第三話
広場の空気は、昼食後の喧騒が去り、重苦しい沈黙が支配していた。
午後の日差しが石畳を照らし、わずかに残る寒さが肌を刺す。
広場の隅には使い古された木製の荷車がひっくり返り、その傍らで年老いた女性が、地面にぶちまけられたジャガイモの山を、震える手で拾い集めようとしていた。
泥にまみれたその塊が、彼女の唯一の糧だったのだろう。
彼女の指先は、飢えと寒さで赤く腫れ上がっている。その節くれだった指が、泥まみれのジャガイモに触れるたび、かすかな震えが走る。
彼女の背中は丸まり、まるでこの世の重荷を全て背負っているかのようだった。
広場全体に薄汚れた土と、わずかに腐敗した野菜の匂いが混じり合い、港町の人々の胃の腑をさらに締め付ける。
そこには、希望の港と呼ばれた往時の賑わいの面影は、もはやどこにもなかった。
警邏隊の役人たちは、その老女の姿を嘲笑うかのように無慈悲にジャガイモを踏み潰していく。
革のブーツが、ぐしゃりと鈍い音を立てて野菜を砕く。
その音は、まるで港町の人々の希望が踏みにじられる音のようだった。
彼らの顔には権力を笠に着た傲慢さが露骨に浮かび、その冷酷な視線が野次馬たちを射抜くたび、ざわめきはたちまち沈黙へと変わった。
威圧的な雰囲気に港町の人々は一斉に息を呑み、広場の空気が凍り付いたかのように重い沈黙が落ちた。
誰もが目を伏せ、この理不尽な光景から目を背けようとしていた。
彼らの視線は地面へと釘付けになり、口元は固く引き結ばれ、怒りや絶望といった感情が、声にならない呻きとなって広場に澱んでいた。
肩はすくめられ、震える息遣いが、冷たい空気の中に溶けていく。
港町のあちこちから聞こえてくる潰れた商店のシャッターが下ろされる音や幼い子供の泣き声が、この広場の光景と重なり侯爵の支配がどれほど港町を蝕んでいるかを物語っていた。
彼らの心には過去に理不尽に連行された隣人の顔や、反抗して打ちのめされ二度と広場に姿を見せなくなった者の姿が焼き付いており、それが彼らの口を固く閉ざさせていた。
その時、広場の隅壊れた木箱の陰に身を潜めていた少年が潰されたジャガイモの残骸に、恐る恐る手を伸ばした。
飢えに耐えかねたのだろう。
彼の痩せこけた指先が、泥にまみれたジャガイモへ触れようとした瞬間、役人の一人がその小さな動きを見逃さなかった。
男の目はまるで獲物を見つけたかのようにギラつき、口元には下卑た笑みが浮かんだ。
彼の警棒が、少年の隠れていた木箱を乱暴に叩き、乾いた音を立てた。
「おい、そこの餓鬼。何をしている」
怒鳴り声が広場に響き渡り、役人が少年の腕を乱暴に掴み、引きずり出した。その声には、有無を言わせぬ威圧感が込められていた。「へっ、浮浪者は排除しろとお達しが出てるんだ。ちょうどいい、連れて行くぞ」
幼い少年は、突然の事に身を硬くし恐怖に顔を歪ませた。
その瞬間、アリアの全身に電流が走った。
心臓が激しく脈打ち、血の気が引いていく。喉がひりつき、呼吸が浅くなる。目の前で繰り広げられる光景が、まるで遠い昔の悪夢のように感じられた。
あの時、自分もまた、理不尽な力に怯えたことがあった。その記憶が、アリアの胸を締め付け痛みを伴うほどだった。
彼女の脳裏に、幼い頃に見た、飢えで倒れた子供の姿が鮮明に蘇る。
このままでは、この子も。
「やめて。その子を離しなさい。今すぐ」
彼女の声は、怒りと焦りで震え、喉がひりつく。
その声には、命令とも懇願ともつかない切迫した響きがあった。
手に提げていた仕入れの品々が入った籠が、地面にがたりと音を立てて転がった。その音は、広場の沈黙の中で、妙に大きく響く。
衝動的に、アリアは役人たちへと駆け出す。
彼女の視界には、恐怖に顔を歪ませ必死に腕を振りほどこうともがく少年の小さな体の姿しかなかった。その細い腕には、役人の指が食い込み、今にも折れそうに見えた。
「なんだ、この女は」
役人の一人が、アリアの前に立ちはだかる。
