その1
オレは自宅に戻る為、いつものように路筋の途中で近所の団地を迂回した。左側の視界に、団地の敷地内の隅っこに在るネコの額ほどの、小さな砂遊び場を眺め行くのだ。
出版社からの帰宅途中だった。彼らを目撃したのは偶然だった。
連載小説の原稿に派手に校正を入れられ、展開がぐちゃぐちゃになってしまった束と、増えてきたファンレターの何通かを無造作に入れた紙袋。それとは別に、スーパーで買ったネコの缶詰とバラ売りの完熟オレンジをごったに詰めた紙袋を小脇に抱えて、そこを通りすぎようとしてふと目をやった先に、彼らはいた。
その砂遊び場にいた小さな少年は、かつての幼馴染みの正ちゃんだったのだ。
判別は―もちろん当時の印象的な姿も手伝ったが、理由も無く忽ち分かる直感の類、のものだった。
他人の空似でなく間違いなく、少年は幼馴染の正ちゃんだった。まだ10才に達していない頃の、だろうか。そこに座り込んでいた正ちゃんも、オレをゆーちゃんだと認めた風にこちらをじっと見つめていた。
だが、なぜ彼は幼い姿のままなのだろう。オレと同い年だから、もう30過ぎのオッサンの筈だがと奇怪に思ったが、寒気などは感じなかった。
ただし双方に、無言の戦慄に近い空気感があった気がする。
それに耐えられなくなったのか、幼い正ちゃんは不意に砂場から立ち上がり、奥の水飲み場の後ろに、走り去るようにして回り隠れてしまう。注意から逸れて(それて)いたが気付くと連れ添う少女がいて、その子も付き従い追うように隠れたのだったが。
だとしたら少女も。これも幼馴染の美樹ちゃんじゃないのか。容姿もそんなだったと、今度は印象を当てはめて、これは後追いして気付く感覚で。
オレはいぶかしく思い、光景を注視したまま団地を囲う網柵を回り、砂遊び場に立ち入ってみたのである。
砂の城を作っていたようだったが、見ると砂地は起伏なく空ろ(うつろ)に平坦だった。そこからだと水飲み場に背後の死角はなく、先にある駐輪場の情景が見渡せた。景色は、見通す空間に何もなく誰もいないかを強調するように、先には手前から数台目の自転車が、後輪をカラカラと回転させていただけだった。
このように、幼い姿のままの正ちゃんと、いつも3人組だった同じように少女の美樹ちゃんは突然現れ、忽然と姿を消してしまったのである。
オレはその夜になって、書斎で想いに任せてウィキペディアを検索した。
ドッペルゲンガー、離魂、自己像幻視。
自分の姿を第三者が違うところで見る、または自分で違う自分を見る現象。自ら自分のドッペルゲンガーと出会う体験をした場合には、「その者の寿命が尽きる寸前の証」という民間伝承…
オレはぼんやりと、自分の姿を見た訳じゃないと考えて。では他人、正ちゃんに会った場合はどうなるのだろう。
それにしても危ない解説が並ぶもんだと、しばらくディスプレイを眺めていたら、机の傍らに愛猫のミェネコが佇んでいるのに気付く。晩御飯はまだでしょうか、という催促ではないのだ。この娘はオレが物思いに耽る(ふける)と、必ず足元に鎮座する賢い猫なのだった。ミェネコが見せる落ち着いた気配のおかげで、ふいに時間を取り戻したのだった。
オレは机から離れ、間続きの洋間を横切って、庭に面する窓ガラスから、既に夕暮を過ぎた暗闇の下の庭の木々に目をやる。サッシの窓枠に結露がありそれは幾筋にもなって、涙のように硝子を伝い流れていた。
まだ早い時間とはいえ夜分に、正ちゃんに連絡を入れてみる気になったのは、幼馴染に何かあったのかもしれないという嫌な胸騒ぎがあったからだ。
正ちゃん、美樹ちゃんとは中学まで同窓だった。仲良し3人組といえども、それぞれに個性が芽生える思春期を過ぎた頃には付き合いもなくなり、時々すれ違うたびに、お互い淡い憧憬に微笑んでいた程度に薄縁となっていた。だが友人として身を案じる事も出来ないほど心が遠く離れた訳じゃないと、オレの内では整理されていた。
約20年振りか、に連絡を入れてみたオレを、正ちゃんは随分驚いた風だったが「よう、ゆーちゃん、元気にしてるのか?」と弾ける彼の声はほころんでいて、オレの耳に懐かしく心地良く届いた。ドッペルゲンガーが心配だったというのは、案外旧交を温めるただの口実だったのかもしれないと、オレは安堵よりも遙に胸を熱くする懐旧の想いを感じたのだった。
