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第五話

 広場での騒動から、さらに二週間ほどの時が流れていた。

 港町は、あの日の興奮と混乱の余韻をまだ色濃く残し、ヴェールという名の希望の火種は人々の間で密かに語り継がれ、小さな光となっていた。

 しかし、その光は、筆頭執政官フェルナンドの悪行によってかき消されそうになっていた。広場での子供たちの笑い声は以前より少なくなり、商人たちの掛け声もどこか心なしか沈んでいた。街を行き交う人々の肩は、日増しに重みに耐えているかのように丸まり、互いの視線は地へと向けられがちだった。

 フェルナンドは、ヴェールの出現を自身の権力への挑戦と捉え、以前にも増して露骨な手段で市民から富を搾取し、不当な取り締まりを強化していた。

 その矛先は、貧しい人々だけでなくわずかながらも財産を持つ商人たちにも向けられ、街全体に重苦しい空気が漂い始めていた。飢えと不安が人々の表情に深く刻まれ、希望の光は、か細いものになりつつあった。


 その日の昼下がり、港町を支配するラモン侯爵の邸宅の分厚いオーク材の門が、午後の陽光を鈍く反射していた。

 その厳めしい門をくぐり、カイエンは慣れた様子で、しかしどこか覚束ない足取りで邸内へと足を踏み入れた。

 彼の口元には、いつもと同じ締まりのない笑みが貼り付いている。それは、数年かけて完璧に作り上げた「道楽息子」の仮面だ。空虚な視線は定まらず、たまらず漏れる深い溜め息すら見る者には昼間からの深酒のせいにしか見えないだろう。安っぽい香水の匂いが彼の周りにまとわりつき乱れた髪は朝から手入れをしていないことを物語っていた。

 邸内に控える使用人たちは、彼を一瞥するだけですぐに視線を逸らす。彼らは侯爵家の長男でありながら何の役にも立たないカイエンを半ば諦め、半ば軽蔑していた。

 しかし、彼はそれこそが望む反応であることを知っていた。

 この完璧な仮面の下で、彼の真の目的と、燃えるような決意を隠し通せるのだ。その虚ろな瞳の奥には冷徹な計算と決して揺るがない決意が隠されていた。


 しんと静まり返った廊下を進む途中、曲がり角で侯爵家の老執事、エミリオとすれ違った。

 エミリオは、侯爵家に長年仕える古参の執事であり、カイエンの祖父である先代侯爵に深く忠誠を誓っていた人物だ。

 彼は、現在の侯爵の圧政とそれに苦しむ民衆の姿を間近で見てきたことで、その支配に深い絶望を感じていた。だからこそ、カイエンが留学先から戻ってきて以来彼の行動を密かに見守り続けていたのだ。

 そしてカイエンが世間に見せる「うつけ者」の仮面の裏に、決して「道楽者」ではない真の光と、彼が抱く決意を見抜いていた。

 エミリオは、カイエンに深々と頭を下げた。その動きは、他の使用人たちよりも、わずかに丁寧で、そして意味深長だった。

 

 「カイエン様、お帰りなさいませ。本日は、お疲れのご様子でございますな」

 

 エミリオの声は、周囲には聞こえないほどの小さな声で、しかし、はっきりとカイエンの耳に届いた。カイエンは、いつものようにへらへらと笑い、片手をひらひらと振った。

 「ああ、エミリオ。少しばかり飲みすぎたようだ。まったく、この身は酒に弱い」

 そう言いながらカイエンはエミリオの傍らを通り過ぎる瞬間、まるでよろめいたかのように、わずかにエミリオの体に触れた。

 その一瞬の接触で、エミリオは、まるで埃を払うかのように小さく折り畳まれた羊皮紙の束をカイエンの懐に滑り込ませた。その動きは、あまりにも自然で、誰にも気づかれることはなかった。

