第六話
筆頭執政官フェルナンドの逮捕は、港町に一時的なざわめきと、束の間の安堵をもたらした。
広場で繰り広げられたあの劇的な逮捕劇は、確かに市民の心に一筋の光を灯したかに見えた。しかし、それはまるで、冬の陽だまりのような、はかなく頼りないものだった。
街の根底に流れる重苦しい空気は変わらず、むしろ静かに深く、人々の心に沈殿していくかのようだった。
広場で人々の間を駆け巡ったヴェールの名は希望の囁きとして密かに語り継がれたが、それは、まるで遠い記憶の夢のように現実の厳しさの前では頼りないものに感じられ始めていた。
侯爵邸の奥、ラモン侯爵の書斎では、怒りというよりもまとまらない思考への苛立ちが部屋全体を支配していた。
壁には豪華なタペストリーがかけられ、重厚な家具が並ぶその空間は通常であれば侯爵の絶対的な権威を示すはずだった。だが、今は、ただひたすらに重苦しい沈黙が広がるばかりだ。
机には、フェルナンドの逮捕と市場に晒された不正の帳簿の報告書が無残にも散乱している。
一枚一枚の紙が、侯爵の失態を嘲笑うかのように見えた。
「役立たずの痴れ者めが、何たる失態か。ヴェール、あの忌々しい存在は、私の支配を揺るがそうとしているのか。ありえぬ、断じてありえぬ。」
侯爵は苛立ちのあまり報告書の一枚を鷲掴みにし、そのまま暖炉の燃え盛る炎の中へと投げ込んだ。
炎が紙を舐め尽くし瞬く間に黒い灰と化して舞い上がる。
その灰が、彼の内なる怒りの炎のようだった。
彼は、執務机の分厚い天板を、骨が軋むほどの力で拳を叩きつけた。
鈍く響くその音は部屋の重厚な空気に吸い込まれ、不気味なほど静かだった。
侯爵の顔は血の気が引き、土気色にくすんでいる。
血管が浮き上がり、その形相は怒りというよりも狂気に近いものだった。
ヴェールの出現以来街の統制は乱れがちであり民衆の不穏な空気が増していることは、彼も承知していた。
しかし、この期に及んで筆頭執政官であるフェルナンドが逮捕されたことは、彼の権威に泥を塗る行為に他ならなかった。
これは、彼の絶対的な支配に対する明確な挑戦だ。
「ヴェール、ヴェールか……一体何者だ、どこから現れた。なぜ、この私を、我が支配をそこまで貶めようとするのか。何一つとして、その存在の正体が掴めぬ。このままでは、街はさらなる混乱に陥るだろう。だが、今、民衆の不満が高まる中、フェルナンドをすぐに釈放すれば、それは私の弱みを見せることにもなる」
侯爵は狭い書斎の中をまるで檻に閉じ込められた獣のように苛立たしげに行き来した。
その思考は、ヴェールの正体という未知の脅威、そして自らの権威の維持という二つの問題の間で激しく揺れ動き、明確な答えを見出せずにいた。
彼の脳裏には、民衆の歓声と自身の支配が崩れ去る悪夢が交互に現れ、彼をさらに苛立たせた。
「よし、見回りを強化よう。警備を厳に……。何者であろうと、ヴェールを捕らえるのだ。街の隅々まで目を光らせ、些細な変化も見逃さん。民衆の不満を抑え込むためにも、さらなる締め付けが必要となる。しかし、それは、飢えに喘ぐ民の反発を招く可能性もある。今すぐフェルナンドを自由にするのは得策ではない。私が自らの判断で彼を投獄したという体裁を整え、民衆の歓心を買うのだ。それが、私の支配を盤石にする唯一の道。」
侯爵の結論は、常に自身の支配を最優先するものだった。たとえそれが、街のさらなる疲弊を招こうとも、彼の冷徹な判断は揺るがなかった。彼の命令は直ちに発令され、侯爵の私兵と警邏隊の巡回は、これまでの比ではないほど重々しく、そして威圧的なものとなった。兵士たちの足音が石畳に響き渡り、その視線は街を行き交う人々を、有無を言わさずに射抜く。人々は、互いに警戒の視線を交わし、ひそひそと囁き合うばかりで、街の活気はさらに失われていった。市場は閑散とし、港では荷揚げ作業が滞り、人々の顔からは笑顔が消えた。空には重い雲が垂れ込め、街全体が冬の厳しさに沈んでいくかのようだった。
同時刻、旧市街の別邸にて、カイエンはマヌエルからの報告に耳を傾けていた。暖炉の炎が静かに揺らめく部屋で、カイエンは、侯爵の怒りと、それに伴う街の締め付け強化が、自身の予想通りの展開であることを確認していた。