男の顔には、傲慢さと邪魔が入ったことへの苛立ちが露骨に浮かんでいて、その声にはわずかな驚きと、それに続く侮蔑の感情が混じっていた。
粗野な手でアリアの肩を掴み、乱暴に突き飛ばそうとする。その指が肩に食い込み、骨にまで響くような痛みが走る。アリアは歯を食いしばり、よろめきながらも踏みとどまった。
彼女の足元は、石畳にしっかりと根を張ったかのようだった。
「下がれ、女。貴様のような下賤な者が、公務の邪魔をするなど、身の程を知れ」
その力に、アリアの細い体はよろめいた。
しかし、彼女の視線は、まだ少年を掴んで離さない別の役人に向けられていた。
少年は捕らえられた腕を必死にねじり、再び「やめて、はなして」と、悲鳴にも似たか細い声を絞り出す。
その声を聞いたアリアの胸は、激しく脈打ち、恐怖を押し殺すかのように奥歯を噛み締めた。
胃の腑がひっくり返るような不快感が込み上げる。
このままでは、この幼い命が、彼らの玩具にされてしまう。そんなことは、決して許さない。彼女の心の中では、燃えるような怒りが静かに燃え上がっていた。その怒りは、冷たい広場の空気さえも熱くするかのようだった。彼女の全身の血が、まるで沸騰したかのように熱く脈打っていた。指先が痺れ、視界の端がわずかに揺らぐ。口の中には、鉄のような苦みが広がっていた。
「公務だと、あなたたちはそう言うのね。でも、こんなことが公務だなんて、盗賊と何が違うというの。ただでさえ困窮する港町の人々から、その僅かな糧まで奪い取り、それをこの港町の治安維持だなんて、そんな馬鹿な話があるものですか」
アリアの声は、震えながらも広場に響き渡る。
その言葉は、野次馬たちの心の奥底に燻っていた不満を刺激した。何人かが、再びひそひそと声を上げ始める。
その声には、アリアの言葉への共感と抑えきれない怒りが含まれていた。
「そうだ。まさに盗賊だ」
「ひどい。この港町は一体どうなってしまったのだ」
港町の人々の小さな囁きが、アリアの背中を後押しする。彼女は一人ではない。
しかし、その声はすぐに途切れた。役人たちの鋭い視線が、ざわめきを封じ込める。彼らの足元から立ち上る冷たい威圧感が、広場全体を支配していた。港町の人々の顔は再び凍りつき、視線は地面に吸い寄せられた。
役人たちの顔に、苛立ちの色がさらに濃くなる。彼らは、このような場所で騒ぎが大きくなることを嫌う。彼らの目は、まるで獲物を睨む獣のように鋭かった。
「騒ぐな、下衆ども。貴様らも、侯爵の慈悲を忘れたか」
一人の役人が、腰に下げている警棒に手をかける。その動作1つで、ざわめきは再び静寂に包まれた。
広場の空気が、鉛のように重くのしかかる。
アリアは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
多勢に無勢。このままでは幼い少年も、自分もどうなるか分からない。
だがここで引けば、あの小さな命は役人たちの好きにされてしまう。
彼女の脳裏に、飢えに怯える少年の瞳が焼き付いていた。その瞳は、助けを求めるかのように、アリアの心に深く突き刺さる。
アリアは、一歩も引かず役人を睨みつける。その目には、諦めではなく、燃えるような決意が宿っていた。彼女の拳は、固く握りしめられ、爪が手のひらに食い込んだ。彼女の心臓は、激しいドラムのように胸を打ち鳴らしていた。その鼓動は、彼女自身の命の叫びのようだった。
その様子を、人混みの影から興味深げに傍観していたカイエンは、口元に貴族らしい気だるげな笑みを浮かべている。
しかしその銀灰色の瞳の奥底には、冷徹な計算と、そして微かな焦りの色が宿っていた。
アリアの無謀な行動は、彼の計画に予期せぬ要素をもたらした。このままアリアが役人たちに捕らえられれば、自身の情報源が1つ失われる。
それは些細な損失であったが、彼の計画に小さな狂いを生じさせる。だがそれ以上に、貴族の身で表立って助けることはできないという制約の中で、アリアが衝動的であっても踏み出したその一歩はカイエンにとって、心配になると同時に胸を打つものだった。
