その2
その料亭は、居酒屋がある賑やかな地区から、少し外れた閑静な場所にあった。
タクシーで走る事、暫し。そこに降り立ってみると成る程、この辺りは静かな料亭小路の空気だと分かった。
灯の入った石灯篭に透く布地の屋号があり、木塀に囲まれた広い敷地のまず表格子を潜る。
玄関前は打ち水がされ、盛り塩が置かれ、蹲がしつらえてあり、明るい玄関に足を踏み入れると香の香りがする、そこは格式ある料亭らしかった。
(カウンターや、厨房が見当たらない処なんて初めてだな)
などと、キョロキョロどぎまぎしたのはオレだけではない。正ちゃんも「はぁ」と感嘆して、数寄屋造りの梁や長押しを見物していた。
もちろん仲居の対応は丁寧だった。彼女に従い、竹林の中に清流の音がする中庭を巡るように長い廊下を行くと、案内された座敷は最も奥ばった処にあるこじんまりとした和室で、そこではふすまを開けて庭を伺い、接待する仲居とお喋りをしている女性がいた。
それが、既にそこにいてオレ達を待ちわびていた、遠藤美樹だった。
彼女は、小紋だろうか和服姿に、髪を夜会巻きに結う装いで、静かな女性同士のお喋りを―庭の風情を語らっていた様子だったが、オレ達を見て慌てたようになる。傍の仲居に「では、主人から連絡があればお願いしますわ」と云い「揃いましたので、お願い致します」とも告げる。
仰々しい挨拶をすまし立って行く仲居と入れ替わる風に「どうぞ、お久し振りです」と俺達は、硬い表情の遠藤美樹に座敷に招き入れられたのだった。
「すみません、都合で主人は遅れてまいります。上座は…ええと、どうしましょう」
何だか落ち着かない和服の婦人と、中年男性2人がそこにすくみ立つ、うろたえる始まりとなった。
ところが、オレ達はひと呼吸のうちにもう無造作に、テーブルを囲み勝手に座り込んでいた。何もかも高級そうな料亭の廊下を歩く内に、奇妙な気後れをオレ達は申し合わせたように息苦しく感じていたし、そもそも我々は軽く一杯やって来たのだ。
だからといって無礼無粋のつもりもなく。こだわらない感じで「美樹?」「美紀ちゃん?」とオレ達は笑ったのである。
遠藤美樹は目を丸めたが、不意にふぅっと息をついて。すとん、と俺たちの向かいに座り込んでしまう。
緊張が、すっと解れたようだった。彼女は、大人の美しい婦人となった表情に、少女のようなあどけなさを浮かべて「はーっ、緊張した」
オレ達は顔を見合わせるし、彼女は赤面になるし、であった。
「お久し振り。正ちゃん、ゆーちゃん、2人共本当に逢いたかった。美樹です」
静かにだが、3人は思わずハグしあうほどの歓声を上げて、仲良し3人組のかつての時間を取り戻したのである。
料理は秋の懐石料理だった。銀杏や松茸の炭火焼き物、和え物、鯉のお造り、むかごの吉野葛寄、エトセトラ。オレはビールで、正ちゃんは冷酒を美味そうに呑んでいた。遠藤美樹もいける口らしく、杯は箸と程よく進む風だった。
「ふうん、2人共立派になっちゃって」とは、少し顔を赤らめての、遠藤美樹がオレ達を評しての弁だった。
3人が歩んだそれぞれの人生の経緯については、華を咲かせる思い出話の其処かしこで語られおよそ窺い知れて、それぞれで感じ入る処だった。
オレにしてみれば、勉強が苦手だった正ちゃんが、今や一流企業に勤め、これからのポストを任されてというのは立派だ。それにもまして遠藤美樹の現在は、夢物語のヒロインのように輝いて見えた。彼女は、この辺りでも裕福と名が知れた名家に嫁いでいた。ご主人は西日本屈指の呉服店の経営者の令息だ。次男坊だという。
彼女は「次男だから大したものでも無いの」と、羨ましがる我々に恥ずかしがり「だからこの宴会は私に持たせてくれて構わないのよ」とも言ってしまい、返って羨望のブーイングを蒙ってしまったりした。
オレ達の羨望をよそに、遠藤美樹は男達をしきりに褒めてばかりいた。お世辞ではなく、目を細めてオレ達に見とれて喜んでいた。
オレはというと、時々彼女を盗み見て、彼女の左手の薬指の結婚指輪を見つめ、和服の装いにしつらえの良さを感じ、高価そうな髪留めやイヤリング等を眺め、頬を緩めて(幸せそうだな)と感じていた。正ちゃんも同じ思いだったろう。
このように3人は概ね幸せであったといって良い。ただし、語らいに変調がなかった訳でなく、その下りを描いておこう。
それにしてもと、何度目にもなる感嘆で「正ちゃんも立派だけど、ゆーちゃんもスゴイ。作家だなんて」と、遠藤美樹がオレに焦点をあて「だけど、まだ独身が玉に瑕ね」
