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間話

まだ夜明け前の薄闇が残る中、彼らの住居スペースでは慌ただしくリビングや調理場など人が行き来して温かい活気が満ちていた。

 スープの煮える音、パンをこねる音、そしてアリア、ゼック、マチルダの穏やかな話し声が響く。

 彼らは皆、少年を囲むようにして、あれこれと世話を焼きたくてたまらない様子だった。


 「ねえ、坊や、もっとスープを飲みなさい。温まるからね」「ああ、そのパンも焼きたてだ、腹いっぱい食いな」「この毛布、もっとしっかりと巻いてあげないとね」


 少年は差し出されるパンを両手で受け取り、温かいスープを啜りながら、顔を赤くして周りを見回した。

 こんなにも優しく構われるのは初めての経験で、嬉しさ半分、戸惑い半分といった複雑な感情が入り混じり、幼い頭の中は少しばかり混乱していた。

 しかし、その混乱の奥底には、ひどく冷え切っていた心がじんわりと温かくなるのを感じていた。

 特に、最初に自分を抱きしめてくれたアリアの優しい眼差しと、力強く背を押してくれたゼックの大きな手からは、これまでに感じたことのない深い安心感が伝わってきた。

 アリアのそばにいると母親のぬくもりを、ゼックの隣にいると強い父親の背中を、それぞれ感じるようだった。


 やがて、店の奥からゴシゴシと目を擦りながらハンスが顔を出し続いて体格の良いドラグが静かに現れた。

 二人は少年を見つけると、それまで眠たげだった表情が一変する。


 「おっ、坊主だ。ようやく会えたな、へへっ。朝飯はもう済ませたかい」


 ハンスは満面の笑みを浮かべ、大股で少年の元へと駆け寄ってきた。

 ドラグもまた、口元に僅かな笑みを浮かべ、温かい眼差しを少年へと向けている。

 皆が皆、少年がこの《陽だまり亭》に来てくれたことを心から喜んでいるのが伝わってきた。


 「おい、坊主。いつまでも『坊主』ってのもなんだしよ名前、教えてくれよ。そろそろ名前で呼びたいしな。」


 ハンスが屈託のない笑顔で問いかけた途端、それまで賑やかだった調理場がシンと静まり返った。

 少年は、ハンスの真っ直ぐな問いに差し出されたパンを握りしめたまま、うつむいてしまう。

 自分の名前。そんなもの、生まれてから一度も与えられたことがない。

 自分には名前がない。その事実が急に重くのしかかり、胸が締め付けられるような悔しさと、どうしようもない惨めさがこみ上げてきた。

 逃げ出したい。

 この場から消えてしまいたい。

 幼い瞳に、じわりと涙が滲み始める。


 その時だった。


 「お前たち、この子を困らせるなよ。今日の準備もあるだろ。朝飯早く済ませてくれ」


 低く、しかし穏やかなゼックの声が、静寂を破った。

 ゼックは、少年の頭にそっと手を乗せ、柔らかな笑顔で続ける。


 「……ったく、そうか。まあ、色々大変だったのからな。だがな、お前はこれからきっと誰よりも優しくて、気高い、とんでもない男になれる。だから、アルトだ。……どうだ」


 皆の視線がゼックに集まる。

 その時、少年は頭に乗ったゼックの手をぎゅっと、震える小さな手で握りしめた。

 彼の心の中で、ゼックの存在は特別なものへと変わった。

 そして顔を上げ、ハンスの方へとゆっくりと向き直る。

 まだ瞳には涙の膜が張っていたが、そこには確かに希望の光が宿っていた。


 「……アルト……アルト、ていうの」


 少年は泣きそうになりながらも、初めて得た自分の名前を、嬉しそうに、そして誇らしげに名乗った。

 その声は、幼いながらも確かな響きを帯びて、暖炉の炎が揺らめくリビングに、温かく響き渡った。


 その日から、アルトの生活は一変した。

 名前を得た安堵感と、皆の温かい心遣いによって、数日間彼はひたすらに眠り、そして与えられたものを食べた。

 飢えと寒さでか細くなっていた体は、温かい食事と安全な寝床によって目に見えて回復していった。

 痩せこけていた頬には少しずつ肉がつき始め、土気色だった顔色には健康的な赤みが差してきた。

 がさがさだった肌は滑らかになり、窪んでいた瞳には、以前にはなかった輝きが宿り始めた。

 最初は怯えと戸惑いから皆の視線から逃げるようにうつむきがちだったが、優しい言葉と笑顔が向けられるたびに少しずつ顔を上げるようになった。


 特に、朝、目覚めた時の感覚は、アルトにとって何よりも尊いものだった。

 これまでは硬い地面の上で毛布もなく凍え、空腹に苛まれながらいつ終わるとも知れない悪夢にうなされる日々だった。

 しかし、今は違う。

 ふかふかのベッドの上で、焼きたてのパンとスープの匂いに包まれ、鳥のさえずりで目覚める。