彼女のその毅然とした態度は、彼の心を深く揺さぶった。
この港町の人々が、まだこれほどの情熱と正義感を持ち合わせていることに彼は驚きを禁じ得なかった。
そして、その純粋な光がこの腐敗した闇に潰されるのを彼は黙って見過ごすことはできなかった。
彼の頭の中では、すでに複数の選択肢が瞬時に計算され最も効果的な一手を探っていた。
彼の視線は、アリアと役人、そして広場に集まる港町の人々の顔を素早く行き来し、状況を瞬時に把握している。
彼の脳裏には、この港町の未来図が、まるでチェス盤のように広がっていた。彼は、アリアの行動が、この停滞した港町に小さな波紋を投げかけたことを理解し、その波紋を大いなるうねりへと変える機会を伺っていた。
「やれやれ、この港町の役人は、随分と野暮なことでご執心なようだ」
カイエンの声が不意に広場に響き渡った。
その声は、場違いなほど軽やかで、しかし驚くほどよく通る。
その響きは、広場の重い空気を一瞬にして切り裂いた。
野次馬たちが一斉に彼の方へ視線を向ける。役人たちも、突然の声の主へと顔を向けた。彼らの顔には、突然の乱入者への不快感が露骨に浮かんでいた。
広場に集まっていた港町の人々は、カイエンの登場にざわめいた。
彼の顔を知らない者は、突然現れた貴族の身なりの男に戸惑いを隠せない。
「誰だ、あの男は」
「貴族様か。こんなところに何の用だ」
しかし、彼の派手な装いと、どこか退屈そうな態度から、すぐに彼の正体を察する者もいた。
「あれは……侯爵のご子息、カイエン様じゃないか」
「また、いつもの気まぐれか。こんな騒ぎの最中にまで、遊びに来るとは」
港町の人々はひそひそと囁き合い、彼の行動がこの緊迫した状況にどのような影響を与えるのか好奇と困惑の入り混じった視線を向けた。
役人たちの中にも、カイエンの顔を知る者は少なくなかった。
彼らは、目の前の「うつけ者」として名高い侯爵の息子が、まさかこのような場所で騒ぎを起こすとは予想だにせず、一瞬、対応に迷う様子を見せた。
彼らの脳裏には、侯爵の息子に手出しすることの危険性と公衆の面前で無礼を許すことの体面が交錯していた。
カイエンは、わざとらしく大きく肩をすくめ、手にした高価な装飾が施された酒瓶をまるで不用意に扱うかのように弄んだ。
その琥珀色の液体が、午後の日差しを反射してきらめく。
彼の銀灰色の瞳の奥に、冷徹な光が宿った。
その一瞬、彼の思考が高速で駆け巡る。
あの小さな光が潰されるのは、こちらの思惑に反する。奴らの注意を逸らし、場を攪乱する。最も効果的な一手は……。彼の指先が、瓶の首をわずかに滑らせた。その動きは、誰にも気づかれないほど微細だった。
「おい、そこの役人。そんなみすぼらしい子供を追いかけるより、もっと面白い遊びがあるぞ。例えばそうだな、私が集めたコレクションの中から最高の酒を賭けて、君たちがこの広場のどこかに隠された『幻の宝』を見つけ出す、というのはどうだ。もちろん、見つけられなければ、君たちの今日の稼ぎは全て私がいただくが」
カイエンはニヤリと笑い、役人たちの顔を一人一人見渡し、彼らの貪欲さや愚かさを見透かすような挑発的な視線を送った。
そして、まるで退屈で仕方ないといった風に、手から滑り落ちたかのように酒瓶を地面に落とした。
カーン。
硬質なガラスが石畳に叩きつけられ、けたたましい音を立てて砕け散った。破片が四方八方に飛び散り、光を反射してきらめく。
琥珀色の高価な酒が地面に飛び散り、甘く、しかしどこか場違いな香りが広場に充満する。
カイエンは、その様子を退屈そうに見下ろし、大きくため息をついた。その表情は、完璧な「うつけ者」のそれだった。彼の瞳の奥には、わずかながらに成功への確信が宿っていた。
「ああ、なんと勿体ない。私の今日の気分を台無しにしたな、貴様ら。これだから下賤な者どもは、つまらないことばかりしでかす」
彼はわざとらしいほど大声で叫び、役人たちを指差した。
その声には、明確な軽蔑と、わずかな挑発が込められていて広場全体に響き渡り、港町の人々の視線を一斉に集めた。
