺は「急に伺いまして、申し訳ありません。ご主人は、ご在宅ですか」と伺う。
「ええ、ええ。ちょうど家の裏で家庭菜園をいじっているわ。呼びに行かせます」
客間へ通される直前に、俺は「オレク、さっき腹が痛いと言っていたが、だいじょうぶか」と言った。
「……えー、そうなんすよねえ。ちょっと手洗いなど借りられたら」
「あらあら、もちろんですわ! そちらです、お使いになって!」
「ぁりがとざいまぁーす!」
後はどうにかするだろう。俺は「秘書遣い荒いなあ、もう……」という小声を軽く聞き流し、夫人について応接間へ入る。
パヴラの父であるへストルナドヴァー氏は、通された部屋の窓側のドアから現れた。そして「やあ、アントニーン君。めずらしいじゃないか、平日の昼間に」と麦わら帽子を頭から取った。俺は立ち上がって彼と握手しつつ「パヴラが居ないときに、お二人とお話ししたかったもので。突然申し訳ございません」と小声で述べる。へストルナドヴァー氏は瞠目して「なにかあったかね?」と言った。
「パヴラつきのメイドにも、話を聞きたいのですが、よろしいでしょうか。他に、パヴラと親しい者がいれば、その者も」
へストルナドヴァー氏が茶を出してくれたメイドへ合図して呼びに行かせる。俺の知る限り、海外を遊学している長男以外の、庭師や料理人すら含めた全員が集まった。そこで俺は要件を切り出した。
「パヴラから、別れ話を持ち出されました」
氏も、夫人も。場に集まった他の者も息を呑んで目を見開く。互いに顔を見合わせる中、へストルナドヴァー氏は俺をじっと見て「それは本当かね、アントニーン君」と深刻な声色で言う。
「はい。彼女が私の事務所までやってきて、告げました」
「理由は?」
「調査中ですが、嫌われたわけではないようです。しかし、もともと婚約書の取り交わしのない口約束ではありました。彼女がそう述べるならしかたありません」
「しかし、君は娘を大事に思ってくれていたのではないかね?」
「もちろんです。なので、みなさんにお願いがあるのですが」
全員が身を乗り出した。この家の人間は、パヴラが俺を心底好いていることを知っている。そして彼女の幸せを願っている。
「私は彼女と、お見合い結婚しようと思います」
オレクサンドルが戻るまで、俺はとうとうと語った。
♪ —— ♪
仮交際の1日目の日曜日。なぜか朝起きると、メイドがとても張り切っていた。そしてなぜか、わたしの一番のお気に入りのワンピースを持ってきて、満面の笑顔で「今日はこちらがよろしいかと思います!」と言ったの。押し切られて着てしまった。それにいつもはただボンネットで上げているだけの髪を、複雑に編み込んですごくかわいくしてくれて。ちょっとお化粧までされたのよ。正直、鏡の中のわたしは、すごくかわいく見えたわ。気分がよくなっちゃった。
朝食の席では、父さんと母さんがなんだか浮足立って。しきりにわたしの装いが似合っている、かわいいと言ってくださった。
「んー。パヴラ。今日は、出かけるのか?」
父さんがそわそわと聞いてきた。さすがにこんなにおめかししたら、そう思われちゃうわよね。わたしはあらかじめ考えておいた言葉を言った。
「気分転換に、友人と博物館へ行こうかと」
「そ、そうか。気をつけて行ってきなさい」
怪しまれなかったみたい。よかったわ!
