第58話
網膜と血液を読み取り、識別しているのだと気づくと、少しの緊張を覚え、背筋がピンと伸びた。
カチ、カチ、と機械音が鳴り始めた所で、状況が一変する。
「ジョシュア・バートンに騙されるな!」
突然、切り裂くような怒声がフロアに響き渡ったのだ。
ベンチと柱、美術品しか置かれていないがらんどうのこのフロアでは、音が幾度もさまようので、怒声の衝撃はすさまじかった。
突如の事態に驚いたイブが絵画の女性から離れると、それまで調子よく聞こえていた機械音は、シュンと間抜けな音をだして黙り込み、一瞬、フロアは静寂に包まれた。
ノーマンはイブと、けが人のユージーンを庇うように両手を広げて彼らの前に立ちはだかると、どこか聞き覚えのある声の主をにらみつけた。
「ウィルソンさん!?」
「ノーマンさん、彼らから離れて、騙されてはいけません。」
声の主は、間違いなくアイザック・ウィルソンだが、キリキリと胃が痛んできそうな重く険しい表情は、それまでの真摯で穏やかな姿とはかけ離れた別人にしか見えず、イブとノーマンは目を疑う。
土埃にまみれ、清潔さが失われたウィルソンの手には、今の姿に良く似合う薄汚れた小口径の銃が握られていた。
「騙すも何も、君に爆破されて死にそうなんだが?」
強がって茶化すバートンは「だまれ」とウィルソンに銃口を向けられ、慌ててノーマンの背中に隠れた。
何故だか、ノーマンだけは害されないような気がして、頼もしい彼の背中にいると、すこしの安堵感が生まれるのだ。
「ウィルソンさん、一体、なにが?どうやってここに?」
「私が最上階を爆破して、壊れたEVをロープで伝って下りてきました。質問はそれだけですか?」
早口で答えるウィルソンに「どうして、爆破なんて」と質問を追加する。 ここで会話が途絶えたら、まずい気がした。
「最上階の保守派の連中を、ぶっ壊すためですよ。」
地上30階から地下20階までロープでおりてきたとは俄かに信じられないが、ウィルソンの憔悴具合と、所々ぶつけたのか、落下したのか、生傷の多い姿を見ると、あながち嘘ではないようだ。
「ノーマンさん、どいてください。そいつは、バートンは、殺してやらないと気が済まない。」
「ちょ、ちょっと待ってください、ウィルソンさん。」
「邪魔するなら、あなたも一緒に殺します。」
ウィルソンの脅し言葉に、ノーマンは不快感を覚えた。
「・・・もとより、そのつもりだったのではないのですか?」
「は?」
「落下するEVの中に、私たちがいることを知っていたのでは?私も、イブも、大家さんも、死んでもかまわないと思っていたのではないですか? それに、マチルダさんを、どうしたんですか?スリーさんも、ワンさんも・・・どうしてですか?仲間だったはずでは!?」
「うるさい、そんな単純な事ではないんだ!」
「ええ、単純ではありません。だから聞いているんです。」
ノーマンはお手上げという意味で両手を広げ、わからないという意味で、首を小さく左右に振った。
ウィルソンは構えた小口径の照準をノーマンに合わせることが出来ず、ぶるぶると震えている。
ままならないな、と思った。
ショワンのスラムで、マチルダたちとあんなに密に計画を立てていたはずなのに、何がどうして、こうなったのだろう。
ウィルソンは、あの時からこの計画をしていたのか、途中で何かがあって、こうせざるを得なかったのか、どちらだろうか。
しかし、それよりも今は、先ほどのバートンの話から浮かんできたひとつの不安が、ノーマンの胸中を責め立て苦しめている。
胸をざわつかせている唯一の事、それは、イブのことだ。
バートンの話では、それまでウィルソン家が大事に守ってきた門外不出の情報を、イブのひいおばあちゃんは、どうにかして手に入れた。 300年の秘密を、そう簡単に渡すだろうか?
ブラウン家の一人勝ちになるのは、わかっていたはずだ。
もしそこに穏便なやり取りがあったとしても、過酷な状況に残されたアイザック・ウィルソンが、真相など気にせずにブラウン家を逆恨みする可能性だって大いにあった。
現に、こうしてEVごと落下させられている。
上手く口論できないウィルソンは、ままならない己の言葉を戒めるかのように唇をかみしめ、意を決して小口径の銃を構えなおす。
その照準は、ノーマンたちをまっすぐ狙う。
銃口を向けられると、体温があがり呼吸が早くなる。 無意識に興奮している己の体が勝手に視野を狭くしていくので、不快だ。
「最上階に何があるか、知ってますか、ノーマンさん?」
最上階は、バートンいわく、保守派の専用フロアだったはずだ。
しかし、バートンは最上階については、歯に何か挟まったような何か含んだ物言いをしていた。
最上階に何があるのかは、ウィルソンに直接聞け、と。
「何があったのですか?」
「なにもなかった。」
「何も?」
「保守派と呼ばれる奴は、トップは、生きていない!」
「生きていない・・・?」
「ノーマンさん、どいてくれ!あとは、お前だ!バートンを殺さなくてはいけない!」
興奮したウィルソンの手の中で、ガチャリと小口径の銃が音を響かせると、全員が緊張して背筋がピンと伸びる。