彼の狙い通り、役人たちの怒りの矛先は、一瞬にしてアリアからカイエンへと向けられた。
彼らの顔には、獲物を取り逃がした苛立ちと、貴族の無礼への憤りが入り混じっていた。彼らは、目の前の「愚かな貴族」を罰することこそが、今最も優先すべきことだと判断したようだった。
男たちの顔が、一瞬にして怒りで歪む。
彼らの目は血走り、カイエンを睨みつけた。
「貴様。何をする」
彼らの声には怒りと同時に、突然の出来事への困惑が混じっていた。
彼らはカイエンに詰め寄ろうと一歩踏み出したその時、役人たちの背後から一人の男がゆっくりと歩み出た。
筆頭執政官フェルナンドだ。
彼の顔には、常に貼り付いているような冷たい笑みが浮かんでいた。
その目は、カイエンを値踏みするように細められている。
彼の足音は、広場のざわめきの中でもはっきりと聞こ、その存在感を際立たせていた。
「これはこれカイエン様。まさかこのような場所で、酔狂な真似をなさるとはな。侯爵のご子息ともあろうお方が、我々の公務を妨害するとは、無礼千万でございますぞ。まことに、お茶目なことでいらっしゃる」
フェルナンドの声は恭しかったが、その瞳の奥にはカイエンの行動を心底侮るような嘲りが宿っていた。
彼の口元はわずかに吊り上がり、まるで子供のいたずらを嗜めるかのような口調だった。
その言葉の裏には、カイエンを公衆の面前で辱めるという明確な意図が感じられた。
少年の小さな手を掴んでいた役人は無意識に離していた。
高価な酒瓶を割るというこの港町では考えられないほどの「無礼」な行動は、彼らの注意を一瞬で自分に引きつけたのだ。
彼らにとって貧しい子供一人を捕らえるよりも侯爵の息子による「無礼」を咎めることの方が、自身の権力を誇示する上で重要だった。
彼らはカイエンが噂通りの人物と認識しており、彼を真剣な脅威とは見ていなかったが公衆の面前での無礼は許しがたいものだった。
その一瞬の隙を、少年は見逃さなかった。
拘束から解き放たれた小さな体は地面を這うように素早く動き出し、人混みの足元を縫うように、再び闇の中へと逃げ去った。
その姿は、まるで港町の影そのもののように、あっという間に人混みの奥へと消え去った。少年の心臓は、恐怖と安堵で激しく高鳴っていた。
アリアは、少年が逃げられたことに安堵の息を漏らしたが、同時にカイエンのわざとらしい行動に呆れと苛立ちが混じった複雑な感情を抱いた。
彼が少年を助けたのは、あくまで「気まぐれ」で「退屈しのぎ」のため。その軽薄さが、アリアの胸に小さなトゲのように刺さった。
しかし、結果的に救われた命があることもまた事実だった。
彼女の心は、善意と悪意の境界線が曖昧になる現実へ、一抹の戸惑いを覚えていた。
この港町では、正義が常に正義として機能するわけではない。その現実が、彼女の心を重くした。
この軽薄な男の行動が、なぜこんなにも心を揺さぶるのか。
助けられた命の重さと彼の無責任さへの苛立ちが、胸の中で混じり合う。
彼女は、目の前の貴族が理解しがたい、しかし無視できない存在であることを肌で感じていた。
カイエンは、役人たちの怒りの視線を浴びながらも涼しい顔で彼らを見下ろしていた。
彼の表情は、まるで全てを見透かしているかのように冷静だった。
彼の瞳の奥には、次の展開への期待が揺らめいていた。
「おいおい、そんなに怒るなよ。私が退屈なのは事実だ。それに、この港町の『秩序』とやらを維持するなら、もう少し気の利いたことをしてみろ。貧しい子供をいじめているだけでは、滑稽にしか見えんぞ」
彼の言葉は、役人たちのプライドを逆撫でするには十分だった。
彼らは一斉にカイエンへ詰め寄ろうとする。
フェルナンドの冷たい笑みが、さらに深まる。彼は、この「愚かな貴族」を公衆の面前で晒し者にする好機と捉えていた。
彼の目は、勝利を確信したかのように細められた。
その時だった。
広場の片隅、建物の屋根の影から、微かな金属音が響いた。それは、カイエンだけが気づく、合図だった。