 羊皮紙には、筆頭執政官フェルナンドに関する詳細な情報が記されており、それはエミリオが侯爵邸の社交界に顔を出しつつも、裏では密かにフェルナンドの不正に関する情報を集めていた成果だった。

 彼の屋敷に仕える使用人や信頼できる商人を通じて、隠匿された物資の場所、不正な帳簿の保管場所、警邏隊への賄賂の記録といった、具体的な証拠を地道に探り当てていたのだ。

 エミリオはその羊皮紙をカイエンに手渡すことで、彼の決意を後押しし、自身の忠誠を示すとともに、長年抱いてきた侯爵への反感を果たす機会を得たのだ。


 エミリオから受け取った羊皮紙の束は、カイエンの懐で僅かな熱を帯びていた。

 彼はそれを確かめるように軽く押さえつけ、誰もいないことを確認してから、慣れた足取りで自室へと向かった。

 侯爵邸の自室は、彼にとって唯一、仮面を外せる聖域だった。だが、安堵はつかの間だ。壁の向こうに常に侯爵の冷たい監視の目が光っていることを、肌で感じ取るように彼は知っていた。

 鍵をかけ、ようやく一息つくと、彼は握りしめていた羊皮紙を改めて手に取った。窓の外には、港町の街並みを淡く照らす夕日が沈みかけていた。

 その赤く、重苦しい輝きは、まるで街の深まる苦境を映し出しているかのようだ。光の中に、飢えに喘ぐ人々の顔が幻影のように浮かび上がり、彼の胸の奥に熱い塊が宿った。今夜、必ずこの羊皮紙が示す真実を暴き出す。この街を、そして家族を、この腐敗から解放すると心に誓った。


 自室の扉を開くと、そこには彼の妹、エレナ・デル・ルナが心配そうな顔で立っていた。

 彼女は、幼い頃から病弱な母を気遣い、侯爵の冷たい視線に耐えながら、健気に生きてきた。世間知らずで、外の現実をほとんど知らない箱入り娘だ。

 「お兄様、またお酒ですわね。お母様がご心配なさっていますし、街の人々も、お兄様のそんなお姿を見たらきっとがっかりなさいますわ」

 エレナはカイエンの振る舞いを純粋に「侯爵家の長男としての品位」や「母の心配」といった、ごく身近な視点から心底案じているようだった。

 彼女の瞳には外界の厳しさを知らない、純粋すぎる優しさが宿っている。それが、カイエンの胸を締め付けた。

 本当の自分を見せられないことへの罪悪感と、彼女を守るためにこの道を選んだ決意が彼の胸中で交錯する。

 

 「心配ないさ、エレナ。少し気分が優れないだけだ。すぐに良くなる」

 

 カイエンは、いつものように軽く笑いエレナの頭を優しく撫でた。その手つきは兄としての愛情に満ちていたが、彼の表情は相変わらず締まりがない。

 エレナはその言葉を信じきれない様子で、それでも兄の言葉に頷いた。

 彼女の小さな世界では、この兄の「だらしない」振る舞いが最も深刻な問題なのだ。

 

 「お母様には、わたくしから伝えておきますわ。お兄様も、どうか無理はなさらないでくださいませ。……わたくしたちは、お兄様が誇れるような存在でいて欲しいのですから」

 

 エレナは、そう言い残して去っていった。

 その背中は、侯爵家の規範と、彼女自身の純粋な願いを背負っているようだった。カイエンは、妹の後ろ姿を見送りながら、心の中で謝罪した。彼女の健気な姿が、彼の決意をさらに強くする。


 その後、カイエンは病室にいる母、イサベラ・デル・ルナの元を訪れた。

 母は、ベッドに横たわり窓から差し込む夕日を眺めていた。彼女の顔は病のために痩せ細っているが、その瞳にはかつての侯爵夫人としての気品と、息子への深い愛情が宿っていた。

 

 「カイエン……」

 

