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第15話 静音の筆――沈黙を名でほどく

 夜の評議が明けた朝、王都の空はやけに澄んでいた。

 寝物語の輪はそのまま朝の読み合わせへ移り、子どもたちは「まだ」を合言葉に笑っている。祈祷所の柱には新しい貼り紙――《夜の評議:参加者募集中(読み手・聞き手ともに可)》。


 私は広場の端で伸びをし、胸元の《最終章》を軽く指で叩いた。

 ――熱は穏やか。

 “まだ”が国の呼吸になりつつある。


 「殿下」

 影からクロエが現れる。黒衣が朝日を撥ねて、鳥の羽のように艶やかだ。

 「アステルの居場所、絞れました。宮廷写字局の旧塔――写字塔。本来は古写本の乾燥庫兼見本室。今は休塔ですが、夜間だけ灯りがともる」

 「静音の作業場、か」

 「ええ。人の“息がない”場所で筆を走らせるタイプ。――殿下、昼は広場で“表の戦”。夜は塔で“裏の戦”。二面作戦、いけます?」

 「いける。昼は公認の討論オープン・スクリプト、夜は名指しの問答だ」


 アレンが合流した。

 「殿下。門の列は安定しています。騒ぎはありません。もし今日……その、殿下が“筆”で戦うなら、俺は隣の剣で場を守ります」

 「ありがとう。剣の出番は、言葉が尽きた時だ」

 「尽きさせません」

 彼は笑ったが、眼差しは真剣だった。ああ、この人に“孤独な英雄”なんて名札は似合わない。隣の人でいい。


昼の広場――公認の討論


 昼、広場に簡素な壇を組んだ。

 題目は**「偽りの英雄伝 公開討論」**。壇上には王家の机、歌い手代表の椅子、史官の写字台。そして、空いた席がひとつ。

 「本日の嘉賓は、宮廷出版局匿名筆者“無記”。――もし誇りある筆なら、名乗って座ってくれ」

 私が告げると、ざわめきが起きた。しばしの空白。やがて、灰青の外套をまとった女が人波を割って現れる。

 痩せた指、薄い唇。瞳の奥は静かすぎて、鏡のように自分の顔が映りそうだった。

 「“無記”では来られません。――アステルと申します」

 ざわっ、と空気が揺れる。名が呼ばれた瞬間、脚本庫の糸がひとすじ震えた気がした。

 私は椅子を示す。彼女は迷いなく座った。


 「ようこそ。では、始めよう。――最初の問い。あなたは『英雄アレン伝』で、“王子は嫉妬に燃え、英雄の光を奪う”と書いた。根拠は?」

 「秩序です」アステルの声は静かで、波紋が立たない。「秩序は“中心点”を必要とします。英雄という光に視線が集まれば、視界は揺れません。王子の役目は“影”。影が濃いほど光は鮮烈になる」

 「なるほど。だが、その影は誰の影だ?」

 「読者の」

 「違う。――書き手のだ」

 広場がざわつく。私は続けた。

 「あなたは“孤独な英雄”が好きだ。孤独な英雄は書きやすい。余白に作者の悲憤を詰め込める。だから『隣の声』が邪魔だった。王子も、友も、婚約者も。あなたの孤独を英雄の器に注いだ」