鋭く、しかし決して目立たない、計算された音。その音は、彼の耳にだけ届く静かな確信の響きだった。
直後、広場の奥から白い煙が勢いよく噴き出した。
それは瞬く間に広場全体を覆い尽くし、視界を奪うほどの濃い霧となった。噎せ返るような刺激臭が鼻を突き、役人たちは咳き込みながら目を擦る。
「ぐっ、なんだこれは」
「目が見えない」
「くそっ、何が起こった」
彼らの声には、混乱と焦燥が色濃く現れていた。互いの姿を見失い、手探りで周囲を探る。
野次馬たちもまた突然の煙に驚き、一斉にざわめき始めた。
そのざわめきは、瞬く間に広場全体へ広がり、恐怖と混乱の渦を生み出した。
「なんだ、煙だ。火事か。どこだ」
「目が、目が痛い。何も見えない」
「誰か、助けてくれ。ぶつかる」
港町の人々は咳き込み、目を擦りながら、互いにぶつかり合う。
視界を奪われた群衆は出口を求めて無秩序に動き回り、悲鳴や怒声、そして子供の泣き声が入り混じり、広場は一瞬にして、恐怖と混乱の坩堝と化した。
足元が見えない中で、誰かが転び、その上にまた別の誰かが倒れ込む。
押し合いへし合いの中で、弱い者が踏みつけられる危険が、そこには確かに存在していた。
アリアは、煙の向こうで聞こえる港町の人々の悲鳴に、思わず息を呑んだ。このままでは、無関係な港町の人々まで巻き込まれてしまう。
彼女の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響いた。
パニックが伝染し、港町の人々は出口を求めて無秩序に動き回った。その中で侯爵の役人たちは、港町の人々の混乱を鎮めるどころか、自分たちの身を守ることで手一杯だった。
彼らの秩序は、この煙幕によって完全に崩壊した。
混乱の中、漆黒の影がまるで夜の風そのもののように広場を駆け巡った。
その動きは、港町の人々の目には捉えられず、ただ冷たい風が吹き抜けたかのように感じられた。
鈍い打撃音と、低く呻く声が煙の中に吸い込まれていく。
何が起こっているのか誰も理解できないまま、役人たちは次々と地面に倒れ伏していく。
その動きはあまりにも速く、正確で、まるで嵐が吹き荒れた後のように、彼らは次々と倒れていった。
その場にいた港町の人々は、煙の向こうで何が起こっているのかただ息を呑んで見守るしかなかった。
恐怖と、そして奇妙な期待感が、広場に渦巻いていた。
その混乱の中カイエンはわざとらしく咳き込みながら、よろめくように人混みを縫って移動した。
彼は、ジャガイモを奪われ、打ちひしがれて座り込んでいる年老いた女性の近くに「偶然」通りかかった。
周囲の視界が煙で遮られ、誰も彼の行動に注意を払わない。
カイエンはまるで足元がおぼつかないふりをして、その老婆のそばにしゃがみ込んだ。
彼女の顔は、絶望に打ちひしがれ、その目は虚ろだった。
そして、彼女が震える手で空になった懐を探るのを見て自身の豪華な上着のポケットから、数枚の銅貨を素早く抜き取った。その冷たい金属の感触を、老婆の粗末な服のポケットにそっと、しかし確実に忍び込ませる。
カイエンは、再びわざとらしくよろめきながら立ち上がり、煙の中に紛れてその場を離れた。
彼の口元には、誰にも悟られないごく微かな、満足げな笑みが浮かんでいた。それは、彼の計画が寸分違わず進行していることへの確信の表れだった。
数秒後、煙が薄れ始めた時には広場にいたすべての役人が無残にも地面に倒れ伏していた。
彼らの口は布で塞がれ、手足はきつく縄で縛られている。目だけが恐怖に大きく見開かれていた。その手際は、まるで幻影を見ているかのようだった。
彼らは、まるで巨大な力に翻弄されたかのように、為す術もなく倒されていた。
広場には、煙の刺激臭と、倒れた役人たちの呻き声だけが響いていた。
カイエンは煙が晴れていく広場の中央で、他の野次馬たちと同様に、何が起こったのか測りかねるような表情で立ち尽くしていた。
彼の瞳には、驚きと混乱の色が浮かんでいる。その表情は、完璧な「うつけ者」のそれだった。