 イサベラは、弱々しい声でカイエンの名を呼んだ。カイエンは、母の手をそっと握った。

 「母上、ご気分はいかがでございますか」

 彼は、ここでも「うつけ者」の仮面を外すことはできなかった。母の病状が悪化しないよう、余計な心配をかけたくなかったのだ。

 「ええ、少しばかりですわ。カイエン、あなたはいつも、そうやってわたくしを安心させてくださる。でも、無理をしてはいけませんよ」

 イサベラは、カイエンの真意を薄々感じ取っているようだった。

 彼女は、カイエンの幼い頃から彼の聡明さとその心の奥に秘めた優しさを知っていた。

 しかし侯爵の監視の目が厳しいため、深く踏み込むことはできない。

 

 母の手を握りしめたカイエンは、言葉にならない決意を胸に秘めた。必ず、この街を、そして母を、侯爵の支配から解放してみせる。それは、彼の心の奥底に燃え盛る、静かなる炎だった。


 侯爵とは、邸内で顔を合わせることはなかった。カイエンが留学から侯爵邸に戻ってきて以来、侯爵は彼をほとんど無視している。

 カイエンの「うつけ者」としての振る舞いは、侯爵にとってもはや期待する価値もない存在であることを意味していた。それが、カイエンにとっては都合の良いことだった。

 侯爵の冷徹な視線に晒されることなく、彼は密かに自身の計画を進めることができたのだ。

 侯爵は、息子を「無能な道楽者」と見なしその存在すら意識の外に置いていた。その油断こそが、カイエンにとって最大の武器だった。


 日中の喧騒が嘘のように静まり返った夜の街へ、カイエンは侯爵邸を出ていた。

 彼はいつものように締まりのない足取りで、侯爵の監視の目が届かない唯一の場所である旧市街の別邸へと向かった。たどり着いた別邸の扉を開き、執務室へと足を進める。

 

「おかえりなさいませ、若旦那。」

 中に入ると、マヌエルが何やら紙の束を持ち地図の前で視線を行き来させていた。カイエンが入ってくると、彼はすかさず声をかけて出迎えた。

 マヌエルの声は静かだが、その中に確かな敬意と、夜の活動への理解が込められていた。

「ただいま、マヌエル。早速だが、エミリオから受け取った新たな情報と、今夜の町の状況を合わせて確認したい」

 カイエンは扉を閉め、鍵を掛けると、大きく息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。顔から「うつけ者」の仮面が剥がれ落ち、そこには鋭い眼光を宿した、本来のカイエンの表情があった。彼はテーブルに広げられた港町の地図と、エミリオから受け取った羊皮紙の束を前に、真剣な表情でそれらを精査していた。羊皮紙には、フェルナンドが不正に備蓄していた穀物倉庫の場所、賄賂の授受を記録した帳簿の保管場所、そして警邏隊内の腐敗した幹部のリストが、詳細に記されている。それらは、フェルナンドが侯爵の権力を笠に着て行ってきた悪事の全てを物語っていた。

「フェルナンドめ、随分と貯め込んでいるな。これだけの物資があれば、飢えに苦しむ者たちを何日も救えるはずだ」

 カイエンは、静かに呟いた。その声には、いつもの飄々とした響きはなく、冷徹な怒りが宿っている。

「はい、カイエン様。特に、港に到着したばかりの穀物が、市場に出回ることなく、フェルナンドの私設倉庫に運び込まれているとの情報が入っております。市民は、高騰する食料価格に喘いでおります」

 マヌエルは淡々と報告を終えると、自身が持っていた紙の束をカイエンへと手渡した。

 彼の脳裏には、広場で恐怖に震えていた少年の姿と、苦境に耐えるクララの姿が鮮明に浮かんでいた。彼らの希望を、決して裏切るわけにはいかない。

 


