その3、最終話
電話が鳴っていた。それで我に返ってみると、夜が白み始めていた。
眠れずに、考え込んでいたオレだった。頭の中では、繰り返しパズルのピースを組み立てていた。
正ちゃんという幼馴染みのドッペルゲンガー、記憶の糸、関連の痕跡…
考えてみると、同窓会にもろくに顔を出さない、人づきあいを疎んじてきた自分に気付いていた。オレは友人達の情報をあまりに知らなすぎると、苦く思いながら電話に出てみると、始めに返答がない。
無言電話かと思われたその通話の主は、思う一方の1人、遠藤美樹であった。噂をすればのタイミングを感じる。オレは何気ない口調に反して、構える内心だった。
「昨晩はご馳走様。どうしたの、美樹ちゃん?」
「…」
「こんなに夜遅く?というか、もう朝なのにな?」
「…ゆーちゃん、あのね」少し間が空く。意を決してというのが、それで分かった。
「私、大変な事をしたの。私、主人を殺したの…」
「!」
オレは、受話器を握って固まってしまう(殺したって?ご主人を?)
「美樹ちゃん、どうしたんだ」
オレは少し声を荒げていたかもしれない。それで、彼女はすすり泣きはじめたのかもしれない、始めから泣いていたのかもしれない。
オレの思索は、彼女の泣き声でまた動き始めていた。頭の片隅のどこかで、パズルのピースの起点になる形を見つけていた。「発端」というピース…
オレは出来るだけ冷静な態度で、対応していた。
「話してもらえるかい、美樹ちゃん、何があったの?」
遠藤美樹が、ご主人を殺害したというのは、今しがたの話ではなかった。ひと月半前の事だという。つまり昨夜ご主人が、仕事の都合で顔合わせ出来なかったというのは、彼女の作り話であって―料亭の仲居などは、頃合にそう告げてくださいと心づけと共に言い添えておけば、簡単に応えてくれるであろうし。
それは一応の病死だった。彼女の夫は難病を患い、長い闘病生活を続けていたらしい。その果てに遂に帰らぬ人となったが、その最期に、妻である遠藤美樹が安楽死をさせたのだという。
「人工呼吸器のスイッチを切ったのは私なの。お医者様はいらしたけれど、その時お手洗いに立たれた。そこから帰ってきて検分して「静かに逝かれました、ご愁傷様です」とおっしゃって、呼吸器の異状は不問になさった…」
オレは沈痛に、受話器を握り締めていた。オレが繰り返す「そうか、そうだったか」は、うわ言だった。
ALS(筋萎縮性側策硬化症)だったらしい。10万人に数人しか発症しない稀な病気だ。発症すると数年で全身の神経が麻痺し、意識を残したまま全ての感覚が失い、闇に閉ざされてしまうという難病中の難病。治療方法はないのか?現状の医学では、発症原因もわからず、治療方法も無い。有名な物理学者も発症し、その凄惨性はメディアで報じられた程だ。安楽死は、認められないのか?本人の意思表示の有無により状況は微妙だ。遠藤美樹のご主人について、それは無かったと彼女は言っている…
オレと正ちゃんは、オレの運転する車中でそんな話をして、遠藤美樹のマンションを訪ねていた。そこは地域の1等地、彼女が暮らすフロアは高層階の中ほどだった。
朝の8時前だ。正ちゃんはオレの連絡に慌てて駆けつけてくれた、出勤支度の身なりだった。ワイシャツにネクタイを締め、薄いブルーの作業着を兼ねた上着だろうかで、胸ポケットは手帳や筆記具で膨らんでいた。オレは、よれよれのTシャツにジーンズの軽装で、これでも立派な仕事着なのだが。
広いリビングだった、20畳はあろうか。テーブルやソファ、調度品、インテリアはそれぞれ高級品で洗練されていたが、どこか無機的に冷たく、それが主を失った部屋の空気なのだろうか。サイドボードの花瓶に白い薔薇が大きく生けられていたが、その艶やかな白味が返って痛ましくそこに映えているのだった。
遠藤美樹はオレ達に対面してソファーに座って、始め、涙ながらに淡々と亡き夫の話を、独り喋っていた。