「侯爵は、私を本格的な脅威と認識し始めたか。これでは、ヴェールとしての活動の難易度はさらに上がる。だが、それが彼の本質だ。あの男は、決して自身の権力を手放すことはないだろう。彼の支配の根は、想像以上に深い」
カイエンの瞳には冷徹な光が宿っていた。
侯爵の動向は、彼の計画に新たな障壁をもたらす。
しかし、それは同時に彼の決意をより強固なものにする燃料でもあった。
彼は、侯爵の強固な支配の背後には、街の富を食い物にする利権が複雑に絡み合っていることを知っていた。その利権は、侯爵家だけでなく、王国の中枢にまで及んでいる可能性もある。
ヴェールとしての彼の力だけでは、その根源を断ち切ることは難しい。
新たな協力者、そしてより深部からの情報が必要となる。
カイエンは深く息を吐き出し、今後の対策を静かに練り始めた。
彼の孤独な戦いは、さらに厳しいものとなるだろう。
その日の午後、港には一隻の大型商船が静かに接岸した。
海鳥の鳴き声と波の音が響く中、船員たちが慌ただしく荷を運び出す。
その騒がしさの中、プラチナブロンドの髪が午後の日差しを反射させ冷徹な緑色の瞳を持つ洗練された身なりの男がゆっくりとタラップを降りてきた彼の名はレオンハルト・ヴィンター。
各地を巡り、商売の知識と人脈を広げる旅の商家の若旦那だった。
彼は、港の喧騒とは一線を画す落ち着きで周囲の緊迫した空気を観察する。
強化された警邏隊の巡回、街の壁へ無造作に貼られたヴェールの「V」のマーク。その全てを、彼は情報収集者としての鋭い洞察力で見つめていた。
まるで複雑なパズルのピースを一つずつ拾い集めるかのように、彼の頭の中で、港町の現状が立体的に構築されていく。
「やあ、皆さん。素晴らしい船旅だったが、やはり陸に上がるとほっとするね。この港町の活気も心地よい。長旅で少々疲弊してね。この街で良い宿と、温かい食事にありつける場所はないだろうか。特に、この街の特色が味わえるような場所があれば、尚良いのだが。」
レオンハルトは、気さくに近くで荷揚げ作業をしていた船員に声をかけた。
彼の言葉遣いは丁寧で人々に好印象を与えるものだった。
口元には常に穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳の奥には決して感情を読み取らせない深淵な輝きがあった。
「おう、兄貴。それなら《陽だまり亭》がお勧めだぜ。飯は美味いし、そこの亭主と女将さん、それに働くみんなも、みんないい奴らでね。この辺りじゃあ、誰もが一度は足を踏み入れたことがあるんじゃないかな。昔からある、みんなの店って感じさ」
船員の一人が親しげに答えた。
別の船員も頷き、船から降ろした樽を肩に担ぎながら続ける。
「そうそう、酒も美味いからね。あんたも一杯どうだい。今夜あたり、俺たちも一杯ひっかけに行こうかと思ってたところだ。きっと旅の疲れも吹き飛ぶぜ」
レオンハルトはにこやかに礼を述べ、港の様子をしばらく眺めていた。
荷揚げ作業の合間を縫って通りがかりの港湾労働者や小さな商人にさりげなく街の近況を尋ねる。彼の問いは巧みで、相手に警戒心を抱かせない。
「この街は、以前から何度か立ち寄ったことがあるが、この頃は警邏隊の見回りも随分と厳しくなったようだ。何か物騒なことでもあったのかね。もし差し支えなければ、聞かせていただけないだろうか」
彼の問いに人々は一瞬顔を見合わせ、言葉を濁した。
しかしその視線は街の壁へ無造作に貼られたヴェールの「V」のマークを一瞬捉え、すぐに逸らされた。
その小さな仕草、わずかな間、そして言葉にできない表情で、レオンハルトは多くを読み取った。
沈黙が、時に最も雄弁な情報源となり得ることを彼は知っていた。
彼は、迷うことなくその《陽だまり亭》へと足を進めることを決めた。
《陽だまり亭》の入り口に近づくと、レオンハルトは店先で物憂げに佇む見慣れない男の姿に気づいた。
店の番犬だろうか、どっしりとした体格の男がどこか不器用な様子で店の入り口を気にしている。
