第四話
広場での騒動から、およそ一週間が過ぎた。
あの日の興奮と混乱は港町の空気から完全に消え去ったわけではないが、日々の生活の重みに埋もれて、表面上はいつもの日常が戻っていた。
しかし人々の心には、ヴェールという名の希望と、侯爵の息のかかった者たちからの報復への漠然とした不安が小さな火種のように燻り続けている。
陽だまり亭の日常も、変わらない賑わいを見せていた。昼時ともなれば木製のテーブルは客で埋まり、アリアやゼック、ハンスにマチルダそしてドラグは、それぞれが持ち場をこなし活気ある声が店内に響き渡る。
アリアはグラスを拭きながら、ふと厨房の裏口に目をやった。あのスラムの少年が毎日のように裏手に現れる場所だ。
広場での出来事以来、彼の姿を見ていない。
無事だろうか。
あの日の恐怖と彼を助けられなかった無力感が、アリアの胸に小さな痛みとして残っていた。
陽だまり亭に住み込んでいる従業員たちは、彼ら自身の間であの少年が空腹を抱えていることを知っていた。そのため少年が店の裏にまた現れてくれるなら、食べ残しではない温かい食事を食べさせてあげたいと思っていた。
ゼックは少年の身を案じ、ハンスは彼がまた姿を見せることを願い、マチルダは「あの子がしっかり食べられるように」と、いつもより多めにパンを焼くことが増えていた。アリアは、マチルダが焼いたばかりの温かいパンと、ハンスが作った肉の切れ端をそっと紙に包むと、客の目を盗むようにして裏口の物陰に置いた。誰かに見つかることを恐れたわけではない。
ただ、少年が気兼ねなくそれを受け取れるようにと、そっと配慮しただけだった。彼がこれを見つけ、少しでも腹を満たせるようにと、心の中で願った。
午後も半ばを過ぎ陽だまり亭の喧騒が少し落ち着き始めた頃、店の扉が静かに開かれた。
入ってきたのは一人の女性で、その姿を見たアリアは思わず目を見張る。
「クララ」
アリアは、驚きと喜びを込めて親友の名前を呼んだ。
その女性は、アリアの親友、クララ・ソリアーノだった。
かつては華やかな貴族の令嬢として知られた彼女だが、その姿は以前とは大きく異なっていた。
上質な仕立てであることはわかるものの、色褪せた地味なドレスは流行とはかけ離れ、貴族らしからぬ質素なものだった。顔には薄化粧しか施されておらず、目の下にはうっすらとクマができていてその表情には疲労の色が濃く滲んでいる。しかし、その瞳の奥には変わらない気品とどこか諦めにも似た憂いが宿っていた。
クララは、アリアの呼びかけにはにかむように微笑んだ。
「アリア。久しぶりね」
彼女の笑顔は以前のような輝きはないものの、アリアにとっては変わらぬ親友の温かさだった。アリアは急いでクララの元へ駆け寄り、その手を握りしめた。
「どうしたの、クララ。こんな時間に。それに、その格好……」
アリアの問いに、クララは力なく首を振った。
「少し、話があるの。奥へ行ってもいいかしら」
アリアは、クララの様子にただならぬものを感じゼックに目配せをする。
ゼックはすぐに状況を察し、奥の休憩スペースへと二人を促した。
休憩スペースは厨房の喧騒から離れた、小さな落ち着いた空間だった。
アリアはクララを椅子に座らせ、温かいハーブティーを淹れて差し出した。クララは震える手でカップを受け取るとゆっくりと温かさを確かめるように両手で包み込んだ。
「ありがとう、アリア。本当に、助かるわ」
クララの声はか細く、今にも消え入りそうだった。
「一体、何があったの。まさか、ソリアーノ家が……」
アリアの問いに、クララは俯き、静かに語り始めた。
ソリアーノ家は、父の事業が上手くいかなくなり、そこに執行官の取り立てが厳しくなったことで、多額の負債を抱えることになったという。
周りの貴族たちに助けを求めることもできず、ついには領地の一部を手放すことになったのだと。そして、侯爵の策略により、家名も大きく傷つけられ、没落の一途を辿っているのだと。
「……もう、昔のような暮らしはできないわ。屋敷も、使用人も、ほとんど手放したの。今は、街の端の小さな家で、細々と暮らしているわ」
クララの言葉にアリアは胸が締め付けられる思いだった。
親友の苦境に、何もできない自分が歯がゆい。
「そんな……どうして、そんなことに……」