結婚相談所の方針で、仮交際の間は互いの家を行き来しないことになっている。いざこざ防止なんですって。なのでアントニーンの迎えはない。我が家に馬車はないので辻馬車を拾おうと思ったのだけれど、たまたま庭師が知り合いの辻馬車御者さんと立ち話をしていたの。話の腰を折ってしまって申し訳なかったけれど、御者さんはふたつ返事でよろこんでわたしを乗せてくれた。そして、待ち合わせ場所へ。
背の高いアントニーンは、すぐにみつけられる。噴水広場に佇む彼は、本当にかっこよくて素敵。女性たちの視線を一身に集めている。なんだか、ちょっといい気分ではなかった。
わたしが声をかける前に、アントニーンはわたしに気づく。そしてはにかむような笑顔を浮かべてわたしの方へ歩いてくるの。女性たちがちょっとざわっとした。わたしはドキドキした。
「来てくれなかったら、どうしようと思った」
そう言ってわたしの手をとって、指先に口づける。ドキドキが伝わっちゃうんじゃないかと思って気が気じゃなかったわ。アントニーンは「こんなにかわいらしく着飾ってくれて、うれしい。すごく似合っているよ」と甘い声で言ってひざまずき、胸に飾っていた一輪の赤いバラを差し出してくれたの。きゃあ、って声が周囲であがった。わたしは呑み込んだけれど。
受け取ったバラは、アントニーンがわたしの髪に飾ってくれた。メイドが結ってくれた髪型に、すごく合っていたみたい。
そして、アントニーンは、完璧なエスコートをしてくれた。まるで『ミルシュカの庭園』の男性主人公マルツェルみたいに。折りに触れて「かわいい」って言ってくれて、ずっと手を握ってくれて。ずっとほほ笑んでいて、歩幅もわたしに合わせてくれるの。いつも怖い顔をしているアントニーンが、こんなにやさしい雰囲気なことって、ある? わたしは、初めて恋したころのアントニーンを思い出した。わたしはほんの子どもで、アントニーンは素敵なお兄さんで。
「パヴラさん、疲れていませんか?」
アントニーンは、あくまでわたしを結婚相談所で紹介されたお見合い相手として扱う。それがちょっとだけチクッとする。わたしは「ぜんぜん平気です」と答えた。すると彼は「喫茶店で休みましょう」と言った。
通りに何軒かあったけれども、アントニーンが選んだのはテラス席があるお店だった。喫茶店の中で充満するたばこの煙が苦手なわたしに、配慮してくれたんだと思う。これまでアントニーンといっしょに出かけたことは何度もあるけれど、思えばこんな風に小さなことまでわたしに気遣いを示してくれていたと思う。今日それをあらためて実感するのは、やっぱり今は彼が『お見合い相手』だからなんだと思う。
それでも。
わたしは、この夢みたいな時間を3回終えたら、お断りするつもりでいる。
「パヴラさん……メニューがたくさんあって、選べません。僕になにか、お勧めを教えてくれませんか」
アントニーンが眉尻を下げてわたしに言った。まあ、アントニーンに「教えて」なんて言われるの、初めてじゃないかしら? いつもはわたしが教わる立場だもの。わたしは張り切ってメニューを見て、自分には季節の果物のタルトを、アントニーンには珈琲風味のシフォンケーキを頼んだ。
「パヴラさん。私はあなたに恋しています」
ケーキが運ばれて来た後に、アントニーンが真剣な眼差しで言った。少し離れた席の女性客たちがこっちを見ているのがわかった。わたしは、たぶん耳まで真っ赤だと思う。
「あの、トニーク、わたし……」
なにかを言おうとしたのだけれど、なんて言ったらいいのかわからない。たくさん泣いて、納得して、お別れしようと思った後に告白なんて、ずるい。果物のタルトは、とてもキレイな色をしている。
「あなたが、なにをどう考え、私から離れようとしても。私の気持ちは変わりません。なので——覚悟してくださいね、パヴラさん」
わたしはその言葉に、顔を上げてアントニーンを見た。彼はすごくやさしくて素敵な笑顔で宣言した。
「仮交際、あと2回。全力で甘やかして……別れようなんて気が起きないようにして差し上げますから」
♪ —— ♪
俺は執務机について、呼び鈴を振り鳴らした。数十秒後にノックがあり、入室を許す。