うーんと、苦笑いのオレを、彼女は更にからかった。
「昔からモテてたじゃない?ちゃんと彼女はいるんでしょ?作家さんなら尚更に、周りが放っておかないと思うわ」
答えにくいと言うか、セレブに臆してしまうというか。オレが正ちゃんを伺うと「俺も、同感だ。早く所帯を持つべきだと思う」と彼は返し、彼女と似た笑い方をするのだ。
「ネコと暮らしているしな。オレは今家庭を持つとか、あんまり考えてないかもな」
オレは、素の意見を述べたつもりだったが、他の2人が急に固まってしまっているのに気付いて「え?」
しまった、猫イコール彼女論は問題だったか。オレは少し複雑な思考の末「…でも」と、弁解のような抗議にも似た口ごもり、となった。
オレの猫好きは昔からだ。殊に我が家のミェネコは、まるで女房気取りでオレの横にいる、だから心が満ち足りている―こんな愛猫家の論理が、世間に通用しない事はもちろん知っていて、それを迂闊に洩らしてしまったのは、オレの失言でしたと頭を掻く。これが弁解だ。
抗議とは、美樹と正ちゃんがそこに疑念するのは変だろうという、まるで、少年少女の気分を取り戻していたオレが調子に乗った言い分だった。まるで昨日まで。夕方遅くまで教室に残って、お喋りをしていたじゃないかと言いたいオレは「でも、オレ達って動物は好きだったじゃないか。正ちゃん、美樹ちゃんにだけは言われたくないよ」
ええ?と正ちゃんは苦笑いだ。
「オレ達はペットの葬式もやってた仲じゃないか?ほら、学校の裏山にさ」
オレが幼い日のように口を尖らせると「ああ、そうか」と、ようやく懐かしむのは正ちゃん、美紀ちゃん共にだった。
「小鳥や、学校飼育のウサギ…純粋だったね、私達」
遠藤美樹は呟き、寂しげに笑い「でも、昔の話だわ。忘れちゃった」
オレも、もちろん頷く。頷くのだが少し寂しく思い、軽く裏切られた気分を、遠藤美樹に僅かに胸が痛む思いで感じていた。理由があり、在りし日の少年時代が思い出される。
オレ達が通っていた頃の当時の小学校は、20年程前にはまだ土地の再開発などなく、学校の周辺にはいくつも畑や小山があった。度々ではないがオレ達は、自分達のペットが亡くなった時は共に泣き、小学校の裏山に丁寧に弔う埋葬をした。両親達が行ってくれた事もあったし、自分達の手だけでやった事もある。
ひときわ記憶に残るのは、遠藤美樹が飼っていた小さな子猫を埋葬した時の記憶だった。彼女はずっと大泣きだった。オレと正ちゃんが穴を掘り、土を被せてやった。線香を立て分からないながら手を合わせ、ぐずぐずしていたものだから、気配があった雨が落ちてきてしまい、3人はズブ濡れになって走り帰った、オレは(美樹ちゃんの涙が雨になった)と、思いながら。
正ちゃんも、その事に想いを馳せていたのだろうか。懐かしむような、でも寂しい話は止めようと困り顔で、それを見て取ったのか慌てて男達に酒を勧め、話題を変える遠藤美樹、となる。
「ところで、なぜ急に連絡をくれたの。突然で、私は驚いたのよ?」
うん、それがなぁと、正ちゃんはお酌に恐縮しながら。
「ドッペルゲンガーだったんだよな…そんなだよな?ゆーちゃん」
やっぱり説明はオレか、だ。もちろんオレは怖がらせないような口ぶりで、を意識した。
「ドッペルゲンガーはさておいて。この再会を祝して、世にも不思議な現象はあった。時を同じくして、オレと正ちゃんは、それぞれ近所で少年時代のお互いに、出会ったんだ。もちろん、そっくりさんだと思う。でも、それが連絡を取り合うきっかけを作ってくれたんだよ。美樹ちゃんの事も懐かしくなって、人妻なのに連絡したんだよね、正ちゃん?」
正ちゃん「うん、そうそう、ごめんな、忙しいのに」で、オレは大笑いになる、遅れて釣られ、遠藤美樹も笑ってみたようだが怪訝色。
「ドッペルゲンガーって、聞いた事があるわ、出会う筈がない人に出会う…幽霊でしょ?」
「いや、そんなのじゃないよ」
オレは慌てて否定する、やはりこんな事で怖がらせたくないのだ。
「自己像幻視っていうんだ。つまり、自分とそっくりな自分と出会う場合がドッペルゲンガー。今回は、オレ達はお互いを見た訳だから他人を見た事になる。だから一応ドッペルゲンガーじゃないし、奇怪な事でもない。他人の空似だね、良くある話じゃないのかな?」
「俺達って神様が仕向ける程、よっぽど逢いたかったんだよ、な?美樹」
正ちゃんが、ふざけて笑わせようと冗談の合の手を入れるので、聞く彼女も可笑しそうに笑った。
「そうなんだぁ、不思議な事があるのね…」
