第11話 王都包囲、声の軍――最終章はまだここじゃない
広場を舞台に変えた翌朝、王都の空気は軽かった。
子どもたちは昨日の即席劇の台詞を真似し、職人は木槌で拍を刻み、祈祷所からは読書会の声が漏れる。歌が風に混じり、噂が昨日までの棘を失っている。
――勝った、そう思いたい。だが、勝利の朝はたいてい長く続かない。
「殿下!」
駆け込んできたのは情報局の書記官だ。顔が蒼白い。
「王都外縁に武装した一団。レーベン公爵の私兵と、傘下領の兵が合流しています。名目は『王都警備の強化』ですが、実質的な包囲です」
「数は」
「二千から三千。城門前に陣を張り、往来の検めを始めました。『歌い手と煽動者の摘発』と称して……」
私は奥歯を噛んだ。
評判で負けた公爵は、ついに兵を持ち出した。
「王都の兵力は」
「衛兵と城内常備で千ほど。戦をする数ではありません」
アレンが一歩前に出る。
「殿下、俺に歩哨線を任せてください。外輪の通りに街路障害を築いて時間を稼ぎます。住民の退避路も確保する」
「頼む」
「はい!」
彼は既に動いている。指示を短く、しかし迷いなく飛ばす。庶民の生まれの彼は、街の血管――路地の曲がり角と、塀の高さと、井戸の位置を知っている。王都の身体と話せる男だ。
クロエは窓辺でもの憂げに猫のように伸びをした。
「さて、わたしは“袋の口”を縫いましょうか。公爵の資金線、港は切れてるけど、野営の補給は別。麦買いと塩の道を詰まらせるのが手っ取り早い」
「任せる」
「了解。――ついでに、芝居も一本書き下ろしましょう。『包囲の夜、王都は歌った』。タイトルはこうね」
リリアナがそっと私の袖を引いた。
「殿下、わたくしは何を?」
「祈祷所と孤児院を回って。声を溜める場所を増やそう。読み会と炊き出し、怪我人のための寝台。歌は“強がり”じゃなく“呼吸”にする」
「はい」
彼女の瞳はもう怯えていない。震えは残るが、それは舞台前の歌姫が喉を温める震えだ。
私は執務机の引き出しを開け、胸奥にしまっている**《最終章》の札**を指先で確かめた。熱は一定――暴れたいのを、まだ堪えている。
「最終章は、ここじゃない」
小さく呟いて、ふたたび外套を羽織った。
門前、片翼の対峙
南門へ向かうと、空は灰色に沈み、旗がねじれた。
城外の道に並ぶ槍、盾。私兵の列の前に、レーベン公爵の黒い馬車。
「殿下」
公爵が優雅に降りて一礼した。声は甘く、瞳は獲物の距離を測る猛禽のそれ。
「お出迎え感謝いたします。王都の治安を守るため、ささやかな支援を」
「支援とは、包囲のことを言うのか」
「人の出入りを見張るだけです。あの忌まわしい“歌の火”が外へ燃え広がらぬように」
「火は人を温める」
「やけどもさせる」
笑い合う。牙を隠した笑いだ。
私は門楼に上がり、城内向けに声を張った。
「王家は布告する。戒厳ではない。――開門だ」
「殿下!?」兵が動揺する。
「開け。ただし、三門に改める」
「三門?」
「歌の門、食の門、治療の門。歌い手と子どもは歌の門から入り、職人と物資は食の門、病める者は治療の門。誰が何を運ぶか――みんなの目で見る」
門がきしみ、鎖が鳴る。城外の私兵列がざわめき、指揮官らしき男の顔色が変わる。
「殿下、それでは出入りが」
「公爵が言った。“人の出入りを見張る”とな。では、見張れ。王都は見える場所で息をする」
私は外に向き直り、肩越しに言った。
「レーベン公爵。君の兵が混ざりたいなら、名乗ってから入れ。槍を伏せ、兜を脱ぎ、名前を言い、どの門か選べ」
公爵の頬がぴくりと震える。
「……面白い。殿下、本当に悪役に向かない」
「君に向いている役は、観客だ。見ていろ。王都は今、物語を書く」
声の軍の編成
開かれた三門には、自然に列ができた。
歌の門には子どもと歌い手、祈祷所の楽士。
食の門には職人と市場の女たち、保存食の樽。
治療の門には祈祷師と医師、薬草の束を抱えた若者。
アレンが各門に若い騎士たちを巡回させ、路地に**標**を掲げていく。木の札に大きく書かれた矢印と文字。
「『炊き出し →』、『読み会 →』、『傷の洗い場 →』」
誰かの声が紛れもなく届くように、文字を街に刺す。
「アレン」
「殿下」
「君は“目”だ。流れの速いところで止まりすぎる者がいたら話を聞き、詰まる角には板を立てる。声がぶつかる前に、段差を作れ」
「任せてください」
彼は走る。軽い靴音が石畳へ、音楽のように刻まれていく。
リリアナは歌の門で小さな椅子に腰掛け、子どもたちと同じ目線で相手をした。
「今日はどんな歌がいい?」
「火の歌!」
「じゃあ一緒に」
声が重なる。彼女は舞台の中心に立たない。いつも輪の一人だ。それでも輪の中心に“声の座”が生まれる。
クロエは食の門で荷札を改め、時折こっそり偽印の布を引きはがした。
「困るのよね、二重底の樽。魚は魚、塩は塩。名を変えたって舌は騙せない」
「お、お嬢さん、指が怖い……」
「優しい優しい裁縫道具よ。――ね、殿下もひと針どう?」
「私は札を持っている。針の代わりはこれで」
私は胸に滑り込ませた《最終章》をそっと取り出し、裏面に爪で小さく刻む。