 翌日の昼下がり、市場の広場は、普段通りの喧騒に包まれていた。

 一日の仕事を終えた人々が夕食の食材を求めて行き交い、商人たちの威勢の良い声が響き渡る。しかし、その活気の中にも誰もが口に出さない沈黙が横たわっていた。

 まるで嵐の前の静けさのように人々は互いの顔色を窺い、警邏隊の鋭い視線が肌を刺す。フェルナンドの取り締まりは厳しさを増し、人々は常に役人の目を気にしながら生活していた。

 広場の入り口には警邏隊の隊員が数人立ち、鋭い眼差しで人々を監視している。

 その中には、市民から賄賂を徴収する者や些細なことで難癖をつけては金品を要求する者もおり、広場の雰囲気は、以前にも増して殺伐としていて不穏な空気が最高潮に達した。


 刹那、閃光が走り続いて轟音と共に、広場の一角から濃い煙が立ち上った。

 人々が驚き、ざわめき始める。

 煙の中から、漆黒の影が舞い降りた。

 ヴェールだ。その姿は、まるで夜の帳そのものが形を成したかのように、広場のざわめきすら吸い込む静寂を纏っていた。

 日中の明るい広場に現れた彼の姿は、まるで現実を切り裂く幻のようだった。

 広場の警邏隊員たちは突然の出来事に混乱し武器を構えるが、その動きは鈍い。

 彼の動きは、常人の理解を遥かに超える。まるで空気の震えすら立てずに、風が通り過ぎるように警邏隊員たちの間をすり抜けていく。

 その漆黒のローブの裾が翻る一瞬、彼らが武器を構える間もなくヴェールの手はすでに彼らの急所を的確に突いていた。

 音もなく、次々と隊員が地面に崩れ落ちていく。

 彼らは意識を失っているものの、傷一つ負っていない。

 ヴェールは、不必要な暴力は決して振るわない。

 彼の目的は悪を暴き、人々を救うことであり、命を奪うことではなかった。


 驚愕の目でその光景を見ていた群衆は、声も出せずに立ち尽くすばかりだった。

 

 筆頭執政官フェルナンドはその時、広場の端に立つ穀物倉庫の前にいた。

 数人の精鋭警邏隊員を引き連れ、彼は新たに到着した物資の搬入を監督していた。

 横柄な態度で隊員に指示を出し、時折通行人を見下すように冷笑を浮かべる。彼の太った顔には不当に得た富と権力に溺れた者の傲慢さが滲み出ていた。

 突然の閃光と轟音、そして広場に現れた漆黒の影に、彼はギョッとして目を剥いた。

 

 「な、なんだ貴様は。警邏隊、直ちにそいつを捕らえろ。何をしている、動け。動かないのか」

 

 フェルナンドは、震える声で叫んだ。

 だが彼の精鋭部下たちは、すでにヴェールによって無力化され次々と地面に崩れ落ちていた。

 ヴェールは警邏隊員たちを一瞥もせずに、真っ直ぐにフェルナンドへと向かっていく。

 フェルナンドは恐怖に顔を歪め後ずさり始める。彼の周囲にいた警邏隊員たちは、動かない同僚たちを見て狼狽するばかりでヴェールの動きに全く対応できない。

 

 「き、貴様、まさかヴェールか。こんな白昼に現れるとは、頭がおかしいのか」

 

 フェルナンドは、でっぷりと越えた体を必死に動かし逃げようとした。

 だが、ヴェールの動きは彼の想像を遥かに超えていた。

 ヴェールは一瞬でフェルナンドの背後に回り込みその両腕を巧みに絡め取ると、フェルナンドは身動きが取れなくなり、うめき声を上げた。

 

 「飢える民から奪い、私腹を肥やした。その罪状は、白日の下に晒された」

 

 ヴェールの声は、冷徹で、感情を一切含まない。フェルナンドは、その声に背筋が凍る思いがした。

 

 「何、何を言っている。放せ。貴様ごときに、この私が裁かれる筋合いなどないわ。愚か者が」

 