 アステルの睫毛がかすかに震える。だが声は滑らかだった。

 「殿下。あなたは“場”を愛している。場は人を甘やかす。声は濁る。美しい物語は、濁りに耐えません」

 「違う。濁りは“合奏”だ。――音が重なれば、調和は作るものになる」

 私は合図し、リリアナが歌の一節を響かせる。

 《火を分けるよ 小さな手でも》

 子どもらの声が重なり、職人の低いハミングが輪を支える。

 「どうだ。濁ったか?」

 「……」

 「厚くなったのだ。物語は薄さで美しくなるんじゃない。厚みで生き残る」


 史官がペンを走らせる。

 「議事、記しています。“厚み”の定義、要請」

 「厚みとは、“隣の声が入る余白”だ」

 私は即答した。アステルの指先が僅かに強張り、紙の角が鳴る。


 討論は一刻続いた。彼女は巧みだ。言葉を磨き、比喩で煙に巻く。しかし、名はもう隠れない。アステル。名指しされた筆は、沈黙の鎧を少しずつ落としていく。

 最後に私は言った。

 「あなたを裁くために呼んだのではない。輪に入ってほしい。筆があるなら、ここで振るえ。地下ではなく、ひなたで」

 アステルは初めて視線を落とした。

 「……答えは、夜に。――場所は、写字塔」


写字塔――沈黙の由来


 夜。

 写字塔は王城の北東にひっそりと立っている。石壁は乾いた灰で、窓は狭く、風が角で音を立てる。

 私はアレンとクロエ、史官ヴェルドを連れ、最上階の見本室に入った。

 灯が一つ。机が一つ。そこにアステルがいた。窓辺に背を向け、古い羊皮紙を広げ、静かにこちらを見た。


 「殿下。――沈黙の話をしましょう」

 アステルは机の引き出しから薄い冊子を出した。表紙は朽ちた青。題名は掠れて、辛うじて読める。

 『沈黙の編年』。

 「これは……」史官が目を細める。「写字局の禁書群の一つ。記録から落とされた事件簿」

 アステルは頷く。

 「私はここで育ちました。筆を学ぶより先に、“消す術”を教えられた。王が困る声、国が揺れる声。――“沈黙に編む”技術です」

 喉が渇く。私は一歩近づいた。

 「あなたの“静音”は、名誉ではなく罰だったのか」

 「名誉よ。だって、国は静けさを好むもの」

 それでも彼女の声の底に、微かな石の欠片みたいな痛みがあった。

 「だから、私は孤独な英雄を書いた。――声を黙らせる技術の極北は、独白です。誰とも交わらない英雄なら、誰の声も邪魔にならない」

 アレンが息を呑む。

 「それで、俺を」

 「ええ。あなたは書きやすい。まっすぐで、余白が広い。――殿下が隣に立たなければ」


 私は胸の札を握る。

 「《最終章》が鳴くのは、決まった結末に近づく時じゃない。選び直しが起きる時だ」

 アステルの目がわずかに揺れた。

 「選び直し」

 「あなたも選べる。沈黙を編む筆か、余白を開く筆か」


 クロエが窓に背を預け、頬杖をつく。

 「アステル。あなたは“敵”に置いておくには惜しい。――輪に入る?」

 沈黙。

 長い、長い沈黙。

 塔の外で風が鳴り、机上の蝋がひと筋涙を落とした。


 「……入るには、贖いがいる」

 アステルが言った。

「今まで私が沈黙に編んだ声、少なくない。祈祷所で消した告発、工房で消した嘆願。ひとつひとつ、起案者の名をここに書き戻していく。それが私の贖い」

 史官が息をのむ。

「公開で?」

「公開で。ひなたで。私の名を添えて」

 私は小さく笑った。

「名は呪を剥がし、鎖にもなる。――いい鎖だ。輪の中でなら、絆と呼べる」


 アステルの唇が、それは微かに、ほぐれた。

「殿下。あなたは悪役に向かない。……そして、英雄にも向かない」

「じゃあ、何に向く」

「読者。――そして、編者」

胸の札が、遠くの鐘のようにチンと鳴る。

私はうなずいた。

「編もう。推しが生きる国の編年を」


静音の逆襲――暴走する修正力


 その瞬間だった。

 塔の窓が震え、白いひびが空を走る。紙片ではない。捻れた帯のような、巨大な書式フォーマットが夜空から垂れ込めてくる。

 「修正力の“本体の一部”……!」史官の声が裏返った。

 帯には印――《序》《転》《破》《急》。古い戯曲の構造が、空に巨大な罠を描いている。

 「王都ごと、“急”に落とすつもりだ」

 私は札を掲げた。