「お呼びでございますか」
白金の髪をまとめた女性の秘書見習いが入ってくる。俺は「報告を。ディアナ・スコヴァー君」と述べる。彼女は帳面を取り出して読み上げる。
「はい。本日は午前中にマフ氏が東通り店を訪れ」
「業務報告ではない。君がこれまで行って来たことの報告だ」
俺が真っ直ぐに彼女を見て言うと、帳面を見たまま固まる。しばらくの後に「……なんのことをおっしゃっているのでしょうか」とつぶやく。
「私の婚約者になにをした」
「……おっしゃることの意味がわかりません」
「では質問を変えよう。先日、私とオレクがともに外出した際、私のこの執務机の引き出しから、26枚の絵葉書を持ち出したのは、君か」
彼女は俺の目を見返して「違います」と言った。俺は「そうか」と言った。
「君には、先日から手紙の代筆をお願いしていたな」
「はい」
「送り先から達筆だとお褒めの言葉があった。伝えておく」
「光栄です、ありがとうございます」
俺は引き出しから箱を取り出した。そしてその中から5通の封書を取り出す。一通を持って彼女へ見せるように掲げた。
「ところで、これは君が書いたものか」
「違います」
「根拠は」
「わたしと筆跡が違うのは、一見しておわかりいただけるかと」
俺は「そうか」と言った。
5通すべての封書を開き、中の手紙を取り出す。そして読み上げる。
「『おまえはいたずらに婚約者を束縛して、彼の幸せを破壊している。おまえはあの人にふさわしくない』『おまえのような愚鈍な女は、身の丈に合った男とくっつくのが幸せだ。自惚れの激しいグズな女、身の程を知れ』『早く婚約者と別れろ。結婚相談所にでも駆け込むがいい。おまえに似合いの男をあてがってくれる』『いいかげんに自分の程度の低さを理解した方がいい。世間の笑い草だ。婚約者を解放してやれ』『おまえさえいなければあの人は幸せになれる。おまえの存在だけがあの人の欠点だ』」
俺がすべて読み上げて卓上に便箋を置くと、彼女は「ひどい内容ですね」と言った。
「見たことのない筆跡でね。まるで走り書きのような。いったいだれがこんなことをしたんだろうか」
「お気持ち、お察しいたします」
「そうか」
俺が視線を外さずにいると、彼女は「ご用は、他にございますか」と言った。俺は「そうだな。この手紙を筆跡鑑定に出そうと思うのだが、資料をそろえてくれるか」と告げる。
「資料、ですか。鑑定に関する書籍でしょうか?」
「いや、君が今手にしている、その帳面だ」
彼女がぎゅっと帳面を握った。
そのとき、ノックと同時にドアが開いた。オレクサンドルが「商会長ー、ありましたよー! 絵葉書、ちゃんと26枚! 欠けなし、破損もなし!」と入室してきた。
「そうか。それはご苦労だった。どこにあった」
「先日に続いて、商会長って俺のこと犯罪者にしようとしてるでしょ? 女子更衣室の、個人収納箱の中ですねー」
「名前は」
「『ディアナ・スコヴァー』」
にこにこと、笑顔でオレクサンドルは言った。そしてゆっくりディアナ・スコヴァーへ向き直り「残念だよ、ディアナ。俺、おまえには期待していろいろ教えてきたつもりだった」とつぶやいた。こちらに背を向けた、その顔は見えなかった。
「紹介状は書いた。退職金は満額、最後の給与とともに振り込む。今日中に荷物をまとめてくれ」
俺が差し出した紹介状を、オレクサンドルが受け取った。そして、ディアナ・スコヴァーの手元へと差し向ける。受け取る素振りを見せなかったが、オレクサンドルがムリに持たせた。
そして、しばらく声もなく。
「……お世話になりました」
深々と一礼した。涙のようなものが床に降り落ちた。顔をこちらに見せないように、彼女は立ち去った。
残ったのは、苦い沈黙だ。
♪ —— ♪
「え、いたずら手紙が流行っているの?」
お腹を壊した秘書さんを連れて、アントニーンが我が家を訪れた。秘書さんはお手洗いにこもりきり。応接室には、なぜか両親とメイドたち、庭師や料理人まで含めて全員が集っている。アントニーンが優雅にお茶を飲みながら出した話題は、最近耳にしたというウワサだった。
「なんでも、幸せそうな女性に嫌がらせの手紙を送る者がいるそうで。特に、釣り合いのとれた似合いの婚約者のいる女性が狙われるらしい」
