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間話

 侯爵邸の奥、カイエンの私室は、昼間の喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。重厚なカーテンが午後の光を遮り、室内は暖炉の炎が揺らめく薄明かりに満ちている。壁には、港町の古地図や、複雑な紋章が描かれたタペストリーが飾られていて彼の部屋が単なる寝室ではないことを示唆していた。

 カイエンは、肘掛け椅子に深く身を沈め手元のグラスをゆっくりと傾ける。琥珀色の液体が、暖炉の光を反射してきらめいた。

 その隣には、執事のマヌエルがいつものように無表情で控えている。

 しかし、その瞳の奥には、主人の行動に対するわずかな困惑と深い忠誠心が読み取れた。


 「フェルナンドめ、私の予想以上に盛大に自滅してくれたな。あの男の行動パターンは読みやすい。広場での見せしめも、この状況になることは読んでいくつかの策を練っていたが、まさか、あの娘が……」

 カイエンは、口元に薄い笑みを浮かべグラスを揺らしながら呟いた。

 その声には、どこか楽しげな響きがある。

 マヌエルは静かに答える。

 

 「はい、カイエン様。広場での騒ぎは瞬く間に、港町中に広まりました。筆頭執政官の不正が公になったことで、住民たちの動揺は隠しきれません。そして、ヴェールの出現は彼らの心に新たな波紋を投げかけています」

 「波紋、か。良い響きだ、停滞した水面にようやく石が投げ込まれたということだ」

 カイエンは満足げに頷く。

 

 「しかし、カイエン様。あの『幻の宝』とは、まさかのはったりでございましたか」

 

 マヌエルが、わずかに眉をひそめて尋ねた。

 その声には、主人の突飛な行動への疑問が滲む。

 

 カイエンは、くすりと笑った。

 

 「ああもちろん、あんなものは存在しない。役人たちの注意を逸らし場を混乱させるための、ただの仕掛けだ。奴らは欲に目が眩み、私が投げかけた餌にまんまと食いついた。愚かな連中だ」

 「しかし、そのためにあんな高価な酒を……」

 マヌエルが、惜しむように呟く。

 「惜しいか、マヌエル。あの程度の犠牲で港町の情勢を動かせるのなら、安いものだ。それにあの酒は、どうせ碌でもない連中が持ち込んだものだ。無駄にはなっていないさ」

 

 カイエンは、冷徹な目でマヌエルを見つめる。

 「港町の情勢を動かすには、もう少し刺激が必要だった。煙幕は予定通り私が仕込んだものだ。だがまさか、あの娘が飛び出すとはな。まったく、私の計画に余計な波風を立ててくれたものだ」

 マヌエルは主人の言葉にわずかに口元を緩めた。

 「しかしカイエン様、そのお顔はむしろ嬉しそうに見えますが。最近お辛そうなご様子ばかりでしたから、少し安心いたしました」

 カイエンは、小さく肩をすくめ手のひらをひらひらと振った。

 「気のせいだ、マヌエル。だが、あの状況で臆することなく声を上げるとは……感心するな。この港町にも、まだ腐敗に抗う気概を持つ者がいたとはな。それだけでも、収穫だ。煙幕の範囲は広すぎた。巻き添えで怪我人が出なかったか、後で確認しておけ」

 

 マヌエルは静かに頷いた。

 「承知いたしました。広場には騒ぎが突然起こったことで、古くからのギルドの者たちが自主的に影から手助けをしていたようです。彼らのおかげで、大きな混乱には至りませんでした」

 カイエンの口元に、微かな笑みが浮かんだ。

 「ほう、そうか。あの連中もまだこの街を見捨ててはいないということか。良い兆候だ」

 「では、次なる一手は……」

 マヌエルは主人の真意を理解したかのように、静かに問う。

 

 カイエンは、空になったグラスを暖炉の光にかざしその奥に潜む炎を見つめた。

 「焦る必要はない。種は蒔かれた。あとはそれが芽吹き、育つのを待つだけだ。この港町が、そう簡単に変わるとも思えん。次なる一手は、より大胆に、より巧妙に仕掛ける必要があるだろう。フェルナンドの失態は、侯爵の耳にも入るだろう。奴がどう動くか、見物だな」

 彼の口元には、再び冷徹な笑みが浮かんだ。彼の銀灰色の瞳は、揺らめく炎のように、港町の未来を見据えているかのようだった。



 そのころ陽だまり亭の厨房では、一日の業務を終え、片付けの音が響いていた。

 薪が燃えるパチパチという音と、食器がぶつかるカチャカチャという音が静かな夜に溶け込む。

 アリアはエプロンを外し、疲れた体を椅子に預けた。その顔には広場での出来事の余韻が色濃く残っている。酒場主人のゼック、用心棒のドラグ、料理人のハンス、そして陽気な世話焼きのマチルダが、彼女の周りに集まっていた。