 それが夢ではないと知るたびに、胸いっぱいに安堵の息を吸い込み全身が温かさに満たされるのを感じた。


 名前を得てから、アルトの生活はさらに生き生きとしたものになった。

 特にマチルダは、アルトが字を読めないことを知ると毎日店の仕込みが終わった後に奥の部屋で簡単な読み書きを教えてくれるようになった。


 「これは『ア』よ、アルトのア。これは『ル』。そしてこれは『ト』。あなたの名前ね。」


 マチルダの指がなぞる文字をアルトは真剣な眼差しで追いかけた。

 最初はただの記号にしか見えなかった線が、少しずつ意味を持ち始める。

 自分の名前が書けるようになった時の喜びは、言葉では言い表せないほど大きかった。

 計算も教えてもらい、パンの数を数えたり、スープの材料を量ったりする手伝いをすることも増えた。

 新しい知識を吸収するたびに世界が少しずつ広がり、未来にはもっと多くのことができるかもしれないという漠然とした希望が胸に宿った。


 厨房では、ハンスがアルトに料理の基礎を教えてくれた。


 「おい、アルト。まずはこれだ、火の扱いを覚えるんだ。火力は料理の要だからな。」


 ハンスは、大きな手のひらでアルトの小さな手を包み込むようにして、薪の組み方や火加減の調節の仕方を丁寧に教えてくれた。

 次に教わったのは、野菜の切り方だった。

 最初はぎこちなかった包丁の使い方も、ハンスの辛抱強い指導のおかげで少しずつ上達していった。

 簡単なスープの仕込みを手伝ったり、焼きたてのパンを並べたりするうちに、アルトは料理そのものの楽しさと皆が喜んで食べてくれる喜びを感じるようになった。


 店の仕事の合間には、ゼックがアルトと時間を過ごすことが増えた。

 店の裏にある小さな庭で、彼は時折、アルトの相手をした。

 最初は戸惑いを見せながらも、石を使った簡単な積み木遊びに付き合ったり、木の枝を剣に見立てたごっこ遊びに興じたりした。


 「おい、アルト。俺が魔物で、お前が勇者だ。さあ、このゼック様を打ち倒してみろ。」


 ゼックは、わざと大げさに唸り声を上げアルトの木の枝剣に倒れてみせた。

 その巨体が地面に倒れ込むたび、アルトは全身で笑った。

 その屈託ない笑い声を聞くたびに、ゼックの口元にも普段は引き締まった唇の端が、微かに緩むのが見て取れた。

 彼にとってアルトと過ごすこの時間は、店の裏庭に射し込む陽だまりのように、温かく、かけがえのないものとなっていた。


 ドラグは他の皆とは異なり、多くを語ることはなかった。

 彼の主な仕事は、店の安全を守る用心棒だった。

 店の入り口、裏口、時には窓から、ドラグは常に周囲に目を光らせていた。その視線は鋭く、店に近づく不穏な影を決して見逃さない。彼は、酒場の喧騒の中でも、常に店の雰囲気に神経を尖らせ、いざとなればその巨体で脅威を排除する構えを見せていた。


 アルトが彼の存在に気づいたのは、店に酔っ払いが現れて騒ぎを起こした時だった。

 アルトは物陰に隠れて怯えていたが、ドラグは一言も発することなく、しかしその巨体から放たれる圧倒的な威圧感だけでたちまち酔っ払いを店の外へ押し出した。

 その間、アルトはドラグの背中を見つめていた。

 危機が去りドラグがアルトの視線に気づくと、彼は何も言わずただアルトの頭を大きな手でぽん、と撫でただけだった。

 その言葉にならない優しさが、アルトの心に深く沁み込んだ。

 言葉ではない、確かな愛情がそこにはあった。

 ドラグはまさに《陽だまり亭》の『守護者』。

 彼の存在が、この店と、そこで暮らす人々を守っているのだと、アルトは肌で感じていた。


 アリアは毎日、食事の時にアルトの隣に座り温かい手をそっと頭に置いてくれた。

 アリアのぬくもりは、冷え切った彼の心に忘れかけていた家族の温かさを思い出させるようだった。

 そして、ゼックは厳しくも温かい眼差しでアルトを見守っていた。

 彼の声には常に深い愛情が込められていた。

 アルトはゼックの背中を見て、いつか自分も、誰かを守り、導けるような強い男になりたいと願うようになった。


 こうして《陽だまり亭》の温かい光の中で、アルトは身体だけでなく、心の傷も癒し、初めて自分という存在が誰かにとって大切にされているのだと知った。

 新しい名前「アルト」は、過去の自分と決別し未来へと踏み出すための確かな一歩となり、アルトの小さな、しかし確かな成長の音が満ちていた。

読んで頂きまして有難う御座います。

まだ、この作品は続きますのでよろしくお願いします。

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