しかし、その瞳の奥、誰も気づかないごくわずかな瞬間に、全てを見通すような鋭い光が宿り、彼の口元には誰にも悟られない程度のごく微かな満足げな笑みが浮かんでいた。
彼は、広場全体を見渡し自身の行動が港町にどのような波紋を広げたかを、冷静に分析していた。この一連の出来事が港町に与える影響を、彼は正確に読み取っていた。
そして心の中では、すでに次なる一手への準備が始まっていた。
広場に集まっていた港町の人々から、驚愕のどよめきが上がる。
その声は、恐怖と、そしてわずかな興奮が混じり合っていた。
「あれは……」
「ヴェールだ……」
誰かが囁いた。
その名に、広場は静まり返った。
港町の人々の視線が中心に残された一枚の紙と、そこに残された「V」の赤い印に釘付けになる。
アリアは、煙の残る広場を注意深く見渡し、ゆっくりと紙に近づいた。彼女の心臓は、期待と不安で高鳴る。
震える手でその紙を拾い上げると、そこに記された「V」の赤い印が、まるで血のようで鮮やかに目に飛び込んできた。
「これは……日付に……場所が……食料……徴収……まさか」
アリアの声は、最初はかすかな囁きだったが読み進めるうちにその内容の衝撃に、次第に声量が大きくなっていった。
「『9月15日、南下町、ジャガイモ15袋、小麦10袋……徴収者、フェルナンド』……これは、不正な食料徴収の記録よ。フェルナンドが、私たちから食料を奪っていた証拠だわ」
アリアの声が広場に響き渡ると、ざわめきはさらに大きくなった。
港町の人々は身を乗り出し、彼女の言葉に耳を傾ける。その表情には、驚きと、そして怒りの色が混じっていた。
その様子を見ていたカイエンは、わざとらしく大きくため息をついた。
「おや、一体何が騒ぎを起こしているのかと思えば、こんな紙切れ1つで大騒ぎとは。どれどれ、私も見てやろうではないか」
彼は退屈そうにアリアに近づき、彼女の手から紙をひょいと取り上げた。アリアは一瞬抵抗しようとしたが、彼の素早い動きに奪われてしまう。
カイエンは紙に目を落とすと、わざとらしいほど大きな声で読み上げた。
「ほう、これは面白い。フェルナンド殿が、ご丁寧に『9月15日、南下町、ジャガイモ15袋、小麦10袋』と、ご自身の『公務』を記録なさっていたとはな。しかも『徴収者、フェルナンド』と、ご丁寧に署名まで。これは、まさか、港町の皆から食料を『徴収』した記録ではあるまいな。まさか、そんな馬鹿な。侯爵様が慈悲深いお方だと、皆知っているはずだぞ。ああ、これはきっと、フェルナンド殿がご自身で寄付した食料の記録に違いない。そうだ、そうに違いない」
カイエンの言葉は、皮肉と嘲りに満ちていた。彼の口調は、まるで子供のいたずらを笑い飛ばすかのようだったが、その言葉1つ1つが、フェルナンドの不正を明確に暴き立てていた。
広場に集まっていた港町の人々は、カイエンの言葉に耳を疑った。
彼らは、長年苦しんできた不正の具体的な証拠が、今、目の前で公にされていることに驚きと同時に、深い怒りを覚えた。
それは、単なる噂話ではなかった。ヴェールは本当に存在し、彼らの苦しみを、そして不正を「見届けて」くれたのだ。
彼らの心に、新たな光が灯った瞬間だった。
遠くスラムの路地裏に身を隠していた少年は、震える小さな体で広場の光景をじっと見つめていた。
役人たちが無力化され彼らを縛り上げたのが、先日、裏通りに「V」の印を残したという謎の存在ヴェールであることは、すぐに理解できた。
自分を追い詰めていた強大な存在があっという間に無力化される光景は、彼にとって衝撃だった。
誰にも頼らず、一人で生き抜くことを信じていた少年の目に、初めて希望の光が宿る。それは、自分のために誰かが戦ってくれるという、これまで知らなかった感情だった。
少年の固く閉ざされていた心の奥底に微かな熱が灯るのを感じた。
飢えと寒さに凍えていた体に、じんわりと温かさが広がる。