 彼らの顔にも、今日の騒動への不安と好奇心が入り混じっている。


 「アリア、お前、大丈夫だったのか。広場で騒ぎがあったって聞いたぞ」

 兄のゼックが、心配そうにアリアの顔を覗き込む。その声はぶっきらぼうだが、妹を案じる気持ちがにじみ出ていた。

 アリアは、深く息を吐き、ゆっくりと話し始めた。

 

 「うん、なんとか。でも、本当にひどかった。役人たちが、おばあさんのジャガイモを踏み潰して……それで、毎日のように裏手に来る、あのスラムの男の子が捕まりそうになって……」

 

 彼女は、広場での光景を鮮明に思い出し、言葉に詰まる。マチルダが、そっとアリアの肩に手を置いた。

「おやまあ、大変だったねぇ。温かいハーブティーでも淹れてあげるから、少し落ち着きなさい」

 マチルダはそう言って、慣れた手つきでハーブティーの準備を始めた。ハンスは黙って頷きながら、彼女の動きを見守っている。ドラグは腕を組み、険しい表情で話を聞いている。


 「それで、あの貴族様が、突然現れて……」

 アリアは、カイエンの介入から、ヴェールの出現、そしてフェルナンドの不正が記された紙が晒されたことまで一部始終を語った。

 彼女の声には、安堵と、混乱と、そして微かな興奮が入り混じっていた。

 

 「まさか、あのヴェールが本当に……」

 ゼックが、驚いたように呟く。長年この港町で酒場を営んできた彼にとっても、ヴェールは都市伝説のような存在だった。

 

 「そして、フェルナンドの不正が公になった。これで少しは変わるかしら……」

 アリアは希望と不安が入り混じった目で、ゼックたちを見つめた。

 ドラグは、低い声で唸る。

 

 「変わる、か。そう簡単にはいかねぇだろうな。この港町は長い間、重い鎖に繋がれてきた。だが今日その鎖に、小さな亀裂が入ったのは確かだ。それが吉と出るか凶と出るか……俺たちにはまだわからねぇ」

 「まったく、あの貴族様ときたら何を考えてるんだか。でも、あの子を助けてくれたのは本当だしねぇ」

 

 マチルダが、温かいハーブティーをアリアに差し出しながら口にする。

 アリアは、マチルダの言葉に頷いた。

 「そう。彼のやり方は全てを遊びのように考えているみたいで。でも、結果的にあの男の子は助かったし、フェルナンドの不正も暴かれた。それに、ヴェール……あんなに無茶をして、大丈夫だったのかしら」

 彼女の脳裏には、煙の中に消えていったヴェールの姿が焼き付いていた。ヒーローへの畏敬と、一人の人間への深い心配が、彼女の心を揺さぶる。

 

 ハンスは、ハーブティーを一口飲むアリアの様子をじっと見ていた。

 「アリアさん、広場で役人たちから助けてくれた、あの貴族様にも、ヴェールにも、お礼は言えたのかい」

 

 ハンスが、ストレートに尋ねた言葉で、ゼックとドラグ、マチルダの視線がアリアに集まる。

 アリアは、ハッと息を呑んだ。

 「ううん、言えなかったの。急すぎて、頭が真っ白になっちゃって……」

 アリアはそこで言葉を区切り、ふと、顔を曇らせた。

 

「やってしまった……お礼も言えずに。それに、どうしよう私……今になってやっと考えが及んだけれど、あんな風に飛び出しちゃって、もし役人たちに目をつけられたら、陽だまり亭の評判が悪くなったり、みんなに迷惑がかかったりしたら……ごめんなさい、みんな。私のせいで、何か大変なことが起きてしまったらって思うと……」

 

 アリアは、不安に顔を曇らせ、申し訳なさそうに謝罪した。

 ゼックは、そんなアリアの様子を見て小さくため息をついた。

 

 「ったく、しょうがねぇな。まあ、あの貴族様も、ヴェールも、お礼を期待してるわけじゃねぇだろう。お前が無事なら、それでいい。お前が正しいと思ったことをしたんだ。俺たちは、お前を責めたりしねぇよ。この港町がどうなるかは分からねぇが俺たちには、この陽だまり亭がある。ここでみんなが安心して飯を食って、酒を飲める場所を守っていく。それが俺たちの仕事だ。だから、アリアもみんなも、無茶はするなよ。この陽だまり亭は、みんながいてこそだからな」

 

 アリアは、ゼックの言葉に胸が熱くなるのを感じた。

 彼女は温かいハーブティーをゆっくりと飲み干し、決意を新たにする。

 この港町に、まだ希望があることを信じて。そして、自分にできることを、1つ1つ積み重ねていこうと。

 夜は更け、陽だまり亭の明かりは、港町の闇の中で、かすかに揺らめいていた。

お時間頂き有難う御座います。

三話にも四話にも話に入れづらかった為このような形になりました。

読んで頂き、有難う御座いました。

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