大学時代に知り合ったのだという。彼の方で一目ぼれしてくれた。楽しかった。共に愉しんだ文化サークルは痛快だった。熱心だったラグビー部副主将時代の夫は、誰よりも堂々として、雄姿はまぶしかった(そう語る彼女の瞳が、いかに美しかった事か)新婚時代もそれからもずっと、私達は仲良く幸せだった、それなのに。
3年前に突然、病魔がやってきた。闘病の間彼はずっと強かった、希望に満ちていた、そして遂には潔かった…死の間際にも優しく、彼は瞳で彼女に挨拶をして逝った…
最期は目を閉じて石のようになってしまったと、そこでは口をつぐんだ彼女もまた、石のように沈んだ表情をしていた。
オレと正ちゃん、2人に来てくれと言ったのは遠藤美樹である。普段着の彼女は、白いポロシャツにデニム地の素っ気ないスカート。長い髪を無造作に後手に束ね、白い肌は化粧をせずとも20代で通用する程の大変な美人だったが、双眸は泣き果てて腫れた瞼に、真っ赤な瞳だった。
しばらく続いた重い空気の中で、正ちゃんが「本当に、警察に?」
遠藤美樹が、コクリと頷く。オレはうーんと唸って「どうだろう、今になって申し出ても」と重ねて。
「敢えて、波風を立てる必要はないんじゃないか?、難しい話だけど…このままスルーでも、いいとも思う」
いいえと、首を横に振る彼女のうつむいた顔から涙が落ちる。顔を上げるその仕草に、彼女の固い決心が見てとれた。
「私は、正ちゃんとゆーちゃんに感謝しているの…私、本当は死ぬつもりだった」
死ぬつもり?に、オレ達はギョッとするのだが、彼女はまた首を横に振るのである。
「財産がある事は知っているでしょう?名家で、親戚も多くて、さぞや複雑な話になりそう。だけど現実はそんな事はないの。周囲はみなさん親切で、義母様も義父様も「息子の忘れ形見だ」と変わらず可愛がって下さって」
「だから単純にわかったの。これほどの幸せを残してくれた彼が、私の全てだったって。だから私に残された道は、生きるか死ぬかの2つだけだった」
オレ達が黙り込んでいると「ドッペルゲンガー?不思議ね、感謝しなくちゃ…」
いつしか泣きながら笑っている、不思議な表情をした遠藤美樹であった。
「正ちゃんから連絡があって、懐かしかったわ。死ぬ前にひと目と思うと、バカみたいに嬉しかった。だから、喪中なのにそれを隠して…だった」
彼女は笑みを強調して「正解でした。私、生きる気になったのよ」
「だから、正直にしたいの、生きるのならに罪を償いながら生きたい」
「終わったと思うべきじゃないか」と、正ちゃんが家庭を持つ主人の語調で、強めて差し挟むのだが、やはり遠藤美樹は「いいえ」で。
「ありがとう、正ちゃん、ゆーちゃん。ごめんさない、でも私は主人にこだわって生きたい。意地でも生きて、おばあちゃんになって彼の隣に逝く。主人に「貴方の面影だけでちゃんと生きて、幸せだった」と報告したいの」
結局、男達はどこかから、歯を食いしばって泣いていた。さあ、警察に連れて行って頂戴、と言う彼女も泣いていたのだが、あっさりと笑ってもいて。まるで悪い事をして警察に出頭するのは、肩を落としたオレ達であるかのようだった。
さて、オレ達は。市街の外れのサッカー場に到着していた。
先刻、所轄の警察署を後にしていた。遠藤美樹を送り届け、面倒な手続きと事情聴取の始まりに立ち会っての後、の事だ。
警察署での遠藤美樹に対する取り扱いは、刑事事件としてであった。自首であるとはいえ彼女が直ぐに帰宅できる筈もない、彼女は一応被疑者として取調べを受けるのである。
但し、もちろん事の概要が穏やかであるので、担当刑事と婦人警官は「悪いようにはならないでしょう。ただご親族以外の、事件に関係のない方はお引き取り願います」
オレ達は忽ちの内に、即席の取調べ室から追い出される処となった。そこを離れる間際、遠藤美樹が、机から立ち、深々(ふかぶか)と頭を下げていた。そこで改めて胸を痛めるオレ達も、頭を下げる。それを見ていた担当刑事が、うんうんと頷いて(私に任せておけ)風だった。それが僅かな慰めのように感じられて、それで早々と情状酌量にならないかと、有りもしない期待にオレ達は暫く、閉じられた部屋のドアの前から動けずにいたのであった…