「や、久しぶり。裕だよ、おれは元気だよ、正ちゃんがどうしてるかと思ってさ」
お互いに近況を語らい合う、気が付くと存外に盛り上がる会話になった。そんなものだろう、懐かしいクラスメートの名前や、エピソードがお互いの口から次々に繰り出されるのだから。
但し、では時間を作り再会しようかという話にまでには至らない筈だったのだが、不意に語られた正ちゃんの一言が空気を変える事になった。
「実は昨日、ゆーちゃんに良く似た子供を見かけたぞ、それでお前を思い出していたんだ。不思議だな。タイムリーにゆーちゃんから連絡があるなんて」
オレは眉を寄せていた。慌ててこちらも実は…と、昼間の状況を語ってみると受話器の奥の正ちゃんも不穏に思ったようだ。
「オレの場合は自転車に乗った子供のゆーちゃんとすれ違ったぞ。そう言われると並んで走っていたのはどこかで見た女の子だった…美樹だったかもしれんな」
週末だった。
かくしてオレ達は、明日の夕刻に会わないか、ちょっとどこかで一杯やろう、という話になったのである。もちろんオレは、久し振りに逢う古い友人の笑顔が楽しみなばかりだった、ともすればドッペルゲンガーの件など忘れてしまうほどに、であった。
オレは、紫煙をくゆらせて賑やかな週末の居酒屋の空気を楽しんでみた。
久しぶりに楽しい感じで酒を飲む。周りにはサラリーマンのグループや、若い連中のサークルの塊だろうかが、ワイワイとやっている。
オレも会社勤めの頃は、よく連れ立って飲んでたっけと、談笑に沸く店内の空気に会社勤めをしていた頃の回想を誘われ、懐かしむ内にこれまた懐かしい、向かいの座る正ちゃんの姿を眺める。あぐらをかいてジョッキを煽る(あおる)彼は随分大人になったが、やはりオレの目には、どう見ても少年時代の正ちゃんの大人版だった。
正ちゃんも30代前半、意気盛んな大人だ。中堅電機メーカーに勤めそれなりのポストを与えられて、毎日大変だとおしぼりで太い首周りの汗をぬぐい、愛妻に、中学生と小学生の2人の娘に囲まれてこれも大変だと、ビールの泡を飛ばしながら彼は語った。
で、ゆーちゃんには驚いたな、小説家なんて大変だな?と正ちゃんに切り出されて、今度はオレの近況報告だ「まぁ、オレはオレなりかなぁ」
20作位シリーズものを描いたかなぁ、1万部位売れてるよ?へえ、そりゃスゴイ、よくわからんのだがスゴイ事だな、で、結婚は?そりゃ、縁あっての事だし、なぁにこれからサ、オレも正ちゃんを見習って頑張りたいよ…
若く細身の店員の娘が、器用に幾つかのビールの中ジョッキと、複数の料理皿をかかえ、背後をすり抜け際に「ドウゾ」とジョッキを置いていく。そんな風でまだジョッキ一つしか空けていない早い時間に、店内に正ちゃんの名を尋ねる店員の、連絡を告げる声が響いていた。
「伊藤正一様、お電話です、いらっしゃいますか?」
ほい俺だ、と正ちゃんが立ち上がる。美樹だろうと呟いてから、彼は店内の電話口に向かい立っていった。
遠藤美樹、今回の幻の3人組の一人だ。正ちゃんは彼女にも連絡を取っていて、今日はこの居酒屋でささやかな再会の宴を楽しむ段取りだった。彼女は遅れて来るのであろうか、会話の中で正ちゃんからは「ご主人とやってくると快諾した」と聞いていたが。
苦笑いをしながら「まだ30分ですが、撤収でぇす」と言いながら正ちゃんは戻ってきて「やっぱり美樹だった。場所を変えてくれと言ってきたぞ。あいつ昔のまんま我儘だよ」
場所を変えて呑み直す事になったのだった。
向かう先は、この地域でも有名な高級料亭だというので一瞬耳を疑ったが、オレも苦笑いとなった。これも正ちゃんに教えられて初めて知った事だが、美樹ちゃんは金持ちの家に嫁いだらしく今や豪奢女性で、だからをそんな場所をセッティングしたに違いない、オレ達には場違いなのにだ。
オレは口惜しくて、小皿に残る根野菜の煮っ転がしを口に放り込んだ。しばしの時、居酒屋の料理の匂いに煙る店内を眺めていた、名残惜しかった。