その強面の容貌とは裏腹に店のことを静かに見守っているようだった。
レオンハルトは、その男を一瞥すると何かを思案するような表情でわずかに眉を寄せた。
しかし、すぐにその表情を消し涼しい顔で店の中へと足を踏み入れた。
ドラグはレオンハルトの視線に気づいたようだったが、すぐに表情をなくし、再び店の入り口へと目を戻した。
扉を開けると、陽気な客の話し声と食欲をそそる料理の香りがレオンハルトを出迎えた。
店内は外の緊迫した空気とは一線を画し、温かい活気に満ちている。
従業員たちが忙しく客の相手をしている中、レオンハルトは店の中央にあるカウンターで帳簿を整理している女性に目を留めた。
彼女がこの店の女将、アリアだと直感した。
彼女は集中した面持ちでペンを走らせているが、その柔らかな横顔からは店の全てを支える芯の強さが感じられた。
「ごめんください。長旅の者ですが、しばらくこの街に滞在する予定があり、宿を探しております」
レオンハルトの声は落ち着いており喧騒の中でもはっきりとアリアの耳に届いた。
アリアは顔を上げ、彼の洗練された身なりと穏やかな眼差しに一瞬目を奪われたがすぐに柔らかい笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ。ちょうど良い時に来てくださったわ。この街の宿でしたら、どこよりもくつろいでいただける場所だと自負しております。どうぞ、こちらで宿泊名簿にご記入を。何か、お困りのことはございませんか」
アリアは、手際よく宿泊名簿とペンを差し出しながら、細やかな気配りを見せた。
レオンハルトは、流れるような動作で名簿に記入しながら答える。
「はい、商いのため、しばらくこの街で情報を集めたいと考えております。港で聞いた話では、この頃は随分と物騒な気配が漂っているようですが、貴店の温かい雰囲気は、旅の疲れを癒してくれそうですな。この街が、どうか穏やかでありますようにと願うばかりです。」
その言葉にアリアは少しばかり表情を曇らせたが、すぐに笑顔を取り戻した。
彼女の心にも、街の不穏な空気が深く影を落としていることがうかがえる。
「そうですね、最近は物騒な話も耳にしますけれど、ここ《陽だまり亭》は、旅で疲れた皆さんがホッと一息つける場所でありたいんです。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいね。美味しい食事と、温かい寝床をご用意いたしますから。」
宿泊の手続きを終えると、アリアは奥にいるマチルダへ声をかけた。
「マチルダ、お客様を部屋へご案内して差し上げて」
「かしこまりました。こちらへどうぞ、お客様」
マチルダは柔らかな笑みでレオンハルトを奥へと誘い階段を上っていった。
レオンハルトはマチルダの後ろを歩きながらも、カウンターで帳簿を整理するアリア、そして店先で静かに佇むドラグの姿に、再び視線を向けた。
彼らの間に流れる見えない空気、その全てが、レオンハルトを惹きつけるようだった。
この店は、ただの宿ではない。この街の「何か」を象徴する場所であると、彼の直感が告げていた。
部屋に案内されたレオンハルトは、簡素ながらも清潔に整えられた空間に満足げに頷いた。窓からは、港町の喧騒が微かに聞こえる。彼は荷物を軽く解くと、旅の疲れを癒す間もなく、再び階下へと降りていった。宿に着いたばかりの旅人として、この街の空気を感じ取るには、酒場が最も適していると知っていたからだ。
酒場の活気は、時間が経つにつれてさらに増していた。
中央のカウンターには入れ替わりにゼックが立ち、低く、ややハスキーな声で客の注文を捌いている。
レオンハルトは、空いていた席に腰掛けメニューへと目をやった。
「すまない、ご主人。長旅で疲れていてね。この街の特色が味わえるような料理と、地元の酒を一杯頼む。何か、お勧めはあるだろうか」
ゼックは、低く、ややハスキーな声で答えた。「……ったく、お客さん、運がいいぜ。今日の獲れたて魚の香草焼きと、地元の果実酒。悪くねぇ。港の味だ」
その声は、酒場の喧騒の中でも存在感を示していた。