オレ達がサッカー場に来たのには理由があった。
警察に向かう車中で、後部座席に座っていた正ちゃんと遠藤美樹の2人はどちらかともなく思い出話を始めて「ゆーちゃん、警察の前に、サッカー場に寄らないか?」と、正ちゃんが告げるに至ったのだ。
彼が言うサッカー場は、市街外れの運動公園区域の一角にあって、そこはかつてオレ達の通った小学校が在った場所だ。その言葉に遠藤美樹が喜色を浮かべているのが空気で分かったが、オレは敢えて返事をしなかった。
「ゆーちゃん?」
オレは、運転に気を取られえるフリをしていて、気が付いたように返答した。
「正ちゃん、美樹ちゃん。オレは行きたくないよ」
「今行くとオレ、気持ちがブレるかもしれない。オレだって美樹ちゃんの決心を支えたいんだ。ここは真っ直ぐ、警察に向かおう」と、このセリフも芝居だった。
遠藤美樹が何か言おうとした、その上にオレは重ねていた。
「オレと正ちゃん任せろよ。あとで、オレ達でちゃんと行ってみる」
2人は軽く残念がったが、やはり車内は沈鬱な空気で、行こう行くまいの話にならなかった。
―と、そんな経緯だった。
なぜ、オレが往路に2人の要望を断ったのか?その時オレには遠藤美樹を、そこに連れて行けない考えがあった、確かめたい事があったのだ。
サッカー場に着いてみると、正ちゃんは、此処に3人で立ち寄らなかった事にさしてこだわっていなかった。彼は駐車場で、車から降りると大きく背伸びをして、青空に大きく息をついた。
「はー、大変な1日だった。ゆーちゃん、後で会社に送ってくれよ。仕事は…昼からだなぁ」そして、周辺を見渡して「此処も随分変わったな、面影も無くなった」
オレも車を離れる。駐車場の片側の、植樹エリアの中心をを成す樫の巨木を指差し「樫の木だけは、残ってるよ、憶えてるだろう」と言い、サッカー場に向かい歩み始めていた。
巨木は、オレ達の幼い時から地域で天然記念樹として指定保護されるほどの、美しい大木だった。土地の再開発時にもそれは残されて、それにより方角を間違えなければ、どこに校舎があってどこが裏山だったか見当がつく。
このサッカー場は、今は半ば市民に開放されているにも関わらず、贅沢な施設だった。スタンドは1万人以上収容でき、アウェイ席の区画まで準備できる。ピッチは天然芝で、照明や、関連施設も充分に設備されていたが、政治的な問題で拠点にする有力なサッカーチームを失って、管理が二転三転し、今は県が公共施設として運営している…
正ちゃんは、設備の建物を眺めていた。オレは入口受付を訪ね「役所から着ました、芝の確認だけやって帰ります」とだけ告げ、ぼんやりとしている警備員に正ちゃんを示し差し「業者です」
「ああ、業者さんね」位の、気の抜けたものである。オレがグラウンドへの入退場口に向かってズンズン歩んでいくと「あれ?おいおい、どこに行く」で追いかけて来る正ちゃんだった。
彼にすれば、駐車場に車を止めその風景を眺めひと時を過ごせれば良い―そこが昔、校舎のあった場所であるし、自分の欲求にも遠藤美樹との約束にも応えた事になる、そんなつもりでいたからだ。
ところが、オレが目指すのは、かつての裏山辺りだ。今はグラウンドピッチの真ん中、かつてオレ達がペットの埋葬をやった場所だった。
説明を求める正ちゃんに、オレは答えながら歩む。オレの説明は自分の意見だけべらべら喋る、まるで独り言だった。
「美樹ちゃんは本当に死ぬつもりだったと思う、だからオレ達のドッペルゲンガーは警鐘を鳴らす為に現れた」
「なぜ、オレ達だったのか?幼馴染だったから?…多分、ペットの埋葬だ」
「雨が降ったあの時の子猫は、実は彼女が殺したんだと思う」
そこで正ちゃんは、微かに頷く反応を見せた。彼も状況を考えて同じ風に感じていたのだろうか、オレは構わず話し続けていた。