少し考え込む彼女だ。オレ達が、いや、今の話は怖がらなくてもいいんだぞ、と軽く慌てると首を横に振って「いいえ」と彼女。
「てっきり。あまり良くない…何か相談事かなと思って」
彼女は躊躇いがちだった。遠回しにボツボツと語るには。彼女の恵まれた境遇を知る友人も居るだろう、これまでにも幾度か、突然旧友から連絡があり。逢ってみると融資をしてくれだの助けてくれだの、決まって面白い話ではなかったのだ、という。
「正ちゃんと、ゆーちゃんだけはそんな事ないって思っていたの。だから正直、ホッとしたわ」
ふえ、そうなのか?とオレたちは苦虫を噛み潰しの顔で「金持ちって大変だな」「それって大学時代の友達だろ?美樹は、市立の女子大だったよな」
しばらく、苦笑いのまま彼女は押し黙っていた。初めて宴に間伸びした空気が漂い、男達がその空白に気付いたのは、おずおずと「あの…」と遠藤美樹が切り出したからだった。
「だけど2人になら。私に出来る事があれば、助けてもよくってよ?」
「?」
「他の人は嫌だわ、でも私の一番の思い出は貴方達2人だわ。貴方達になら私、いくらでも援助してあげたいわ」
彼女の言葉に、オレ達は顔を見合わせていた。
「本当に出来るのよ、私、お小遣いなら充分あるし、主人に相談もできるし」
待て待て、正ちゃんは苦言になるが表情は優しい。オレも困った、の苦笑いを作った。
「それは逆援だぞ、逆・援助交際。巷では流行らしいが、それは風俗みたいな、その…変な話だぞ」
「芸術家に当てはめるのなら、それってパトロンだぞ。売れないが才能のある青年の特権だ、オレ達若者じゃないぞ」
オレ達がとやかく言い始めたから、それに抗う遠藤美樹で「でも、困っているなら言ってくれてもいいのよ?」
正ちゃんは敢えてワハハと笑って、もう話の腰を折るぞ、だった。
「美樹?俺は大丈夫だよ、女房もいるし。そんな援助、アイツに知れたら何と言われるか…恐ろしい」
でもゆーちゃんは独身だし、いっそ此処は美樹と変なお付き合いをしてみてはどうだい、ゆーちゃん?などど正ちゃんのキツイ冗談だ。振られてオレも慌てる。
「オレだって大丈夫だよ。オレだって、猫に知れたら…大変だ?」
オレの珍妙なセリフにそれで場は、軽く沸く笑いとなった。
我に返った遠藤美樹は顔を赤らめて、私何を馬鹿な話をしたのだろうと恥じ入っていた。此処まで思い入れてくれる優しさに、もとより男達が感激しない筈はない。座敷は和やかな空気を取り戻し、最後まで気持ちの良い宴となったのだ。
結局、遠藤美樹のご主人は姿を見せなかった。仕事の都合がつかないと、仲居が連絡を告げにやってきて、それが良い時間だったので、それで散会のきっかけとなった。
オレ達が料亭を後にしたのは、まだ早い夜で、22時頃だった。正ちゃんとは、いくつかハシゴ酒になった。彼は馴染みのスナックをどうしても紹介してくれると退かないので仕方なくだ。それでも、オレの帰宅は午前様にはならなかった。
この夜の酔いによる眠りは、なぜか浅かった。中途半端に酔いが醒めた不快感でトイレに立つ。
オレは、目が冴える気分を憶えて書斎に向かった。原稿の入稿日や人に逢う都合など抑えてから、ベットに戻ればすぐに眠れるだろう…
書斎をうろうろし、ふと窓に目をやると。その時、戸外に人の気配を感じたのである。
カーテンを薄く開けて、月下の庭を見ると。そこにはあの団地で見かけた姿のままの、正ちゃんが再びいて、オレを見つめていたのだった。
驚くなり、戦慄なりになろうものなのに、オレはこの時も不思議さばかりを感じていた。脳裏に浮かんだのは、数時間前に、家路に向かうタクシーの車内での正ちゃんだった。半ば寝ているかと、程よく酔った彼は独り言を言った「逆縁の話は我ながらまずいと思ったんだろうな?美樹の顔色が変わってたな」そして、苦く「美樹も結局。金持ちの常識外れの奥様に堕ちていくのかな」と呟き、寂しそうに目を閉じていた。それを聞きながら苦く笑うばかりのオレだったが。美紀ちゃんの顔色が変わったのは、むしろドッペルゲンガーの話を聞いた時でははかったか、とオレは感じたのだ、と、なぜか思い出す。
(正ちゃん?なぜまた現れたんだ?)
瞬きの間にだったのだろうか、次の時には、庭木の横に立つ幼い正ちゃんは消え失せていた。気付くとオレの足元にミェネコもやってきていて、その怪訝さを認めたのか、彼女はニャンと小さく鳴いた。
伊藤正一、遠藤美樹。
彼らとの再会は終わったのに、まだ終わっていない何かがあるのか?どちらかの身にオレの知らない何かがあるのだとしたら、それは一体何であろうか。