「『まだ』」
まだだ。終わらせない。その一語が、札の熱を静かに和らげる。
仕掛けられた火
黄昏。
食の門の列に、不自然な膨らみが生まれた。
樽を積んだ荷車が三台、等間隔で止まる。娘が一人、見張りの目を盗んで石段に腰をおろす。ふくらんだ袋が半分ほど足元から覗いて――油の匂い。
「火種だ」
私は即座に手を上げ、青い**“静かな炎”を指先に灯す。炎は熱だけを奪い、匂いをつける。油が青く染まり、見張りの目が集まった。
「樽、開けて」
クロエが刃で縄を切る。中は乾草と布。それ自体は無害。だが樽の内側――内張りに油が塗られていた。
「火が走れば、列が燃える。逃げる人波、踏まれる子ども。――評判の夜にするつもりだったのね、公爵」
「見つけたのか」レーベンの声が背後から落ちる。「残念だ」
「残念そうに言うの、下手です」クロエが笑った。
公爵は笑い返し、肩を竦めた。
「火は危ない。だから君たちの火は、やがて国を焼く」
「火は分ければ**弱まる。独り占めすれば焼ける。――昨日学ばなかったのか?」
私は樽の蓋を閉じ、兵に引き渡した。
「油を井戸に流すな。土に食わせろ。土は腹を壊さない」
公爵は踵を返しながら、ふと立ち止まった。
「殿下。王は長すぎる目を持ってはいけない。長すぎる目は、最終章を見つけてしまう」
「私は見ない。――選ぶ」
「なら、賭けだ。今夜、決着をつけよう」
「どこで」
「北の丘、“吊り橋砦”。――王都を見下ろす場所で」
アレンが戻ってきた。背に汗、額に土。
「殿下、聞こえました」
「行く」
私はうなずいた。公爵は戦場を選んだ。なら、こちらは舞台にする。
吊り橋砦、夜風の舞台
北の丘は、王都をひと目で見渡せる。古い石の砦と、深い谷をまたぐ吊り橋。
夜風が強く、雲が月を走らせる。橋の中央に篝火が一つ。対岸に公爵の影。
「殿下」
「レーベン」
互いに一礼。礼の形は残す。形が残れば、破り方が効く。
「条件を」
「シンプルに」公爵は指を一本立てる。「殿下が“悪役に戻る”とここで宣言なされば、包囲は解いて兵を退く。王都に傷はつけません」
「代わりに、君は“脚本库”に手を突っ込む」
「わかっている」
「ならこちらの条件も。――最終章を今ここで語るのをやめろ」
公爵は笑った。
「つまり『悪役に戻らない』の宣言だ」
「そうだ。私は戻らない。だが、今ここで“永遠の勝利”も宣言しない」
「なぜ」
「最終章はみんなで選ぶから」
沈黙が、橋を渡る風の音に混じる。
公爵は杖の先で板をとんとんと叩いた。
「……やはり、悪役に向かない」
篝火が揺れた。風ではない。空――白いひびが走る。
世界の修正力がここにも手を伸ばし、橋を脚本に変えようとしている。落とす台本、死の舞台。
「殿下!」アレンが駆け寄る。
「大丈夫」私は小さく息を吐いた。「鳴らす」
私は《最終章》の札を取り出し、指で弾いた。
――チン。
小さな、しかし深く響く音が夜の谷へ落ちた。鐘に似ているが、内側で鳴っている。
「まだ」
私は札に刻んだ一語を、声に乗せた。
「まだだ」
白いひびが揺れ、一本がほどける。落ちるのは今ではない。橋は舞台で、舞台は継続だ。
公爵が目を細めた。
「札を持ち出したか。あれは王宮の心臓だ」
「借りた」
「返せると思うのか」
「書き終えたら返す」
彼は低く笑った。
「なら、幕間だ。殿下。今夜の戦は――引き分け」
「上等だ」
風が抜け、篝火が低く唸った。公爵は身を翻し、橋を渡りきると、黒い外套を夜に溶かした。
朝の息
王都へ戻る道すがら、東の空がうす紫に濡れていく。
城門では、歌の門に最初の列ができ始めていた。炊き出しの鍋からは湯気。傷洗いの桶へ新しい布。
「殿下」
アレンが並んで歩く。
「怖くなかったのか」
「怖かった」
「なのに笑う」
「殿下が『まだ』って言ったら、なぜか呼吸が戻ったんです。……それだけです」
呼吸。
私は胸の奥で《最終章》を指で押し、小さく笑った。
「なら、今日も『まだ』を何度でも言おう」
「はい」
リリアナが走ってくる。息があがっている。
「殿下、夜のうちに読書会と寝台は増やしました。歌の門では、子どもたちが『まだ』を合言葉にして……」
「合言葉?」
「『終わらないように』『もう少し読む』って」
彼女は息を整え、目を細くした。
「最終章は、今じゃない――って。みんな、わかってます」
白いひびはまだ空のどこかで軋んでいる。けれど、昨夜より薄い。
評判戦は、もう軍をも飲み込み始めた。
声の軍は、槍を持たない。代わりに、場を持つ。門を開き、道に文字を刺し、空に歌をかける。
私は壇を組ませ、布告を読み上げた。
「王家は“門の評議”を開く。三門の代表を一人ずつ、評議席に迎える。――王都の呼吸を、文字に残すために」
拍手。笑い。ふいに空へ飛ぶ歓声。
まだ、この国は生きている。
そして私は決めた。
――次は、史官ヴェルドを表の場へ招く。脚本庫の扉を、国のひなたへ持ってくる。
物語は地の底で書かれてきた。なら、地上で書き換えよう。
最終章は、まだ先だ。けれど“幕間”は、こちらが決める。