「理由は可愛さ余ってだったか、病気だったからか?ともかく安楽死に近い方法だったろう。奇しくも、今回とまったく同じケースだった。だから強くイメージされて、オレ達のドッペルゲンガーは遠藤美樹によって形成されたのか、呼び出されたか?…だった」
「ドッペルゲンガーは、自分自身に出会うと命に関わるらしい、だから死に関係の無いオレ達は、お互いが友人を見るにとどまった。今回の事は2つの在り様を考えなくちゃいけない。まずオレ達のドッペルゲンガーは確かにいた。『警告』の為に」
「で、オレ達がいたのなら。美樹ちゃんのドッペルゲンガーもいた筈だ。彼女は自殺も考えていたから…こちらは定説の通り『死』の為に。じゃあ肝心の、遠藤美樹のドッペルゲンガーはなぜ姿を現さないのか?どこにいったのか?」
だから彼女を此処に連れてこれなかった、とオレが呟くタイミングで、オレ達は施設の暗闇から光に満ちたグラウンドに出る。正ちゃんは改めて分からないと態度を露にし、オレの説明は自問に変わり。オレ達は共に歩調を緩め、ゆっくりとグラウンドの中央に進んでいた。
「彼女のドッペルゲンガーは、彼女自身―現在の美樹ちゃんの前にも現れていない筈だ。なぜなら彼女は、生きると決めたからだ。彼女が自分のドッペルゲンガーに出会ってしまっていたら、もっと悲観的になっていただろう。なぜ現れないのか、いや、もしかしたら動けないでいるのか?」
オレ達は、広い芝のピッチのほぼ中央まで歩んできて、そこに立ち止まる。オレは「正ちゃん」と声を掛けてから。
「現れないのか、動けないのか理由は分からない。ただ多分、美樹ちゃんのドッペルゲンガーがいるとしたら此処だよ。オレ達はこの辺りに子猫を埋葬した…」
すると。果たしてそこに…少女の立姿が、揺らめき現れていた。
幼いまるであの日の姿で、遠藤美樹は1人だった。正ちゃんが驚いてオレを見て「ゆーちゃん、此処にいるって、何で分かった?」
「作家の感性をなめるなよ」
もちろんオレも半信半疑ではあって、決めセリフを吐いたつもりだったが…オレの呟きに過ぎない。実は、全容が分かった気がしない、自身にすら説得力がなかったのだが。
オレ達は、少女に声を掛けようとし、お互いに申し合わせたようにそれを止め、お互いに制し合っていた。
少女の遠藤美樹は、オレ達に気付いていたがそれ以前に、何かに抗っていた。よく見ると、か細い彼女の手首を、何者かが握っている。握っているのはこれも子供の手だ、手首から先しか分からないが、オレには特徴で直ぐに分かった。右を握る色黒の手、男の子の手、正ちゃんだ。左側の手は輪郭がはっきりしないが。驚いている正ちゃんの表情から、彼にはそれがはっきり見えるオレの手らしかった。
つまりこういう事だったのだ。…オレ達のドッペルゲンガーは、『警告』の為だけに現れたのではなかった。遠藤美樹のそれを拘束して、彼女を引き止めて、彼女自身の元へ彼女を行かせないように、『死』に近づけないように守っていたのだ。オレと正ちゃんの2人は、相互に必要としていた。オレが正ちゃんの前に姿を現した時は、正ちゃんが。その逆の時はオレが。彼女の手を離さず、ここで頑張っていた…
少女の遠藤美樹の姿は、次第に虚ろになっていた。それはそうだろう。彼女は今、警察にいる、生きようとしている。彼女のドッペルゲンガーは、存在出来なくなっているのだ、とオレは達観に似た了解を憶える。
ただ悲しかった。この少女はこの為だけに現れ、また失われていくのだろうか。
と、その時、彼女の両手が自由になる。オレはギョッとする、なぜオレ達は(拘束の)手を離したのだろう、まさかと吹きだす汗を感じたのと、彼女が自由になって両手で何かを受け止めたのと、彼女が微笑んで消えてしまったのを理解したのは、同時の中にある一瞬だった。
オレと、正ちゃんは顔を見合わせていて。次に、お互いの瞳から止めようもなく涙がこぼれるのを、お互いに笑い合っていた。
彼女は、最期に自由となった。彼女が受け止めた物、それはラグビーボールだった。
(了)