 フェルナンドは血走った目でヴェールを睨みつける。

 しかし、彼の抵抗は虚しくヴェールの腕力は強固で全く身動きが取れない。


 フェルナンドをその場に拘束すると、警邏隊を無力化したヴェールは一瞥もせずに、広場に面した巨大な建物へと向かった。

 それは、筆頭執政官フェルナンドが不正に備蓄していた穀物倉庫で扉は分厚い鉄板で覆われ、頑丈な鍵が何重にもかけられている。

 しかし、ヴェールにとってはそれは何の障害にもならなかった。

 彼は、扉の前に立つとその精巧な構造を一瞥すると懐から取り出した特殊な工具を巧妙に操り、複雑な鍵の細工を一瞬のうちに解き明かした。

 金属がカチリと音を立て、分厚い扉がゆっくりと内側へ開いた。

 扉が内側へ大きく開くと、中から山と積まれた穀物の袋が露わになった。

 埃っぽい倉庫の奥から乾いた穀物の匂いが広場に流れ出し、人々はその膨大な量に息を呑んだ。

 それは、港町の市民が数ヶ月間生活できるほどのものだった。同時に、ヴェールは懐から羊皮紙を取り出すとそれを広場の中央に大きく張り出した。

 それは、エミリオから提供されたフェルナンドの不正を記した帳簿の写しだった。

 そこには、フェルナンドが市民から不当に徴収した食料の記録、賄賂の授受、そして腐敗した警邏隊幹部の名が詳細に記されていた。

 人々は、その光景を目の当たりにし息を呑んだ。


 広場の片隅、薄暗い路地裏に、一人の少年が身を潜めていた。

 あのスラムの少年だ。

 

 彼は、陽だまり亭の裏口に置かれたパンと肉の切れ端を今日も見つけることができた。

 温かい食事は彼の空腹を満たすだけでなく、凍えそうな心に温かさを灯してくれた。

 陽だまり亭の人々が自分を気遣ってくれていることを、少年は知っていた。彼らの優しさが、この冷たい街で生きる唯一の希望だった。

 だが、少年が陽だまり亭の扉を叩くにはまだ少しばかりの勇気が足りなかった。

 少年は、いつか、自分も誰かの希望になれる日が来ることを漠然と夢見ていた。

 少年は、パンをかじりながら広場の様子を窺っているとその時、広場の中心で突如として異変が起こった。

 少年は、路地裏の影からその光景を息を殺して見つめている。

 

 日中の陽光の下、白昼堂々と悪を暴くヴェールの姿はまさに「黒い稲妻」だった。

 闇の中から現れ、不正を暴き、人々を救う。

 その圧倒的な力と揺るぎない正義の光が、少年の幼い心に深く刻み込まれる。

 ヴェールが自分を助けてくれたあの日の英雄だと、彼は確信した。

 あの時、自分を救ってくれたのは幻ではなかったのだ。

 彼の胸に、熱いものが込み上げてくる。

 いつか、自分も、あのヴェールのように強くなりたい。そうすれば、もう誰も飢えや恐怖に怯えることはないだろう。

 ヴェールの行動は、瞬時に広場を騒然とさせた。

 人々は倉庫から溢れ出る穀物と、広場に張り出された不正の記録を目の当たりにし、怒りと驚きの声を上げた。

 

 「フェルナンドめ、やはり我々を騙していたのか」

 「こんなにも多くの食料を隠し持っていたとは」

 「我々が飢えている間に、あの男はこんなにも肥え太っていたのか」

 