アリアは怒りと悲しみが入り混じった声で呟いた。
クララはハーブティーを一口飲むと、遠い目をして続けた。
「全て、あの御方の思惑通りなのでしょう。気に入らない者は容赦なく潰していく。父も、それに抗おうとしたけれど……」
彼女の言葉は、侯爵の支配の根深さと、その冷酷さを物語っていた。
二人の会話が一段落した時、ハンスが休憩スペースの入り口から顔を覗かせた。
「クララ様、お久しぶりでございます。随分とお疲れのようにお見受けしますが、何か召し上がられましたか」
ハンスは、クララの憔悴した様子に気づき、心配そうな表情を浮かべた。
クララは小さく首を振った。
「いいえ、まだ……」
「ちょうど、昼食の仕込みで少し多めに料理を作ってしまいましてね。このままでは残ってしまいます。よろしければ、アリアさんと一緒に遅めの昼食でもいかがですか。今日はお客様も落ち着いてきましたから、ゆっくりしていただけます」
ハンスはそう言って、クララに食事を勧めた。多めに作ったという言葉には、あのスラムの少年にも分け与えるための配慮が込められていることを、アリアは知っていた。
クララは、ハンスの優しい気遣いに少しだけ表情を和らげた。
「では、お言葉に甘えて……」
アリアもまた、クララと共に食事を摂ることを喜び、二人でカウンター席へと移動した。
ハンスはすぐに、温かいスープと、焼きたてのパン、そして新鮮な野菜と肉のシチューを運んできた。
久しぶりの温かい食事に、ゆっくりとスプーンを進めたクララを見て、様子を気遣いながらアリアは隣で自分の昼食を摂る。
「最近、ハンスが多めに料理を作るから、宿の方のサービスの食事や、私たちの賄いも少し豪華になっているのよ」
アリアは、そう言って微笑んだ。
その言葉に、陽だまり亭の温かさと彼らが困っている人々にも目を向けていることを感じ取り、クララの心が少し和らいだ。
時折、ゼックやマチルダもカウンターに顔を出し、彼女の体調を気遣う言葉をかけたり、世間話を交えたりして、陽だまり亭の温かい雰囲気がクララを包み込む。
二人が遅めの昼食を終え食後のハーブティーを飲んでいる頃、店の入り口の鈴が、軽やかな音を立てた。
カイエンが、いつものように気だるげな足取りで現れたのだ。
彼は、広場での騒動以来この陽だまり亭には顔を出していなかった。久しぶりに訪れた店内で彼はカウンター席に座るアリアとクララの姿を認めると、わずかに目を細めた。
「やあ、アリア。久しぶりだね。あの広場での騒動以来、君も無事だったようで何よりだ」
カイエンはアリアに軽く挨拶をすると、その視線をクララへと移した。
彼の顔にはいつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。
クララはカイエンの姿を見るなり、顔をしかめた。
彼女は、かつての婚約者であるカイエンの世間を顧みない享楽的な態度を心底軽蔑しているようだった。
「カイエン様……このような場所で、お会いするとは。相変わらず、ご遊興に夢中のようで」
クララの声には、冷たい響きが込められていた。
彼女の瞳には、かつてのカイエンへの期待が完全に失望へと変わったことが見て取れる。
カイエンはクララのその態度を計算通りと受け止め、内心で微かに笑みを浮かべた。彼女の失望は、彼の世を欺く仮面をより強固なものにする。
カイエンはクララの隣の椅子に、まるで当たり前のように腰を下ろした。
「おや、クララ。そんなに冷たくしなくてもいいじゃないか。君も、昔はもう少し愛想が良かったはずだが。それに、君のその服装……随分と質素になったものだね。ソリアーノ家も、落ちぶれたものだ」
カイエンの言葉は、わざと挑発的だった。
クララの顔が屈辱に歪む。
アリアは、カイエンの言葉に思わず眉をひそめた。親友の苦境を嘲笑うようなカイエンの態度に怒りが込み上げる。
「そんな言い方はないでしょう」
アリアは、カイエンの言葉に怒りを込めて言い放った。
親友が苦しんでいる時に、そのような無神経な言葉を浴びせるカイエンの態度に、アリアは我慢がならない。
しかし、カイエンは気にする様子もなく涼しい顔でクララを見つめている。クララは、震える手でハーブティーのカップを握りしめ悔しさに唇を噛んだ。
「……貴方には、この街の苦しみが、何も見えていないのね。相変わらず、自分のことばかり」