少年は、ヴェールの残した「V」の印を、まるで護符のように心に刻み込んだ。その小さな胸に、これまで感じたことのないかすかな高揚感が芽生えていた。
それは絶望の淵に差し込んだ、一筋の光だった。
カイエンは、広場の中央で依然として混乱を装いながらも、この一連の出来事を静かに見守っていた。
彼の口元には先ほどの退屈そうな笑みは消え失せ、代わりに、誰も気づかないごくわずかな口角の上がりと、鋭い光を宿した銀灰色の瞳があった。
ヴェールの出現は、彼の予測をわずかに上回るものだった。だが、これで港町の情勢は彼の目指す変革へさらに加速するだろう。
彼は、ヴェールとしての自身の行動が確実に港町に影響を与えていることを確信して、次なる一手への準備を心の中で始めていた。
アリアは、呆然と広場を見つめている。
役人たちが文字通り「無力化」され、フェルナンドの不正の証拠が晒されたことに彼女は安堵と同時に、深い衝撃を受けていた。
ヴェールという存在は、単なる噂ではなく本当に港町の闇に抗おうとしている。
カイエンの気まぐれな介入は、一時的な救いだった。
しかし、ヴェールの行動は、より根本的な解決への希望を示しているように思えた。
だが、その方法は暴力だ。「果たして、それは本当に港町を救う道なのだろうか」と、彼女の心はヴェールがもたらす希望と、その危険な手段への不安の間で揺れ動いた。
それでも、あの小さな命が救われたという事実は、何よりも重かった。
彼女の脳裏には、ヴェールの素早い動きと、彼が残した「V」の印が焼き付いていた。そして、彼の無謀な戦い方を思い出し、思わず呟く。
「あんなに無茶をして……。どうか、ご無事でいて……」
彼女の瞳には、ヒーローへの畏敬と同時に一人の人間への深い心配が宿っていた。
それは、港町の未来を巡る、新たな戦いの始まりを告げているようだった。
アリアの心は、新たな決意と、複雑な問いで満たされている。
彼女は、地面に転がった籠を拾い上げ、《陽だまり亭》へと向かって歩き出した。
その足取りは、先ほどよりも確かなものに変わっていて彼女の瞳の奥には、かすかな光が宿っていた。
それは、この港町に、まだ希望があることを信じる者の光だった。
広場を去った老女は、重い足取りで港町の片隅にある今夜のねぐらと決めた廃屋へとたどり着いた。
冷たい土間にはわずかな枯れ草が敷かれているだけで、壁の隙間からは容赦なく夜風が吹き込む。
昼間の騒動で、手に入れたはずのジャガイモは役人たちに踏み潰され、泥にまみれた残骸と化していた。
空になった懐を探るが、指先に触れるのは粗末な布の感触だけ。
今日の糧は、もうどこにもない。明日のことなど、考える気力さえも残っていなかった。
冷え切った体と絶望に打ちひしがれた心が、彼女をさらに深く沈み込ませる。
もう、何もかも諦めてしまいたい。
そんな思いが、彼女の脳裏をよぎった。
その時、何気なく粗末な服のポケットに手を入れた彼女の指先がひんやりとした硬い感触に触れた。
まさか、と震える手で取り出してみると、そこには数枚の銅貨が握られていた。
彼女は何度もその銅貨を指でなぞり、手のひらに載せて重みを確かめた。
夢か、誰かの悪戯か。しかし、手のひらに伝わる銅貨の確かな重みが、これが現実であることを告げる。
どこで、いつ、誰が忍ばせたのか。全く心当たりがない。だが、確かにそこにある。
その冷たい金属の感触が彼女の凍てついた指先に、そして心に、じんわりと温かさをもたらした。
それは、この絶望の中で差し込んだ、小さな奇跡のようだった。老女の虚ろだった瞳に、微かな光が宿る。
この銅貨があれば、明日、わずかなパンと、ほんの少しの温かいスープが買えるかもしれない。
彼女の顔に、久しく忘れていた、かすかな希望の光が浮かんだ。
読んで下さり有難う御座います。
この物語は怪傑ゾロのような物が書きたいという思いから始まりました。
設定も中途半端だったもの話をAIと共に肉付けして話を作り、何度も書き換え、修正して制作しております。
読んで頂き、大変貴重なお時間を頂戴いたしました。
有難う御座います。