「まあ!」
なんてことでしょう、わたしったら、てっきり……。
「——トニークのことを好きな女性が送っているのだと思っていたわ」
わたしのつぶやきが耳をかすめたようで、アントニーンは「なに?」と聞き返してくる。わたしはあわてて「なんでもないです! そんな手紙、いやねえ!」とごまかした。
わたしはお茶菓子を頬張った。余計なことを言わないように。
ずっと、不安だったの。
わたしの婚約者は、とても素敵で、かっこよくて、怖い顔もするけれどすごくやさしい人なの。
ずっともやもやしていて。これでいいのかしらって。アントニーンと結婚しても、わたしだけが幸せなんじゃないかしらって。
あの手紙は、そんなわたしの不安を言い当てた。だって、わたし本当に愚鈍なんですもの。辞書で調べたら、本当にわたしのことだった。
そうなのね。
あの手紙は、いたずらなのですって。わたしが幸せそうだから。アントニーンと、お似合いだから。
少しだけ泣きそうになっちゃったから、お茶を飲んでごまかした。
秘書さんが戻ってきて「はあー、もうこんなん嫌ですよ……」と言う。よっぽど体調がわるいのね、お気の毒に。アントニーンの隣に座って、お茶菓子はしっかりお召し上がりになったから、良くなったのかしら。
「そして、今日伺ったのは、他でもありません。——パヴラさん」
「はっ、はいっ!」
思わず背筋が伸びる。なぜかアントニーン以外のみんなもぴっと姿勢を正す。アントニーンは、すごくやさしい笑顔で言った。
「昨日、仮交際の3日目をともに過ごしましたね」
「はいっ!」
「私の結論は、あなたと人生をともに歩みたい、そのために本交際へ進みたい、ということです」
母さんが大きくうなずいた。たぶんメイドのひとりも。アントニーンは「パヴラさんの結論を、聞かせてください」と、じっとわたしの目を見て言った。
わたしは、考えて。
考えて。
「ふつつつか者ですが、よろしくお願いいたします!」
思いっきり、頭を下げた。
わっとその場が沸いて。
わたしは、頭を上げたと同時にアントニーンに抱き上げられた。思わず声が出る。
「トニーク、下ろして!」
「さあ、好機逸すべからず、結婚相談所へ報告に行こうか」
「ええ? 今?」
外にはアントニーンの事業所の馬車が待っていた。抱えられたままふたりで乗り込む。行き先を述べていないのに馬車は発進した。
「……ねえ、トニーク?」
「なんだ?」
なんとなくずっと思っていたことを、わたしは尋ねてみた。
「わたしたち、元々、婚約があったわよね」
「そうだな」
「……それなのに、結婚相談所を通すって、なんだか変じゃないかしら」
アントニーンはオーバルメガネの奥のキレイな蒼の瞳を笑ませて、わたしをぎゅっと抱き締めて、言った。
「なにもおかしくない。私たちは一度、君の言葉で別れているのだから」
「そ、それは申し訳なかったと思っているわ」
「それに、事情はすべて、相談所へ説明してある」
「ええ?」
わたしはアントニーンの胸を押して離れ、顔を見上げた。アントニーンはかっこいい顔で続ける。
「君を納得させるには、どうにかいっしょに時間を過ごさなければならなかったからね。協力してもらった。必ず相談所を通して結婚することで話はついている。あちらにとっても、成婚率が上がるので歓迎してくれたよ」
「まあ……みんな、グルだったのね!」
「……ああ、その言葉はマリエ・スラーンスカー女史も使っていたな」
結婚相談所へはあっという間に着いた。馬車を降りる前に、アントニーンはもう一度ぎゅっとわたしを抱きしめて言ったの。
「君の不安を理解していなくてすまなかった。これからは、もっといっしょの時間をとって、話そう。パヴラ」
「そう言ってくださってありがとう。あのね、トニーク」
「なんだ?」
わたしは、ぎゅっと抱きしめ返して言ったの。
「わたし、あなたのこと、すごく大好きみたい」
アントニーンは「知ってるよ」と笑って、わたしに口づけた。
結婚相談所の人に、真っ赤な顔を見せることになっちゃった。恥ずかしいわ!
感想まってます(人´∀`*).。:*+゜゜+*:.。.*:+☆