クララの声は、怒りよりも、深い悲しみに満ちていた。その言葉は、カイエンの胸に、わずかながらも突き刺さる。彼は、クララの変化を観察していた。彼女の瞳の奥に、かつての輝きはない。しかし、その代わりに、現実の厳しさに直面した者の強さが宿り始めている。
その時、マチルダが二人の会話に割って入った。彼女は、カイエンの無神経な言葉を聞き逃さなかった。
「カイエン様。お客様にそのようなことをおっしゃっては、貴方様の品位を下げてしまいますよ。それに、楽しそうにお話されている女性の方々の間に割って入るのは、あまり宜しくありません」
マチルダの声には普段の温和な表情からは想像できないほどの、しかし気遣いに満ちた厳しい響きがあった。彼女は、カイエンの腕を掴むと無理矢理カウンターから引き剥がした。
カイエンは少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの飄々とした笑みに戻った。
「おや、マチルダさん。これは手厳しい。しかし、これも昔馴染みのよしみというもので」
「よしみなどと。それから、最近カイエン様がいらっしゃらないので、夜にいらっしゃる女性のお客様方から、お誘いの伝言や手紙を預かっておりますよ」
マチルダは、そう言って数通の手紙と小さな包みをカイエンに手渡した。
カイエンはそれらを一瞥すると面白そうに口元を歪めた。
その様子を見ていたゼックが、カイエンの隣にそっと歩み寄る。
「カイエン様。もしよろしければ今夜、私から一杯良い酒をサービスさせていただきます。ですが、今はこの二人にこれ以上絡むのはお控えください。広場での騒動の折には、私の妹が貴方様に助けていただいたと聞いております。その恩義は忘れておりません」
ゼックの言葉は、普段の彼からは考えられないほど真剣だった。
カイエンは、ゼックの言葉にわずかに目を見開いた。ゼックがアリアの兄であることは知っていたが、まさか自分が直接感謝されるとは思っていなかったのだ。
ゼックの言葉は、カイエンの胸に、彼の行動が市井の人々に与える影響の大きさを改めて感じさせた。
クララは、ふと、広場での騒動を思い出したかのように、顔を上げた。
「でも……この街には、まだ希望があるわ。あのヴェール様のような方が、この街には本当に必要なのですわ」
クララの声はヴェールの名を口にする時だけ、わずかに熱を帯びた。その瞳はロマンチックな憧れに満ち、まるで遠い星を見つめるかのように輝いている。
彼女は、広場での騒動の数日前侯爵の私兵に絡まれていたところをヴェールに助けられたことがあった。
それは、アリアが広場でヴェールと出会うよりもさらに前のことだ。
あの日の夕暮れ時、クララは父の使いで街中を歩いていた。
すでにソリアーノ家の没落は始まっており、彼女は護衛もつけずに一人で出歩くことが増えていた。
その帰り道、人気のない裏通りで侯爵の私兵数人に取り囲まれたのだ。彼らはソリアーノ家の没落を嘲笑い、クララに卑劣な言葉を浴びせた。
恐怖と屈辱に震え逃げ場を失ったその時、闇の中から現れたのがヴェールだった。
彼は、音もなく私兵たちの間に割って入り、一瞬にして彼らを無力化した。
その動きはまるで夜の帳に溶け込む影のようでありながら、確かな力強さを秘めていた。
ヴェールは、倒れた私兵たちを一瞥するとクララに視線を向けた。
その冷たい瞳の奥には、確かな正義の光が宿っているように彼女には見えた。
彼は言葉少なに「無事か」とだけ尋ね、クララが頷くのを確認するとそのまま闇に消え去った。その一瞬の出来事が、クララの心に深く刻み込まれていた。
絶望の淵に差し込んだ、唯一の光。それ以来、彼女はヴェールを、この街を救う真の英雄だと信じて疑わなかった。
「ヴェール様は、私を救ってくださったの。あの冷たい瞳の奥に、確かな正義の光を感じたわ。自分の享楽にしか興味のない方とは違う」
クララの言葉はカイエンへの当てつけのようにも聞こえたがその根底には、ヴェールへの純粋な好意と、彼に寄せる深い信頼があった。
彼女は、ヴェールこそがこの街を救う真の英雄だと信じていた。
「そうなの、クララ。実は私も先日、広場でヴェール様に助けていただいたのよ」
アリアがそう打ち明けるとクララの瞳がさらに輝いた。