レオンハルトは、ゼックの推薦に感謝を述べ運ばれてくる料理と酒を待つ間周囲に意識を集中させる。
彼の目と耳はまるで高性能な情報収集装置のように、酒場にいる人々の会話の断片を拾い上げていく。
近くのテーブルでは、数人の商人が侯爵の新しい布告について不満を漏らしていた。「また物資の関税が上がるらしい」「これでは商売上がったりだ、もうやっていられない」別の場所では、漁師たちが不漁と警邏隊の厳しすぎる取り締まりについて愚痴をこぼしている。「夜の漁に出るのも命がけだ」「見回りが厳しくなって、あのヴェールも姿を見せなくなったな……」その言葉に、一瞬だけ沈黙が訪れ、誰もが目を見合わせる。
レオンハルトは、何も言わずに地元の酒を一口啜った。
甘酸っぱい果実の香りが口の中に広がるが、彼の思考はそれとは裏腹に鋭く研ぎ澄まされていく。
人々がヴェールの名を口にする時に見せる僅かな期待と、しかしそれをすぐに隠すような怯え。
この街の民衆は侯爵の圧政に苦しみながらも、どこかで救いを求めている。
そして、ヴェールという存在がその希望の象徴となっていることを、レオンハルトは肌で感じ取った。
「それにしても、この頃は随分と物騒な気配が漂っているようだね。港でも警邏隊の見回りが厳しく、以前来た時とは比べ物にならない。何か、この街で大きな出来事でもあったのかね」
レオンハルトは隣の席で大ジョッキを傾けていた日に焼けた屈強な港湾労働者風の男にあくまで旅人として、何気ない世間話をするかのように問いかけた。
男は、ジョッキをドンとテーブルに置き、忌々しげに顔を歪めた。
「ああ、まったくその通りだ。特に、あのヴェールとかいう奴が現れてからは、ひどくなる一方だよ。侯爵様も、我々民衆に対してますます締め付けを厳しくしてきやがってな。何でも、最近になって筆頭執政官のフェルナンドが、急に捕まったらしい」
男は、あたりを気にしながらも声を潜めて続けた。
レオンハルトは、あたかも初めて聞いたかのように驚いた表情を見せ興味を示す。
「ほう、それはまた穏やかではない。筆頭執政官殿が、一体何故、そのようなことに」
「それが、どうも不正が暴かれたらしいんだ。何者かが、市場でその証拠となる帳簿を晒し上げたとかでな。まったく、誰がそんな命知らずな真似をできるのかね。侯爵様に睨まれたら、この街では生きていけねえってのに」
男は、荒々しく息を吐き出し再び酒を煽った。
その口ぶりからは、侯爵への強い不満と、同時に得体のしれない「ヴェール」への期待が入り混じっているのが見て取れた。
レオンハルトは、その話の真偽を確かめるかのようにさりげなく別の客にも同様の質問を投げかけてみた。すると、どの客も似たような反応を見せ、ヴェールの存在と侯爵の怒りそして街の締め付けが、彼らの生活にどれほど深く影響しているかを語った。
レオンハルトは彼らの言葉の端々から侯爵の支配に対する人々の不満が募っていることを確信した。
侯爵による街の締め付けは、スラムに住む少年をさらに追い詰めていた。
警邏隊の巡回が頻繁になり、これまで隠れて身を潜めていた場所ももはや安全とは言えない。
廃墟の片隅、凍てつく風が吹き込む瓦礫の山の中で、少年は膝を抱えて身を震わせる。
食べ物を探すのも以前に増して困難になっていた。
僅かな残飯を探しにゴミ溜めを漁る日々。飢えと寒さが、幼い体にじわじわと染み渡る。
彼の腹の虫は、もはや痛みすら感じさせないほどだった。
「ヴェール……」
少年は、凍える手で薄汚れた壁に描かれた「V」のマークをそっと撫でた。
広場でのあの光景が、彼の唯一の希望だった。
闇の中を駆け巡る影の義賊。
強きをくじき、弱きを助ける存在。
あの時の歓声が今も耳に残っている。
だが、希望だけでは腹は満たされない。
その現実は、あまりにも冷酷だった。
《陽だまり亭》の人々は、それでも彼を気遣い続けていた。
アリアやゼックは、彼が隠れている場所の近くにそっとパンの切れ端や温かいスープの残り物を置いていった。
それは、少年が一人で生きるために彼らの優しさに甘んじるという彼なりの決意が込められた行動だった。