 「まだ、だ」

 だが声は帯に吸い込まれて、薄くなる。

 アステルが立ち上がり、羽根ペンを両手で握った。

 「殿下。ここは書式の世界。なら、段落で戦う」

 「段落?」

 「はい。――段落を増やせ。四段を、五段にする。急の手前に、“”を挿入するの」

 史官が叫ぶ。

 「“間章インタールード”!」

 「そう。物語の呼吸を、伸ばす」


 私は即座に頷いた。

 「アレン、鐘を」

 「了解!」

 アレンが塔の小鐘を掴み、規則正しく打つ。タン・タン・ターン、タン・タン・ターン。

 リリアナの声が風に乗る。

 《火を分けるよ 小さな手でも》

 合図で歌を一拍遅らせる。呼吸を、伸ばす。

 史官は塔の壁に大きく書いた。

 「間章:まだ」

 アステルは羽根ペンを夜空へ向け、書式の帯の“急”と“破”の間に線を引いた。銀色の線が星に触れ、ひびを一本ずらす。

 ――ずれた。

 空の帯の速度が一瞬落ちる。

 私は札を全力で鳴らした。

 「まだ!」

 塔の鐘、歌、紙、筆。四つの拍が合い、その一瞬、王都の頭上に余白が開く。

 帯は余白に足を取られ、夜風にほどけていった。


 静寂。

 次いで、王都のあちこちから拍手が湧いた。

 夜更けまで起きていた読み手たち、門の兵、祈祷師、子どもを抱く母。

 ――みんなで延ばした一拍が、国を救った。


贖いの帳と、輪の誓い


 塔の机に戻ると、アステルは深く息を吐いて椅子に座り、静かに言った。

 「始めます。沈黙にした名を、ここに返す」

 史官が頷き、第二の大帳を開く。

 アステルは一名ずつ、ゆっくりと、音を確かめるみたいに読み上げ、書き戻した。

 祈祷所の下働きの娘。工房の徒弟。小商いの未亡人。

 名前は、灯に触れて揺れ、紙に落ちて定着するたび、窓の外の空がわずかに明るくなった気がした。

 クロエが肩を竦める。

 「地味だけど、これがいちばん効くのよね。匿名を名にする。呪いの反対は、いつでも“呼びかけ”」

 「呼べば、返事が来る」

 私はうなずき、アステルに手を差し出した。

 「輪へようこそ」

 彼女は少し驚いた顔をして、それから握り返した。

 「……輪は、怖い」

「知ってる。だから、隣がいる」

 アレンが剣を軽く掲げる。

「輪の外から刺しに来る刃は、俺が弾く」

 リリアナは小さく笑って、「間章」の旋律を口ずさんだ。

 一拍、遅れて。


そして、告白未遂の二度目


 塔を下り、夜風の冷たさに肩を竦めたところで、アレンが足を止めた。

 「殿下」

 「ん?」

 「……さっき、殿下の『まだ』で、本当に呼吸が戻りました」

 「よかった」

 「だから――俺は、いつでも殿下の隣にいます」

 喉まで出かかった言葉が、また舌の裏で光る。好きだも、要るも、ここじゃない。

 私は笑って、言葉を選んだ。

 「じゃあ、長い章にしよう」

 「はい」

 彼は照れくさそうに笑って、夜空を見上げた。白いひびは薄い。今夜も、まだ続けられる。


朝の布告――“間章”の制度化


 翌朝。

 私は広場に壇を組み、布告を読み上げた。

 「王家は“間章インタールード”を評議に設ける。決を採る前に、必ず一拍の読書と一拍の沈黙を置く。――『急』の前には、必ず『間』」

 ざわめき、そして拍手。

 史官が補足する。

 「これからの公文書は、“間章欄”を設けます。賛否の理由、少数意見、読者の余白。書き込める紙を標準に」

 クロエが口笛を吹く。

 「劇場も“間奏”を義務づけ。観客の声を入れる時間帯――声の入れ替え」

 リリアナが歌で締める。

 《火を分けるよ 小さな手でも》

 合唱は、一拍遅れて始まり、厚みを増して広場を満たした。


 私は胸の札に触れる。

 ――《最終章》は、静かに脈打っている。

 まだだ。けれど、進んでいる。

 推しの“伝”は紙から溢れ、輪の中に生まれ続けている。


 そして私は次の章題を思う。

 「王の父と、王の子」。

 ――父王。まだ正面から向き合っていない。

 王である前に、父である人。彼の“沈黙”にも、名がいる。

 最終章は、まだここじゃない。だから、聞きに行こう。

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