クララは身を乗り出しアリアの手を握りしめた。
「そうでしょう。やっぱりそうだったのね。ヴェール様は本当に素晴らしい方だわ。あの素早い動き、あの冷たい視線の中に宿る正義の光、そして何よりも、困っている人を放っておけない優しさ。本当に、絵になる方だわ。まるで物語に出てくる英雄のよう。あんなに完璧な方が、この街に本当にいるなんて、信じられないわ」
クララはまるで憧れの英雄を語る少女かのように、興奮した面持ちでヴェールの魅力を語り始めた。
その表情は、先ほどの疲労や憂いを忘れ去ったかのように生き生きとしている。
「でも、あんな危ないことをしていて、ヴェール様は怪我をしていないかしら。心配になるわ」
アリアがヴェールの身を案じるように言うと、クララは軽く手を振った。
「ヴェール様だもの、そんなのどうってことないわ。きっと、どんな危険も乗り越えてしまうのよ。だって、あのヴェール様だもの」
クララはアリアの心配を意にも介さず、楽しそうにヴェールへの憧れを語り続ける。
二人の女性の楽しげな会話は、カウンターの端に座り女性たちから預かった手紙を読みながら座っていたカイエンの耳にも自然と届いていた。
彼は手紙に書かれている甘い言葉に目を通しながらも、二人の会話に意識を向けていた。
クララのヴェールへの熱狂的な賛辞とアリアの素直な心配。
その両方から、カイエンはヴェールという存在がこの街の人々に与える影響の大きさを改めて感じ取っていた。
カイエンは、二人の会話に内心で複雑な感情を抱いた。
彼女がヴェールに憧れを抱いていることは、彼の計画にとって好都合だ。
しかし、彼女の口から直接ヴェールへの純粋な信頼と自分への失望を聞かされるのは、やはり複雑な気分だった。
彼は、クララの苦境の背景に侯爵の影が色濃く存在することを再認識した。
ソリアーノ家の没落は、侯爵が自身の権力を盤石にするための邪魔な貴族を潰していく一環なのだろう。カイエンは、クララの変化を冷静に観察していた。
彼女は、かつての無邪気な令嬢ではなくなっている。
その瞳の奥には、苦難を乗り越えようとするかすかな意志の光が見える。それは、彼がこの街に求めている「気概」の一端なのかもしれない。
カイエンは二人の会話を聞き終え、陽だまり亭を出た後も侯爵の支配構造について深く考えていた。
フェルナンドの悪行は、単なる個人の問題ではない。
それは、侯爵が港町の富を吸い上げ自身の権力を強化するための巧妙な仕組みの一部なのだ。
ソリアーノ家の没落はその仕組みの犠牲者の一例に過ぎず、侯爵の支配は貴族社会にまで深く根を下ろしている。
カイエンは、ヴェールとしてこの巨大な闇に、より深く切り込んでいく必要があることを痛感していた。
あの少年のような幼い命が、これ以上理不尽に踏みにじられることのないように。
そして、クララのような人々が、希望を失うことのないように。
彼の心には、新たな決意が宿っていた。
そのころ、陽だまり亭の裏手では、あの少年が物陰に置かれたパンと肉の切れ端を見つけていた。
少年は、辺りを警戒しながら素早くそれらを手に取る。陽だまり亭の人々が置いていってくれている物だと彼は知っていた。
彼らの優しさが少年の飢えを、そして心を、わずかに満たしてくれる。
広場での騒動以来少年はヴェールの存在を強く意識するようになっていた。闇の中から現れ、役人を無力化し、不正を暴く姿は、彼の心に強烈な印象を残した。
ヴェールは、自分を救ってくれた「黒い稲妻」だと彼は確信していた。ヴェールのような強い存在になりたい、そして自分と同じように苦しむ人々を救いたいとそんな漠然とした思いが少年の幼い心の中に芽生え始めていた。
少年は、パンをかじりながら午後の空を見上げた。高く澄み渡った青空には、白い雲がゆっくりと流れており、午後の日差しが優しく降り注いでいた。その空の向こうに、ヴェールの姿を重ねる。
この空の青さが、皮肉でも何でも無く、自分の心のように思える日が来るのだろうか。
夕闇が、港町を包み込み始める頃、ヴェールの影が、再び動き出す予感と共に物語は次のフェーズへと進んでいく。
お時間有難う御座いました。
プロローグの後書きにも書きましたが、Nolaにも同じ名前で投稿している作品です。
読んで頂き有難う御座いました。