しかし、その優しさが同時に彼の心を揺さぶり続けていた。
彼らは、いつでも自分を助けようとしてくれている。
暖かい食卓と、人々が交わす笑い声。
それは彼がこれまで経験したことのない、手の届かない温かさだった。
自分は、いつまで一人で耐えれば良いのだろう。このままでは、凍え死んでしまうかもしれない。
恐怖と飢えが、彼の小さな自尊心を少しずつ蝕んでいく。
心の奥底で、助けを求める声がかすかに響いていた。
ある日の早朝、まだ街が深い眠りにつく頃、少年はもうこれ以上一人で生きることはできないと感じた。
体は鉛のように重く、冷たい空気が肌を刺し、空腹で震える胃は悲鳴を上げている。
彼の小さな自尊心は、限界を迎えようとしていた。
あの日の広場で見たヴェールの残像、そして《陽だまり亭》の人々の温かさ。その二つの光が、彼の心を強く揺さぶっていた。
ここで凍え死んでしまうよりは、あの人々の優しさに甘えよう。
そんな、幼い彼なりの決意が震える足を突き動かした。
彼は、残された最後の力を振り絞り暗い路地へと足を踏み出した。
闇に包まれた路地を抜け、ようやく《陽だまり亭》の裏口へとたどり着いた。
古びた木製の扉の前に立ち尽くし、少年は周囲に人影がないことを慎重に確認する。
夜の静寂の中、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
そして、意を決してその扉に震える指をかけ、そっと開けた。
店の方ではなく住み込み従業員の住居スペースに繋がる通路だ。
微かに、朝食の準備をする音と人の話し声が聞こえる。
温かい光が、その通路の奥から漏れている。彼は戸惑いながらもその温かい音のする方へとゆっくりと、しかし確かな足取りで進んでいった。
たどり着いたその場所で、朝の支度を始めていたアリアとゼック、そしてマチルダの姿が見えた。
湯気を立てる鍋、焼きたてのパンの甘い香り、そして彼らの穏やかな話し声。その全てが、飢えと寒さに震える少年にはまるで奇跡のように映った。
彼らの目の前で立ち止まり、少年は震える体でしかしはっきりと、心に秘めた切実な思いを絞り出した。
「さむい……おなかすいた……お願い……助けてください」
その声は、始めは震えていたが、徐々に大きくなり、三人の心に深く響いた。
アリアは、びしょ濡れで震える少年の姿に目を見開いた。
彼女の顔に、驚きと、そして深い安堵の色が浮かんで、少年に駆け寄りその小さな体を優しく抱きしめた。
「寒かったでしょうに。来てくれて、本当に嬉しいわ。よく来てくれたね。さあ、遠慮なく中へお入りなさい。温かいご飯を一緒に食べましょうね。もう、一人で震えることはないのよ。」
アリアの声は、心からの温かさに満ちていた。
その言葉は、凍えきった少年の心にじんわりと温かい光を灯すようだった。
ゼックは何も言わず、少年の震える背に大きな手を置いた。
その手は凍える体には不釣り合いなほど温かく、そして力強かった。
彼は少年の背を軽く押し暖炉のある奥の部屋へと促すと、低く、しかし確かな声で言った。
「ったく、こんなところで突っ立ってねぇで、早く中に入れ。」
マチルダもすぐに、棚から厚手の大きな毛布を取りに走り少年の体全体を包み込むようにそっとかけた。
温かい光と、焼きたてのパンの匂いが、彼の全身を優しく包み込む。
目の前に置かれた温かいスープとパンを、少年はまるで夢でも見ているかのように夢中で口にした。
その瞳からは、とめどなく涙があふれ落ちた。
それは、飢えと寒さから解放された安堵の涙であり、そして、初めて触れた本当の優しさへの感謝の涙だった。
《陽だまり亭》に身を寄せた少年は、アリアたちの温かい心遣いの中で新しい生活を始める。
時を同じくして港町に降り立ったレオンハルトは、旅の商家の若旦那として街の情報を集め、侯爵の支配の裏にある闇を本格的に調査し始めていた。
それぞれの運命が交錯し、物語は新たな局面へと進んでいく。
読んで頂き有難うご合いました。
優先的に完結させるように書いて行きますので、よろしくお願いします。
お時間有難う御座いました。