 人々の怒りの声が、広場に響き渡る。

 その中で、ヴェール、再び一瞬の煙と共に姿を消した。

 彼の残した「V」のマークが、広場の壁に新たな希望の証として浮かび上がっていた。


 まもなく、広場に警邏隊の増援が駆けつけた。

 彼らは散乱した穀物と広場に張り出された不正の記録、そして無力化された同僚たちを見て、事態の深刻さを悟った。

 筆頭執政官フェルナンドは、その場で警邏隊に逮捕された。

 「馬鹿な、貴様ら一体何を考えている。この私が、貴様らのような下衆に捕まるとでも思っているのか。侯爵様に告げ口してやる、貴様ら全員、首が飛ぶぞ。この穀物は、侯爵様の命で備蓄していたものだ。ヴェールなどというゴロツキの口車に乗せられるな」

 フェルナンドは、怒りに顔を真っ赤にして叫び散らした。

 ずんぐりとした体を必死に動かし暴れ回ろうとするが、すでに両腕は押さえつけられている。

 「くそ、この私を誰だと思っている。この港町の筆頭執政官だぞ。この腐れ警邏隊め、後で覚えておれ」

 彼は、口汚く罵りながら足元で必死に足をばたつかせ、抵抗を続けた。

 しかし、彼の逮捕は侯爵の意図するものではない。

 ヴェールによって不正を暴かれ公衆の面前で追い詰められた結果だった。

 警邏隊の中には、ヴェールの行動を内心で評価する者もいた。

 彼らは、侯爵の支配下で自らの正義を曲げざるを得なかったことに苦悩していて、多くはフェルナンドの悪行を知りながらも、その権力に逆らうことができなかった。

 しかし、ヴェールの行動は彼らの心に忘れかけていた正義の炎を再び灯した。


 フェルナンドの逮捕は、港町に一時的な安堵と喜びをもたらした。

 人々は長年の悪行がようやく裁かれたことに歓声を上げ、広場に解放された穀物を分け合った。

 飢えに苦しんでいた人々が、温かい食事にありつける。

 それは、何よりも代えがたい喜びだった。

 しかし、その喜びは一時的なものである。

 フェルナンドが逮捕されたところで、侯爵の支配が揺らぐわけではない。

 根本的な問題は、何一つ解決していないことを人々は薄々感じ取っていた。

 彼らの表情には安堵と共に、漠然とした不安が混じり合っていた。


 少年は、人々の歓声と解放された穀物を分け合う光景を広場の影、路地裏からじっと見つめていた。

 ヴェールの行動は、確かにこの街に希望の光をもたらした。

 自分を救いそして街の人々を救ったヴェール、彼のような強い存在になりたい。

 そして、自分と同じように苦しむ人々を救いたい。

 そんな漠然とした思いが少年の幼い心の中で、確かな決意へと変わり始めていた。

 少年は、陽だまり亭の人々の優しさを知っている。

 だが、まだ、その扉を叩くにはもう少し時間が必要だと感じていた。自分自身がもっと強くなってから、彼らの前に姿を現したい。

 そう、心に誓っていた。


 カイエンは、別邸の執務室から広場での騒動の報告を受けていた。

 マヌエルからの詳細な報告は、彼の計画が完璧に実行されたことを示している。

 フェルナンドの逮捕は、侯爵にとって予想外の事態だっただろう。

 侯爵は、ヴェールの存在を単なる「厄介者」から自身の支配を揺るがしかねない「脅威」として明確に認識し始めたに違いない。

 広場での白昼の出来事は、これまでの闇に紛れての活動とは一線を画す挑戦的な行動だった。

 侯爵邸では、報告を受けたラモン侯爵が感情を抑えきれずに書斎の机を叩きつけたとの情報も入っていた。

 カイエンの冷徹な瞳の奥に、微かな笑みが浮かんだ。彼の狙いはまさにそこにあった。

 侯爵の怒りが高まり、ヴェールへの本格的な反撃が始まる予兆。

 夜の闇が港町を深く包み込む頃、ヴェールの影は次なる行動へと静かに動き出す予感と共に物語は新たな局面へと進んでいく。

読んで頂き有難う御座いました。

重く、めんどくさい内容に感じるかもしれません

お時間いただきました。

有難う御座います。

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